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『さざ波通信』党員用討論欄 |
この欄は、現役の日本共産党員のための投稿欄です。党員として積極的な意見交換をお願いします。 |
自衛隊をめぐる共産党指導部の転換の意味・再論>前衛氏へ
当面存続論をめぐる論点 2)また、共産党は自衛隊の「当面存続」などを主張してもいない。「さざ波通信」のいう「力関係」の不利さによる「やむをえないもの」という理解も意味が不明である。現自民党政府下での、自衛隊問題については安保廃棄前の課題として、戦争法発動や海外派兵を許さないことなどを明記している。民主連合政権以降は、主体的に自衛隊問題に取り組む政治的な基盤ができるわけで、これ以降、共産党の自衛隊政策が「政権党」として現実的な政治課題になるわけである。「共産党は自衛隊の『当面存続』などを主張してもいない」というあなたの主張には、ちょっと驚きました。段階解消論をとるということは、最終的な三段階目までは、自衛隊を存続させるという立場以外の何ものでもありません。それとも、前衛氏の理解では、「段階解消論」とは実は「自衛隊の即時解散論」の別名なのだ、ということなのでしょうか?」 「『さざ波通信』のいう『力関係』の不利さによる『やむをえないもの』という理解も意味が不明である」という主張も「意味不明」です。われわれの主張のどこが「意味不明」なのでしょう。たとえ、政策的に「自衛隊の即時解散」ないし「自衛隊のできるだけ速やかな解散」論の立場であったとしても、そのような政策を掲げる政党が議会で少数派ならば、自衛隊は存続することになります。あるいは、そのような政党が政権に就いても、自衛隊の解散を求める法律が、議会内で否決されれば、やはり自衛隊は存続することになります。これが、「力関係」による「やむをえない存続」です。このような「存続」を否定する愚か者は誰もいないでしょう。 ちなみに、力関係の不利さからくるやむをえない「存続」論から、国際情勢の安定化を持ち出して、必要性にもとづく「存続」論に転換したという批判を最初にやったのは、共産党中央自身です。それは、80年代における社会党の政策に対して、当時の共産党が行なった批判です。もっとも、そのとき社会党は、自衛隊のみならず、安保条約についても同様の論理を採用していました。この点で、共産党と社会党は違います。しかしその違いは、共産党がより民族主義的であることによって説明されます。対米従属の軍事同盟はダメだが、普通のブルジョア軍隊なら、情状酌量の余地がある、というわけです。
憲法9条の独自の意味 3)「さざ波通信」の批判では、自衛隊解消論の第二段階である「安保廃棄後」の自衛隊の改革問題が全くネグレクトされているが、これは、自衛隊の解消問題とは全く関係のない問題と理解されているのであろうか。共産党が「必要にせまられた場合には、存在している自衛隊を国民の安全のために活用する。」とのべているのは、(昨年6月の朝日新聞、不破インタビューや、7中総から、大会決定へと内容が変遷しているが)、この民主連合政権下で改革が進められる「自衛隊」であるという「事実関係」を正確に踏まえた上で、これに対する批判を行うのが「スジ」であろう。共産党の主張では、対米従属性が払拭された「軍隊」ということになる(まあ、国民のための軍隊と言うのは無理があろうが)。以上の論点については、すでに、これまで論じてきたことで明らかだと思うので、先に進みましょう。次に前衛氏はこう述べています。 4)批判その2において、「さざ波通信」は、共産党の政策が自衛隊の半永久的存続論であるとするが、「憲法と自衛隊との矛盾を引き継ぎながら、それを憲法九条の完全実施の方向で解消することをめざすのが、民主連合政府に参加するわが党の立場である」としているのである。大会決定では、自衛隊の解消は21世紀の課題であるとされていた。これは、私が指摘したように、戦争の廃絶は階級闘争の廃絶とパラレルである(『共産党宣言』)という資本主義下における戦争一般の廃止問題を共産党が念頭においている(と思われる)から、こういう記述になっていたのである。前衛氏は、「憲法と自衛隊との矛盾を引き継ぎながら、それを憲法九条の完全実施の方向で解消することをめざすのが、民主連合政府に参加するわが党の立場である」という大会決定の文言を持ち出すことで、反論ができていると信じています。問題は、その「憲法九条の完全実施」を、どういう条件で行なうのかということです。80年代の社会党は、「国際情勢の安定化」を持ち出しました。そして、今回の共産党の大会決定もそうです。しかし、決定的に違うのは、その「安定化」なり「平和情勢の成熟」のメルクマールです。今回の大会およびその前後のマスコミ向けの説明において党中央は、「万万万が一」でも侵略の可能性がなくなってから、という条件を持ち出しました。「万万万が一」の可能性さえなくなるというのは、いったいどういうことでしょうか? この点については、われわれは、これまでの『さざ波通信』でさんざん説明しました。ここでは繰り返しません。いずれにせよ、それは事実上ありえない想定です。現実にありえない空想的条件を、自衛隊解消の条件にすること、これはまさに、自衛隊を実際には解消しないことを意味します。だからわれわれは、それを「自衛隊の半永久的存続論」だと言ったのです。 前衛氏は、「これは、私が指摘したように、戦争の廃絶は階級闘争の廃絶とパラレルである(『共産党宣言』)という資本主義下における戦争一般の廃止問題を共産党が念頭においている(と思われる)から、こういう記述になっていたのである」と言っています。これはどういうことでしょうか? 日本を含むすべての国で社会主義革命が起こり、全世界が共産主義になってから、憲法9条を完全実施するという意味でしょうか? もしそういう意味だとすれば、共産主義実現の暁には、憲法9条のない国でさえ軍隊がなくなるのだから、憲法9条の独自の意味など何もないことになるでしょう。そして、もしそうなら、共産党は、中立自衛をうたっていた時代から、そういう立場です。憲法9条の擁護への転換など、まったく言葉だけのものであるということになるでしょう。ただ違うのは、以前の「中立自衛」政策の時代には、自衛隊を解散した上で、民主的ないし人民的軍隊によって革新日本および社会主義日本を防衛するという立場だったのが、「改革された」自衛隊によって革新日本および社会主義日本を防衛するという立場に変わったという点だけです。これは、はたして前進でしょうか後退でしょうか? 明らかに後退であり、ブルジョア的祖国防衛主義への転落です。
再び国際情勢と自衛隊 5)この掲示板は、進歩的な人士が集まっていると思われるが、ここでも、自衛隊問題については、国際情勢や他国からの主権侵害などの可能性、また、様々な要因について議論されており、少なくとも、私が見る限りあらゆる情勢を超越して「即時無条件、自衛隊全面解散論」を主張する方はいなかった。コスタリカなどの常備軍廃止憲法と、その後の中立宣言なども、コスタリカなりの平和と戦争への認識、即ち、情勢分析が踏まえられているのである。ここでも前衛氏は、問題の本質をはずしています。問題の本質は、国際情勢と無関係に自衛隊の解散を要求すべきかどうかではなく、自衛隊の存在が国際情勢の平和化にとってプラスの貢献をしているのか、マイナスの貢献をしているのか、です。マイナスの貢献をしていると判断するのなら、国際情勢を平和的なものにするために、自衛隊の速やかな解消を実現すべきです。前衛氏の判断はどうなのですか? 自衛隊は国際情勢の平和的安定に寄与している、あるいは、「改革された」自衛隊なら、国際情勢の平和的安定化に寄与しうる、という立場なのでしょうか? 「世界平和の情勢とともに、『憲法九条の完全実施についての国民的合意が成熟』が自衛隊解消の条件になっている。情勢次第で、いつまでも自衛隊の存続を主張しているわけではない」という前衛氏の主張も、論理的に破綻しています。大会決定が持ち出している自衛隊解消の条件は、国際情勢の平和的成熟(しかも、万万万が一の侵略可能性もないほどの成熟!)と「国民世論の成熟」という二つです。つまり、一方が実現されても、もう一方が実現されないかぎり、自衛隊の解消には着手されないのです。ということはつまり、「情勢次第で、いつまでも自衛隊の存続を主張している」ということではありませんか? それとも、大会決定の立場は、どちらか一方の条件さえあれば自衛隊の解消に着手するという立場ですか? もしそうなら、いったいそのようなことがどこで言われているのですか? ぜひ引用してください。
不破インタビューで立場が変更されたのか さて、さざなみ通信について検討をしてきたが、実は私の「不満」は、「さざ波通信」がこの間の共産党の自衛隊政策の変遷について、関心を示していない点なのである。以上の主張については、すでに『さざ波通信』第18号で述べたとおりであり、ここで前衛氏がご丁寧に引用しているとおりです。つまり、これは「変更」なのではなく、「相手に応じて言い方を変えているにすぎない」のです。強調点をどこに置くのか、という違いにすぎません。相手が左翼である場合には、「自衛隊解消」への着手があたかも早い時期であるかのような印象を与える表現の方を選び、一般マスコミ向けには、「万万万が一の可能性もなくなってからですから」という表現を選ぶのです。 奇妙なのは、前衛氏が、このような瑣末な「違い」に敏感なのに、第21回党大会における国際情勢認識と第22回党大会決定における国際情勢認識との根本的な「違い」や、80年代の社会党の自衛隊政策と現在の共産党の自衛隊政策との本質的な「共通性」には、まったく無関心であることです。 このような瑣末な「違い」を針小棒大にして、「内容については、私の主張する方向に近づいた」などと言って「歓迎」しているかぎり、共産党指導部の右傾化はますます進行することでしょう。 ある政治党派が右傾化の道を進んでいるかぎり、その右傾化の度合いをできるだけ厳しく評価して警告を発することこそが、そのような右傾化を多少なりとも押しとどめる唯一の方策です。逆に、それをできるだけ好意的に解釈してやり、そのような好意的解釈を周囲に広めることで、党指導部の手を縛ることができるという考えほど、有害で幻想的なものはありません。そのような「マヌーバー」は、主観的意図がどうであれ、党指導部の右傾化に手を貸すものであると言わざるをえません。 |
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