日本共産党資料館

徳田書記長の死去について日本共産党員と国民のみなさんに

 日本共産党中央委員会書記長徳田球一は病気のため北京におもむき治療につとめていたが、一九五三年一〇月一四日午後五時二五分、死去した。病名は脳細胞血管の痙攣であった。
 日本革命運動の父片山潜の戦友であり、またその忠実な後継者として、日本共産党と労働者階級の偉大な指導者として、わが民族の最良の息子として、徳田同志はついにその五九年の生涯をおえた。徳田同志は片山潜とともにわが日本共産党を創立し、その生命を人民解放の事業と党の建設のためにささげた。すぐれた組織者としてのかれの指導力は今日の党を築きあげ、明日の発展と勝利の道をきりひらいた。
 徳田同志は日本の天皇制帝国主義の野蛮な迫害の時でも、一八年にわたる牢獄生活でも、戦後のアメリカ帝国主義の占領制度の下でも、恐れを知らぬ勇気と不屈の戦闘精神とをもって、つねに党と国民の先頭に立ってすすんだ。徳田同志のこの恐れを知らぬ勇気と不屈の戦闘精神とはわが労働者階級の心強い支柱となりわが国民の党にたいするかぎりない信頼の源泉となっている。
 日本共産党の新しい綱領はわが民族解放の唯一の正しい方針となり、党団結の基礎となっている。徳田同志はこの綱領を作成する活動に積極的に参加した。
 徳田同志は天皇制の専横な弾圧に抗し、日本帝国主義の中国およびアジア侵略戦争に反対する党と国民のたたかいをはげました。またかれはアジアと世界の平和の闘士として、諸民族の解放運動の積極的支持者として、終始一貫プロレタリア国際主義を堅持した。徳田同志の名はわが国民だけでなく、世界の勤労人民によっても永く記憶されるであろう。
 われわれはもっとも敬愛する指導者をうしなった。しかし徳田同志はいまなお国民のなかに生きている。そして将来も生きつづけるであろう。
 われわれは徳田同志の遺業を完成し、民族解放民主革命を勝利にみちびくために、全党員が中央委員会の集団指導の下に団結を固くすることを望む。この団結によって、われわれは党と国民との結合を強め、国民にますます誠実に奉仕することをここに誓う。

一九五五年七月二九日

日本共産党第六回全国協議会

(一九五五・七・三〇、『アカハタ』)