日本共産党資料館

綱領問題についての中央委員会の報告(2)

(1958年7月26日)
中央委員会常任幹部会員 宮本顕治


四 国際情勢の評価について

五 日本の現状について

六 農民問題について

七 革命の性格と革命にいたる過程上の問題について

八 人民民主主義について

九 革命の平和的移行について


 1957年10月、党章草案とその説明「綱領問題について」が発表されて以来、綱領についての熱心な討論が全党的におこなわれてきた。

 党中央委員会は、草案発表以来、党組織内の討議を積極化するとともに、大会むけの討論誌として『前衛』別冊『団結と前進』を発行し多くの代表意見を発表してきた。

 さらに1957年11月には全国書記会議で、常任幹部会から綱領討議の問題点について報告をおこない、問題の解明に努力してきた。このときの報告は1958年1月4日の『アカハタ』に発表されている。その後『団結と前進』の発行は第5集に達しており、その他、中央委員会のいわゆる少数意見の発表は『前衛』でおこなわれ、これと関連して同誌上で中央委員会の綱領問題についての見解発表もおこなってきた。綱領の草案とその説明書がこのように全党をあげて積極的な討議にうつされ広範な討議の場面がつくられたことは、わが党史上はじめてのことである。

 これらの討議の結果「草案」の内容とその理論的基礎の解明と検討もすすんだ。そしてわが党が大会で綱領についての意志の統一をはかることは、党の内外の大きな要望となっている。

 まず、わが党中央委員会が全党の要望にもとづいて、自己の全責任において、新しい綱領草案を全党の民主的な討議にゆだねたこと、これまでの党史上の綱領が主として行動綱領や政治テーゼを中心とするものであったのにたいして、党章が行動綱領の点だけでなく共産主義社会の建設の目標とそれへの本質的な過程をのべているのは、党史上はじめてであり、討議も非常に広範かつ、つっこんでおこなわれた。

 党章草案の政治綱領の部分への具体的修正意見は、全国書記会議で出された意見、中央委員会への上申書、地方、府県、地区の党報に掲載された意見、『団結と前進』への投稿などをふくめて、問題別種類別に(同種のものを1件として)整理してみると、合計100件ちかくにのぼっている。

 その内訳は、つぎのとおりである。

  (1)党の規定についてのもの                4件

  (2)党の目的の歴史的叙述についてのもの         12件

  (3)現状規定についてのもの               20件

  (4)党の中心任務と行動綱領の基本についてのもの     29件

  (5)統一戦線と革命についてのもの            15件

  (6)社会主義と共産主義についてのもの           2件

  (7)用語をふくめて全体についてのもの          11件

      合計                       93件

 草案の基本的立場からそれをできるだけ改善し、より正確なものにするために、以上の93件のうち過半数の52件をあるいは全面的に、あるいはその主旨をとりいれた。また中央委員会自身の意見によって積極的に改善した部分もかなりある。こうして、全党をつうじて草案を改善することができたと考える。

 主要な修正個所は、本文に太字の活字で組んであるが、その理由はつぎのようなものである。

 (1)綱領と規約を事実上一体化した党章という形式については、積極的意義をみとめつつも「党章」は「党憲章」にせよという意見もある。

 われわれは「党章」は「党憲章」の意味であるから、この点は一方だけを固執する必要はみとめない。綱領と規約の分離を求める意見にたいしては、つぎの点で現在のところ一体化された形式をとるのが適切だと考える。

 将来とも綱領だけを独自に絶対につくる必要がないという見地はとっていないが、党の歴史的使命と目的、その目的からみた党の伝統、現状の認識、行動綱領の基本、革命の展望と広範な人民大衆の政治的結集の形態、社会主義と共産主義の建設、党の規約の基礎である党の組織原則など、きわめて重要でかつ複雑な内容をもつ多くの命題をできるだけ要約的に一つのものにまとめ、党のむかうべき、また建設される姿を一つのものとして示すことは、党の綱領をつくるという立場からみても、意義ある新しい方向であると考える。

 われわれは、このような形式が中国共産党でとられていることを単にまねたのではなく、このような形式が道理をもっていることをみとめたから採用したのである。

 ただし「党章」の内容が全体として綱領と規約からなっているものであり、また規約に「編領と規約を承認し」とある点も考慮して総綱の部分を政治綱領と組織綱領をふくむ「綱領」とし、条文の部分を「規約」とした。

 これに関連して「日本共産党党章」を「日本共産党綱領・規約」とせよという意見も出ているが、総合的名称としては「原案」を可と考えて提出しているものであるが、これも絶対視するものではないことは前述のとおりである。

 党章全体を「規約」にせよという意見があるが、この意見はとりいれなかった。党章はやはり綱領と規約をふくんでおり、したがってこれを規約と総称することは妥当でないからである。また将来、独立した綱領をつくるかどうかは別として、前述のように当面、党と党員の活動の基本的政治方向と党生活の基準を総合的にのべたこの形式が適当だと考えるからである。読みやすくするために「綱領」の部分を10小節に区分した。なお、1957年12月の全国書記会議での報告(『アカハタ』1月4日号)でもふれているが、わかりやすくするため内容をあいまいにしないかぎりで、くだき、やさしくするよう努力した。文章を改善した個所についてはここではいちいち説明しない。

 (2)「党の性格と目的」についてのべた部分。

 『前衛』(1957年11月号)12頁上段右から4行目から同頁下段右から2行目までの「党の理論」についての部分を、党の性格と目的についてのべた第1小節のおわりにうつした。理由は、党の階級的性格とマルクス・レーニン主義理論とは不可分であるから、「党はマルクス・レーニン主義を行動の指針とする」という文句のつぎに、党の理論を説明した部分をつづけるのが合理的だからである。またこの部分を簡潔にした。

 (3)党がなにをめざしてたたかってきたかについてのべた部分。これについては過去の党の欠陥を明示せよという意見もある。

 しかし、綱領のなかの、この部分の叙述はけっして党史を要約することが目的でなく、党の目的を明らかにする見地から、この目的がどのような歴史的内容をもって、それぞれの歴史的段階において具体化され、かかげられたかを、ごく簡単に叙述したものである。すなわち、主として党の政治綱領を明らかにするため、過去の日本にたいする党の見方と党の基本的闘争方針をごく簡単に要約することが目的だからである。したがって、ここでは党の目的にてらし、この本来の革命的伝統が当然強調されているが、党史上の総括として成果と欠陥の両面をみるというような叙述はとっていないのである。

 『前衛』6頁上段おわりから2行目に「10月社会主義大革命の影響のもとに」を挿入せよという意見をとり入れた。

 『前衛』6頁下段1~2行目の「党は一貫して共産主義社会の建設を最後の目的としてかかげてきた」を削除した。党の目的の部分にのべたことから判断されうるから、重複の感をさけよという意見をとりいれた。

 同じく2~4行目「当時の日本支配の特殊性にもとづいて」のまえ「半封建的諸要素と、いちじるしくすすんだ独占資本の結合である」を削除したが、それは、文章がむずかしくなるうえに、このあとでのべていることで判断できるからである。

 8頁上段6行目の「占領支配」のつぎに「日本独占資本の売国的政策」を挿入せよという意見をとりいれた。その方がより正確だからである。

 (4)「日本の現状規定」についてのべた部分。

 8頁上段12行目の「アメリカ帝国主義」から同じくおわりから6行目の「アジア人とたたかわせるためのものであつた」までの文章の構成をかえ、さらに補足した。それは、サンフランシスコ講和の前との違いを、もうすこしはっきり出すようにせよという意見をとりいれたのである。

 8頁上段おわりから6行目から3行目までの「日本独占資本はみずからすすんで……」を削除したが、これはこの前の「アメリカの帝国主義と日本の売国的独占資本の共謀」というところにその内容がのべられているからである。

 8頁下段14~16行目の天皇制にかんする部分にたいする意見をとりいれて、今日の君主制の独占資本の政治的思想的道具としての役割をいいあらわした。

 8頁のおわりから5行目「軍国主義を強化しながら」のつぎに「帝国主義の復活をはかり」を補足した。これは、日本の独占資本主義がアメリカ帝国主義に従属しながらも、潜在的帝国主義の目的を追求しつつあることをはっきりと出す必要があるからである。

 9頁上段8行目の「しかし内外民主勢力……」から12行目の「……成長してきた」までは、文章を簡単にした。

 同じく上段14行目の「世界体制となり」のつぎに「資本主義諸国の労働者運動はますます発展し」をいれよという意見を採用した。

 (5)「党の中心任務と行動綱領の基本」についてのべた部分。

 党章草案のなかで、行動綱領の基本点として出されている部分は、少なくとも6全協以後の党活動と選挙戦をふくむ大衆的な政治闘争、各分野の大衆運動のなかでくりかえしてかかげられ、実践され、また検証されてきたものからとりいれたものである。

 この部分についてはあまり討議の焦点になっていないし、その意味では直接の異論もあまり出されていないが、行動綱領はわが党の行動の統一をめざすために、つねに党が確定しておかなくてはならない最小限の基準であるから、この部分についての積極的な建設的な意見が出されて、全党の行動の統一の基礎が確立されることがいささかも軽視されてはならない。

 この部分の冒頭の節は、本文(5)の「統一戦線および革命の性質・形態・転化」の部分と重複している個所があるので、重複している部分を削除し、当面の中心任務に関連する部分だけをのこした。

 行動綱領の基本の冒頭に平和の要求をかかげた。これはもちろん独立の要求を第二義的にみるということではない。革命の課題としては、独立の課題がとくに重要な意義をもつことは明白であるが、平和の要求は重要であると同時に、非常に広範であるし、さきに出す方がよいという意見をとりいれた。

 10頁上段16行目の「民主的権利をうばいさろうとするすべての反動的なくわだてとたたかい」のつぎに「議会制度・地方制度の改悪……に反対する」を挿入した。地方議会をふくめ議会闘争を重視することを明示せよという意見をとりいれた。議会闘争についてはさらに本文の(5)に補足している。

 同じく上段おわりから3行目の「君主制を廃止する」同頁おわりの「人民共知国を樹立するためにたたかう」までを本文(5)の部分にうつした。これは、「行動綱領の基本」のうち、いまからただちにとりあげていくことと、権力の獲得の時期に解決される課題とを区別してのべよという意見をとりいれたのである。

 10頁下段6行目の「および社会的貧困化」を削除した。「社会的貧困」については11頁上段8行の勤労人民全般の要求についてのべたところに「社会的貧困」が出てくるからである。

 同じく8行目の「そのなかで労働者階級の思想を社会主義の精神でたかめ……」の個所は闘争上の「要求」ではなく、したがってこれを行動綱領のなかにいれるのは適切でないので、この部分からのぞき本文(5)のところに生かした。

 10頁下段の「農民の要求」の部分は、全体として簡潔にするとともに、土地要求についてのべたところを正確にした。「可耕地・大山林所有者の林野や牧草地を」という個所を「国有・公有・大山林所有者の林野などの可耕地・採草地」と修正したのは「国有地や公有地をどうするのか」という意見をとりいれたのである。

 10頁下段のおわり「漁民の要求」に「資金・資材」をいれよという意見をとりいれた。

 11頁上段2行目のまえに、「勤労市民の要求」をいれた。手工業者、小商人、勤労自由業者などは、農民についで重要な同盟者だから、一項目おこしたのである。

 11頁上段おわりから8行目に「外国資本」の問題を補足した。これは、「綱領問題について」の要求の項目に入っているものだが、またこの革命を発展・転化させるうえでの重要点でもあるからである。

 (6)「統一戦線および革命の性質・形態・転化」についてのべた部分。

 第一に、11頁下段9行目と10行目のあいだに、大衆闘争をよりどころにして、党の国会での議席を拡大し、国会を人民の武器にかえるたたかいが重要な積極的意義をもっていることを強調した。ここで革命の平和移行の可能性の問題についてのべよという意見があるが、平和移行の可能性だけをのべることは、一面的で正しくない、しかし、平和移行の条件を積極的につくり出していくことは重要なので、その条件の一つであるこの問題をとりあげた。

 第二に、これにつづけて、統一戦線政府を樹立するたたかいが権力獲得の突破口をひらくうえでもつ重要な積極的意義を強調した。

 第三に、11頁下段おわりから6~7行目に、「君主制の廃止」と「名実ともに国会を国の最高機関とする」を挿入した。これは叙述の個所をかえたものである。

 第四に、11頁下段おわりに、当面の革命の主な性質およびその発展と革命の形態とを総括した規定を補足した。

 ここでいっている意味は「革命のこのような発展過程は、人民の連合権力の樹立と、その人民権力の社会主義政権への発展という一つの過程であろるが、これを一つの鎖の二つの環、単一の革命過程の二つの段階とよぶこともできよう。」(『アカハタ』1月4日号)といっているのと同じ趣旨である。

 人民民主主義という形態は、労働者、農民を中心とする人民連合独裁およびプロレタリアート独裁に適合する形態であり、ここでは革命の形態と内容の関連を簡潔に表現した。

 この点、「綱領問題について」の説明ではまだ十分でない点があったのでその後説明してきた方向にしたがって、以上のように補足をくわえた。

 (7)「党の究極の目的」についてのべた部分。

 党の究極の目的である社会主義と共産主義の部分についてはほとんど異論は出ていない。この部分では、文章訂正のほか、「労働者階級の権力」のつぎに「すなわちプロレタリアートの独裁」をつけくわえた。またこのあとへ、社会主義への移行における党の勤労農民および都市中小ブルジョアにたいする基本的立場を簡潔にいれた。これは、資本主義から社会主義への過渡期における党の中小ブルジョアにたいする基本方針をいれよという見解をとりいれたのである。この項の最後に「組織綱領」にうつるまえにしめくくりの言葉をいれた。

 (8)討議のもっとも焦点となっているのは対米従属問題である。国際情勢の認識、現状についての規定、きたるべき革命の性格、革命の方法の問題や、そこにいたる統一戦線の任務などについての意見の対立も、対米従属についての意見の相違に関連して生じている。

 これらの意見の相違は、綱領問題についての全党的な意志統一を困難にしている最大のものである。したがってこれはもちろん若干の字句修正などで解決できない原則上の意見の対立である。またそれは、綱領問題でなく、わが党の日常の当面の政治方針をきめるうえでも、当然意志の本質的な統一を困難にするような重大な性質のものである。とくにアメリカ帝国主義との闘争にかんして、対米従属状態の一掃の課題を戦略的課題からはずせという反対意見は、わが党が1950年以来高くかかげてきたアメリカ帝国主義の支配の排除を戦略目標のなかからとりはずすことを要求する性質のものであり、わが党の進路にかんする根本問題である。

 したがって、われわれがこの大会において、この討論点を解決するために重要な努力をはらわなければならないのは当然である。

 総選挙戦と第2次岸内閣の成立以来の内外情勢は、アメリカ帝国主義と日本独占資本の今日の動向の特質を明らかにしている。

 レバノンにたいするアメリカ帝国主義の恥しらずな軍事的な侵路行動は、帝国主義の支配の鎖を断ちきろうとする民族への帝国主義者の野蛮な侵略的本質を全世界に暴露した。日本政府は、この明白な侵略行動を国連であからさまに支持している。

 もちろん、このような侵略は、ソ連邦や中国を先頭とする社会主義諸国、軍事ブロックにくわわらない中立諸国、全世界の平和と民族解放闘争の激しい批判と攻撃にさらされており、重大な困難にであうことは明らかである。しかし、このことは、世界史の下り坂にあり、恐慌に見舞われている帝国主義が新しい侵略と戦争にでる危険について、われわれがつねに警戒心をたかめ、平和と独立のための闘争課題をいっそう高くかかげなくてはならないことを教えている。

 総選挙と第2次岸内閣の成立をめぐる情勢の発展を通じてわが国の進路をめぐる闘争はいっそう新しい明白な対立をとってあらわれている。

 岸内閣は、「自由諸国との協調」を外交の基調とすることをくりかえし声明しつつ、第4次日中貿易協定を破壊し、露骨な中国敵視政策をとっている。日本にアメリカの原子兵器がもちこまれていることについてのソ連政府の覚書にたいしては、まったくの奇弁とごまかしの態度に終始した。

 また恐慌からの出路を、人民大衆への搾取と収奪の強化とともに東南アジアをはじめとする世界市場への進出に求め、とくにアメリカと結びついて東南アジア地域への帝国主義的進出をくわだてている。そして一方ではアメリカ帝国主義の世界侵略政策の一環として東北アジア反共軍事同盟(NEATO)結成の陰謀にも関与している。これは日本と「韓国」との交渉の顛末にも暴露されている。

 岸内閣は、国内的にも、新しい政治的反動と欺瞞の道を歩みながら、アメリカ帝国主義にしたがいつつ、わが国におけるアメリカの核武装をすすめるだけでなく、自衛隊の核武装の道を用意している。対米従属と核武装に反対し、平和と独立と民主主義を求めている民主勢力の中枢部に打撃を与えるため、搾取と収奪への抵抗力をうちくだくため、わが党への弾圧をはじめ労働運動への大がかりな弾圧をつづけている。小選挙区制の実施、参議院全国区制の廃止など議会から民主勢力を追い出し、憲法改悪への道をひらこうとしている。

 これにたいして、共産党、社会党、労働組合をはじめとする民主諸団体と民主的な人びとのたたかいは、それぞれの立場から問題のつかみかたに差異はあっても、平和と独立、民主主義と人民生活の擁護をめざしてたたかうという方向では大きな共通点をもっている。

 核武装とアメリカの軍事基地に反対し、アメリカ帝国主義を日本から一掃すること、労働組合への弾圧、勤務評定の強行、小選挙区制の陰謀、恐慌の犠牲の勤労人民への転嫁に反対することは、今日のわが民主運動の共通の声である。

 アメリカ帝国主義とこれに従属的に同盟している独占資本を中心とする反動勢力の支配にたいして、人民の勢力がたたかっており、そこに日本の進路をめぐり主要な闘争がおこなわれている。

 一つは、アメリカ帝国主義に追随し、軍国主義の復活の方向に進もうとする道である。日本の売国的独占資本と岸内閣の歩んでいる道がこれであり、アメリカ帝国主義がみちびこうとしている道である。

 これにたいして、日本人民はアメリカ帝国主義により半占領状態とその支配から脱して平和、独立、民主主義を達成する道を歩んでいる。そして、ソビエト連邦、中華人民共和国をはじめとする社会主義諸国とアジアの平和を守る人びともまた日本軍国主義の復活を防ぐためにたたかっている。

 アメリカによって温存され、その後強化した日本独占資本は経済的にもアメリカの独占資本に依存する諸条件のもとにすすんできたが、利潤追求の法則にしたがって、それ自体の経済的膨張を追求し、帝国主義的復活の方向をすすんでいる。日本の独占資本は、世界支配をにくらみ実行しているアメリカ帝国主義に従属しながら軍国主義と帝国主義を復活しようとしている。一方アメリカ帝国主義は、日本を帝国主義的支配下におきつつ、中ソをはじめとする社会主義諸国への前進基地として強化するために日本独占資本の軍国主義復活を促進した。

 もちろん、米日独占資本のあいだにはつねに矛盾があるが、かれらは社会主義陣営と人民大衆への闘争という一致点でとくにむすばれており、岸内閣は、第1次の組閣いらい日本のもっとも売国的で反動的な独占資本の利益を代表している。しかもそれを、「自主」と「平和」という言葉で偽装して実行している。しかし日本の現状はこのような欺瞞をとうてい許しえないものである。

 岸首相は、くりかえし核実験には反対する、核兵器のもちこみに反対すると言明してきた。しかし、現実には、日本における軍事基地網はいつでもアメリカの原子戦争のために使うことができるようになっている。岸首相や藤山外相がもらしている本音は、人びとをあざむくことができないものである。岸首相は「沖縄基地の航空機が水爆その他の核兵器を装備して日本の上空をパトロールしても、これを阻止する条約上の根拠はない」(3・12、衆院予算委)「米国は核装備をふくめて日本に軍隊を配備する条約上の権利をもっている」(2・28、衆院内閣委)「日本の領土内にあるアメリカ軍基地が攻撃をうけた場合は日本にたいする侵略と考え、自衛隊の出動もありうる。また沖縄には日本の潜在主権があるからこれに攻撃を加えることは観念上侵略と考える」(3・31、衆院内閣委)とのべ、藤山外相も「米国は日本に核兵器を持ち込める条約上の権利がある」(3・27、衆院内閣委)と答えている。

 したがって、総評原口議長の質問状への回答のなかで、フルシチョフ首相がつぎのようにいっているのは当然である。「このような事態のもとでは日本は自分の意志に反して、まったく自分の知らないうちにでも原子戦争にやすやすとひきずりこまれてしまう可能性があることは明らかです。」

 アメリカ軍隊による日本領土の占領は、多数の軍事基地網の形をとっており、そこにどんな凶悪な兵器をもちこもうとも勝手であるという状態がサンフランシスコ売国条約で保証されている。したがって、アメリカの軍事基地があるかぎり日本領土は原子兵器の基地とされるだけでなく、核戦争にまきこまれる危険にたえずさらされており、しかも岸首相の言明のように日本はすすんでアメリカと運命をともにさせられることになる。

 日本人の全生命を左右するような決定的な事態の鍵がアメリカ帝国主義者の手ににぎられているということだけからいっても、日本の主権の重要な部分が基本的に日本に属しているといえない状態である。国家権力の主要な武器である軍隊(警察のうち、日本の軍隊――自衛隊は法制的には日本政府の支配下にあり、また軍国主義復活をめざす独占資本の独自の要求と結びついてはいるが、現実には全体としてアメリカ軍の掌握下におかれている。

 したがって、アメリカ帝国主義は、世界と日本の平和をおびやかす最悪の敵であると同時に、日本の主権を基本的に侵害している民族の敵である。だからこそ、フルシチョフ首相もその手紙のなかでアメリカの軍事基地をとりのぞき真に独立と平和を求める政策を追求する日本人民の能力に期待をよせているのである。

 第4次日中貿易協定を破壊した日本政府の中国敵視政策は新しい「大東亜共栄圏」を夢みて、潜在的な帝国主義の目的を追求している日本の独占資本の野望を反映している。同時に中国にたいするアメリカ帝国主義の敵視政策への従属をあらわしている。この中国敵視政策は、日本におけるアメリカ軍の侵略目標がソ連、中国をはじめとする社会主義諸国におかれており、日本政府がこれに同調していることに基因している。したがって、選挙中に岸は中国を承認することは日本にとっては「革命」であるとまで極言してきたのである。

 日中両国の友好は、両国人民の共通の利益であるだけでなくアジアの平和の支柱である。にもかかわらず、米日支配層は法律的には両国の戦争状態がつづくのを戦後13年になる今日、なお強固にとりつづけている。

 われわれは、人民とともに、中国敵視の政策をあらため、日中関係の正常化にむかうように日本政府に要求してたたかわなくてはならないが、それだけにとどまることはできない。なぜなら中国人民の前衛がくりかえし暴露し強調しているように、日本政府の態度の根源にはアメリカ帝国主義の対日支配と、これに追随して潜在的な帝国主義の目的を追求している日本独占資本の野望があるからである。したがって、ここにおいても、日本人民の日中経済文化交流と目中国交正常化の要求は平和と独立の敵と正面から矛盾せざるをえない。

 労働運動の活動家にたいするかつてない大量の首切り、勤務評定の強行、「出入国管理令」によるわが党への弾圧、小選挙区制の実施の陰謀――これら一連の民主的権利にたいする攻撃は日本の支配層の基礎が、内外の進歩の勢力の煎進により不安定になりつつある事態での政治的反動の強化であるが、そのめざすところは日本の公然たる核武装への道をひらくための地ならしである。そして、これらの弾圧法規はアメリカ帝国主義の全面的占領支配時代のいわゆる占領法規の遺物である。このように「日本の民主化」は、占領支配のわく内で、すなわちアメリカの新植民地主義のもとでおこなわれたために、必然的に重大なゆがみと限界をもっている。したがって、今日の政府の攻撃は、基本的人権にたいする新しい攻撃であり、反動化への前進である。また、憲法の保障する民主的権利はすでにアメリカの全面的占領支配の時代から重大な障害をうけており、民主的制度と権利は人民にとって基本的にかちとられたものとなっていないことをも知らなければならない。

 1950年6月6日のマッカーサーによる党と民主勢力にたいする弾圧は、サンフランシスコ条約前のものであったが、今日経営の共産党員がどのような困難ななかで活動しなければならないかは、わが国の民主主義の実情を示している。

 しかもアメリカ軍の半占領状態への人民のいきどおりを麻痺させるために、多くの手段がとられている。米軍の実情をつたえることを禁止している「特別刑法」、日本のブルジョア・ジャーナリズムの対米追随の態度は、アメリカの半占領状態にたいする慢性的な「慣れ」を人民のあいだにつくり出す作用をしている。

 わが国における民主主義のための闘争もまた、平和と独立の敵、アメリカ帝国主義と売国的独占資本の支配にたいして正面から衝突せざるをえないものである。

四 国際情勢の評価について

 当然のことだが、国際・国内情勢は相互に関連しあって把握されている。国内の現状認識の違いはすでに国際情勢の把握の仕方の違いにあらわれている。その中心点はつぎの諸点である。

 (1)ソ連邦共産党第20回大会で明らかにされた第2次大戦後の国際情勢の根本的変化を強調するのはもちろん正しいが、そこから理論を飛躍させて、つぎのような結論を出す意見がある。

 (イ)一つは、資本主義・帝国主義の運動法則は「いちじるしく抑制され」「一方的にその法則をつらぬくことはできなくなった」点に、世界情勢の変化の「根本的意義があり、平和共存への必然性がある」という見解。

 この見解の特徴は、帝国主義の発展法則が根本的に規制されるようになったと誤ってとらえ、結局アメリカ帝国主義の侵略的圧制的本質をおおいかくし、社会主義陣営の平和共存政策にたいする帝国主義陣営の「力の政策」の対抗、および被圧迫民族の独立の闘争の課題をいちじるしく軽視させる結果をうむことにある。

 20回大会も二つの宣言も、国際情勢の根本的変化をけっしてこのように一面的にみてはいない。「12ヵ国共産党・労働者党の宣言」(以下モスクワ宣言と略す)は、つぎのようにのべている。

 「アメリカの侵略的な帝国主義者集団は、いわゆる力の政策をおこないながら、世界の大多数の国を支配しようとし、社会発展の法則にしたがって人類が前進するのを妨げようとしている。『共産主義との闘争』という口実にかくれて、かれらは、ますます多くの国を自分の支配下におこうとし、民主主義的自由の破壊をそそのかし、発達した資本主義諸国の民族的独立をおびやかし、解放された各国人民に新しい形の植民地的なくびきをはめようとし、社会主義諸国にたいして敵意ある破壊活動を系統的におこなっている。アメリカの特定の侵略者集団は、その政策によって、資本主義世界のあらゆる反動勢力を自分のまわりに結集しようとしている。この集団は、こうして、世界反動の中心となり、人民大衆の最悪の敵となっている。」

 歴史の発展過程はこのことを証明している。エジプト侵略に失敗すると、インドネシアで、レバノンで、ヨルダンで新たな陰謀がたくらまれる。核実験停止のための世界各国人民のたたかいにたいしてはつぎつぎとこれを妨害する手をうってくる。こうしてかれらは、けっして、ありとあらゆる抵抗をやることなしに引きさがりはしないのである。

 モスクワ宣言のいうとおり、「われわれの時代には、世界の発展は二つの対立する社会体制の競争の経過と結果によって決定される」。そして今日、社会主義陣営の基本的対外政策は平和共存政策であり、帝国主義陣営の基本的対外政策は力の政策である。ここから、「戦争か平和共存かの問題は、世界政治の根本問題になっている。すべての国の人民は、帝国主義がうみ出している戦争の危険にたいして最大の警戒心をもちつづけなければならない」ということになる。

 もちろんわれわれは、社会主義と平和、民族解放の運動の前進によって、平和と平和共存の思想が全世界の広範な大衆の、要求となっていることを知らねばならないが、それによって、帝国主義者はけっしてみずからすすんで平和共存を受けいれはしない。平和共存は、たたかいなしに、自動的には断じて勝ちとれない、したがって平和共存を一方的な必然とかんがえる見方は、平和共存を不可避なものとし、平和共存か戦争かの問題が世界的に争われていることを正視しないものである。それは、帝国主義の侵略性の過小評価であり、帝国主義にたいする日和見主義をうみ、重大な誤りである。

 平和共存は、社会制度の異なった国ぐにが平和的に共存しうるという原則であるが、そのことは、帝国主義があるかぎり戦争の可能性があるという命題、帝国主義が政治的反動と民族的抑圧をたえずつくり出しているという命題をけっしてとりのぞくものではないのである。

 (ロ)他の一つは、国際情勢の変化がただちにそのまま国内情勢に反映し、そのためにアメリカ帝国主義の対日支配は自然に弱体化し、それにたいする闘争はより容易になり、したがってその闘争の比重が小さくなるにつれて、対独占闘争がますます大きな比重をしめるようになるという見解。

 この見解の特徴は、国際情勢の人民に有利な発展、すなわち帝国主義陣営に不利な発展が、ますます帝国主義のその国にたいする支配と干渉を凶暴化させ、露骨化させる側面を無視している点であり、また、国際情勢の有利さも、その国の人民の闘争をつうじてその内部関係に現実化するという点、したがって国際情勢の有利さは、その国の人民の外国帝国主義にたいする闘争を弱める理由にならないことを見おとしている点である。

 (2)第2次大戦後の国際情勢における帝国主義国間の軍事同盟ブロックを、主として、資本主義の全般的危機の第2段階のもとで、各国の独占資本が社会主義陣営、民族解放運動に対抗し、人民にたいする支配体制を維持するという同一の目的を追求するために自発的にむすんだ同盟関係としてとらえ、同時にかれらの軍事同盟のなかにあるアメリカ帝国主義と他の資本主義との支配-従属の関係は、たんに両者の力の相違、経済力の相違からくるにすぎないとする見解がある。

 この見解の特徴は、日本独占資本のアメリカ帝国主義にたいする利害の一致、その自発的積極的協力の側面だけを本質的なものとして強調し、アメリカ帝国主義の侵略的本質(世界支配政策)からきている民族的抑圧を軍事同盟における本質的要因としてとらえず、たんなる米日独占資本の力関係に解消している点である。

 このためアメリカ帝国主義の直接の民族抑圧の事実そのものも、むしろ日本独占資本の態度や政策に解消され、アメリカ帝国主義にたいする独自的闘争がすべて対独占闘争に解消されることになっている。

 第2次大戦後の軍事ブロックの本質を、たんに社会主義陣営、民族解放運動に対抗するため、また各国人民を支配するための各国独占資本の階級的同盟という見地だけでとらえるならば、それはアメリカ帝国主義の“共産主義とたたかう”という口実をそのまま本質として受けとっていることになる。

 「軍事ブロックの組織者たちは、かれらは“共産主義の脅威”にたいする防衛のために団結したのだと主張している。だがこれはまったくの偽善である。帝国主義列強が世界の再分割を計画するとき、いつも軍事ブロックの結成をたくらんだことは、歴史のうえでよく知られているとおりである。今日“反共”のスローガンは、ある大国の世界制覇の野望をかくす煙幕としてふたたび利用されている。この場合、新しいことといえば、アメリカがあらゆる種類の同盟や条約を利用して、資本主義世界で、支配的な地位をかため、ブロックにくわわる諸国をアメリカの意志の忠実な実行者の地位におとそうとしていることである。」(「ソ連邦共産党第20回大会報告」)

 「共通の利害でむすばれた軍事ブロックという面」と「民族的抑圧という面」と、米日関係にはこの二つの面があるといい、どちらの面が主要かという議論も一部にあるが、この議論のたて方自体が混乱しているのである。日本人民の立場からみれば「民族的抑圧」を「軍事ブロック」の本質的要素と解するのが当然であり、そう解すれば、このような混乱はおこらない。

 レーニンは、「帝国主義の政治的特性をなすものは、金融寡頭制の抑圧と自由競争の排除とに関連する、あらゆる方面における反動と民族的抑圧の強化とである。」(『帝国主義論」)といっているが、このレーニンの本質的規定が第2次大戦後は、情勢の発展に適しない古くさい概念となったとし、サンフランシスコ体制を主として軍事的側面からみて、民族的抑圧を第二義的にみる見地は、まったく本末転倒である。

 したがってまた、国際的規模での平和擁護闘争(これ自体はもちろんきわめて重大な任務だが)のなかに自国の民族独立闘争を解消することは、帝国主義の本質からきている他民族抑圧を無視することになる。国際的な規模での平和擁護闘争と結びつけて、民族独立の闘争を重視することは、きわめて重要である。

 (3)さきにあげたような帝国主義の侵略性を過小に評価する見解から、平和擁護闘争の圧力のみによって帝国主義が簡単に引き下がるかのように考え、平和擁護闘争が共産主義者にとって第一義的任務であるということを誤って理解し、すべての革命闘争をそれに従属させるべきだ、とする極端な見解によると、「平和擁護闘争が外国帝国主義の支配の排除、民族独立のために果たす決定的意義」が強調されるあまり、実際は、民族独立の課題を平和擁護闘争に従属させ、それに解消する見解となっている。

 今日世界の平和擁護闘争は、核兵器実験禁止から、その製造、使用の全面的禁止をめざしているばかりでなく、さらに一般軍縮、外国軍の撤退と外国軍事ブロックの解消、全般的集団安全保障体制の確立などの闘争目標をかちとることをめざしているが、このことがアメリカ帝国主義の支配下にあるわが国において、民族独立を基本的に勝ちとることにプラスになるのはいうまでもない。これらの目標は、わが国では平和擁護の課題であるとともに、民族独立の課題である。

 問題は、平和擁護闘争を強めることのみで、これらの課題が解決され、これらの目標が勝ちとれるかという点である。

 今日の平和擁護闘争は、いうまでもなく、帝国主義の戦争政策に反対する闘争であり、きわめて広範な人民の戦争反対の要求にねざしてはいるが、戦争の根源である帝国主義そのものを転覆するための闘争ではない。

 これにたいして、民族独立闘争は、帝国主義の民族抑圧政策に反対する闘争であり、帝国主義勢力をわが国から駆逐する闘争、帝国主義の支配を、少なくともわが国の範囲では転覆する闘争である。

 平和擁護闘争も、民族独立闘争も、そのほこ先は、帝国主義に向けられており、その課題は互いにからみあっている。したがって、この二つの闘争が、今日の世界で、互いにたすけあう作用をしていることは、周知の事実である。

 だが、この二つの闘争が演じる役割は、右にのべたとおり、それぞれ違った点のあることも忘れてはならない。民族独立の課題が平和擁護闘争に解消されるわけでもなければ、平和擁護の課題が民族独立闘争に解消されるわけでもない。

 一部の見解は、平和勢力が圧倒的に強くなった今日の国際情勢のもとでは、平和擁護闘争をさらに強めさえすれば、帝国主義がわが国から簡単に手をひくかのように思っている。

 これらの見解も、けっして国際情勢まちではない、国際情勢を積極的に変化させる努力の一部だ、といってはいるが、実際に強調しているのは、主として世界平和擁護闘争の一部としての日本平和擁護闘争を強めることである。

 もちろん、平和擁護闘争を強めることは、きわめて重大である。それは、アメリカ軍がわが国に駐留する口実を失わせ、民族抑圧の正体を暴露する意味においても、きわめて重要である。だが、このことから、平和擁護闘争の圧力のみで、帝国主義が簡単にひきさがるかのように考えるのは、アメリカのレバノン出兵にみられるような今日の国際情勢の現実に目をふさぎ、帝国主義の侵略性を過小に評価するものであり、また今日の平和擁護闘争の性格を過大に評価するものでもある。

 これらの見解は、アジア集団安全保障体制の確立がサンフランシスコ体制打破の当面唯一の正しい道である、という。すなわち世界平和勢力の圧力によって、アメリカがアジア集団安全保障体制をみとめるようになれば、アメリカは当然日本から手をひき、サンフランシスコ体制は打破されるというわけである。したがって、アメリカ帝国主義の駆逐は革命の課題ではなく、日本独占資本の打倒のみが革命の課題であるということになる。

 この見解は、サンフランシスコ体制の打破こそ、アジア集団安全保障体制確立の道であるという他の面を忘れ、日本民族の独立がアジアと世界の平和に演ずべき決定的役割を忘れているか、軽視している。

 われわれは、世界の平和勢力がさらに圧倒的に強まり、帝国主義が世界のいたるところから手をひく日のくることを、歴史の大きな見通しとして確信している。しかし、われわれの態度は、その日のくるまでまつのではなく、帝国主義の支配しているそれぞれの国において、平和擁護のエネルギーとともに、民族独立のエネルギーを結集し、帝国主義と、これに協力する売国的反動勢力を全人民から孤立させ、これを駆逐するためにたたかうことである。実際は、そのことによってのみ、帝国主義世界体制の全面的崩壊がはやめられていくのである。今日の国際情勢は、まさにその事実をアジア・アフリカの諸国においてつぎつぎと証明している。

 われわれがこのようにいうと、ある同志は、「それならば民族解放戦争をやるつもりか」といい、また他の同志は、朝鮮、ベトナムを例にあげ、「これらの党は、時を見て全面的な独立をかちとるための武装闘争にふたたび立ち上がるというような方針をとってはいない」といっている。これらの見解も、独立も平和によってかちとれることを強調したいのである。

 だが、民族独立闘争=民族解放戦争と考える見解こそ、まったく機械的である。民族解放戦争を避けるために、民族独立を革命の課題からおろした党などどこにもない。

 朝鮮でも、ベトナムでも、そもそも何も好んで民族解放戦争をやったわけではなかった。帝国主義が武力によって独立をうばおうとしたからこそ、やむをえず武装闘争に立ち上がったのであった。この武装闘争は、世界平和勢力の支持のもとに、ついに帝国主義が戦争を停止せざるをえないところまで追いつめることができた。もちろん、まだ、全面的な独立を勝ちとってはいない。全面的な独立を、さらに世界の平和と自由を愛好する勢力の支持のもとに、帝国主義勢力を孤立させ、追いつめ、平和統一によって実現しようと努力しているのである。

 だが、このことは朝鮮やベトナムの党が統一を世界平和擁護闘争の発展によってのみ勝ちとろうと考えていることを少しも意味しない。

 朝鮮労働党第3回大会における金日成同志の報告は、つぎのようにのべている。

 「朝鮮人民の前には、アメリカ帝国主義の侵略勢力と、その同盟者となっている南半部の地主、隷属資本家、親米派に反対し、南半部の人民を帝国主義的、封建的な圧迫と搾取から解放して、祖国の民主主義的統一と完全な民族的独立を達成すべき全民族的任務が依然として残されている。」

 すなわち、統一と全面的な独立は、反帝反封建民主革命によってこそできると考えているのである。もちろん、その革命は平和的にやることが可能であり、朝鮮の党は、そのために最善の努力をつくしているのである。しかし、この民族解放革命が武装闘争になるかならぬかは、なんとしてもアメリカと李承晩の今後の出方にかかっているといわねばならない。

 朝鮮の党は、世界平和勢力の圧倒的な圧力によって、やがてアメリカがひきさがるだろうと考えて、民族独立を革命の課題から引き下げることなど、けっしてしていないのである。

 (4)ソ連邦共産党第20回大会で明らかにされた国際情勢の根本的変化や、あるいはモスクワ宣言にある「われわれの時代の主要な内容は、ロシアの10月社会主義大革命にはじまる、資本主義から社会主義への移行である」という命題などをひきあいに出したりして、日本をふくむすべての国で社会主義への移行が当面の直接の課題となっているとする見解がある。

 このような見解はまったく実践的見地を欠いている。最近の各国共産党の綱領や政治決議をみれば明らかなように、社会発展の段階の違いと外国帝国主義による支配の有無は、いぜんとして、それぞれの国の労働者階級の党の綱領と重大な関係をもっている。たとえば、ギリシャ共産党の綱領的宣言は、自国の当面の革命の性格を「民族的反帝的民主主義的なものである」としているし、インド共産党第4回大会の政治決議は、民主主義革命を完遂し、社会主義革命にむかうと規定している。またイギリス共産党の綱領は、平和、独立、民主のたたかいをとりあげながらも、社会主義革命と規定している。

 これらの主張の多くがよりどころとしているイタリア共産党の「綱領的宣言の要素」という「民主主義的社会主義革命」も社会主義を当面の直接の課題としていない。「また社会主義国家ではありえない」「新しい権力」をめざしている。

 国際情勢の変化は、それぞれの国の革命運動の発展に大きな影響を与えるにしても、その国の革命の性格は、その国の具体的歴史的条件によって決定される。このマルクス・レーニン主義的見地が古くなったという見地は、まったく誤っている。モスクワ宣言やソ連邦共産党第20回大会は、けっしてこのような見方をしていない。

 フルシチョフ同志が20回大会で社会主義への移行の多様な形態についてのべたとき、かれはレーニンのつぎの言葉を引用している。「すべての国民は社会主義にいきつくだろう。これは避けられない。だが全部がまったく同じやり方でいきつくのではない。それぞれの国民は、民主主義のあれこれの型で、プロレタリアート独裁のあれこれの型で……独特のものをもたらすだろう。……この未来のみとおしを、単調な灰色一色で描き出すくらい、理論的に幼稚で、実践的にはこっけいなことはない。」(レーニン「マルクス主義の漫画化および帝国主義的経済主義について」)

 レーニンは、「民主主義のあれこれの型で」も「独特のもの」を追求すべきだといっている。

五 日本の現状について

(1)日米関係を中心とする日本の現状把握について

 主として(イ)経済的にも政治的にも対米従属は微弱で基本的に独立している。(ロ)経済的には微弱であるが、軍事的外交的-政治的には従属は深い。しかし半占領従属国ではない。(ハ)経済的にも従属(金融的には強い)しておりとくに軍事的外交的には深い。「半占領」「事実上の従属国」である(党章草案の立場)という三つの見解に大別される。

 (A)(イ)経済的従属はとるに足りない。(ロ)従来経済的従属はあったが、いまではアメリカ経済との対立の面が主要なものとなりつつある、という見解について

 (1)日本は、高度に発達した資本主義国であるから、アメリカにたいする経済的依存、従属の内容も、遅れた植民地のそれとは異なっている。しかしそのことから、日本経済の対米従属がないとか重要でないとかいうことにはならない。

 アメリカの対日投資・融資その他の指標からただちに日本経済の対米従属の程度を結論しようとする考え方のなかに、植民地経済の従属をあらわす指標を、そのまま日本経済の対米従属にあてはめようとする考え方がある。これは日本経済がいわゆる植民地経済でないということを証明するだけのことであって、従属がないという証明にはならない。

 さらに、日本の諸企業にたいするアメリカ資本の投資額とその比重も、たとえば英・独にたいする投資額とその比重に比較して、ひじょうに小さい。これは、直接には、日本が政治的に不安定であり、とくに経済的に資本投下に必要な有利な条件がない、あるいは少ないということに基因している。しかしこれらのことから、日本経済の対米従属が英・独のそれより少ないということにならない。

 日本経済の対米依存、従属を明らかにする場合に、もっとも重要なことはつぎの点を明らかにすることである。すなわち第一には敗戦以来の世界とアジアの情勢のなかで、日本資本主義が再編成され、独占資本主義として新しく復活する過程が、アメリカ帝国主義と結びつき、それにたすけられておこなわれたということであり、第二には現在もアメリカ経済と結びつきアメリカ帝国主義に従属することで帝国主義的復活をめざすような条件にあるということである。

 戦前においては、日本資本主義は、天皇制のアジア侵略と結びついて発展した。日本独占資本主義は、侵略により広大なアジアの植民地を獲得し、ここに原料資源と商品・資本輸出の市場を求めた。高い「海外依存度」といわれたかつての日本経済の特徴は、侵略戦争と植民地搾取と結びついた日本独占資本主義の構造的特徴のブルジョア的表現である。

 しかし敗戦によって、アメリカ帝国主義に占領され、植民地をうしない、天皇制・軍隊を解体された日本資本主義は、新しい条件のもとに再編成され、それを基礎に発展せざるをえなかった。すなわち日本独占資本主義は、アメリカ帝国主義と結びつき、その「援助」によって新しく復活し、強化した。原料の入手、商品・プラント・資本の輸出市場の獲得、技術等をアメリカに依存することによって発展した。21億ドルの「援助資金」はそのテコとなった。単一為替レート(円のドル・リンク)は、日本経済の対米依存を固定化させる手段となっている。

 日本経済は、生産と資本の集中、金融資本の支配、資本輸出の要求など独占資本主義として復活し、帝国主義の経済的基礎はかたまりつつある。独占資本家たちは東南アジア、申南米への商品輸出、資本輸出に積極的に乗り出しており、新しい「大東亜共栄圏」を夢みている。だが、これらの復活自体がアメリカ経済への依存と従属のもとでおこなわれ、現在でも、原料入手、輸出等の市場関係、いろいろの借款、投融資、技術提携などでアメリカ経済と強いつながりをもっている。

 投融資は少額であり、市場関係-貿易関係や技術提携はかならずしも従属を意味しないとして、経済上の対米従属を否定ないし軽視する見解が多いが、現在、反植民地運動によって植民地そのものがますますせばめられている。社会主義陣営は広大な地域をしめ、ますます発展している。帝国主義・資本主義諸国間の対立は激しくなっている。こういう条件のもとで日本の独占資本はアメリカ経済に依存しつつ、独自の発展を追求するという方向をとっている。とくにアメリカ帝国主義への全体としての政治的軍事的外交的な従属関係との関連においてみれば、原料獲得や輸出上の依存関係も単なる依存=市場関係といえない一つの従属関係である。

 このような関係において、アメリカ帝国主義は、市場関係において大きな比重をしめているだけでなく、特需、投融資、借款、技術提携などをつうじ、日本経済に大きな支配力をもっていることを軽くみることはできない。

 たしかに日米独占資本間の矛盾は成長しつつあり、経済上の従属を固定したものとして過大に評価することは正しくないが、日米独占資本のあいだの矛盾を基本的なものとみることは妥当でない。日本独占資本は、相対的に「独自」の帝国主義的復活への道を対米従属状態を利用しながら追求しているという関係を知る必要がある。

 日本人民にとって国の主権が犯され、軍事的外交的従属が日本の平和・独立・民主主義にとって重大な障害になっているだけでなく、軍事的外交的従属と結びついた貿易制限その他の経済上の諸制約と対米依存が日本人民の生活と日本経済の平和的発展にとって障害になっていることはいうまでもない。

 (2)経済的従属はとるに足りないという見解を裏づける材料としては、1、アメリカの対日投資・融資は取るに足りない(払込資本金総額の1~2%、外部内部資金総額の0・6%)、2、技術提携は漸減している、3、余剰農産物輸入も日本がわに有利にかわりつつある、4、ココム、チンコムなどの制限はなくなりつつある、などがあげられている。

 これは諸指標の量的側面だけにとらわれその内容を正しくとらえていない。

 第一に、重要な原材料の対米依存は、食糧(36%)、綿花(48%)、粘結炭(68%)、重油(74%)、機械(61%)、燐鉱石(52%)、動物性油脂(84%)など、アメリカに依存する原材料の独占価格と高運賃などのため日本商品価格の割高となっていることは周知のとおりであるが、このことから日本独占資本が原材料の中国依存に単純にきりかえるなどと見ることは誤りである。決定的な対中国依存がかれらの階級的本質にもとることをかれらは十分に自覚している。鉄鋼資本の対中国貿易協定について「独占体までが市場転換の決意を固めるにいたった」といった評価もあったが、この誤りは、岸政府の日中貿易協定の破壊行為によってすでに証明された。同時にこの協定がかりにそのままおこなわれたとしても日本の鉄鋼生産額からすればとるに足りない量で、基本的な「市場転換」などとははるかに縁遠い内容にすぎないことを右の見解は見ていない。日本独占資本は、東南アジアその他に原料資源、資本輸出などの対象を求めるために努力しているが、その拡大の可能性を過大に評価することはできない。なぜなら反植民地運動の高揚、英仏独占資本との競争、アメリカ資本自体の妨害(インドその他で落札問題などにあらわれている)など反対の要因が働いているだけでなく、かれらの東南ア進出自身にアメリカの援助を必要としている。同時に技術、資金、輸出などにかんするアメリカ資本とのいろいろな他の経済関係、日米通商航海条約14条(アメリカからの輸入制限の場合は他の国にも制限せねばならぬ)、軍事的政治的対米従属との関係、特需の国際収支への決定的役割など、これらを総合的にみるならば、日本独占資本が簡単に全体としての対米依存を脱却しえないようにアメリカ経済に結びつけられていることは明らかである。

 最近の傾向では、対米輸入はむしろ増加レている。昭和33年度の通産白書によれば、北アメリカ州からの輸入は輸入額の35・7%(1955年)、37・5%(56年)、41・7%(57年)というふうに年々増加し、ひじょうに大きな比重をしめている。この増加は好況期の生産増大と結びついているとしても、不況期には輸出も減少するから、少なくとも対米輸入の比重が単純に減少しているとすることの誤りは明白である。サ条約締結以後の対米貿易がサ条約締結まえより減少したことをもって、今後の減少の理由としている見解もあるが、これは理由になりえない。なぜなら問題はサ条約締結以後における傾向であるからである。

 第二に、対ドル地域との貿易における輸入超過は慢性化し、日本の国際収支をたえずおびやかしている。57年の輸入超過の大部分は対米貿易の輸入超過である。

 特需は1957年5億4900万ドルで、56年の5億9500万ドルより減少しているが、いぜんとレで5億ドル台で、日本の国際収支のバランスを維持する決定的要因となっており、アメリカ帝国主義の戦争政策に強く依存せざるをえなくさせている。総輸出と特需をふくめれば、対米輸出と特需の合計は、その36%をしめる(56年)。いずれにしても対米依存の比重がいかに大きいかは明白である。

 第三に、日本の技術的後進性は簡単に脱却しえない。これは日進月歩の技術の発達の基礎が、直接的には巨額の研究費と広範囲の科学的水準に依拠し、一般的には政治・経済・文化の総合的な発展を前提とするからである。したがって日本の技術的後進性が一挙に克服されぬかぎり軍事、政治、金融その他経済上の種々の対米従属の要求とからみあって、技術上の対米依存もそれだけ切り離して解消されるとすることは正しくない。アメリカからの技術導入は最近増加している。

 しかもアメリカとの技術提携は、アメリカ帝国主義の手っとり早い搾取の手段となっている。戦前は無償または売上げの1%であったのに、今日では3~5%が普通で、薬品関係では15%、ひどい部門になると20%にのぼるものもある。直接投資は176億円しかないのに、技術提携にたいする対価支払は350億円にのぼっている。直接投資の2倍にのぼる額が技術導入によってふんだくられている。

 第四に、アメリカの対日投資は、払込資本金総額の1~2%程度だとして軽視する意見があるが、その内容をみるとき軽視することは正しくない。石油、アルミニウム、ゴム部門は完全にアメリカ帝国主義に支配されており、しかもこれらの部門の軍事・化学工業にたいする重要性は否定できない。とくに石油は、運輸、電力(火力発電)、農業経営等における重要な生産手段となっているのみならず、新興産業である石油化学の主原料であり、これらを完全にアメリカ帝国主義に握られていることは重要である。

 外資との技術提携、外資の経営参加、株式投資および貸付金投資をうけている会社(「外資会社」)の資本金を、産業別資本金総額との比率でみると、つぎのとおりである。

    繊維工業         16・6%

    化学 〃         50・0

    石油・石炭製品製造業   80・4

    ゴ ム・皮 革      36・4

    金  属         57.2

    機械器具         69・8

    運輸・通信その他公益事業 61・4

           (1954年3月現在)

 この「外資会社」はアメリカ独占資本が資本的に完全に支配している(それはこのごく一部分である)会社ではなく、アメリカ独占資本と何らかの結合をもっている会社を意味する。この場合、たとえば、技術提携は従属を意味しないとして、この比率を軽視するような見解が多いが、多くの場合、それらの会社は技術以外に原料、資金、輸出(市場)等の部面で種々の関係を結んでおり、これら全体との関連でみれば、アメリカ独占資本との結びつきは簡単に断ちきりえない関係にある。さらに英仏独占資本との競争やMSA援助その他の借款、政治軍事上の深い従属などとの関連でみるならば、日本独占資本はアメリカ独占資本との従属的結合を希望、またアメリカ独占資本もこれにつけこみ従属化の網を強めようとすることは、当然である。

 各国独占資本間には矛盾が強まっているが、他方では国際的に結合し、競争を内包しながら国際独占体として政治的には帝国主義戦線を結成して、社会主義陣営、後進諸国人民、各国人民に主として攻撃をむけている。この傾向との関連でみるならば、いわゆる「外資会社」の比重(資本金からみた)が日本の主要な産業部門でこれだけ大きな比重をしめていることはひじょうに重要である。しかもこれらの外資会社の大部分は独占企業、大企業である。したがって、アメリカ独占資本の日本の主要産業にたいする利害と支配力は、その投資額の払込資本金総額との比重(1~2%)よりはるかに大きなものであることは明白である。投資額の払込資本金総額にたいする比重だけからアメリカ帝国主義にたいする依存・従属の程度を単純に結論することは、正しくない。

 しかし他方、これらの依存従属をふくめて日本の経済上の対米従属を後進国の植民地経済にたいする支配と同様のものであるようにみることが正しくないこともいうまでもない。過大評価も過小評価もともに誤りであることはいうまでもないが、重要なことは、アメリカ帝国主義にたいする闘争をまったく軽視したり、アメリカ帝国主義の支配を政治・軍事だけに限定し経済上の支配を無視したりする見解におちいることは正しくないということである。いいかえるならば、過大評価と結びついた古い型の植民地・半植民地の規定を日本にそのままあてはめることの誤りを克服したわれわれにとって必要なことは、やはり新しい型のアメリカ帝国主義の「新植民地主義」と、後進国・先進国をとわずあらゆる手段で押しつけてきている従属の諸形態とその実体、それから受けている人民大衆の苦しみを経済上でも明白にし、アメリカ帝国主義との闘争を強調することである。

 第五に、債務、借款その他、日本にたいするアメリ力の資本輸出および金融上の支配の範囲はつぎのとおりである。(1954年9月)

  援 助 債 務              7510億円

  綿 花 借 款               215〃

  世 銀 借 款               144〃

  資金外資(株式投資、貸付受益証券等)    478〃

  外 銀 貸 出               210〃

  外銀にたいする外貨預託          1688〃

  見返資金の優先株式引受または

     優先出資にもとづくひも付債券発行  1959〃

        計            1兆1204億円

 このうち7510億円のガリオア・エロア資金は「西ドイツが3分の1切りすて、残額を年利2・5%、30年年賦」の条件で妥結したことを理由に、日本もこの程度になるとすれば、その額は大したものでないという見解がある(「借款でない」という意見もあるが、日本政府は債務であることをみとめている)。しかしすでに年々支払いを義務づけられている綿花借款、余剰農産物借款その他種々の借款の返済や民間の融資返済、投下資本・技術提携の対価支払いなどとあわせたとき、かりに西ドイツ方式なみの条件獲得に成功したとしても、それらの合計額は大きな額になり、経済恐慌と結びつく最近の保有外貨の減少傾向とともに、日本の「債務奴隷」的地位は軽視できない。

 しかし重要なことは、これらのことさえなお日本がアメリカ帝国主義の目したの地位に屈従している場合のことであって、日本の情勢がますますアメリカ帝国主義にとって不利な方向に発展した場合には、かれらは日本におけるいっさいの経済的権益(1兆数千億円に上る投下資本「援助」借款その他)の対価支払いを一挙に要求せざるをえなくなるし、同時にそれは日本経済にとって決定的な負担を意味する程度にその額が大きいことをはっきりつかむ必要がある。かれらはすでにそうした場合の補償と支払いを通商航海条約やMSA協定等によって義務づけ、合法化していることを想起する必要がある。

 この点でも政治・軍事上の従属と経済上の従属をきりはなすことも、また政治・軍事上の従属だけに解消することも誤りであることは明らかである。

 最近の傾向からいえば民間融資――「貸付金」は急増している。「綿花クレジットにはじまる貸付金の形をとるものは、640億円」と計算してこれを軽視する見解もあるが、1950~57年の「貸付金」(綿花借款はふくまれない)累計は約1150億円(33年度通産白書)にのぼり、その3分の2約700億円は1956~57年の2ヵ年に契約されたものだけである。しかも58年はさらに、すでに妥結が確実視された電力借款だけで約670億円あり、通産省自身が「相当巨額なものになる」(白書)と告白している。したがってこれら貸付金の総額はますます軽視できない金額になりつつある。これらいわゆる「貸付金」以外に政府の借款は、たとえば、つぎのようなものがある。

 51年12月以来ワシントン輸銀7次綿花借款3億8000万ドル、55年5月以降余剰農産物協定にもとづく1億6580万ドル、57年8月農産物借款1億1500万ドル、重工業機械設備輸入のための世銀借款8490万ドル

 これだけでも7億4570万ドル約2660億円にのぼる。このほか軍事「援助」は12億ドルと推定されている。(この返済方法はまだきまっていない)

 (B)日本は基本的には主権国になり、基本的には独立した、という見解について

 この問題に関連してつぎの論拠があげられている。

 (イ)日本の独占資本が復活強化し、経済上の対米従属はとるにたりないし、同時にますますなくなりつつある。

 (ロ)サンフランシスコ条約によって占領管理機構が廃止され、主権は基本的にアメリカの手をはなれて日本にかえった。沖縄、小笠原の軍事占領、アメリカの軍事基地の存在、軍事・外交上その他の支配も、たんに日本の主権にたいする制限と圧力がくわえられている事実を示す以上のものではなく、アメリカに主権があることを示すものではない。自衛隊も日本独占資本の支配する日本の軍隊である。

 (ハ)サ条約その他の条約・協定は日本独占資本の積極的合意によって結ばれたものであり、日本政府は法的にも実際的にも少しもアメリカ帝国主義の制約をこうむっていない。

 (ニ)サ条約は日本独占資本の地位の強化と内外民主勢力の闘争の勝利の成果であり、これにたいするアメリカ帝国主義の譲歩の結果である。したがってサ条約によって日米関係は根本的に変化し、日本は基本的に独立した。

 まず(イ)の見解では、上部構造について具体的に検討することをしないために、経済上の従属状態をも正確につかむことができない。

 また(ロ)の見解は、占領管理機構の廃止による日本政府の統治権の拡大にのみ目をうばわれ、実質的には半占領がつづいている側面を見おとしている。

 (ハ)の見解は、合意の形式をとらぬ条約、協定はありえず、「合意」だからといって「独立」にはならぬことを見おとしている。問題は法的形式ではなく実質である。しかも、日本政府がアメリカ帝国主義の制約をこうむっていることは、実質をみればもちろんのこと、法的形式をみてもそうである。条約によって法的にも実際的にも「主権が回復した」ようにいうのは、当時からのダレスや吉田の見解であった。社会党でも右派がこの見解をとった。

 (ニ)の見解は、アメリカ帝国主義が新しい情勢に応じて当時の内外民主勢力の「全面講和」の要求をおさえつけて、強行的に成立させたのがサ条約であったという歴史的事情を見おとしている。内外民主勢力の指導権のもとではなく、アメリカ帝国主義の指導権のもとに締結されたのがこの条約であった。アメリカ帝国主義は、中華人民共和国の成立、朝鮮戦争における敗北などの新しい情勢のもとで、日本にたいしては「占領支配」の形態は変更して、実質を維持し、日本独占資本をより自発的に協力させた方が、自己の世界支配の野望実現のためには有利と判断して、この条約を作製したのである。サ条約による変化の形態と内容については、「綱領問題について」でのべたが、この条約によって、日本が基本的に独立を達成しなかったという日米関係の実質は変化しなかった。

 (C)経済的従属はとるに足りないが、軍事的外交的従属は深い。しかし、「半占領」「従属国」ではない、という見解について

 その論拠はつぎのようなものである。

 (イ)戦争の延長としての占領制度――軍事独裁はサ条約によってなくなった。サ条約は量的変化ではなくして質的変化をもたらした。

 (ロ)サ体制による従属の本質は強弱独占資本間の利害の一致にもとづく同盟関係であり、「半占領」ではない。

 (ハ)したがって日米関係は、英仏のアメリカとの関係と本質的に同じもので、違いは量的なものにすぎないから、英仏を従属国といわないように、日本も従属国と呼ぶのは妥当ではない。

 国際情勢のところですでにのべたように、アメリカ帝国主義の支配と民族的抑圧を日本独占資本の態度や政策の問題に解消する考え方は、第2次大戦後の軍事ブロックの本質を誤ってとらえており、その点では英仏とアメリカとの軍事ブロックにかんしても誤っている。そればかりでなく、

 (ハ)の見解は日本にたいするアメリカ帝国主義の支配と民族的抑圧が敗戦・占領をつうじ、日本帝国主義を解体し、まったく無力化するという独自の歴史的条件と特殊な軍事的弾圧にもとづいており、しかもこの占領・支配の重要側面がサ条約をつうじて実質的に維持されているところに、英仏とはちがう日本の対米従属の特殊な深さの本質があることを無視している。また英仏はアメリカ帝国主義に従属しながらも、みずから植民地をもつ帝国主義国だが、日本は独占資本が復活・強化しつつあるが、植民地をもつ帝国主義国ではないという重大な差異を見おとしている。英仏には、わが国の沖縄、小笠原の状態はないということは偶然のことではない。

 7月7日の人民日報の主張は、「日本が独立と平和の道をとるか、あるいは軍国主義と帝国主義の道をとるかは、第2次大戦がおわって以後の日本国内での主要な闘争であると同時に、日本軍国主義がおかした侵路のために長い間悩んだ諸国、とくに中国人民にとって切実な関心の的であった」と書いて、1955年の同紙のつぎの主張を引用している。

 「日本人民は二つのまったくちがった道の選択に当面している。一つは、独立と平和のためにたたかう道である。これは、日本をアメリカによる半占領の状態から解放し、日本に、独立と自決の地位を獲得し、軍国主義の復活をふせぎ、日本がアジアと世界の平和の保持にしかるべき寄与をおこなうことができるようにするものである。これは、吉田政府の崩壊いらいの日本の政治情勢の全般的な傾向と一致するものである。いま一つは、吉田政府が歩んできた古い道をとることである。」

(2)日米関係の把握と関連して、日本の国家権力をだれが握っているか

 この問題についてはつぎのような諸見解がある。

 (イ)日本は主権国となり、基本的には独立したという見解は、「日本の国家権力は基本的に日本の独占資本が握っており、アメリカ帝国主義の権力はこれを外から制約しているにすぎない。自衛隊も一応日本国の軍隊であり、沖縄・小笠原・全国の軍事基地も日本政府の合意にもとづく駐留にすぎない」とする。これは、すでに指摘したとおり、条約・協定による法的形式的側面を本質とみる見解である。

 (ロ)日本の国家権力を握っているのは、日本の独占資本である。その権力はアメリカ帝国主義に従属し、主権をおかされているが、それは制約するという関係で、国家権力の主体はあくまでも日本の独占資本である、という見解。

 自衛隊にたいするアメリか帝国主義の関与、支配、沖縄・小笠原、軍事基地にたいする直接的軍事支配も事実としてみとめるが、基本的にはアメリカ帝国主義に従属する日本の独占資本が日本の主権を握っている、だから、日本を基本的に支配しているのは日本の独占資本であるという見解。

 この見解を合理化する要となっている考え方は、日米関係の項でのべたように、日本にたいするアメリカ帝国主義の支配は日本独占資本の対米従属政策からきているにすぎないという見解であって、アメリカ帝国主義が独自の意図のもとに日本を従属せざるをえない条件においこめてつくりあげた強い民族的抑圧・支配の独自的要因を日本の現状の本質的要素としてみとめない点に特徴がある。そこから、沖縄、小笠原、基地、海空自衛隊などにたいするアメリカ帝国主義権力の直接的支配の重みが正しく評価されないのである。

 (ハ)日本の国家権力は日本独占資本が握っているが、同時にこれと並行してアメリカの国家権力が沖縄、小笠原、海空基施などに直接に作用しているから、それらの範囲とおよぼす影響を事実に即して明らかにしなければならないが、その場合、日本独占資本との関係がわが国の解放闘争において基本的なものであり、これにアメリカ帝国主義との関係がくわわってくるとする見解。

 この見解はアメリカ帝国主義の権力が日本に直接作用していることをみとめる点で一歩前進している。しかしそのさい日本独占資本が握っているとする日本の「国家権力」そのものが日米合同委員会、司法機関、諜報機関、警察、調達庁、外務省その他をつうじ、アメリカ軍・大使館によって支配され、アメリカ帝国主義の支配の道具にされている側面をみのがしている。すなわち、たんに二つの別々の権力が並行的に作用しているのではなく、日本の国家権力そのものも日本独占資本は不完全な中途半端なものとしてしか握っていない点、とくに暴力装置の中枢がアメリカ帝国主義の事実上の支配下にある点を見のがしているのである。

 (ニ)このほかにつぎにのべるマルクス・レーニン主義の国家論を機械的に適用することによって論証しようとしている見解がある。

 「マルクスによれば、国家は階級支配の機関であり、一つの階級にたいする他の階級による抑圧の機関であり、階級の衝突を抑制しつつ、この抑圧を合法化し、強固なものにする『秩序』の創造である。」(レーニン『国家と革命』)

 レーニンの右の命題が外国帝国主義の支配を考慮外においた一般的念題であることはいうまでもない。外国帝国主義の権力が日本の国土に直接に作用し、あるいは日本の国家権力の中枢にまで関与してきているような現実にたいして、独立した国家・権力にかんするマルクス・レーニン主義の一般的命題を機械的、形式的に適用することは、日本の国家および権力の規定を逆に単純化し、一面化することになる。

 われわれが、革命の重要問題としての権力の問題を検討する場合には、まず人民に事実上支配力をもっている権力の実体をみきわめることが眼目であり、外国帝国主義の侵略がなんらかの形で存在する揚合には、当然この侵略がどのような性質でどのような支配力をもっているかを検討のなかにくわえなくてはならないのは当然である。また、それとの関連でその国の国家権力の問題が検討されなくてはならない。

(3)以上のような日本の現状認識および権力規定と関連して日本における基本的矛盾、主要な矛盾は何か

ということがつぎの論点となっている。

 (イ)アメリカ帝国主義と日本人民のあいだの矛盾は存在するが、基本的な矛盾でも、主要な矛盾でもない、日本独占資本と日本人民のあいだの矛盾こそ、基本的な、かつ主要な矛盾である、という立場をとっているのが、異論の代表的なものである。その論拠には少しずつニュアンスの違ういろいろなものがあるが、だいたい現状認識および権力問題についての意見の違いと表裏をなしているわけだから、ここではそれをいちいちあげない。

 日本独占資本と人民との矛盾を主要な矛盾とする見解の主たる論拠は、対米従属も日本独占資本の政策がひきおこしており、日本を支配しているのは、基本的には日本独占資本であるとしていることにある。

 今日の人民闘争の方向を反独占闘争と一方的に解釈してしまう傾向についてみれば、人民闘争の方向を現象的にそのようにきめてしまうこと自体が正しくない。平和闘争は、わが国の非常に広範な人民の関心にのぼっているが、わが国にアメリカの軍事基地があり、核武装を阻止する保証がないことが、さきのフルシチョフ首相の総評議長への回答のなかでもはっきり指摘されている。すなわち、アメリカ帝国主義からの実質上の独立がなければ、日本は核武装地帯化され、日本人の生命が決定的な破滅にさらされる危険がある。このことは、平和への人民の願いが深ければ深いほど、当然に当面の問題となっている。そして、このような軍事基地の存在は、サンフランシスコ条約によって法制化されており、たんに日本独占資本とその政府への闘争だけの問題でないことは明白である。

 岸内閣が、中国を敵視して第4次日中貿易協定を破壊にみちびいたことは、わが国人民の非常に多くの関心となっている。この岸内閣の態度の根源は、アメリカ帝国主義に従属しての潜在的な帝国主義の目的追求にあるが、岸内閣がこの問題であくまでアメリカ帝国主義とその手先蒋介石グループに忠実なのは、サンフランシスコ体制に具体化している構造的な対米従属状態からきている。アメリカ帝国主義の核武装の一環をにないつつあることで、この状態はますます重大な意味をもってきている。したがって、党がこの問題の決定的な打開のために正しい立場で力づよい指導的役割を果たすならば、たんに岸内閣への闘争だけでなく、わが国の対米従属の状態にたいする関心と闘争も当然たかまりうるのである。「生産性向上運動」の本家がどこにあるか。以上の2、3をみるだけでも、労働者階級をはじめ人民の日常生活と、このアメリカ帝国主義の対日支配との関係は、非常に深いことはへ明白である。

 レーニンの民族的権利と階級的利益についての命題をとりあげ、つねに階級矛盾の解決が民族矛盾の解決に優先すべきだとする見解があるが、これは、この命題をドグマに転化させてしまうもので、これを論拠とするなんらの根拠もない。

 レーニンはいうまでもなく、民族問題を自足的にブルジョア民族主義の観点からとりあげることに反対しているが、革命は権力の問題であるというたびたびの強調にも知られるように、社会の合法則的発展を妨害している権力を打倒する政治革命の意義を原則的に確認していた。

 「真に民主主義的な方向をめざした政治的改革は、まして政治革命は、どんな場合にも、どんなときにも、どんな条件のもとでも、社会主義革命のスローガンをかげにおしやったり、弱めたりすることはありえない。反対に、政治革命はつねに社会主義革命を近づけ、その基盤をひろげ、小ブルジョアジーと半プロレタリア大衆との新しい層を社会主義的闘争に引きいれるのである。また他方では政治革命は、社会主義革命の過程では避けられないものである。」(レーニン「ヨーロッパ合衆国のスローガンについて」)
 「政治的自由の獲得をめざす専制反対の闘争を労働者党の第一の政治的任務とみとめることは、とくに必要であるが、この任務を解明するためには、われわれの意見では、現代ロシアの絶対主義の階級的特徴づけ、また労働者階級の利益のためだけでなく、社会的発展のためにもこの絶対主義を打破する必要のあることを特徴づけなければならない。こういう指示は、理論上も必要であり――なぜならマルクス主義の基本的思想の観点からみれば、社会発展の利益はプロレタリアートの利益に優越し、労働運動全体の利益は労働者の個々の層または個々の瞬間の利益に優越するからである。……」(レーニン「わが党の綱領草案」)

 その国の具体的条件を無視してプロレタリアートの利害の優越性ということを公式的にくりかえして、これを社会主義革命がつねにさきにおこなわれることだと一面化してしまうことは正しくない。もちろんレーニンは、この場合は、資本主義が発達していながら絶対主義がのこっているときに、それを打倒する政治革命を問題にしているのだが、このことは、資本主義が発達していながら外国帝国主義の支配を強くうけている場合にも原則的な教訓となりうる。

 このように社会発展の利益をプロレタリアートの利益に優先させることは、社会発展の政治的原動力であるプロレタリアートの歴史的使命に大局的に合致する。

 (ロ)資本主義から社会主義への日本社会の歴史的発展の大きな過程からすれば、アメリカ帝国主義の支配はこの過程において出てきた問題であり、したがって前者を基本的矛盾とすれば、後者の民族的矛盾はそれにたいして従属的な関係にある矛盾だという意見がある。しかしこのことからただちに、だから日本の現状においても対独占闘争が基本であり重要なもので、アメリカ帝国主義にたいする闘事は従属的であるという結論をみちびくことはできない。

 また外国帝国主義の支配は一時的・過程的な問題であるとしてそれを従属的矛盾とみる見解があるが、外国帝国主義の他民族抑圧は、けっして偶然なことでもなく、帝国主義があるかぎり存続する帝国主義の本質にねざしている。問題は、あくまで帝国主義支配が、その民族の社会の発展を阻止している役割の重要さにある。

 わが国は、経済的には高度に発達した資本主義=独占資本主義の社会である。ところがその社会の支配階級である独占資本は、戦争の結果アメリカ帝国主義の対日支配にみずからの利益からも従属して反民族的反人民的抑圧の体制=サンフランシスコ体制をつくり、それによって、わが国の自主的・民主的・平和的な社会発展を妨げている。

 この独占資本は、したがって民族の利益を裏切る売国的な独占資本であり、たんに労働者階級をはじめ勤労人民を直接搾取、収奪しているだけでなく、平和とわが民族の利益を決定的に裏切っている。そして、それを外国帝国主義の支配と結びつくことで維持し、強めている。

 この売国的独占資本は、この点でたんに労働者階級をはじめ広範な勤労人民の利益と対立しているだけでなく、中小の資本家とも対立している。したがって、売国的独占資本と、これらの労働者階級を中心とする人民諸層との対立の基本点は、反民族的反人民的な支配者・収奪者と、その支配と収奪のもとにある広範な諸階層との対立にもっともするどくあらわれている。つまり、売国的な独占資本が外国帝国主義の支配と結びついて人民を抑圧し、搾取しているという点が、中小の資本家をふくむ広範な人民諸層との対立の基本であり、資本家一般と労働者一般の対立という性質に定式化されえないものである。

 サンフランシスコ体制は、アメリカ帝国主義とこのような売国的独占資本の同盟による戦争と民族抑圧の体制である。

 したがって、それは「アメリカ帝国主義と目したの同盟者としての売国的日本独占資本の合作の体制である」。そして、この体制にたいしては、前述の理由から労働者階級を中心とするもっとも広範な人民の利害が対立しており、もっとも広範、強大な闘争エネルギーが結集される必要がある。そして、この対立と矛盾がもっとも中心的な主要な矛盾となっている。

 (ハ)資本主義の発展の不均等の結果として日米独占資本間の矛盾はますますふかまりつつあり、これが日本独占資本の復活・強化と結びついて日本独占資本のアメリカ帝国主義にたいする「自立化」の傾向を強め、その結果、日本人民と独占資本との矛盾がますます主要なものとなりつつあるという見解がある。

 この見解は、アメリカ帝国主義と日本独占資本の関係を主として日米資本主義間の経済関係に単純化してとらえているだけではない。中小企業をふくむ日米ブルジョアジー間の種々の摩擦をただちに日米独占資本間の矛盾としてとらえ、しかもこの経済上の矛盾がそのままただちに政治関係を規定するというような、種々の誤った考え方をふくんでいる。その結果、日本独占資本の売国的本質が無視されるのである。またこの見解の大きな欠陥は、日米独占資本間の矛盾を、それよりもずっと深い、かれらと社会主義・民主主義陣営との矛盾(社会主義諸国との矛盾、各国人民との矛盾、自国人民との矛盾、植民地従属諸国との矛盾)および他の帝国主義、資本主義のブルジョアジーとの矛盾等の全体の関連のなかで評価しようとしていないことである。さらにまた日米独占資本間の矛盾の存在は重要視せねばならないが、このことと彼らがこの矛盾をどう処理しようとしているかは別問題であり、日本独占資本の「自立化」の傾向も種々の制約をうけ、けっして真の独立には進みえない売国的本質をもっていることを、日本独占資本主義そのものの構造的弱点と全般的危機の第2段階の国際的諸条件のもとにおいてとらえようとしていないのである。

 日本独占資本にたいする闘争を反帝闘争とみなす見解がある。それは、このことによって、外国帝国主義にたいする闘争と自国支配階級にたいする闘争の区別と関連をぼかしている。これがアメリカ帝国主義にたいする闘争を日本独占資本にたいする闘争に解消する考え方の一つの理由となり、そこから逆に独占資本にたいする闘争を民族闘争と階級闘争とに分ける考え方になっている。この点では他の多くの見解が、日本独占資本の抑圧、搾取の反人民的政策が同時に反民族的政策であり、したがって日本独占資本の反人民的政策にたいする闘争が同時に民族独立のための闘争としての側面をもっているという点を単純化して、反独占闘争即「階級闘争」と規定する考え方と対照的である。しかし、いずれにしてもアメリカ帝国主義の民族的抑圧にたいする闘争を反独占闘争に解消する点は共通している。

 以上、国際情勢および目米関係をはじめとする日本の現状にかんする多くの見解は、変化しつつある要因を論じてはいるが一面的にとらえ、あるいは全体との関連で正しく位置づけていない。とくに国際情勢が有利に変化しつつあることを強調することによって、あるいは「帝国主義自立」の方向を強調することでアメリカ帝国主義が自然に後退し、これとの闘争の実践的意義が小さくなりつつあるかのようにとらえている点である。そのもっとも重要なものは、第一に帝国主義、とくにアメリカ帝国主義とこれにたいする闘争の過小評価であり、第二に日本独占資本の売国的本質にたいする過小評価である。これらは、51年綱領における民族解放闘争の強調が極左冒険主義の根源であった、という誤った評価からきている。

 以上の点からみて、アメリカ帝国主義と日本人民の矛盾、および売国的独占資本と中小資本家をふくむ日本人民の矛盾を、わが国の現段階での基本矛盾とし、その両者の結合が主要矛盾となっているとみるのが正しいと考える。

六 農民問題について

 農民問題については、(1)封建遺制について、(2)農地改革の評価について、(3)農民問題からみた日米関係、(4)農民問題と当面の革命、(5)農民の階級構成、(6)その他若干の問題等が論じられてきた。

(1)封建遺制について

 封建遺制をもっと重視せよ、という意見はかなりある。たとえば半封建的地主制度の基本的解体があったにしても、残存地主勢力(山林所有、薪炭林、貸付地、水利、林道、農協などの分野、あるいは新農地法その他による)および土地問題(貧農、雇農は十分の土地をえていない)を無視ないし軽視できない。ところが草案は半封建制について単に上部構造としての半封建遺制、慣習を問題にしているにすぎない。独占資本は中心ではあるが、それ以外の残存勢力、諸関係を無視または軽視するな、という意見である。

 「草案」は「農地改革が不徹底な面を残している」ことを指摘し「綱領問題について」では、とくに林野を主とする地主の残存と変化の実体を明らかにするとともに、その動向の特徴をもかいている。したがって、単に「上部構造」としてとらえているだけではなく、土地問題の解決方向を提起しているのである。しかし、この見解がいわんとしている「残存地主勢力」を軽視してはならないという点には異論はない。

 「綱領問題について」では「大山林所有者を先頭とする旧来の寄生地主が山林関係の古くからの搾取方法を効果的に利用しつつ、たとえばパルプ、鉱山などの独占資本と結ぶ資本主義的経営と搾取にうつりつつある」傾向を指摘し、さらに小作地の貸借関係の階級的意義、階級分化の進行と農村の階級構成も明らかにしている。また封建遺制の評価についても「単に上部構造だけを問題」にしているのではなく、物質的基礎をみとめている。

 また封建遺制をもっと重視せよとの意見のうち、その根拠を零細農制に求める見解がかなりある。

 その代表的なものとしては、「零細農制は剰余価値以上に労賃部分までも独占資本が収奪することを可能にしている物質的基礎であるほか、思想的、政治的に半封建的なものを維持する物質的な基礎でもあり、軍国主義復活の温床となっている」と指摘している。

 零細農経営の歴史的性格についていえば、周知のように、その本質は農民的土地所有にもとづく過小農経営であり、それは封建制から資本制への過渡的な性格の経営様式で、わが国の零細農制も封建制以来、土地所有の歴史的な変化にもかかわらず、これに適応しながら、いまなおもちこされている。

 農地改革以前にあっては、零細農制は寄生地主的土地所有と結合して、高率現物小作料(半封建地代)による搾取の絶好の条件として機能させられてきた。ところが農地改革によってこのような半封建的な地主的土地所有は解体されたが、その不徹底さによってたしかに土地のない、土地の少ない極貧農層の多くは改革の対象から除外され、そのまま放置された。だが、農民的土地所有にもとづく小商品生産が支配的となった今日の零細農制は、部分的に残存している地主勢力の収奪、圧迫の条件ともなってはいるが、それは主としてアメリカ帝国主義と売国的独占資本の支配と収奪の条件に転化されるようになったのである。いまではこのような農民は、以前のような、地主に隷属させられた「零細農」ではなく、いわば労働者と経営者と小土地所有者という近代的な性格の諸階級を未分化のまま一身にかねたものとしての性格にかわっている。

 それにもかかわらず、農民的土地所有のもとでは農民が経営を維持するうえで絶対的に必要な条件となるのは利潤や地代ではなく、経費をのぞいたほかは自分自身の労賃――即ち生活の維持だけである。この事情のために、農産物価格がその価値または生産価格にまで達することなしに市場価格を形成することができるのである。比類のない零細農制を特徴としているわが国農業のもとで、つねに低農産物価格による激しい農民収奪を可能にしている社会的根拠の一つがこの点にあることを注意する必要がある。

 たしかに零細農制は封建的遣制の一掃を困難にしている障害物となっていることをわれわれは承認する必要がある。つまり農民的土地所有のもとにおいても、孤立分散している零細農制の社会経済的性格のゆえに、つねに封建的遺制がつきまとうのが一つの特徴といってよいと思う。ことにわが国の零細農倒はすでにのべたように、土地改革の不徹底を原因とする事情も累加されて封建遺制の温存にいっそう役立っていることも事実である。それがまたつねに独占資本を中心とする反民主的な支配層の収奪に利用されているという事実を重視することにわれわれも同感である。さらに独占資本主義下の零細農制そのものが農業の合理的発展にとって根本的な障害となっていることも明らかである。

 かように小農経営様式にはいろいろの不合理と矛盾がともない、それが農業と社会進歩のうえに重大な障害の一つになっていることは否定できない。ただこれらをすべて封建制の根源として割り切ることは単純すぎると思う。

 零細農制にともなうあらゆる社会的害悪を克服するためのわれわれの政策は、これにつきまとう封建的遺制の一掃と同時に、当面アメリカ帝国主義と売国的独占資本の支配を排除して、工鉱業部門での低賃金の打破、完全雇用と社会保障制度の完全実施、失業半失業をなくする政策との関連で撤底した民主的農政と諸改革を実施し、小農民経営の安定と向上をはかることである。したがってこの時期にも、小農民経営はなお支配的には存続するであろうが、同じ小農経営であっても、いまやそれは社会主義的大規模経営――集団農場への発展を準備する条件に転化し、機能することになるのである。したがって小農経営そのものが廃止されるのは、社会主義建設の進行が現実の課題としてこれをとりあげ、農民の自発性と納得のもとで集団経営に移行する時期を通じておこなわれる。小農経営の存在をもっぱら封建遺制の母体、根源として単純化することは、われわれが今後の正しい政策、方針を確立するうえで適切な評価ではないと思う。

 同時に日本農業の現状では、農地改革の不徹底、日本農業の歴史的特殊性などに由来する特有の封建遺制が、とくに農村の社会経済の分野にかなり作用していることを重視することには異議がない。

 右のほかに、林野の問題でいくつかの意見や疑問が出されている。

 林野の問題について草案は封建遺制を過小評価しているのではないか、農用地としての農用林野と用材林としての山林とが混同されているのではないか、また、草案は林野の問題を土地問題、農業問題に解消しているのではないか、などである。

 「綱領問題について」でも「民有、国有をふくめた全林野」の問題としてふれているが、国家的土地所有の現状と意義について補足しつつ、以上の意見について検討する。

 敗戦後の本土総面積は約3800万町歩で、このうちいわゆる官公有地に属する国有、公有、天皇所有地、社寺地はあわせて約半分の1800万町歩に達していた。民有地はあとの半分の1800万町歩で、このうち約900万町歩が山林で耕地は約600万町歩であった。

 1946年5月、国有地として対日理事会に発表されたのは876万6000町歩で、このうち55万町歩は官庁用敷地、用地、建物、警察・刑務所等であり、道路、港湾、沼地、海浜、公園等国有地はふくまれていない。官庁敷地だけでも約30万町歩で旧6大都市総面積の約2倍にあたっている。この事情は現在もっと比重が増大しているはずである。この狭義の官庁敷地以外のいわゆる「雑種国有財産用地」をくわえれば60万町歩を突破するといわれている。

 当時天皇の所有地は合計135万2208町歩で、このうち山林129万8781町歩は国有に移し、農地29、835町歩の一部が解放されたが、いわゆる御料地(宮殿地)920町歩、敷地(宅地)28O町歩、雑1万2445町歩は、そのままとなっている。(例――千葉県三里塚御料牧場その他)

 いずれにしても国土と主要建設物の価値の大半が、依然として国有・公有・皇室・社寺等に属していることは、アメリカ帝国主義と日本独占資本を中心とする売国的反動勢力の支配と収奪にとって有力な物質的基礎をなしている点に注意する必要がある。

 戦後土地所有の性格は変化したが、国家的土地所有構成はほとんど変化していない。

 昭和29年7月現在、国土の地目構成はつぎのようになっている。

    全国土面積     3727万4400町歩(注)

    林 野       2463万8500〃

    田 畑        514万0O00〃

    その他        749万50O0〃

    (注)国土総面積については統計によってかなりの違いがある。

 道路港湾国有施設その他をふくむ国家的土地所有の総面積については先にのべたとおりであるが、ここでは当面の主要課題である山林原野の国家的所有についてのべることにする。

 昭和29年8月1日現在の山林原野の所有主体別の構成はつぎのようである。

    国有林野        743万9000町歩

    公有(都道府県市町村) 330万7000町歩(1074万6千町歩)

    社寺有          16万町歩

    会社有          66万7千町歩

    個人有        1242万9000町歩

    その他          75万4000町歩

 以上の林野所有についてみても国家的所有の性格をもつ国有、公有、大社寺有が大半をしめていることがわかる。

 その面積については兵舎、飛行場、その他軍用地の払下げ解放等による若干の減少はあったが、同時に220万町歩におよぶ天皇所有林の国有移譲によってむしろ増大している。

 ここで参考のため国有林経営に従事している労働者数をあげればつぎのようである。

 1948年現在、林野局、林業労務者統計によれば、国有、民有の総数、約270万人のうち、国有林野関係従事労働者数は約26万人となっている。

 国有林野の性格の変化においては、その所有と経営の歴史的性格は旧来の地主的側面をもちながらも戦後徐々に資本主義的―ブルジョア的企業化の方向に変質しつつある。これは大山林所有者の傾向と同様とみてよかろう。

 この点について「綱領問題について」では、国有林野をもふくむ全林野の変化の特徴をつぎのようにのべている。

 すなわち「戦後一連の林地関係法規は、民有、国有を通じて旧来の寄生地主的土地所有と経営を、資本主義的に企業化し……アメリカ帝国主義とわが国独占資本の利益に合う政策をとってきた」ことを明らかにしている。ここでは戦後の国家権力の変質と農地改革その他による階級関係の変化にともなう国有林野の歴史的、階級的変化の一般的特徴を規定するとともに、なお国有林野の民主的土地改革-解放の任務がのこされていることを示しているのである。

 このゆえに党章草案では「国有・公有・大山林所有者の林野など可耕地・採草地などを土地のない、また土地の少ない農民に解放するためにたたかう」任務を明らかにしているのである。

 ここで注意したいことは、草案が国有林野をもふくめて全林野を課題としてとりあげている限界はいわゆる土地問題、農業問題としてその可耕地、薪炭林、採草地、放牧地その他の農用林野を対象としているのであって、当面のこの要求においては、国有、公有にたいしても大山林私有にたいする要求と闘争とは本質的にかわらない立場をとっていることを明らかにしておきたい。

 したがってここでは一産業部門としての林業(用材林一般)そのものを課題としてとりあげてはいないのである。戦後の一時期に党は、林業、国鉄、工鉱業など諸産業のいわゆる産業別綱領を作成したことがあるが、草案では林業においてもこの立場はとってはいない。

(2)農地改革の評価について

 農地改革の一般的な評価については、草案にたいして異論は少ない。

 ただ草案のいう「妥協的」改革という言葉があいまいで、だれとだれとの「妥協」か、また「半封建的地主制度を基本的に解体した」というなら、ブルジョア的変革としては、むしろ徹底したものとみなければならないのに「妥協的」というのはおかしいという意見がある。

 また「草案が、この農地改革の必然性が第2次大戦の進行中に準備されていたことを無視しているのは正しくない。その当時からすでに独占資本にとっては、半封建制がじゃまものになっていた」という主張がある。

 これらの点について、草案に規定している「地主制度が基本的に解体した」というのは、本質的に支配的には解体したが、小作地残存、未墾地、牧野その他のブルジョア民主主義の範囲でもまだ不徹底な面がのこされていることをふくむ規定であり、この事実にもとづいて「妥協的」と規定したのである。

 また、「独占資本にとっては、戦時中すでに半封建制がじゃまものになっており、大戦の進行中改革が準備されていたのに草案はこれを無視している」という主張であるが、草案は戦時中の事情は直接にはふれてはいないが、寄生地主制度の解体の客観的法則は一般的に「準備」、進行してきたことの必然性を無視する立場はとっていないのである。

 独占資本と地主制度―地主階級との矛盾は戦前、戦時を通じてある程度進行していた(それゆえ独占資本にとっては地主制がある程度「じゃまもの」となっていた)ことは事実であるが、しかしこれを問題にする場合、労働者、農民にとってこそ、地主制度と地主階級がいっそう「じゃまもの」であり、この関係こそが両者の基本的な矛盾としてあらわれていたのであるという自明の事実を忘れてはならないと思う。この事実こそが地主階級にとってだけではなく、独占資本にとってもつねに恐怖のまととなってきたのである。だからこのことと関連なしに独占資本と地主の内部矛盾だけから農地改革の要因を結論すると一面的になると思う。

 戦時中たしかに地主階級は一定の犠牲を要求された。しかしこれも両者の矛盾を緩和する程度にしかすぎなかった。地主制度を変革する真の要因として客観的に「準備」してきたのはやはり地主制度に内在する基本的矛盾、そのあらわれとしての労働者の闘争と結びつく農民の攻撃であり、両者の矛盾の激化であったとみなければならない。

 この矛盾との関連においては独占資本は、終始地主制度と地主階級の擁護者であったのである。

 草案はこの点を指摘して、「日本の支配階級はこの農地改革を地主的改造にとどめるために最後まで努力した」とのべているのである。

(3)農民層の階級構成について

 草案に示されている農民層の階級構成についての貧農、中農、富農という区分にたいしていろいろの立場からの賛成と反対の意見が出されている。反対意見の一つは、日本農業の現状では農民層の区分を上層、中層、下層、または大、中、小などに区分けした方が正しいとの見解である。その理由は草案のような区分は、貧農と富農とが直接の搾取関係にあった旧ロシア、中国の場合に規定された区分であって、貧農が主として農業外の賃労働に従事して富農との頂接の搾取関係が支配的でない日本農業にはあてはまらないというのである。

 この主張は、農民層の階級区分の意義について誤解があるように思う。農民層の階級区分は、農業外との関係があるなしにかかわらず、それがプロレタリア的(貧農)小ブルジョア的(中農)ブルジョア的(富農)という階級的性格の規定である。プロレタリアートの党が農民闘争を革命の方向に組織し、統一するためには、この階級的原則の意義を軽視することはできない。

 農民経済の農業外との関係についていえば、農業の商業化、したがって農民層の階級分化がすすむ場合、その下層、とくに貧農層の賃労働兼業が増大し、さらにそのプロレタリア化がいっそう激しくなる。この賃労働兼業が農業の内部においてであろうと外部においてであろうと、貧農が半プロレタリアであるという階級的性格にはかわりはない。

 これに反して農民の上層、とくに富農層の間にも、農業外兼業(自営)が増大する。この場合は、貧農とは本質的にちがった兼業であって、それは商・工業の企業・経営と結合してブルジョア化する方向である。このようなかたちで両極分解がおこる。

 わが国農業の現状では、農民層の両極分解がとくに農業外との関連で発展しているのが特徴となっている。これはとくに戦後、高度に発展した独占資本主義のもとで、地方商工業の急速な発達、信用、通信、交通の整備と拡大などのために、農村ははなは出しく近郊農村的性格に変ぼうしていることと関係している。

 だが、このような一般的な傾向はわが国だけでなく、農業が農業外の資本主義的環境と条件のなかで、その商品生産化を基礎にして階級分化がおこなわれるところでは、農民層のとくに両極においてそれぞれ農業外の兼業と結合して分化が進むことは法則的な現象である。

 この事実は、レーニンも「ロシアにおける資本主義の発達」のなかでしさいに論証している。すなわち「農民層の農村ブルジョアへの転化(商工業経営の所有)」と「農民層のプロレタリアートへの転化(労働の販売-賃労働兼業)の二つの基本的な型を区別することができる」といい、そして「農民層のブルジョアジーへの転化を表現しているところの諸営業(諸兼業)は、主としてもっとも富裕な農業者の手に集申されている。富裕農業者はしたがって、資本を農業にも工業的経営にも商業、高利貸業にも投じている」。 また少数の富裕な農民層は、「商工業的企業を比較的大きな規模の農業経営に結合しつつ、農村ブルジョアジーに転化しているし、まさにかかる種類の営業(兼業)こそが、ロシアの経営上手な百姓にとって最も典型的である」と強調しているのである。それと同時に、レーニンは貧農層の賃労働兼業の種類についても「荷車引き、人夫、建築労働者、都市出稼ぎ、私的奉公入、工場」その他雑多な種類の賃労働兼業に従事している事実をあげている。

 したがって旧ロシア農業においても、富農は農業面だけで賃労働を雇用しているわけではないし、貧農層の存在は富農のもとにおける農業の賃労働にだけ従事することが前提となっているわけではない。

 日本農業の現状では、かような特徴がとくに顕著である。

 「農民のなかの貧農が階級独自に農業資本家…富農にたいして階級闘争に参加する条件が一般化されていない」のであるから、「草案のいう党と労働者階級は貧農に依拠し」うんぬんと規定しているのは教条主義だという主張がある。

 これも農民層の階級構成の意義についての誤解による意見のように思う。貧農がその要求の種類によって、農民闘争に参加しない場合でも、革命の全般的闘争のなかで農民層のうちもっとも階級的にはたよりになる階級だという点をみおとしている。そのため農民層の階級構成の問題をかるくみて、勤労農民一般にこれを解消する傾向におちいっている。

 しかもこの主張は、「貧農」が賃労働によって搾取される場面が種々雑多な農業外であるから、「貧農という農民のなかの階級闘争に参加する特定の集団としての団結を問題にすることはできない」といいながらも、他方では「小商品生産者としての共通的な矛盾にもとづく、全農民的な規模での団結のなかでのみ貧しい農民のエネルギーの燃焼は現実化される」といっている。論旨がはっきりしないが、貧農は「小商品生産者として」中富農といっしょにたたかうときにのみ団結ができ、革命的エネルギーを発揮できるが、他の場合は階級闘争で役割を果たすことができないとみているようである。

 この意見は、農民層の階級的な勢力配置の問題としての階級構成の問題を、全農民を統一闘争に団結させるという組織戦術上の問題に対立または解消させる傾向をもっている。

 また「貧農に依拠する」という立場に反対して、「党は農村労働者に依拠し、すべての農民を団結させ」うんぬんと規定すべしとの主張があるが、この意見は、「労働者が労働者に依拠すべし」ということになる。                 

 草案の階級区分にかわる別の提案として、レーニンがコミンテルン第2回大会に出した「農民問題に関するテーゼ原案」の区分、すなわち農業プロレタリアート、半プロレタリアート、小農、中農、大農、地主的大土地所有者という区分法が日本の現状を反映できるのではないかという意見がある。

 この意見にはただちに賛成できない。なぜならコミンテルンの区分法は、階級分化が比較的正常に進行しつつあった資本主義農業が主要な対象となっており、そこにみられる諸階層も多くの数によって構成(六つの区分)されている。ところが日本農業の現状では階級分化はなお停滞的であって、われわれとしては従来の貧、中、富の区分法に修正をくわえることなしに、その内容の変化を発展的に理解して、これに組織・戦術上の方針を適応させるのが正しいと思う。

(4)農民問題からみた日米関係

 農民問題の面からの日米関係については、余剰農産物輸入に関連して、アメリカ帝国主義への従属を強調する見解と、反対に日本独占資本の対米自立の傾向を主張する見解とがある。

 前者は、草案は民族独立の問題を過小評価しているといい、げんに「余剰農産物という名の安い外国食糧の輸入が端的に示しているように植民地的政策の影響をうけている」と強調している。

 また他の意見も、同様に、農地改革によって、日本農業はアメリカの植民地的農業に転化したとの立場から草案を批判している。

 この意見はともに日本農業をアメリカの植民地的農業として性格づけようとしているようにみえる。これにたいし、草案では民族独立の問題については、「植民地」という日本の現状に適切でない概念で規定をせず、また余剰農産物の問題にしぼってはいないが、日本農民はアメリカ帝国主義とこれに従属する独占資本の搾取と収奪にたいして、基本的な対立関係におかれるようになったという立場からその従属関係を規定しているのである。

 これとはまったく反対に、戦後アメリカ余剰農産物輸入の変遷にあらわれた動向を基礎にして、日本独占資本の対米「自立」を論証しようとする意見がある。この見解によると「貿易の拡大のためには、資本効率の悪い食糧増産はやめて、国民の大多数が買わなくなった外米でも買いこんで、貧乏人は外米を食えといわぬわけにはいかぬというのが、日本国家独占資本の自立的発展の論理」となったというのである。

 またアメリカの第3次余剰農産物の輸入をことわって、オーストラリアの小麦を買いつけようとしたことについても、オーストラリアとの貿易関係の正常化、正常輸出と輸入をめざす日本独占資本の自主的発展の立場がみられるといい、さらに52年以来5年以上たってみると、アメリカの農産物の押しうりというファクターよりもむしろ輸出市場の確保拡大をめざす日本独占資本主義の自主的発展の道が、農業保護、米麦増産政策の放棄という最近数年の農政の転換に関連をもっているともいっている。たしかにアメリカ余剰農産物にたいする日本独占資本の要望がいろいろのかたちであらわれてきたことは事実である。しかしこれがただちにアメリカ帝国主義にたいする日本独占資本の離反や「自立」を意味するものであるとみるのは早すぎることは、第2次岸内閣の動向をみてもはっきりしている。

 なるほどそれらの事実は、一面において、日米独占資本間の内部矛盾にねざす現象であることは事実である。しかし、農民をふくむ日本人民の犠牲のうえに対米従属の全政策がとられている問題と関連なしに、この問題を本質的につかむことができないのである。

 この見地からみれば、農業の分野では、わが国人民の生活と権利と生命を犠牲にするアメリカ帝国主義の原子戦争政策に奉仕する売国的独占資本の政策によって農林予算は削減され、土地改良、治山治水をはじめとする農業保護政策が放棄され、過重な租税、低農産物価格の強行、軍事基地、自衛隊等による農民にたいする収奪と圧迫等が対米従属に由来している面の多いことがわかるであろう。

 農民にたいするこうした犠牲をしいることによって、売国的独占資本とその政府はアメリカ帝国主義に奉仕し、このことによってこそ独占資本自身が利益をむさぼり、その階級支配の維持と強化をもはかっているのである。また独占資本のこのような強化こそが、アメリカ帝国主義の一貫した企図でもある。

 この見解につうじる意見を農民闘争の立場から出しているものも一部にみられる。それはつぎのような見解である。

 サ条約以降は、米麦の価格決定をしている日本政府を対象として毎年その価格決定期に全国的にたたかわれてきた。かつての敗戦国民として占領軍をみてきた農民も自主的権利として価格問題で政府と対決している。過剰農産物輸入問題であるが、これは、日本独占(アメリカ独占資本もふくめて)の利害からでる意図を、日本政府がうけたMSA協定による輸入なのであり、アメリカ独占の意図はあくまでも間接的であって農民にとって直接の対象は日本独占とその政府である。そして闘争の対象は主として日本政府=独占資本と主要商工業資本であるというのである。

 この見解は、日本の政府と独占資本の農政には、独占資本独自の収奪とともに、アメリカ帝国主義の戦争政策、日本民族にたいする支配と圧迫の政策が統一的に結合されていることを軽視している。

 実際には、農民が要求する農林予算にしても、治山治水、土地改良、開・干拓の軽減、地方公共施設、社会保障、農産物価格保障等の諸政策が放棄されているのも、売国的独占資本本位でアメリカ帝国主義に奉仕する原子戦争政策と年々数千億円に達する軍事費の浪費などによって決定的影響をうけているのであり、このことはその他の政治、経済、文教政策を通じての収奪、圧迫政策についても同様のことがいえるのである。

 これを軽視するのでは、農民が直接にアメリカ帝国主義と接触なしに、独占資本とその政府とたたかっているという現象と、農民がいまそう思っているという事実に追随して、農民運動における民族の独立とこれと不可分の平和のための闘争がおろそかになるであろう。

 農民の感性的な反応だけに追随して、かような民族的課題をふくむ事実と本質を日常闘争と結合して日々これを暴露してたたかうことをさけるならば、農民の政治的自覚を正しく促進し、農民の多数者を革命的思想の影響下に獲得して、広く統一戦線を発展させるというわが党の基本任務を果たすことができなくなるであろう。

(5)当面の革命と農民問題

 当面の革命を社会主義革命と規定する見地からつぎのような意見がある。

 すなわち日本農業は、独占資本の収奪と零細農経営の二つの条件によって制約されているが、この二つの障害をとりのぞくことは社会主義に直結するだろう。現在の農業を救うものは社会主義的農業集団化の道だけしかないという。また草案がかかげている「価格保障制度や小作地買上げ、国家資金による大規模開発、干拓」等は社会主義政府の仕事であるという。

 なるほど社会主義のもとでは、社会主義的方法と性格をもって実施され、その要求にたいする農民の欲望はいっそう高度に満足させられるだろう。しかし、現在の事情と条件のもとで農民が要求している諸政策は、売国的独占資本による反民族的・反民主的な内容をもつ価格政策に反対し、徹底した民主的方法による価格保障であり、小作地の解決、土地改良、開・干拓等である。

 それは個々の農民の私経済が家族労働に適合した規模(農業だけで農民経済が年間維持安定できる)の経営と生活が安定するような諸政策である。それはけっして農民の土地、その他の生産手段をただちに共同所有と共同経営にうつす社会主義政策を要求しているのではない。

 このような政策をいまわが党が提起するならば、かつてわが党があやまって提起した共同経営や土地国有といった農民の要求にあわない誤りを再びくりかえすことになろう。現在は当時とは情勢や条件はちがっているが、それでもかような政策は間違いである。

 大規模の開墾・干拓による農地造成にしても、われわれは当面ただちに社会主義的集団農場としてこれを農民に強制するのではなく、むしろ入植者の家族労働に応じて安定した独立経営と生活がなりたちうるよう援助する政策を必要とするだろう。人民権力の政策としてはこういう原則のうえにたって開墾地その他で条件が許す範囲で部分的に農林労働者などを主とする集団農場を設定し、または人民政権の国有地として接収した林野などの可耕地では一定の集団農場を創設することも必要である。これらがわれわれの提起する当面の農政の特徴となるであろう。

 しかしこれらの人民権力としての政策の基本は、全体としては富農の形成と搾取を抑圧する一方、農民経営をして農業だけで生活できる独立自営の安定農家(中農家)として一般化し、他方これを基礎としてプロレタリア独裁の確立に応じて根気づよい説得によって農民の納得と政治的自覚を通じて社会主義的集団経営への全般的移行の政策を実施することにあると思う。

 人民権力がその政策を実施するにあたっては、農村の失業・半失業人口の解消、農産物の作物別需給状況の徹底的検討による合理的な農産物の価格体系の樹立、可耕地開墾・干拓の農業立地条件にもとづく土地利用区分などによる農業の合理的発展政策の実施を必要とするだろう。

 これらの政策は当面の内外情勢と工鉱業部面の経済諸政策との関連でおこなうことを必要とするし、またその方向は社会主義への移行の前提条件、基礎として実施されるにしても、それは民族独立、売国的独占資本の排除と、民主的改革の徹底を達成することを主な任務として遂行する革命に結合される。

 現在の農民がただちに社会主義的集団経営を要求しているという意見は客観的な根拠がないと思う。

(6)その他若干の問題について

 農民の独占資本との関係については、草案に反対してつぎの主張がおこなわれている。

 この主張は、農民は基本的にアメリカ帝国主義と同時に独占資本に対立しているという草案の立場が誤りであるとし、その理由としては、日本農民がまだ完全に資本主義化していないこと、農機具その他も総じて中小企業の製品であること、農産物の購買者も独占資本でないものが多いことなどをあげている。

 これらの事実については草案もけっして無視する立場をとってはいないし、間接または中間項をぬきにして農民闘争をすべて反独占という概念にしぼってしまうことの誤りにたいする指摘もきくべき点であると思う。

 ただそれにもかかわらず草案は価格、金融、租税その他主要な農政が独占資本本位におこなわれており、農民は直接、間接これによって搾取、収奪をうけていることの本質を規定したものである。戦術の分野ではこの主張が指摘した幾多の事実と矛盾は十分考慮される必要がある。

 さらに農産物価格引上げの闘争も、それだけで国家独占資本主義下の価格体系と価値法則をかえることができるとわれわれも考えていない。

 ただ価格闘争は広範な農民の共通した要求にもとづく闘争であって、諸他の要求闘争と同様に、わが党の正しい指導があるならば当面の農民闘争の革命的発展にとって重要な意義をもつことはいうまでもない。

七、革命の性格と革命にいたる過程上の問題について

 革命の性格規定が綱領論議の焦点となっており、国際情勢、日米関係、権力問題などについての論争もこの性格規定を中心にとりあげられているところに、こんどの論議の主たる特徴の一つがある。そのおもな論議は、「草案」の立場と当面する革命を社会主義革命と規定するいわゆる社会主義革命論とのあいだでおこなわれている。

 社会主義革命論にたつ主な見解には、つぎのものがある。

 (1)ブルジョア民主主義的諸変革ば基本的に達成されたのであるから、つぎの諸変革は社会主義的諸変革である。したがって社会主義への道がつぎの課題として日程にのぼさるべきである、という見解について

 第2次大戦後の国際情勢の新たな発展と外国帝国主義の支配という新しい要因と結びついて、日本はどのような具体的なコースをつうじて社会主義的変革にまですすむかというふうに問題が提起されているとき、絶対主義天皇制と寄生的土地所有制が一応解体されたからブルジョア民主主義革命は基本的に終了した、だからこんどは社会主義革命だということでは、戦後の情勢があたらしく鋭く提起している、高度の資本主義国でありながら、外国帝国主義の支配をうけているという国の革命の展望という複雑な問題をみないことになる。

 これまで、植民地、従属国での民族解放革命は、反封建の任務と結合していた。ところが、半封建的な生産関係は支配的でなくなった発達した資本主義国でも、第2次大戦中ナチスの支配下におかれ、また戦後のアメリカ帝国主義の支配下におかれた結果、新しい革命の課題が問題になってきた。レーニンはこうした問題の発生について予見していた。

 このような歴史的社会的条件にあっても、革命は生産力と生産関係の矛盾の社会的解決であり、生産関係が基本的に資本主義だから社会主義革命であるとの主張を、一面的にくりかえすだけで、革命は生産関係の変革の場合だけでなく、政治革命としてもあったし、ありうるということに目をとざすのは、レーニンが力説した革命と権力との関係を軽視している、帝国主義的経済主義に通じる誤りである。レーニンは社会主義革命にいたる途上の政治革命の独自の過渡的任務についてのべている。

 高度に発達した資本主義国であっても、その民族が外国帝国主義に支配され、事実上基本的に主権が確立していないときに、直接に社会主義革命をめざすことは歴史的任務を飛躍している。絶対主義か外国帝国主義かのいずれかをとわず、人民の自由が「前近代的」に(民族の独立は本来近代ブルジョア国家の課題である)うばいさられているときには、その基本的障害を人民の手で草命的にとりのぞくことは、社会主義革命をますますちかづけることである。

 同時に、わが国にたいするアメリカ占領初期におこなわれた「民主的改革」は、内外の民主勢力の力がともなったとはいえ、上からの改革であり、不徹底なものであり、人民が権力をにぎることは、これらの改革を最後まで遂行し新しい人民の民主主義を確立することである。この過渡期の革命の打倒目標は、外国帝国主義の支配およびそれに協力しているその国の売国的支配層の権力である。そして、わが国の条件では、この権力を打倒して人民の手に権力をにぎり、人民の民主主義的国家機構をつくり出すことは、社会主義的変革を実施するために必須な前提条件である。したがって、外国帝国主義が支配力をもつ重要企業および国内の売国的支配層の経済的基礎への打撃を意味する重要産業の独占企業の人民的統制や管理、その国有化への移行の措置は、社会主義への過渡的任務として提起されるのである。

 したがって、党章草案においては、民族解放と民主主義の徹底を主な任務とする革命の遂行を当面の革命課題とし、人民権力の確立を目標としている。

 広い歴史的見地に立てば、わが国の現段階を民族民主革命が基本的に遂行された段階とみることは誤っている。この誤りは、アメリカ帝国主義の侵略性の過小評価に基因している。当面する革命の基本的達成を通じて社会主義革命への継続的発展をたたかいとることが提起されている。そして、これらの過程を継続的任務として遂行する革命の全段階を人民民主主義形態の革命として遂行することを展望しているのである。

 これが、わが国の人民民主主義革命の意味するものである。このような展望は、わが国の現状の革命的打開と社会主義への道を、わが国の実情に即して、しかも原則的に提起するものである。

 (2)日本の国家権力を握っているものは日本の独占資本であり、したがって権力の打倒ー革命は独占資本の権力打倒すなわち社会主義革命である、とする見解について

 この見解は、日本の権力を握っているのは日本独占資本であり、日本は基本的に独立しているという前提自体が誤っており、この現状認識の誤りはすでにのべたのでここではくりかえさない。同じ基本的独立論であるが、独自の論拠に立つ次の見解をとりあげる。

 この見解は外国帝国主義の支配をある程度みとめながらも日本の国家機構において独占資本が指導的な役割を果たしているというところから基本的に主権を握っていると飛躍的に断定する。そして、戦後のアメリカ占領支配の時期でも日本の国家は独占資本が権力を握っており、外国帝国主義の支配は日本の国家権力と別個のものであるから、革命とは別の問題である、そしてこれは、国際問題として平和的に解決できるとして、占領中でも社会主義革命論をとるべきだったとする。

 これは、外国帝国主義の支配と支配されている国の支配階級の国家機構の関係を、機械的、形式的に切り離してしまい、古典的な植民地・従属国以外には、すなわち資本主義の発達した国でその民族の国家機構がある国では民族解放革命をみとめない立場である。そしてこのような国での外国帝国主義の支配の排除を、結局は主として平和運動の課題や戦術的課題に解消してしまうものである。

 これは基本的には、人民にたいする権力の実体を統一的にみないで、概念的形式的な国家論で帝国主義の支配にたいする必要な闘争を事実上いちじるしく軽視するものである。そして、これは、他民族を抑圧している外国帝国主義の侵略性、たとえば日本においてアメリカ帝国主義がいかに独自に国土を占有し、その軍事力を配置しているか(沖縄、小笠原、基地その他)、または法制上日本の国家権力に属している武装力を事実上把握しているか、数多くの網の目で事実上日本国家機構を制度的にも政治的にも外国帝国主義と売国的独占資本の利害にいかに従属させているか、その実休をみない、マルクス・レーニン主義の国家論の形式的抽象的概念的な適用にとどまっている。

 (3)平和、独立、民主主義、生活向上の要求は改良の要求であり、統一戦線政府のもとにおいて達成することができる。しかし、この要求では独占資本は打倒されず、社会主義的要求のみが独占資本を打倒することができるのであり、したがって当面する革命は社会主義革命である、とする見解について

 (イ)この見解は、まず整理されなければ正しく検討しがたい問題をふくんでいる。

 たしかにこれらの要求は関連をもっているが、それが最後的に解決される段階ということになると必ずしも一様ではない。たとえば平和の要求は日本が社会主義国となっても、帝国主義国の戦争政策がつづくかぎり、日本人民の要求でなくてはならない。生活向上の要求も日常闘争の中心的課題の一つであるが、それだけで、「改良」だけで解決するということはできない。それの徹底的な解決は社会主義社会でのみ保障されるのである。

 したがって、たんにこれらの要求の性質を切り離して論じることは意味がない。問題は、わが国の現状からみて、また社会発展の全法則からみて、何が当面する革命の課題として中心的任務として設定されなくてはならないかという基本的立場から出発することである。

 アメリカ帝国主義の支配と、それに従属している売国的独占資本の支配は、わが国で平和と独立、民主主義と生活を破壊し、あるいはおびやかしている。したがって、これらの要求を内容とする民族民主統一戦線の結集と前進、とくに独立と民主主義と生活擁護の闘争の徹底化は、たんに独占資本の政府と正面から衝突するだけでなく米日支配層の支配そのものと基本的に対立する。

 この際、独立が権力の人民への移行に関連をもつかどうかという論議は、結局日米関係を中心とする現状認識の問題に帰着することですでにくりかえされており、また、独立は革命なしにも達成できるかどうかというように、孤立的に、また抽象的に問題をたてること自体が妥当でなく、またあまり意味をもたないことはすでに1月4日発表の報告でもふれてきたので省路する。また革命なしに不徹底な改良主義的独立の「可能性」がありうることもこれまでふれられてきているが、問題は、独立をふくむ民主的諸課題を徹底的に解決するためには、アメリカ帝国主義の権力を駆逐し、日本独占資本の権力を打倒して人民の手に権力をにぎらなければ、最後的に保障されない状態にわが国がおかれているということである。

 したがって、革命党としては、独立・民主の徹底的解決のためにアメリカ帝国主義と売国的独占資本の支配の排除を目標とする人民権力の確立をめざすのである。

 「アメリカの独占体が自分に従属させようとしている資本主義諸国や、アメリカの経済的、軍事的膨張政策にくるしめられている国ぐにでは、平和を守り、民族独立と民主主義的自由を守り、勤労者の生活条件を改善し、急進的な農地改革を実施し、民族の利益を裏切っている独占体の専制を倒すために、労働者階級とその革命政党の指導のもとに、もっとも広範な住民各層を統一する客観的な条件がうまれつつある。」(モスクワ宣言)

 この綱領的展望の基本は、党章草案の民族民主統一戦線の内容および人民解放の展望と根本的に一致しているものとわれわれは考えている。すなわち、平和、独立、民主主義、生活改善、根本的な土地改革のための闘争が、これらの、民族解放をふくむ主として民主的課題のための闘争の前進が、民族の利益を裏切る独占資本の支配の打倒と結びつきうることは、わが党章草案の見地だけでなく、国際共産主義運動の総括的展望において確認されていることである。

 (ロ)この見解は、第一に平和・独立・民主主義・生活向上の要求がアメリカ帝国主義と売国的独占資本の反民族的、反人民的本質と決定的に対立しており、同時にそれ自体、社会主義革命への道を準備する過渡的要求をふくんでいるという点をみていない。第二に統一戦線政府樹立が権力の全面的掌握でないにしても国家機構の頭部――その司令部の奪取であり、すでに人民の全面的権力掌握の決定的な第一歩であってアメリカ帝国主義と売国的独占資本にとってとうてい耐えられないことである、という点をみのがしている。したがって第三に、アメリカ帝国主義と売国的独占資本の本質とその根本的要求にまったく違反する要求をつらぬくために国家機構の司令部を奪取された事態にたいして、またすでにそうなるまえに、可能なかぎり反撃をおこなうだろうという可能性を無視している。

 この平和・独立・民主主義・生活向上のための統一戦線の政府樹立にかんする安易な見解がいかに正しくないかは、レバノン、インドネシア、フランス等の最近の実例が証明している。

 このような安易な見解がでてくる基礎には、つぎのような考えが前提になっている。たとえば、アメリカ帝国主義は、統一戦線政府の条約破棄の一方的宣言、占領軍撤退要求にたいし大した摩擦もなく後退するであろうとか、国際的民主的勢力の圧力によって後退するだろう、などという考えである。

 これは、サンフランシスコ条約や安保条約が一方的破棄による無効を認めておらず、たんに統一戦線政府の宣言だけでは問題が解決しないという重大なことを見おとしている。

 また日本独占資本は人民の民主的要求にもとづく合法的政府樹立にたいして大した摩擦もなく結局みとめざるをえないだろう、またこれらとはまったく別な言い方として、現在では資本主義から社会主義への移行は、社会的進歩の日常的要求を一歩一歩かちとることをつみ重ねてゆくことによって到達され、プロレタリアートの権力掌握はその結果として自然におこる等々の見解がある。この主張は、即時社会主義革命という左翼的な革命論を主張しながら、事実上社会主義革命への道を、進化や改良のつみかさねにおくという右翼的な誤り、修正主義である。

 (ハ)平和、独立、民主主義、生活向上の要求は改良の要求だから、独占資本は打倒できないから、社会主義の要求をとりあげなければならないという見解の内容をみると、その社会主義の内容というものは、重要産業の国有化の要求である。それはいうまでもなく党章草案が「独占資本にたいする人民的統制と、それを通じての金融機関と重要産業の独占企業の国有化への移行をめざす」としているものと同様の国有化である。

 この要求は、統一戦線政府ないし人民権力がアメリカ帝国主義と売国的独占資本の支配の弱化や打倒のためにおこなう措置である。とくにこの革命段階では、民族の利益を裏切る独占資本への攻撃という性格をもっている。人民権力のもとでのこのような売国的独占資本の人民的統制と国有化への移行をめざす措置は、社会主義への過渡的要素であるが、それがどの程度すすみうるかは、力関係にかかわるところが多いだろう。

 国有化一般は必ずしもただちに社会主義を意味しない。ブルジョア独裁下の国有化、あるいは独占資本のイニシァチブのもとにおける国有化は、資本主義的性格のものであり、独占資本を強めるにすぎない。国有化を社会主義的性格のものにするかどうかは、プロレタリアートの独裁による権力の確立を前提とする。いかにして社会主義にすすむかという場合に重要なことは、農業や中小企業の資本主義的生産関係はそのままにしながら、まずアメリカ帝国主義の支配と売国的独占資本に反対するこれらの階層を労働者階級の側にひきつけ、かれらの反米、反独占のエネルギーを民族民主統一戦線に結集し、アメリカ帝国主義の駆逐、売国的独占資本の権力の打倒にむけ、この闘争とこの要求の達成をつうじ、人民連合独裁を樹立することである。そして、その連合独裁のなかにおける労働者階級の指導性を確立し強めることによって、プロレタリア独裁に発展させることである。こうしてはじめて国有企業をテコとして、農業および中小企業の全国的な社会主義改造にすすむことができる。このような段階をおって社会主義へすすむ道がもっとも確実である。この場合、重要産業の独占企業の国有化は社会主義への過渡的契機をふくんでいるが、人民連合独裁がはっきりプロレタリア独裁に発展転化するに応じて社会主義的部分となることができるのである。

 このような道を通って社会主義へすすむことがもっともわが国の発展の法則にかなっている。独占資本の支配の打倒と独占企業の国有化即プロレタリア独裁と社会主義とする主張は、この「過渡」の問題を正しく理解しない理論である。

 (4)アメリカ帝国主義を駆逐し、日本の独占資本主義の権力を打倒して樹立される権力は、形態は人民連合独裁であっても、実質上プロレタリア独裁の機能をはたす権力、すなわち本質的にはプロレタリア独裁である。したがってこの革命は社会主義革命である、とする見解について

 この見解は、社会主義への過渡的要求をふくむ平和・独立・民主・生活向上の闘争を徹底的に遂行する立場を支持しながら、その場合に樹立される権力の性格から社会主義革命の性格確定がもっとも妥当であるとし、反帝反独占の人民民主主義革命は労働者階級のヘゲモニーの確立なしには困難であり、あるいはほとんど不可能だから、このプロレタリアートのヘゲモニーが確立された人民連合独裁は実質的にプロレタリア独裁である、というものである。

 もちろん人民連合独裁とプロレタリア独裁のあいだに万里の長城をきずくことは正しくない。前者は後者への過渡的な一時的な権力であり、それ自体が後者のほう芽形態である。それは当然民族民主統一戦線内のプロレタリアートの指導性の強化、民族的民主的諸課題の達成の度合に応じて急速にプロレタリア独裁の機能を果たす人民民主主義権力に発展する性質のものである。だからといってこの飛躍・転化を無視してはじめからプロレタリア独裁と断定し、あるいは期待して問題をたてることは正当な根拠を欠いている。またそれは実践的には民族民主統一戦線に性急に社会主義の任務の実現をもちこむセクト主義に導く危険がある。

 重要なことは、まず第一に、民族的民主的諸課題と社会主義への過渡的任務の達成をつうじて社会主義的諸変革に前進するという基本的コースを見失わないこと

 第二に、プロレタリアートの指導性がどの程度であるといなとにかかわらず、人民に権力を掌握する条件が日程にのぼった場合に、無条件に反民族的反人民的勢力の手から人民の手に権力を奪取する歴史的行動にうつることにちゅうちょしないこと

 第三に、民主的課題の実現から社会主義建設にいたるすべてのコースは、一貫して労働者階級の指導する人民連合独裁の樹立と、その強化をつうじておこなわれること

 第四に、社会主義的諸変革への移行の段階はプロレタリアートの独裁が前提されること、すなわちこの人民連合独裁のなかで党と労働者階級の確固不動の指導力がプロレタリア独裁と言いうるまで確立され、また確立されていることを見きわめること

 第五に、これら一連の事業をより容易に、より急速に実現しうるかどうかは、党と労働者階級の献身と指導力がどう発揮されるかという実践いかんにかかっていること

を確認することである。

 (5)予想をもとに革命の性格とコースをきめようとする代表的見解は、つぎのようなものである。

 それは、国際的、国内的要因が将来どう発展するかについて、1、国際的、国内的要因がともに有利に発展する場合、2、国際的要因の不利にたいし国内的要因の有利な発展の場合、3、国際的要因の有利にたいし国内的要因の不利な場合、4、国際国内要因のともに不利な場合の四つの展望をあげ、そのいずれの可能性がもっとも実現可能であるかという「展望」を綱領決定の基本点にしようとしている。そしてこの見解は、第一の展望、すなわち国際的、国内的要因がともに有利に発展する展望のもとに、このような情勢をうむように「目的意識的に追求」すべきであり、この見地にたって実践の方針をたてるべきだ、としている。

 レーニンが教えているとおり、「綱領は絶対にあらそえないもの、実際に確定しているものをふくまなくてはならない」(レーニン、党綱領にかんする報告)。「マルクス主義者は情勢を評価するにあたっては可能なものからではなくて現実に存在するものから出発しなければならない」(レーニン、戦術にかんする手紙)。現実から出発レて打倒すべき目標や獲得すべき目標を設定しなければならない。可能を考慮しつつも、またいろいろな可能性にもかかわらず、確実にかちとるべき目標と過程を現実の状態からみちびき出さなければならない。これが綱領を作成する場合の基本的態度である。

 この見解は、国際、国内要因の有利な発展に努力すべきだと主張している。これは当然のことである。しかしこの見解がこの点をとくに強調するのは、主として平和運動で、国際情勢の有利な発展があれば、革命なしに民族独立の達成が可能であり、したがって民族独立を革命の課題にすることは不必要であると考えるからである。主として平和運動で帝国主義の駆逐が可能だと考えているのである。平和運動は帝国主義の侵略的政策の後退にたしかに重要な意義をもつことは明らかである。だが帝国主義の駆逐を可能にするのは、帝国主義の戦争政策に反対する平和のエネルギーばかりでなく、帝国主義の民族抑圧政策に反対する独立と民主主義のエネルギーが結集されなければならぬことが忘れられている。

八、人民民主主義について

 右の権力問題、人民連合独裁の内容と関連して、人民民主主義そのものについてつぎのような見解がある。

 (イ)ブルジョア民主主義革命とプロレタリア社会主義革命以外の第三の革命がありえないという理由で人民民主主義に反対する見解。

 (ロ)人民民主主義は第2次大戦後の東欧の革命および国家権力の規定に関して用いられた概念で、当面するつぎの革命の規定としては不適当だという見解。

 以上でもふれたとおり、われわれが人民民主主義という場合、それがプロレタリアート独裁への過渡の人民連合独裁およびプロレタリアート独裁の国家形態をさしていることは、言うまでもない。たんに過渡的権力の形態だけをさすものではない。東欧諸国や中国の国家は、今日ではすでにプロレタリアート独裁の国家であり、社会主義社会の完成をめざしているが、しかもなお人民共和国(または人民民主主義国家)とよんでいるのである。したがって、プロレタリア民主主義でもブルジョア民主主義でもない第三の民主主義だというのではなくて、民族独立をふくむ民主主義の課題の徹底的な遂行(民族民主革命と人民連合独裁の樹立)をつうじてプロレタリア民主主義(プロレタリアート独裁)にすすむ全内容に適合した形態である。

 第2次大戦後にうまれた人民民主主義の特徴は、それがソビエト民主主義と区別される国家権力の形態だという点にある。人民民主主義国家は、1917年の革命をつうじてつくられたソビエト国家が労働者、農民、兵士ソビエトを基礎にしていたのと比較して、労働者階級と共産党が指導権をにぎる民族民主統一戦線を基礎にし、普通選挙法にもとづく議会制度を徹底的に改革し、それを権力を掌握した人民のための機関としている国家形態である。

 「……共産党は、いまでは中華人民共和国や他のすべての人民共和国やすべての人民民主主義国の信頼するにたる経験をもっている。周知のように、ロシアでは、国内ブルジョアジーと国際反動勢力によってそそのかされた激しいサボタージュと内戦によって、それらの措置をよぎなくされたが、しかし中華人民共和国や他の人民民主主義国では、ロシアとはちがって、工業と商業における小中財産の国有化も土地の国有化も実施されなかった。さらにまた一連の国では、普通選挙法が維持され、非プロレタリア民主党が存在し、労働者階級の統制のもとにブルジョア諸層をも政治生活に参加させながら、社会主義への移行が実現されているのである。」(「コンムニスト」誌1957年17号無署名論文「共産党・労働者党代表者会議の成果について」)

 このような形態が可能になったのは、社会主義に有利に帝国主義に不利に国際情勢が根本的変化をとげたからであり、労働者階級と共産党を中心に民主勢力の広い統一をかちとる条件がうまれているからである。

 「国際舞台で社会主義に有利な深い歴史的な変化がおこったことと関連して、諸国の資本主義から社会主義への移行に新しい見とおしがひらけている……。社会主義の原則にもとづく社会改造のソビエト形態とならんで、現在では人民民主主義形態がある。」(ソ連邦共産党第20回大会決議)

 そして人民民主主義という革命権力の形態が十分に歴史の試練にたえうる有効なものだということは、この10年の歴史によって証明された。この形態は「10年のあいだのあらゆる試練にたえその正しさを十分に証明した。また人民民主主義諸国のなかでも、それぞれの国の条件におうじてさまざまの特色や差異が少なくない。革命の勝利まで、きわめておくれた半封建的・半植民地的な経済をもっていた中華人民共和国は、社会主義建設の形態に数多くの独特なものをもたらしている。」(同右)

 このようにして、人民民主主義は、それぞれの国の具体的歴史的条件によっていろいろな差異と特殊性を生んでいるにもかかわらず、今日の国際情勢のもとにおける革命権力の一つの普遍的な形態である。今日この試練ずみの一つの普遍的な国家形態を生かそうとすることは時代おくれでない。反対に、国際共産主義運動の偉大な普遍的達成の一つへの無責任な嘲笑こそ誤っている。草案は、この形態を日本の実践に生かすことができるし、また生かすべきであるという立場にたっている。

 草案の人民民主主義(国家)の具体的内容は、日本の場合は行動綱領のなかに規定されているように、君主制の廃止と徹底した普通選挙法にもとづく一院制国会を最高機関としてこれを中心に構成される。人民民主主義といったからといって、すべての点で東欧と同じものになることを意味するものではない。東欧諸国の場合にもそれぞれの特殊性におうじているように日本の場合にも日本の特殊性におうじて具体的特色をもつことはいうまでもない。その内容は今後の実践の発展によってゆたかにされるだろう、

九、革命の平和的移行について

 革命の平和的移行の可能性を拡大しそれを絶対化する主張は、最近では少なくなっている。「綱領問題について」が「われわれは反動勢力が日本人民の多数の意思にさからって無益な流血的な弾圧の道にでないように、人民の力を強めるべきであるが、同時に最後的には反革命勢力の出方によって決定される性質の問題であるということもつねに忘れるべきではない」とのべているのにたいして、「敵の出方」によるというような態度はまちがっており、無定見な日和見主義であるというような意見も、今年にはいってからは、正確にいえばモスクワ宣言がでてからはあまりないが、草案発表直後にはかなりあった。その主な論拠はつぎのとおりである。

 (イ)国際情勢の根本的変化から、アメリカ帝国主義の軍事的干渉は困難になりつつある。武力干渉の挙にでても国際的民主陣営の圧力とその支援によってアメリカ帝国主義の武力干渉を平和的、民主的方法によって排除することが可能である。

 (ロ)合法的、民主的に成立した統一戦線政府自体が、平和的移行の主体的保障となる。この政府のもとに適法的に独立の闘争がおこなわれれば、アメリカ帝国主義もこれをこばむことはできない。

 (ハ)平和的移行の可能性を現実性に転化できるかいなかは、党の方針と実践いかんであり、敵の暴力を防止しえない責任の一半は党が負わねばならぬ。「敵の出方による」という 一般原則だけでは、日和見主義であり、当面の革命についてはどの方法によるかをきめるべきである。

 国際的な力関係における社会主義体制の強化と世界的な平和勢力の増大、民族解放運動の前進は、社会主義と人民民主主義の勝利にとって、有利な条件となっていることは明白である。

 われわれが「綱領問題について」のなかで革命の平和的移行の可能性の問題を提起した条件に、これはもちろん重要な関係をもっている。しかしそれは、可能性を現実性に変えることを保障している条件ではない。平和的移行のための必要な最重要の主体的条件はなにか。マルクス・レーニン主義の党が、労働者階級を統一し、労農同盟を中心とした適切な人民の政治的協力を基礎に、わが国では強大な民族民主統一戦線を基礎に人民の多数を結集しうるかどうか、敵と妥協する日和見主義分子を断固としてしりぞけることができるかどうか、アメリカ帝国主義者と売国的独占資本を政治的に包囲することに成功できるかどうか、反民族的反人民的勢力をうちやぶり、わが党と労働者階級を中心とした民族民主勢力が国会で安定した多数をしめ、議会を人民の支配の道具にかえることができるかどうか、こうした力に依拠して侵略者アメリカ帝国主義を窮地におとしいれてしまうかどうか、にかかっている。わが党を先頭とするこのような人民の多数の結集と組織化こそ、平和的移行の可能性を拡大する条件をつくり出すのである。

 われわれは、このような可能性を実現することは労働者階級と人民、民族の利益に完全に合致することを信じ、このために努力する。

 ところが問題は、このような条件をわれわれがつくりあげても、それは平和的移行の可能性を実現する無条件の保障とはならない。つまり平和的移行は、必然的なものとはならないということである。

 「搾取階級が人民にたいして暴力にうったえてくるばあいには、別の可能性、すなわち社会主義への非平和的移行の可能性を考えにいれなければならない。レーニン主義が教えているように、また歴史の経験が証明しているように、支配階級はみずからすすんで権力をゆずりわたすものではない。このような条件のもとでは、階級闘争の激しさの程度とその形態とは、プロレタリアートにかかっているのではなくて、むしろ人民の圧倒的多数の意思にたいする反動勢力の抵抗力、社会主義のための闘争のあれこれの段階で反動勢力が暴力をつかうかどうかにかかるのである。それぞれの国で社会主義に移行するどちらの方法が現実に可能であるかは、具体的な歴史的条件によってきまる。」(モスクワ宣言)

 われわれの展望する革命にあっても、アメリカ帝国主義者とわが国の売国的独占資本がこのような場合の例外であると推論するなんらの根拠をわれわれはもっていない。

 国際情勢の有利さは、たしかにわが国の解放闘争にとって有益な諸条件となるが、それだから米日支配層が革命的情勢において紳士的にふるまってくるだろうという一方的な断定を与えるものではない。

 このことは、すでにみてきたように、情勢が不利であっても帝国主義者と反動勢力はけっしてみずからすすんで権力をゆずらないだけでなく、可能なかぎり権力にしがみつくために、可能なかぎりの策動をおこなうものであるからだ。かれらの立場が悪化すれば、その不安をのりきろうとして、反動勢力が無謀な攻撃にでる可能性は、歴史に無数の実例がある。これは、われわれの目の前の内外情勢にもその例が少なくない。

 したがって、国際情勢の有利ということで革命の平和的移行の保障とすることができないだけでなく、こちらが平和的民主的にたたかっていけば、かならず敵の蛮行を阻止できるという保障もないことは、みやすい道理である。

 本質的に敵の侵略性と反動性と陰謀性に属し、かつ偶発的、突発的事件をきっかけとしておこりうる敵の蛮行をかならず未然に防止しうるという保障もない。

 ところが、一部の見解は、敵は必ず暴力行使の出方をするにきまっているが、しかもなおそれをくいとめる条件をつくることができる。暴力的闘争の展開したときの主要な責任は敵にある。くいとめることができなかった場合には、副次的だが、直接の責任を党が負わねばならぬこともありうる、という趣旨を強調している。

 これらの見地は、要するに、敵がどうでようとも、味方は、それをくいとめることができるということてあり、くいとめられなかったときの責任の一部は、党も負わねばならぬどいうのである。つまりは、敵の出方にかかる問題、敵の暴力支配の本質に属する責任の一部が党にかかってくるような説になっているのである。これは事実上、平和的移行を必然視する見地にほかならない。

 わが国の統一戦線政府が合法的民主政府として成立することが、平和的移行を有利にする大きな条件であることは明白である。この可能性をつくり出すために、われわれは大いに努力しなければならないことも明白である。ところが、この政府が適法的な独立闘争をやれば、アメリカ帝国主義者は今日の国際情勢では、こばむことができず、いすわることもできないと一方的に断定することは正しくない。

 諸事情によってかれらが、非平和的にふるまうことが困難である可能性があるし、われわれもその可能性を拡大するために努力するが、可能性の一面だけの予想にとどまることはやはり根拠がないし、正しくもない。むしろこの場合、二つの可能性を考慮しておくことが、今日からわれわれが人民の多数を結集していっそう強固な政治力をつくりあげなくてはならないという決意、平和的移行のための条件をも拡大しうる闘争を強めることになるのである。

 なぜなら、第一、そもそも統一戦線政府が平和的に樹立されるという前提そのものが必ずしも絶対的なものではない。統一戦線政府ができるのを、そのような政治的危機に際しては、敵が凶暴な手段にうったえることが予想される。アメリカ帝国主義は、インドネシアその他においても明白なように反革命内乱の挑発の希望者である。

 第二、人民の統一戦線政府を樹立した場合、反革命内乱者を反徒とよべることは、統一戦線政府にとって政治的にも法的にも有利だが、それでも、人民の権力の獲得を前にしてそのような「非平和的移行」という事態そのものを否定できない。

 第三、とくにアメリカ軍は安全保障条約において一定の条件下での干渉の法的根拠をもっていること、売国的諸条約は一方的に通告で無効になるように規定されていず、廃棄通告をアメリカ帝国主義がそのまま受諾しなければならない法的保証もない。

 したがって、アメリカ帝国主義者が廃棄通告を適法的にこばむことも、またいすわることもできないと断定してしまう根拠もない。これらの場合も平和的移行の可能性を唯一の道として事実上必然視することは正しくない。革命の移行が平和的となるか、非平和的となるかは最後的には各国の歴史的具体的条件――反民族的反人民的勢力の出方いかんにかかるという二面性を考慮することは、わが国の革命を展望する場合にも必要である。

 以上で明らかなように、マルクス・レーニン主義党としては、革命への移行が平和的な手段でおこなわれるように努力するが、それが平和的となるか非平和的となるかは結局敵の出方によるということは、国際共産主義運動の創造的成果としてマルクス・レーニン主義の革命論の重要原則の一つとなっている。

 しかるに敵の出方をうんぬんすることは党中央の日和見主義とか、無定見であるとか攻撃し、当面の革命ではどの方法かをきめるのがマルクス・レーニン主義の精神であるとする見解があるが、これはまったくの誤りである。それは事実上このような二つの可能性の問題を真剣に考えず、平和的移行という一つの可能性だけしかみない見地に通じている日和見主義、修正主義にほかならない。

 「敵の出方」にかかることを正しくみることは反動勢力の本質をつねにわれわれが誤認しないと同時に、それが本質的に反動側の歴史的責任にかかる点を明白にしているものである。

 同時に、出たとこ勝負の無準備でなく、敵のあらゆる攻撃にたいしても不意打ちをくらわない警戒心の必要を不断に考慮せよという積極的な教訓にみちびく。

 そして、それだからこそ、いっそう党と人民の陣列を強め、敵の抵抗を困難にする政治的包囲を完成するために奮闘しなければならない。それは、たんにつねに不意打ちをくらわぬように不断の警戒心で党と人民を武装し、守るというだけでなく、平和的移行の条件をいっそう広げる努力にも通じる。

 反対に、最後的には「敵の出方」にかかることに反対する傾向こそ、事実上党と人民を安易な一面的な予想だけでなく、政治的組織的武装解除にみちびくものである。

 闘争と団結の力によって平和的移行の可能性を拡大し、さらに成功するための努力を強調すると同時に、どのような「敵の出方」にたいしても対処しうるように油断しないことが革命党として正しい態度である。

 以上、「党章草案」にたいする主要な反対意見を検討し、われわれの見解をのべた。

 この論争の集中的な重点となっているところは、以上でわかるように、わが党が1950年以来高くかかげてたたかってきたアメリカ帝国主義の支配の打倒の旗印を、わが国の当面する革命の戦略課題からはずすか否かの原則的問題である。党内には「党章草案」に基本的な欠陥があるために、さまざまな異論が出たのだとする意見もあり、若干の字句の修正によって全党の意思の統一がえられるかのようにいう意見もあるが、このような原則的問題を折衷によって解決することはできない。この点において、「党章草案」は、基本的には正しく問題を提起していると考える。

 この原則的立場にたってこそ、全党的な討議のなかから提起されたさまざまな積極的意見をできるだけ吸収し、「党章草案」を内容的により豊富な、より正しいものとすることができるのである。

 今回の綱領問題討議は、わが党の歴史上、未曽有の規模でおこなわれたが、これによって、全党の理論的エネルギーは高められ、大きな成果をえつつある。論争された諸点はたんに綱領の問題としてばかりでなく、党の当面の政治方針を確立するためにも、ぜひ明確にすべき点であることは、以上にのべた説明でも明らかであろう。

 アメリカ帝国主義にたいする闘争は、今日の世界プロレタリアートの共通の最重要課題である。

 「国際共産主義運動の任務、それぞれのマルクス・レーニン主義党の任務は、共通の敵である帝国主義にたいする闘争の展望を正しくみてとり、反動の陰謀を撃退するため、社会主義世界体制を強化し発展させるため、労働者階級の諸党のすべての勢力の統一と団結を強めることにある。」(『プラウダ』5月9日号、無署名論文)

 アメリカ帝国主義の支配のわが国からの排除は、国際プロレタリアートの共通の課題の重要な一部であるとともに、日本社会の合法則的な発展のために欠くことのできない重要課題である。

 戦後アメリカ帝国主義の支配の排除を革命の中心課題の一つ――いわゆる戦略目標として明確化してきたことは、苦難にみちたわが党の戦後の前進の重要な歴史的成果であった。

 どのような理由にせよ、この課題をあいまいにしたり、とり下げることがあれば、それは党を重大な誤りにみちびくことになると党中央委員会は考える。

 この党章草案の基本的見地について、歴史的な第7回党大会が、十分な検討と討論のうえ、正当な結論をみちびき出すことをのぞんでやまない。

(『前衛』臨時増刊号 日本共産党第7回大会特集)