日本共産党資料館

極左日和見主義者の中傷と挑発

(『赤旗』1967年4月29日)

評論員


一、自民党に呼応した、極左日和見主義分子の党綱領への攻撃

二、マルクス・レーニン主義か極左冒険主義か

三、国際共産主義運動の歴史的教訓

四、日本共産党綱領と国会の問題

五、マルクス・レーニン主義の国家論の歪曲

六、トロツキストと野合した反革命挑発分子


一、自民党に呼応した、極左日和見主義分子の党綱領への攻撃

(1)「暴力革命問題」についての自民党の謀略的な反共宣伝

 アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争の凶悪な拡大を背景に、ベトナム侵略戦争へのいっそう積極的な加担、小選挙区制と憲法改悪、日米軍事同盟の延長、強化など、日本の独立、平和、民主主義にたいする新たな重大な挑戦をくわだてている米日支配層と自民党・佐藤内閣は、日本共産党と民主勢力の弾圧、軍国主義的反動政治に道をひらこうとして、反共主義の攻撃をいよいよ強めてきている。この1月の衆議院選挙においても、自民党と佐藤内閣は、中国における「紅衛兵」問題などをも利用しながら、「暴力革命の共産党」「議会政治破壊の共産党」といった大規模な反共宣伝にのりだし、「反共体制の強化」のための協力を、わが党をのぞく他の野党によびかけたりしてきた。日本共産党を、人民にかくれてひそかに「武装蜂起」や「暴力革命」をたくらんでいる「おそろしい陰謀団体」として描き出す謀略的な反共宣伝は、米日支配層、自民党ともっとも徹底的に対決している日本共産党の前進をおさえ、対米従属下の軍国主義復活、強化の危険な道にいっそう深く日本人民をひきこむための反動勢力の基本政策になっている。

 しかし、自民党や米日反動勢力がどんなに反共宣伝をまきちらしたとしても、民主主義の問題や革命の方法の問題についてのわが党のほんとうの立場を、人民の目からかくしとおすことはできない。これらの問題についてのわが党の一貫した見解は、党の綱領や党大会決定などのなかで、すでに疑問の余地なく明らかにされ、天下に公表されているからである。

 たとえば、わが党の綱領は、国会にたいする日本共産党の態度について、つぎのようにのべている。

 「この闘争において党と労働者階級の指導する民族民主統一戦線勢力が積極的に国会の議席をしめ、国会外の大衆闘争と結びついてたたかうことは、重要である。国会で安定した過半数をしめることができるならば、国会を反動支配の道具から人民に奉仕する道具にかえ、革命の条件をさらに有利にすることができる」

 このように、党と統一戦線勢力が国会で絶対多数をしめ、その基礎のうえに、アメリカ帝国主義および日本独占資本とたたかって人民の利益を守る統一戦線政府を適法的に樹立し、国会外の大衆闘争の前進にささえられながら、独立、民主、平和、中立の日本への道を平和的にきりひらいてゆくことができるならば、それは、日本の労働者階級と人民にとって、もっとものぞましいことであり、反動勢力の暴力によって革命の平和的移行の道がとざされないかぎり、わが党は平和的移行の可能性の実現のために全力をあげて奮闘するものである。この点について、第7回党大会(1958年)での綱領問題についての中央委員会報告は、「われわれは、このような可能性を実現することは労働者階級と人民、民族の利益に完全に合致することを信じ、このために努力する」(宮本顕治『日本革命の展望』、312ページ)とのべ、また第8回党大会(1961年)における中央委員会の政治報告は、つぎのようにのべている。

 「わが党は、アメリカ帝国主義とこれに従属する日本独占資本にたいして人民の大多数を団結させ、それをよりどころにし、妥協的な日和見主義分子に断固たる反撃をくわえるならば、売国的反人民的勢力を敗退させ、国会で民主勢力を代表する過半数をかちとり、ブルジョアジーに奉仕する国会を勤労人民に奉仕する道具にかえ、国会外の大衆闘争を基礎として、反動勢力の抵抗を粉砕しながら、民主主義革命を遂行し、さらにすすんで社会主義革命を実現する可能性をつくりだすことができるという立場をとっている」(『前衛』第8回党大会特集1、56ページ)

 もちろん、わが党は、国会の多数を獲得して民族民主統一戦線を適法的に樹立し、民主主義革命を平和的手段でなしとげるという可能性を、民主主義革命に向かってすすむただ一つの道として絶対化するものではなく、革命の発展が別の形態、すなわち非平和的形態をとる可能性があることも十分考慮にいれている。それは、日本を支配しているアメリカ帝国主義と日本独占資本が自分たちの反民族的反人民的な支配が危機にさらされたとき、暴力をもって人民の多数の意思をふみにじるファッショ的暴挙にうったえてくる危険性が存在しているからである。すでに、小選挙区制を強行しファッショ的一党専制をうちたてようとする自民党の陰謀、さらに「治安行動草案」「三矢作戦」計画などで暴露された自衝隊による人民弾圧作戦や事実上のクーデター計画などは、米日支配層による暴力的挑戦の危険が、きわめて現実的なものであることをおしえている。反動勢力が、このような反動的、ファッショ的な陰謀をなかば公然と準備しているときに、わが党が、革命の平和的発展の可能性の拡大のために努力しつつも、同時に、暴力でこの道をとざそうとする米日反動勢力のファッショ的暴挙にたいする必要な警戒心をもつことは、日本人民の解放闘争に責任をもつマルクス・レーニン主義党として、まったく当然のことである。

 「情勢が不利であっても帝国主義者と反動勢力はけっしてみずからすすんで権力をゆずらないだけでなく、可能なかぎり権力にしがみつくために、可能なかぎりの策動をおこなうものである……。かれらの立場が悪化すれば、その不安をのりきろうとして、反動勢力が無謀な攻撃にでる可能性は、歴史に無数の実例がある。これは、われわれの目の前の内外情勢にもその例が少なくない。
 したがって、国際情勢の有利ということで革命の平和的移行の保障とすることができないだけでなく、こちらが平和的民主的にたたかっていけば、かならず敵の蛮行を阻止できるという保障もないことは、みやすい道理である。
 本質的に敵の侵略性と反動性と陰謀性に属し、かつ偶発的、突発的事件をきっかけとしておこりうる敵の蛮行をかならず未然に防止しうるという保障もない」
 「革命の移行が平和的となるか、非平和的となるかは最後的には各国の歴史的具体的条件――反民族的反人民的勢力の出方いかんにかかるという二面性を考慮することは、わが国の革命を展望する場合にも必要である」
 「闘争と団結の力によって平和的移行の可能性を拡大し、さらに成功するための努力を強調すると同時に、どのような『敵の出方』にたいしても対処しうるように油断しないことが革命党として正しい態度である。」(第7回党大会での綱領問題についての中央委員会の報告、宮本顕治『日本革命の展望』、313、315、316ページ)

 わが党が人民の多数の意思にたいする米日反動勢力の暴力的挑発の危険性を考慮にいれ、これにたいして必要な警戒心を保持しているというこの事実が、わが党を「暴力的」政党だとか「議会政治の破壊者」だといって非難する根拠となるものでないことは、あまりにも明白である。もし自民党が、わが党のこの態度をさして「暴力革命の日本共産党」などという非難をわが党にあびせているのだとすれば、それこそ泥棒が市民の戸じまりを非難するのと同じであって、まったく盗人たけだけしい言い分だといわなければならない。

(2)「左」から党綱領を攻撃する対外盲従反党分子

 今日、注目する必要があるのは、このような自民党の反共宣伝に呼応するかたちで、中国共産党の極左日和見主義、セクト主義分子や、これに教唆、扇動された西沢隆二、安斎庫治一派、「長周新聞」一派などの反党対外盲従分子による「左翼」をよそおったわが党の革命路線にたいする攻撃が、最近、とくに1月の総選挙以来、いちじるしくなってきたことである。

 たとえばこの1月、中国共産党の極左日和見主義分子の大国主義的干渉に迎合し、西沢隆二一派、「長周新聞」一派ら売党分子のあとにつづいて、党と革命の事業を裏切る反党活動を公然と開始した安斎庫治は、総選挙の投票日直前の1月27日、商業新聞にたいして、反党論文「綱領をつらぬくブルジョア議会にたいする修正主義路線に断固反対する」を発表し、さらにこの論文を、全国の党機関その他におくりつけた。この論文のなかで安斎は、わが党の綱領路線と選挙闘争を「ブルジョア議会主義」「正真正銘の背教と裏切りの理論」「フルシチョフ修正主義への盲従」「日本の革命運動への汚辱」などと口をきわめて非難し、わが党の指導者に「詐欺師、ペテン師」「裏切り者」などと口ぎたない悪罵をあびせた。

 また西沢隆二らは、その反党雑誌『毛沢東思想研究』に、1月号から、党綱領に公然と攻撃をくわえた「日本共産党第10回党大会における中央委員会報告について」(山田鉄九郎署名)という文章を連載してきていたが、3月号では、これにくわえて安斎の前記反党論文を掲載し、さらに巻頭には「修正主義者、宮本顕治の平和革命論を論破する」(木村十兵衛署名)と題する文章をかかげて、わが党綱領の革命路線にたいする「紅衛兵」ばりの攻撃を、いっせいに開始した。

 さらに、「長周新聞」一派も、昨年8月党破壊活動を公然と開始した当初は、「党綱領の革命的原則を守る」などといって党綱領への「忠誠」ぶりを欺まん的に強調していたが、最近では党綱領における「フルシチョフ修正主義路線」なるものにおおっぴらに攻撃のほこ先をむけはじめ(たとえば『革命戦士』第4号所載、立花隆「プロレタリア革命の根本原則――日本共産党綱領の“平和移行”に関連して」など)、1月の総選挙戦のなかでは、わが党の選挙闘争にたいしてあらゆる漫罵と中傷を集中した。

 また、わが党がすでに論文「『紅衛兵』のわが党にたいする下劣な攻撃について」(『赤旗』2月17日付)で徹底的な反論をくわえた「北京航空学院紅旗戦闘隊」の新聞による党攻撃や、日本むけ北京放送、新華社通信などの最近の論調にみられるように、中国共産党の極左日和見主義、大国主義分子なども、西沢、安斎一派や「長周新聞」一派などの反党反革命分子をおおっぴらに支持しながら、同じような非難を、わが党とわが党の綱領にもとづく革命路線にたいして公然とあびせかけてきている。

 たとえば「日本衆議院選挙醜態を演じて終わる」と題した2月2日の「新華社」電は、日本の選挙闘争をとりあげながら、つぎのように事実上わが党の綱領の路線にたいする公然たる攻撃をおこなった。

 「今回の選挙において、注目に値するものは、ソ連現代修正主義の新旧追随者が、ブルジョアジーの議会選挙制度を極力美化した点である。これらの議会亡者どもは、いたるところで、声をからして、『今日の選挙は日本の運命を決定するものだ』と演説をぶちまくった。かれらは、過去においてかかげた反米の看板は、とっくの昔にゴミ箱のなかになげすてたのである。かれら悪党は恥知らずにも、とっくの昔破産しているフルシチョフの修正主義の代物をもちだし、『国会における安定多数を獲得することによって、国会をして支配階級に奉仕するための道具を、人民に奉仕する道具にかえることができる』などと吹きまくった」

 この内容は、2月4日夜から「日本むけ北京放送」でもかさねて放送されている。

 まさに、反党対外盲従分子とこれを指揮し激励する中国共産党の極左日和見主義、大国主義分子は、たがいに呼応しあい、たがいにたすけあいながら、わが党の綱領にたいして「批判」と悪罵をあびせかけているのである。

 かれらは、わが党の革命路線を批判するために、多くの文章を書きつらねているが、けっきょくその「批判」なるものは、すべてつぎの一点につきる。すなわち日本共産党は、「暴力革命」、つまり下からの武装闘争による革命政府の樹立が、日本における革命のただ一つの道であることをみとめず、革命の平和的な発展の可能性、もっと具体的にいえば、党の統一戦線勢力が国会で多数をしめて、これを「人民に奉仕する道具」にかえ、その基礎のうえに統一戦線政府を適法的に樹立する道を、革命の発展のひとつの可能な展望としてみとめている、これこそ「暴力革命がプロレタリア革命の普遍的法則である」というマルクス・レーニン主義の原則にたいする裏切りであり、ブルジョア議会を美化して「議会による革命」をとなえた第2インタナショナルの修正主義路線への転落だ、というのである。

 反党対外盲従分子やこれを支持する中国共産党の極左日和見主義、大国主義分子が、このように、最近になって、わが党綱領の革命路線、とくにわが党の議会闘争や選挙闘争にたいして大々的な攻撃を開始した意図は、明白である。

 それは第一には、この非難が、とくに総選挙闘争や全国いっせい地方選挙など、議会と選挙の問題が米日反動勢力とわが党を先頭とする日本人民とのあいだの政治戦の大きな焦点となった時期をえらんでおこなわれていることにも見られるように、明らかに選挙闘争におけるわが党の躍進をはばみ、議会闘争否定の極左日和見主義的路線をもちこんで、民主勢力の撹乱と挑発をねらった、きわめて悪質な攻撃である。それは、「左」からの攻撃というよそおいをとってはいるが、実際には、日本共産党の進出をなによりもおそれ、あらゆる手段を反共攻撃と反共弾圧に集中している米日反動勢力と自民党に直接手をかす危険な挑発策謀であり、日本人民にたいする恥知らずな裏切り行為である。

 第二に、この攻撃は、昨年来、反帝国際統一戦線や国際友好運動の問題、わが党の自主独立の立場への非難など、さまざまな問題をとりあげておこなってきた反党対外盲従分子の党攻撃が、政治的にも理論的にも全面的な破たんにおちいり、低劣きわまるデマと中傷以外には、わが党を攻撃する手段をほとんどもたなくなった結果、わが党の「修正主義」なるものを攻撃する新たな口実を、党綱領の革命路線の「批判」という新たな分野に求め、それによって、党破壊活動の政治的、理論的破たんをとりつくろおうとしたものである。

 だが、西沢、安斎一派や「長周新聞」一派などの反党対外盲従分子が、いま、中国共産党の極左日和見主義、大国主義分子の指示と激励のもとに、鳴り物入りでもちだした党綱領の路線への「批判」なるものは、べつだん目新しいものではない。それは、わが党がくりかえし暴露してきた志田一派の挑発的な主張とまったく軌を一にしたものであり、わが党がすでに10年も前に克服した極左冒険主義の議論を、もう一度むしかえしてみせただけのものにすぎない。

 そして、反党対外盲従分子が、自分たちの党破壊活動を正当化しようとして、わが党の綱領の路線への「批判」をもちだしたことは、かれらの立場をすこしでも強めるどころか、逆に、かれらの一貫性のなさ、政治的、組織的な無節操ぶりを、もう一度天下にさらけだしただけである。いま、わが党綱領にたいして最大限の悪罵をなげつけている西沢隆二、安斎庫治にしても、福田、原田らの「長周新聞」一派にしても、第8回党大会で党綱領が採択されて以来、かれらが党破壊活動を開始するまで、党内でただの一度も綱領にたいする批判的意見を提出したことはなかった。とくに安斎などは、以前党に提出した「経歴報告書」に、「綱領にたいしては、7回大会前、その草案が発表されたときから一貫して支持してきた」とみずから書いているように、第7回党大会の以前からこの綱領とその路線を積極的に支持する態度を一貫して表明してきた。ところがかれらは、中国共産党の極左日和見主義、大国主義分子に迎合して党破壊活動を開始しはじめると、突然その態度を豹変させ、きのうまでみずから「日本におけるマルクス・レーニン主義の創造的適用」として積極的に支持してきた綱領を、突然「修正主義」の綱領として全面的に論難しはじめたのである。その場合、西沢、安斎ら反党対外盲従分子の変節の最大の動機、決定的な背景になっているのが、わが党の綱領の立場にたいする中国共産党指導部のある部分の態度の変化――すなわち、たとえば中国共産党主席毛沢東の名でおくられてきた第9回党大会へのメッセージでは、党綱領にもとづくわが党の政治路線を「マルクス・レーニン主義の普遍的真理を日本の具体的状況と創造的に結合」したものと評価していたものが、最近になって、その態度をかえ、わが党の基本路線にたいする批判的な言説をふりまきはじめたという状況の変化――であることは、かくれもない事実である。

 言うまでもなく、党の綱領は、「われわれの運動の性格、目的および任務についての基本的見解」を定式化した「結束した、単一の戦う党の旗印」(レーニン「わが党の綱領草案」全集4巻、245ページ)であって、綱領にたいしてどういう態度をとるかは、日本の共産主義者として真剣に日本人民の闘争を考えるものならば、絶対にゆるがせにすることのできないはずの問題である。ところが、反党対外盲従分子の綱領問題にたいする態度はどうか。中国共産党がわが党の綱領の立場を積極的に評価しているあいだは、安心して自分も大いに積極的に支持するが、中国共産党の指導部のある部分がわが党の綱領の立場にたいして「批判」しはじめると、あわててそのしっぽについて党綱領を「修正主義」だ、「ブルジョア議会主義」だといってののしりはじめる――これが、西沢、安斎一派、「長周新聞」一派の態度である。このような変節は、まさにかれらが、日本の革命運動にたいする責任についてひとかけらの自覚もなく、ひたすら中国共産党の一部勢力の主張への追従を、自分の思想と行動の基準とする対外盲従と事大主義の徒であることを、もっとも具体的に証明したものと言わなければならない。

 わが党は、数年にわたる全党的な討議をつうじて、1961年の第8回党大会で、綱領を採択したが、そのとき党内の主要な危険は、修正主義、右翼日和見主義の危険であった。当時、春日庄次郎、内藤知周一派などの反党修正主義者は、一部の右翼社会民主主義者とともに、アメリカ帝国主義との闘争を回避する「日本帝国主義自立」論、議会を利用した「平和革命」を日本における社会主義へのただ一つの道として絶対化する「平和革命必然論」、独占資本の国家権力の革命的打倒なしに社会主義へのなしくずしの移行を説く改良主義的「構造改革」論など、アメリカ帝国主義の圧力に降伏し日本独占資本との協調を期待する右翼日和見主義、修正主義、改良主義の立場から、わが党の革命路線にたいしてさまざまな攻撃をくわえてきた。とくに、革命の移行形態の問題については、かれらは、(1)国際情勢が根本的に変化したため、アメリカ帝国主義の軍事的干渉は困難になりつつあり、国際的民主陣営の圧力とその支援によって、アメリカ帝国主義の支配を民主的、平和的な方法で排除することができる、(2)統一戦線政府が合法的、民主的に成立すれば、アメリカ帝国主義もその要求に応じて日本から撤退せざるをえず、独立と民主主義の課題の平和的な達成を保障することができる、(3)革命の移行の形態が「敵の出方」によるなどというのは、無定見な日和見主義であり、党が正しく平和的な移行をめざしてたたかってゆけば、敵が暴力的な出方をしようとしても、これをくいとめることができる、など、いろいろな「論拠」をもちだして、「平和革命唯一論」を党におしつけようとした。

 わが党は、これにたいし、徹底的に反論をおこない、これらの議論が、すべて、アメリカ帝国主義の侵略性、日本独占資本の反動性に目をふさいだ日和見主義の議論であること、そして、わが党の綱領が、日本人民に解放の道をさししめすただ一つの科学的で正確な路線であることを全面的に明らかにしてきた。

 「かれ(春日)の見地は、アメリカ帝国主義の侵略的本質をみることができないだけでなく、事実上これに不当な善意な期待をかけることでかざりたてる結果になる。……ラオス、キューバの事態、沖縄の瀬長市長選挙への弾圧の教訓がしめすように、帝国主義者はけっしてやすやすとその侵略や干渉を中断するものではなく、権力獲得以前の民主政府の提案を『こばむことはできない』ときめてかかることは、帝国主義の侵略性への日和見主義的評価である」。春日らの平和移行必然論は、「口で反独占闘争を呼号しながらも、事実は独占資本の売国性、反動性、凶暴性を正視できず、これを一面的に修飾し美化する理論の役割を果たす。したがって、根源的には、この日和見主義は、国内的にはブルジョアジーの影響をうけ、対外的には帝国主義の圧力に降伏することである。そしてここから、民主的な統一戦線政府の樹立から社会主義革命にいたる道程のなかで、民主的な人民権力の樹立なくしてアメリカ帝国主義の駆逐が保障されたり、漸次的、合法的、民主的に、社会主義革命へのなしくずし的な移行が『唯一の道』として保障されているかのような、徹底的に社会民主主義的な革命論がうまれる。」(第8回党大会での中央委員会の綱領についての報告、『日本革命の展望』65~67ページ)

 かれらの右翼日和見主義、修正主義、改良主義の議論の誤りと、綱領にもとづくわが党の革命路線の正しさは、この6年間の内外情勢の発展、とくに日本人民の闘争の前進そのものによっても、証明されてきている。

 そしていま、自民党の反共攻撃に呼応して、反党対外盲従分子や中国共産党の極左日和見主義、教条主義分子が、こんどは「左からの批判」をよそおいつつ、わが党綱領とその革命路線にたいして攻撃を集中してきたのである。こうした状況のもとで、反党修正主義者や右翼社会民主主義者の右翼日和見主義、修正主義、改良主義の路線にたいする批判と闘争をひきつづき強化するとともに、あらたにあらわれてきた内外の極左日和見主義分子による綱領の革命路線への「左から」の攻撃を徹底的に粉砕することは、今日、わが党に課せられたきわめて重要な課題のひとつとなってきている。それは、反党対外盲従分子の党破壊活動、およびこれを教唆、扇動する中国共産党指導部のある部分の極左日和見主義分子の大国主義的干渉をうちやぶるうえでも、全党が革命の方法の問題や議会の問題などについて、わが党綱領の革命路線を理論的にいっそう深く身につけ、反動勢力の反共攻撃とたたかい、日本人民の闘争の前途をいっそうの確信をもってきりひらいてゆくうえでも、必要な任務となっているのである。

二、マルクス・レーニン主義か極左冒険主義か

 はじめに、わが党の綱領の路線を「修正主義」だ、「ブルジョア議会主義」だと攻撃する対外盲従分子や中国共産党の極左日和見主義、大国主義分子が、これにどのような「革命的な」方針を対置させているかをみておこう。結論からさきにいえば、かれらが、「マルクス・レーニン主義の革命的原則を堅持する」などと称してもちだしている方針は、マルクス・レーニン主義であるどころか、反対に、マルクス、エンゲルス、レーニンによって徹底的に論破され、粉砕された、無政府主義、ブランキ主義などの流れをくむ極左冒険主義の路線にほかならないのである。

(1)国会と選挙に背をむける無政府主義的な議会闘争否定論――レーニンのいわゆる「反議会主義」

 極左日和見主義者たちの「革命的方針」なるものの第一の特徽は、まず議会の評価の問題でマルクス・レーニン主義をよそおうために、言葉のうえでは一応「議会の革命的利用」などをうんぬんしはするものの、実際には、発達した資本主義国における議会闘争や選挙闘争の重要な意義についてなにひとつ理解できず、議会闘争や選挙闘争そのものをブルジョア的活動として蔑視する無政府主義的な議会闘争否定論の立場にたっていることである。レーニンは、議会闘争を軽視しこれに否定的態度をとるこのような見解を、「反議会主義」と特徴づけ、マルクス主義とは無縁な「左翼」小児病的見解の典型として、徹底的に批判した。

 この「反議会主義」は、1月の総選挙戦にさいして、反党対外盲従分子や中国共産党内のその支持者たちがわが党の選挙闘争にたいしてあびせた非難のうちに、きわだったかたちで露呈されている。

 たとえば『長周新聞』は、総選挙の期間中、毎号、わが党の選挙闘争にたいしてロぎたない漫罵をくわえつづけたが、それは要するに、わが党が、選挙闘争を米日反動勢力と日本人民のあいだの全国的な政治戦として重視し、自民党の悪政を打破し、人民のための民主政治に道をひらくために奮闘していること自体を、「『議会政治への信頼の回復』という反革命的任務をひきうけ」たもの(『長周新聞』1月18日付)として非難することを主眼としたものであった。

 「共産党修正主義一派は『黒い霧』ムードに便乗して、選挙で革命がやれるような幻想をふりまき『革新』めいた政策をならべて、またも人民をあざむくために狂奔している。『誰が出ても同じだ』という人民の選挙と議会にたいする意見は、何十年の経験による事実からひき出されたものである」。(『長周新聞』2月11日付社説)

 また、同紙1月18日付では、「記者座談会」のかたちで、人民大衆が議会に「まるっきり関心がなかった」戦前の帝国議会の当時がなつかしげに回想され、戦後、「アメリカ式のブルジョア民主主義の謳歌」で議会にたいしてつよい幻想をもたれるようになったことをなげきつつ、人民のあいだに議会や選挙にたいする政治的無関心をひろげることの「重要」性が強調されている。

 「C ……しかし、根底では人民は投票で情況が変わるなどとはぜんぜん思ってもいないし、誰が出ても同じだと考えている。これはブルジョア議会にたいする大衆の英智だと思う。これをわれわれが正しく組織し、発展させることが重要だ。
 A そうでないと人民自身が起ち上がってブルジョア権力を打倒し、プロレタリアの権力を作るということにはなりはしない」

 つまり、「長周新聞」一派によれば、大衆のあいだに「誰が出ても同じだ」という考え方をひろげ、広範な大衆が議会や選挙に関心をもたなくなるようにすることこそ、選挙戦をつうじて「革命」政党が追求すべきもっとも「革命的」な目標なのである。

 新華社通信や日本むけ北京放送も、「長周新聞」一派のこの主張に同調して、同じような議会闘争否定の論調をしきりにくりかえした。たとえば、総選挙の終盤にあたる1月26日夜、北京放送は、「日本の現代修正主義者」は、「衆議院選挙運動に陶酔し」、「数人の議員の当選のためにやっきになっている」などとのべた。また、すでにのべたように総選挙後の2月2日の新華社電や2月4日の北京放送は、衆議院選挙戦全体を「茶番劇」として嘲笑しながら、これに参加した現代修正主義の「議会亡者」たちを非難するなど、あからさまにそれとわかるかたちで、わが党の選挙闘争への非難をおこなった。これが、議会や選挙そのものをたんなるブルジョア的欺まんとみる「左翼」小児病的「反議会主義」(レーニン)の立場からの、わが党の選挙闘争への中傷であることは明白である。

 ブルジョア議会が、資本家階級の階級支配の道具だという理由で、選挙闘争や議会闘争を蔑視し議会や選挙に背をむけることを大衆によびかける内外の極左日和見主義分子、教条主義、セクト主義者たちのこの「反議会主義」は、マルクス・レーニン主義とはなんの共通点もない。それは、反対に、労働運動内部におけるマルクス主義の公然たる敵として、マルクス、エンゲルス、レーニンが精力的にたたかった無政府主義に固有のものである。

 マルクス、エンゲルスは、バクーニンらの無政府主義者が、ブルジョア国家のもとでの政治活動、とくに議会や選挙への参加を否定したことについて、それが一見「急進的」にみえながら、けっきょくは労働者を無力な「政治的無関心主義」におちこませてブルジョアジーの政治支配の永続化をたすける反動的な議論でしかないことを明らかにし、これを徹底的に批判した。

 「バクーニンにとっては、国家が基本的な害悪なのだから、共和制であれ、王制であれ、なんであれ国家の存在をささえるようなことは、なに一つしてはならないのである。だからあらゆる政治の無条件的回避だ。政治行動をしたり、とくに選挙に参加したりすれば、それは原則の裏切りになるのだ。……
 これらのことはすべて非常に急進的にきこえ、しかも簡明なので、5分間で暗記できるくらいだ。だからこのバクーニンの理論はイタリアとスペインで、わかい弁護士や医師やその他空論家のあいだですみやかに人気を博した。しかし労働者大衆は、自国の国事が同時に自分たちの問題でない、ということを納得しないだろう。彼らは本来政治的であって、政治を放棄せよというものを結局はみすててしまう。ことごとに政治の回避を労働者に説教することは、彼らを僧侶やブルジョア共和主義者の手においこむことだ」。(エンゲルスのクノーへの手紙、1872年1月、マルクス・エン・ゲルス選集12巻、477ページ)

 レーニンもまた、革命的大衆闘争を忘れて革命をもっぱら選挙闘争と議会闘争に解消した第2インタナショナルのブルジョア的議会主義を徹底的に批判すると同時に、議会のブルジョア的性格を理由に、議会闘争を放棄したり軽視したりする無政府主義の傾向にたいしても、するどい批判をくわえた。レーニンによれば、議会を革命的に利用する立場にたつか、それともそれを原則的に否定するかという問題は、革命的マルクス主義の見地と無政府主義の見地とをみわける主要な分岐点の一つをなすものなのである。

 「社会民主党(現在の共産党のこと――引用者注)は、議会主義(代議議会への参加)を、プロレタリアートを啓蒙し教育して自主的な階級政党に組織する一手段、労働者の解放をめざす政治闘争の一手段とみている。このマルクス主義的な見解は、社会民主党を、一方ではブルジョア民主主義派から、他方では無政府主義派から、決定的に区別するものである。ブルジョア自由主義者とブルジョア急進主義者は、議会制度を、国事一般を行なう『自然』で唯一つ正常な、唯一つ合法的な方法だとみて、階級闘争と現代議会制度の階級的性格とを否定する。……無政府主義者も、議会制度の歴史的に規定された意義を評価することができずに、このような闘争手段を総じて拒否している」。(レーニン「社会民主党と選挙協定」、全集11巻、276~277ページ)

 レーニンは、この見地から、第1次大戦後、ヨーロッパの共産主義者のあいだに、第2インタナショナルの議会的日和見主義にたいする機械的な反発と結びついて、ブルジョア議会への参加を拒否する「左翼」日和見主義の傾向が強まったとき、無政府主義的な「反議会主義」の危険なあらわれとして、これを克服するための全面的な思想闘争をおこなった。

 「議会的日和見主義に悪口を言うだけ、議会に参加することを否定するだけで、自分の『革命精神』を発揮することはあまりにもやさしいが、しかし、あまりにもやさしいからこそ、これは困難な任務や非常に困難な任務の解決にはならないのである。……革命の目的に反動的議会を利用するという困難な仕事を『飛びこえて』、このような困難を『回避』しようと試みることは、まったく児戯に類することである」。(レーニン「共産主義内の『左翼主義』小児病」、全集31巻、50~51ページ)
 「愛すべきボイコット主義者と反議会主義者よ、君たちは『おそろしく革命的』だと自任しているが、実際には君たちは、労働運動内のブルジョア的影響にたいする闘争の比較的小さな困難におじけてしまったのだ」。(同前、103~104ページ)

 これが、議会と選挙の問題にかんするマルクス・レーニン主義の一貫した原則的見地である。いったい、今日の日本の国会がブルジョア的性格をもっているという自明の事実をもちだして、数千万の人民が参加する選挙戦を「茶番劇」とよび、強力な共産党議員団の建設と得票の拡大をめざすわが党の闘争をわずかの議員の当選のために躍起になる「議会主義的クレチン病」と嘲笑し、人民のあいだに「誰が出ても同じだ」という政治的無関心主義がひろがることを歓迎し、国会や議会に背をむけて「革命的」行動にたちあがることを言葉のうえだけでよびかける反党対外盲従分子や中国共産党の極左日和見主義分子たちの主張が、マルクス・レーニン主義のこの原則的見地を「堅持した」ものだなどと、いえるだろうか。かれらの主張が、議会や選挙についてのマルクス・レーニン主義的見解とはなんの共通点もなく、マルクス、エンゲルス、レーニンによって粉砕された無政府主義者、「左翼」日和見主義者の「反議会主義」をそのまま今日再現したものにすぎないことは、これ以上論じるまでもなく明白であろう。

(2)「暴力革命唯一論」の誤り

 極左日和見主義者たちの「革命的」方針なるものの第二の特徴は、権力獲得の方法の問題で、「暴力革命はプロレタリア革命の普遍的法則である」などと称して、「暴力革命」、すなわち武装蜂起あるいは革命戦争による権力の奪取を革命のただ一つの方法として絶対化し、ただちに武装闘争によって権力を奪取する準備にとりかかることが、共産党の当面の中心任務だと主張していることである。

 「暴力革命は、プロレタリア革命の普遍的な法則であるから、まだ権力をとっていない共産党にとっては革命の客観的条件が存在している国では暴力革命を行なって権力を奪い取るべきであり、日本のように、まだその客観的条件が成熱していない国では、暴力革命の思想的、政治的、組織的準備を行なうべきである。これが権力をとっていない党の中心任務である」。(木村十兵衛「修正主義者、宮本顕治の平和革命論を論破する」、『毛沢東思想研究』3月号)

 ここで木村のいう「暴力革命」とは、いうまでもなく「武力による政治権力の奪取」、つまり、武装蜂起あるいは革命戦争によって政権を奪取することである。

 「長周新聞」一派も、『革命戦士』その他で同じことを強調しているが、「普遍的原理」と称して武装蜂起あるいは革命戦争を権力獲得の唯一の方法として押しだすこれらの主張は、志田一派が以前からふりまいてきた極左冒険主義の主張と、基本的にはまったく同じ立場にたったものである。

 「一切の議会主義的幻想を一掃し、労働者階級をプロレタリアート独裁の思想でしっかりと武装し、大衆闘争を徹底的に発展させることによってのみ、日本革命がなし得る……。とくに労働者のゼネストを背景にした広範な日本人民の武装蜂起によってのみ達成できる」。(「決起1周年に際し日本共産党(代々木派)内の同志諸君に訴える」1966年2月、「解放戦線」名のビラ)

 西沢一派、「長周新聞」一派、志田一派などすべての対外盲従反党分子が、マルクス・レーニン主義の基本的原理だと称してもちだしているこの主張――「暴力革命唯一論」もまた、マルクス・レーニン主義の革命理論をまったく一面的に歪曲したものであり、結局のところ、マルクス・レーニン主義を、人民大衆からはなれて「武装闘争」をもてあそぶ冒険主義、盲動主義でおきかえる誤りである。

 マルクス・レーニン主義の創始者たちは、支配階級はみずからすすんで権力をゆずりわたすものではなく、革命運動によってその支配がおびやかされる場合には、暴力にうったえても人民の闘争をおしつぶそうとするものであること、したがって、社会主義革命は、通常、暴力革命の形態をとらざるをえなくなることを理論的、政治的に明らかにしながらも、権力獲得の方法の問題をあらかじめ一つに固定化し、暴力革命だけを、労働者階級が権力を獲得する唯一の方法として絶対化する態度はけっしてとらなかった。

 まず、マルクス、エンゲルスについてみよう。マルクス、エンゲルスは、『共産党宣言』のなかで、「共産主義者は、従来のすべての社会秩序を暴力的に転覆せずには彼らの目的が達成できないことを、公然と言明する」(全集4巻、508ページ)と書き、その後も、当時の情勢の具体的分析にもとづいて、ヨーロッパの大多数の資本主義国で暴力革命がさけられないであろうことを主張した。だが、同時に、マルクス、エンゲルスは、共産主義者にとって、暴力革命はけっして自己目的ではなく、平和的手段による政治権力の獲得が可能ならば、それはもっとものぞましい道であること、労働者階級が暴力革命を余儀なくされるのは、支配階級が人民を弾圧し、革命の発展を暴力で阻止しようとするからであって、その責任は支配階級の反革命的暴力の行使にあることを、つねに明らかにしていた。さらに、マルクスとエンゲルスは、革命のための手段や権力獲得の方法は、それぞれの国の歴史的、民族的特殊性におうじて、その国の労働者階級自身が決定すべき問題であることをつねに強調し、一部の資本主義国では、労働者階級が武装蜂起という道をとおらずに平和的手段によって政治権力の獲得に到達しうる可能性が存在することを否定せず、そうした場合には、労働者階級は平和的手段による権力獲得の可能性を、当然追求すべきだと主張した。

 「労働者は、新しい労働の組織をうちたてるために、やがては、政治権力をにぎらなければならない。労働者は古い制度をささえている古い政治をくつがえさなければならない。しかし、われわれは、この目標に到達するための手段は、どこでも同一だと主張したことはない。
 われわれは、それぞれの国の制度や風習や、伝統を考慮しなければならないことを知っており、アメリカやイギリスのように、そして、もし私があなたがたの国の制度をもっとよく知っていたならば、おそらくオランダをもそれにつけくわえるであろうが、労働者が平和的手段によってその目標に到達できる国ぐにがあることを、われわれは否定しない。だが、これが正しいとしても、この大陸の大多数の国ぐにでは、暴力がわれわれの革命のてことならざるをえないことも認めなければならない。労働の支配をうちたてるためには、一時的に暴力にうったえるほかはないのである」。(マルクス「アムステルダムの集会での第1インタナショナルのハーグ大会についての演説」、1872年、マルクス・エンゲルス全集18巻、158ページ)

 またレーニンは、帝国主義段階における社会主義革命の諸条件を具体的に分析し、帝国主義が、イギリス、アメリカをふくめすべての独占資本主義国に「国家機構の官僚的および軍事的機関の前代未聞の拡大」をもたらした結果、イギリス、アメリカなどについてのマルクス、エンゲルスの留保はすでに意味を失ったとして、暴力革命の不可避性を、より一般的なかたちで主張した。

 「ブルジョア国家がプロレタリア国家(プロレタリアートの独裁)と交代するのは、『死滅』の道を通じては不可能であり、それは、通例、暴力革命によってのみ可能である」。(レーニン「国家と革命」、全集25巻、432ページ)

 しかし、レーニンは、こうした歴史的情勢のもとでさえ、プロレタリア国家の樹立は「通例」暴力革命によってのみ可能だとのべながらも、一定の条件の組みあわせのもとでは、暴力革命の不可避性に「例外」が生まれうることをけっして否定しなかった。実際、1917年のロシ革命の過程で、革命の平和的発展の可能性が生まれたときには、レーニンは、だれよりもさきにこれをとらえて、この歴史上「きわめて貴重な可能性」(「妥協について」、全集25巻、335ページ)を実現するために、必要なあらゆる努力をおしまなかった。レーニンが何度も強調しているように、革命の実際の発展過程はきわめて複雑なものであり、特定の方法を教条主義的に絶対化して「変革の形態、やり方、方法」について自分の手をしばったりしないことは、この問題についてのマルクス主義の原則的要求なのである。

 「『労働者社会主義』の綱領は、一般に政治権力の獲得のことをのべて、その獲得の方法を規定しないのである。というのは、この方法の選択は、われわれが正確に規定することのできない未来にかかっているからである」。(レーニン「ロシア社会民主主義派のうちの後退的傾向」、全集4巻、296ページ)
 「マルクスは、そのときにはどんなに多くの新しい問題がおこってくるか、変革の過程で全体の事情がどう変化するか、変革の過程でそれがどんなにしばしばまたはげしく変わるかを、すばらしくよく理解していたので、変革の形態、やり方、方法について、自分の手を――また社会主義革命の将来の活動家の手も――しばらなかったのである」。(レーニン「『左翼的』な児戯と小ブルジョア性について」、全集27巻、347ぺージ)

 まして、今日では、情勢は、国際的にも一国的にも、多くの点でレーニンの時代から大きく変化してきている。共産党・労働者党代表者会議の1957年の宣言と1960年の声明にも確認されているように、現在の条件のもとでは、一連の資本主義諸国で、議会を革命のために活用する新しい展望と結びついて、労働者階級のまえに「平和的手段で社会主義革命をやりとげる」可能性の問題が提起されている。これらの国ぐにでは、権力獲得の方法の問題である一つの特定の形態を絶対化し自分の手をしばることなく、そのあらゆる可能性を全面的に考慮することが、労働者階級とその前衛であるマルクス・レーニン主義党にとって、いっそう重要になってきている。すなわち、具体的には、敵が人民にたいして暴力にうったえてくる場合には、非平和的移行の道を余儀なくされることをつねに明確にし、こうした事態にたいして必要な警戒心をもちながらも、平和的移行の可能性の拡大とその成功のために努力することが必要なのである。

 ところが、このときに、極左日和見主義者たちは、今日の歴史的情勢の科学的な分析、とくに日本における解放闘争の諸条件の具体的分析をなんらおこなおうとせず、ただ、「暴力革命はプロレタリア革命の普遍的原則だ」と称して、実際には平和的手段による権力獲得の可能性をいっさい否定し、武装蜂起による権力獲得の道を日本人民の解放闘争のただ一つの道として絶対化しようとしているのである。こうした「暴力革命唯一論」が、革命の形態や権力の獲得の方法を革命の諸条件の具体的、歴史的分析にもとづいて解決することを一貫して要求してきたマルクス・レーニン主義の原則的見地をふみにじるものであり、マルクス・レーニン主義の革命理論を、具体的情勢の具体的分析(レーニンは、このことを「マルクス主義の核心、その精髄」と呼んだ)なしに教条的一面的に歪曲し、これを「死んだ教条」の休系にかえる観念的、形而上学的な議論であることは、まったく明白である。

 「マルクス主義は、闘争形態の問題を、かならず歴史的に考察することを要求する。具体的な歴史的情勢をよそにしてこの問題を提起するのは、弁証法的唯物論のイロハがわかっていないことを意味する。……ある運動のある発展段階における具体的な情勢をこまかく考察せずに、特定の闘争手段の問題にイエスかノーかをこたえようとするのは、マルクス主義の基礎をまったくすてさることを意味する」。(レーニン「パルチザン戦争」、全集11巻、207ページ)

 しかも、ここでとくに強調しなければならないことは、反党教条主義者たちが、こうして「暴力革命」を権力獲得の方法として絶対化しただけでなく、さらにすすんで共産党の当面最大の任務が「暴力革命の思想的・政治的、組織的準備」にあると主張していることである。これはまさに、かれらがマルクス・レーニン主義に敵対する、極左冒険主義の道にたっていることをいっそうあからさまに露呈したものである。

 マルクス・レーニン主義は、暴力革命がさけられないとみなされる場合においても、現実にその国に革命的情勢がうまれない時期に、蜂起や武装闘争のスローガンをもてあそぶことを、けっしてゆるさなかった。この点で、マルクス・レーニン主義は、時と条件をかまわずに武装蜂起のスローガンをふりまわし、革命をけっきょく少数者の軍事的陰謀に解消してしまうブランキ主義(注)などと決定的に異なるのである。

(注)ブランキ主義――フランスの革命家ブランキ(1805~82年)を中心とする反マルクス主義的「左翼」冒険主義の潮流。大衆の革命的力量に依拠しない、少数の陰謀家による政治権力の暴力的奪取を、革命のただ一つの手段として主張し、追求した。 
 「蜂起とは、非常に偉大な言葉である。蜂起の呼びかけははなはだ真剣な呼びかけである。社会制度が複雑になればなるほど、国家権力の組織が高度になればなるほど、軍事技術が完全なものになればなるほど、こういうスローガンを軽々しく提出することは、ますます許しえないものとなる。革命的社会民主主義者は、早くからそれを提出する準備をしてきたが、直接の呼びかけとしてそれを提出したのは、革命運動の重大さ、広さ、深さについてどういう動揺もありえず、事態が本来の意味での大詰に近づいていることについてどういう動揺もありえなかったときにはじめてそうしたのだということを、われわれは再三述べてきた。偉大な言葉は、慎重に取りあつかわなければならない。それを偉大な事業に転化させる困難は、たいへんなものである。……このスローガンは、変革の一般的条件が成熟し、大衆の激昂と行動への決意とがはっきりとした形で現われ、外的な事情が明白な危機に導かないあいだは、けっして提出してはならない」。(レーニン「『イスクラ的』戦術の最後の言葉、または蜂起の新しい動機としての模擬選挙」、全集9巻、390~391ページ)

 そして、レーニンが「共産主義内の『左翼主義』小児病」その他のなかでくりかえし教えているように、革命を準備する時期に、革命党が力を集中すべき最大の任務は、「暴力革命の思想的、政治的、組織的準備」などに単純化されるものではけっしてない。それは、正しい政治的指導力とプロレタリア的規律をもち、広範な勤労大衆と結びついた強固な前衛党を建設することであり、労働者階級の階級闘争のあらゆるあらわれを指導し、労働組合活動や議会活動、ジャーナリズムの活動をふくめ、社会活動のあらゆる形態、あらゆる側面を利用しつつ、広範な人民大衆を教育し、組織することであり、そして、「ほんとうにすべての階級」「勤労し資本に抑圧されている人々のほんとうに広範な大衆」が、自分自身の政治的経験をつうじて、革命を支持する立場に達するようにみちびくことなのである。

 もちろん、権力獲得の方法の問題で大衆を正しく説得する活動が、革命を準備する任務の一部分をなすことは、いうまでもないが、暴力革命を唯一、絶対化したうえに「暴力革命の思想的、政治的、組織的準備」こそ党の中心任務だなどと称して、選挙闘争や議会の活用、労働組合運動をはじめとする大衆闘争と大衆組織など革命を準備する多面的な活動を原則的に軽視あるいは無視し、「暴力革命」の準備なるものにすべての力を集中したりすることは、マルクス・レーニン主義者にとって許すことのできない決定的な誤りをおかすことである。それは、労働者階級と人民の多数を政治的に獲得するという、もっとも革命的な任務を忘れて、ただ闘争形態の激烈さだけを追求する冒険主義の道にたつことであり、より根本的には、革命を数百万、数千万の労働者階級と人民自身の事業とみなすマルクス・レーニン主義の見地を、革命を少数者の軍事的陰謀に帰着させるブランキ主義の見地におきかえることにほかならない。それは、党と革命勢力を広範な大衆から孤立させると同時に、支配階級の弾圧に絶好の口実をあたえ、革命の事業を失敗させる政治的自殺行為以外のなにものでもない。

 マルクス、エンゲルスも、レーニンも、広範な大衆を組織し教育するねばりづよい活動を忘れて、革命の準備をもっぱら暴力革命と武装闘争の宣伝に帰着させるような「革命家」にたいしては、容赦なくその挑発者的役割を糾弾した。

 たとえば、全人民的な武起蜂起以外には革命の道がありえなかったツァーリズム専制のもとでも、レーニンは、革命的情勢のない時期に「武装蜂起」の宣伝にすべてを解消しようとした「左翼」冒険主義者(召還派、最後通牒派)の主張を断固としてしりぞけた。

 「いまのところ、もっとも狭い、直接の意味での『革命』はまだ現在の事がらになっていない。……そうならないうちに、多くの闘争手段のうちの一つをスローガンとしてかかげることは、自分を革命的社会民主主義者の戯画に仕立てあげることを意味する。協議会(1908年12月にひらかれたロシア社会民主労働党全国協議会―引用者注)の決議は、成熟しつつある革命的危機と闘争目標(革命的諸階級による権力の獲得)について語っているが、現在ではそれ以上のことをかたることはできないし、またかたる必要はない」。(「ボリシェビズムの戯画」1909年、全集15巻、372ページ)

 とくに、今日、議会を革命のために活用する新たな展望がうまれ、革命の発展のあらゆる可能性を全面的に考慮し追求することが、とりわけ重要になっている今日の日本で、マルクス・レーニン主義の名のもとに、権力獲得の方法として暴力革命を絶対化するばかりか、革命運動の当面の中心的任務を「暴力革命の思想的、政治的、組織的準備」におくことを主張する教条主義的反党分子の立場は、マルクス・レーニン主義をもっとも極端に戯画化したものである。かれらは、まさに、マルクス・レーニン主義の立場から決定的にはなれさって、これにまっこうから敵対ずる極左冒険主義、盲動主義の立場に完全に移行してしまっているのである。

(3)「人民載争」論を絶対化する事大主義

 極左日和見主義者たちの「革命的」方針なるものの第三の特徴は、かれらが「暴力革命」を権力獲得のただ一つの方法として絶対化するばかりか、さらに、暴力革命の形態の問題についても、その一つの形態にすぎない「人民戦争」を、暴力革命の普遍的形態として絶対化し、日本革命に適用することを主張していることである。それは、かれらが、いっそう極端で一面的な教条主義、冒険主義の見地にたっていることをしめすものにほかならない。

 「長周新聞」一派は、反党雑誌『革命戦士』4号につぎのように書いている。

 「マルクス・レーニン主義者は、労働者と農民の団結と闘争力が、米日反動の武装力をうちやぶり敵を武装解除する以外に、日本革命の勝利の道はない。その革命は必ず勝利すると確信をもってキッパリと断言する。
 日本革命の勝利のためには、どうしても労働者、農民、全人民を思いきってたち上らせ、米日二つの敵と断固として対決しなければならない。このような闘争の発展のなかから、日本における革命闘争==人民闘争の具体的、創造的形態を生みだすことができるのである。
 この基本的方向に立脚し、われわれは、革命をなげすてた修正主義者とキッパリと手をきり日本における人民戦争の具体的形態を、実践活動のなかで系統的に迫求し明らかにしてゆかなければならない」。(立花隆「プロレタリア革命の根本原則」、太字は引用者)

 反党盲従分子のこの「人民戦争」論が、最近、国際共産主義運動内で一部の分子が主張している「人民戦争」万能論――農村に革命根拠地を樹立し、農村によって都市を包囲するという中国の人民戦争の経験を不当に一般化し、今日の世界におけるすべての被抑圧民族、被抑圧人民の解放闘争にとって普遍的意義をもつものだと称して、これをあらゆる国の革命運動の指針にしようとする見解――に盲従し、これを事大主義的に日本にもちこもうとしたものであることは、明らかである。

 「人民戦争」と暴力革命とは、同じものではない。「人民戦争」は、暴力革命のひとつの特殊な形態である。資本主義諸国における暴力革命は、一般的には、ロシアの10月革命に典型的にしめされたように、全国的な革命的情勢の成熟――(1)広範な人民がいままでどおりに生活することをのぞまなくなると同時に、(2)支配階級がいままでどおりのかたちでその支配を維持することが不可能になり、(3)労働者階級が、人民を指導して蜂起を遂行する決意と能力をもつようになるといった条件がうみだされたときに、はじめて現実の日程にのぼりうるものであり、それは普通、都市を中心に、労働者階級のゼネラル・ストライキと結びついておこなわれる武装蜂起という形態をとる。そして、革命のこれらの客観的、主体的な条件がうみだされる以前の時期には、労働者階級とその前衛党にとっては、武装闘争は革命闘争の主要な形態ではなく、労働者階級と広範な人民を革命の側に獲得する長期の政治的、経済的、思想的な闘争が、そのもっとも重要な任務となるのである。

 これにたいして、極左日和見主義分子がいましきりに強調している「人民戦争」とは、いうまでもなく、中国革命の経験からひきだされたもので、条件のあるところから武装闘争を開始して、農村に革命根拠地を樹立して長期にわたる革命戦争をおこない、農村によって都市を包囲しつつ、最後に都市を奪取して全国的な勝利をかちとるという、暴力革命の特殊な形態である。

 中国の革命運動が、「人民戦争」という形態をとったのは、中国共産党の毛沢東がかつて一連の著作のなかで強調してきたように(「中国の赤色政権はなぜ存在することができるのか」1928年、「中国革命戦争の戦略問題」1936年、「戦争と戦略の問題」1938年、「中国革命と中国共産党」1939年など)、中国革命がつぎのような歴史的民族的特殊性をもっていたためである。

 (1)中国が独立した民主主義国でなく、封建制度と帝国主義の圧迫のもとにある半植民地的、半封建的な国家であって、議会もなければ労働者を組織する合法的権利もなく、都市を中心に長期の合法闘争をおこなう条件が存在しないこと。

 (2)中国革命の敵が文字どおり「武装した反革命」であり、都市でも農村でも人民に平和的に活動する可能性をあたえないために、革命運動は最初から武力で自分をまもらなければならなかったこと。

 (3)中国が経済的に発展のおくれた農業国であり、統一された資本主義経済をもたず、地方ごとに政治、経済の発展が不均等で分散していること。

 (4)中国が多くの帝国主義国が勢力範囲を分割しあう半植民地であったことと結びついて、反革命陣営内部が不統一で、新旧の各種軍閥がたがいに戦争しあうなどさまざまな矛盾にみちていること。

 (5)中国の土地が広大なこと。

 (6)中国が1924年から1927年までの革命を経験しており、農村地域にも広範に革命の種子がまかれていたこと。

 その後、国際的な解放闘争の歴史のなかでは、中国以外の国ぐにでも、一定の歴史的条件の組み合わせのもとでは、農村に依拠した長期の武装闘争が、解放闘争の形態として、必要にも可能にもなることがしめされた。たとえば、ベトナム人民・キューバ人民をはじめ、アメリカ、ラテンアメリカの一連の諸国の人民は、多くの点で中国とは基本的に異なる諸条件のもとで、長期にわたる人民解放戦争をたたかったし、現にたたかっている。また、発達した資本主義国でも、第2次大戦中、ヒトラー・ドイツに占領された時期のヨーロッパ諸国では、外国軍隊による軍事占領とファッショ的支配のもとにおかれ、武装闘争以外には抵抗闘争の道はなくなり、民族解放と民主主義の任務が全国民的な課題となったという条件のもとで、農村や山地を根拠地とする遊撃戦を都市での武装闘争と結びつけた長期的な武装抵抗闘争、民族解放戦争がたたかわれた。しかし、これらのことは、人民戦争――農村に依拠した長期にわたる武装闘争が、たんに中国だけに固有のものではなく、一定の歴史的、社会的条件の組み合わせのもとでは、あれこれの国で、日程にのぼりうる革命闘争の一形態であることをしめすものではあっても、歴史的、具体的条件とはなれて、人民戦争をあらゆる被圧迫民族の解放闘争の普遍的な形態とみなしたり、さらには発達した資本主義国をふくむ世界の被抑圧人民の革命運動の普遍的な形態として唯一、絶対化したりする議論の根拠になりうるものではけっしてない。それは、やはり、一定の条件のもとでのみ可能になり、また必然となる革命闘争の一つの特殊な形態であって、暴力革命の普遍的形態ではなく、まして世界のあらゆる国に適用される革命運動の普遍的原則ではないのである。さらにつけくわえる必要があるのは、人民戦争の道をすすんだ場合でも、各国人民は、その国の条件にあった人民戦争の形態を創造的にうみだしており、中国革命の経験や路線を機械的にあてはめることはできないということである。そのことは、現在南ベトナム人民がその人民戦争をきわめて創造的な形態で展開していることをみても、明らかである。

 とくに、戦争やファシズムの支配などがない時期の発達した資本主義国――今日の日本のようにブルジョア的民民主主義制度が、一定の条件のもとで維持され、中央集権的な国家機構と近代的軍事力、統一的な資本主義経済、四通八達した交通網、新聞、テレビ、ラジオなどの発達した大量宣伝機関をもっている資本主義国に、この「人民戦争」をもちこみ、農村での革命根拠地の建設や武装闘争の組織を主張したりすることは、まったく根本的な誤りである。これらの国の解放闘争の諸条件は、以前の中国のような半植民地、半封建国家とも、また第2次大戦中、ナチス・ドイツの占領下におかれたヨーロッパ諸国の条件とも根本的にことなっている。これらの国の革命運動に、具体的情勢のちがいを無視して、中国における「人民戦争」の路線や第2次大戦中のヨーロッパ諸国の武装抵抗闘争の経験などを機械的にもちこむことは、それ自体がきわめて硬直した一面的、独断的なやり方であるだけでなく、発達した資本主義諸国における革命運動の理論と戦術についてのマルクス・レーニン主義のこれまでの理論的、政治的達成のすべてをなげすてることであり、革命を人民自身の事業とみなすマルクス・レーニン主義の立場から、人民大衆からはなれて「武装闘争」をもてあそぷ極左冒険主義の道に、まっすぐとびうつることである。

 発達した資本主義国と中国との解放闘争の条件と路線のちがい、とくに、中国共産党が採用した革命方式が中国の特殊な諸条件によるものであることについては、現在わが国の反党対外盲従分子が無限の崇拝をささげている毛沢東自身、以前には、明確なかたちで指摘していた。

 「同じ原則のもとでも、プロレタリア政党がさまざまな条件のもとでこの原則を実行する表現形態についていえば、それは条件の相違によってちがってくる。ファシズムもなければ戦争もない時期における資本主義諸国では、その条件は、内部的には封建制度がなくなり、ブルジョア的民主主義制度があるということ、外部的には民族的圧迫をうけておらず、自分の民族による他の民族の抑圧があるということである。これらの特徴にもとづいて、資本主義諸国のプロレタリア政党の任務は、長期の合法闘争をつうじて労働者を教育し、力をのばし、資本主義を最後的にくつがえす準備をすることである。そこでは、長期の合法闘争であり、議会の演壇の利用であり、経済的、政治的なストライキであり、労働組合の組織と労働者の教育である。そこでの組織形態は、合法的なものであり、闘争形態は血を流さない(戦争によらない)ものである。戦争の問題については、そこの共産党は自国の帝国主義戦争に反対し、もしこのような戦争がおこれば、党の政策は、自国の反動政府を敗北させることである。自分の必要とする戦争は、準備されつつある国内戦争だけである。だが、このような戦争は、ブルジョアジーがほんとうに無力な状態になるときがこなければ、またプロレタリアートの大多数が武装蜂起と戦争遂行の決意をするときがこなければ、そしてまた農民大衆が自発的にプロレタリアートを援助するようになったときがこなければ、蜂起や戦争はおこなうべきではない。蜂起や戦争をおこなうときがきたら、まず最初に都市を占領してから、そのあとで農村に進攻するのであって、その反対ではない。これらのことは資本主義諸国の共産党がこれまでやってきたことであって、ロシアの10月革命で実証されたことである。
 中国はそれとはちがっている。中国の特徴は、半植民地的・半封建的な国であって、独立した民主主義国ではないこと、内部的には封建制度の圧迫をうけていて、民主主義制度がないこと、外部的には帝国主義の抑圧をうけていて、民族の独立がないことである。したがって、利用できる議会もなければ、労働者を組織してストライキをおこなう合法的権利もない。ここでは、共産党の任務は、基本的には、長期の合法的闘争をつうじて蜂起や戦争にすすむことでなく、また、さきに都市を占領し、あとから農村を奪取することでもなく、それとは反対の道をあゆむことである」。(「戦争と戦略の問題」、毛沢東選集2巻上、268~269ページ)

 このように、毛沢東自身が以前には、「人民戦争」の路線が、中国の歴史的な諸条件と結びついた特殊な闘争形態であることを指摘して、その不当な一般化をいましめていた。ところが、反党対外盲従分子や、中国共産党の極左日和見主義、大国主義分子は、いま、以前の毛沢東自身の言説をもほごにして、「人民戦争」路線を、世界の革命運動の普遍的原則にまでまつりあげ、これを高度に発達した資本主義国である日本に、情勢のちがいを無視して盲目的にもちこもうとし、それに賛同しないものに「修正主義」とか「反革命分子」とかの悪罵をあびせかけているのである。「人民戦争」万能論者は、「人民戦争をやる勇気があるかないか」の問題こそ、真の革命かニセの革命かを見わける試金石だなどとまでいっている。

 1957年の社会主義国の共産党・労働者党代表者会議の宣言は、各国のプロレタリア党が、自国の民族的特殊性を無視して「他の国ぐにの共産党の政策と戦術を機械的に引きうつしする」誤りをおかせば、「その結果その党はかならず実生活と大衆から遊離するようになり、社会主義の事業にかならず損害をあたえる」とのべて、外国の革命運動の経験を機械的に自国にもちこむ事大主義、現代教条主義をきびしくいましめた。中国共産党の毛沢東への盲目的な崇拝から中国革命の経験を不当に絶対化し、ついには日本における「人民戦争」の準備や具体化をうんぬんするところまでいきついた反党対外盲従分子の議論は、盲目的な事大主義、現代教条主義が、人をどんなに危険な反マルクス・レーニン主義的見地にまでみちびくかを、もっとも雄弁にしめすものである。

(4)極左冒険主義復活の挑発的くわだて

 対外盲従反党分子たちが、わが党綱領の革命路線に対置してもちだしている「革命路線」なるものが、マルクス・レーニン主義的見地とは根本的に対立する極左冒険主義の路線にほかならないことは、これまで、その三つの主要な特徴についてみてきたとおりである。そして、最後に指摘する必要があるのは、これが、1950年のわが党の分裂の時期に党の一部に採用されて党と革命の事業に重大な損害をあたえた極左冒険主義の方針を、無批判に「復活」させたものだということである。

 1950年以後、わが党は、アメリカ帝国主義の凶暴な弾圧によって半非合法状態におかれると同時に、これを重要な契機として中央委員会は事実上解体され党組織全体が分裂するというきわめて困難な事態におちいった。この党の分裂の時期に、分裂した党の一部は、山地、山村に根拠地を建設し、都市と農村で長期にわたって抵抗自衛闘争を展開し、人民自衛組織を建設するという極左冒険主義の方針と戦術を、なかぱ公然と採用した。

 この極左冒険主義の誤りは、大衆のなかでの党の権威を傷つけ、党と大衆の結びつきをいちじるしくよわめ、党と革命の事業に、政治的にも組織的にもきわめて大きな損害をあたえた。1949年に十数万あった党員の数が、1958年の第7回党大会の当時には数万の党勢に激減し、選挙での得票数も、1949年1月の衆議院選挙における300万票弱から1953年4月の選挙の65万票へと大幅にへったが、このことは、アメリカ占領軍の凶暴な弾圧による打撃とともに、党の分裂および極左冒険主義の誤りの深刻な結果をしめしたものであった。

 この極左冒険主義の方針は、理論上、政治上のいくつかの誤りが結びついてうみだされたものであるが、ここでとくに注目する必要のある第一の点は、極左冒険主義の方針と51年綱領に定式化された「暴力革命唯一論」の立場とのきりはなすことのできない関連である。党の分裂状態のもとで党の一定部分が採択した51年綱領は、日本の革命の展望について「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのは、まちがいである」と規定し、革命の平和的発展の可能性を全面的に否定する「暴力革命唯一論」の立場を明確にしていた。これは、戦後の初期に党がおかした「占領下の平和革命論」にもとづく右翼日和見主義の誤りにたいする機械的な反発から、他の極端な誤りにおちいったものであり、サンフランシスコ条約の締結以後の情勢の変化――アメリカ帝国主義の公然とした全面的な占領支配から、サンフランシスコ体制にもとづく半占領状態への変化――が、平和的手段による変革の歴史的、理論的可能性をうみだしたことを見おとした、一面的な規定であった。この一面的な規定が、長期の抵抗自衛闘争によって将来の「武力革命」を準備するという極左冒険主義の誤りのひとつの政治的、理論的基礎をなしたことは、明白である。

 第二の重要な点は、この極左冒険主義の誤りが、中国の「人民戦争」の経験の機械的、事大主義的な適用と結びついていたことである。当時、1949年に全国的な解放を実現した中国革命の偉大な勝利を背景として、国際的にも、人民解放軍と、その根拠地を建設し長期にわたる武装闘争によって勝利を獲得した中国革命の経験を、帝国主義の抑圧のもとにあるすべての植民地、すべての従属国の人民の解放の道として一般化する傾向が強まっていた。そして、1950年の党の分裂の時期にわが党の内部問題に介入した外国の諸党は、アメリカ帝国主義の支配下にあるという理由で高度に発達した資本主義国である日本をアジアの旧植民地諸国と同一視し、植民地従属国の解放闘争の基本的な道として不当に一般化されていた中国の「人民戦争」路線を、わが国にも適用することを主張した。山村根拠地の建設や自衛闘争と自衛組織などを強調した極左冒険主義の方針は、一つには、このような外国の諸党の大国主義的な押しつけにたいし、わが党の一部が誤った事大主義的態度をとった結果だったのである。その後、わが党が、極左冒険主義の誤りを克服したのち、中国共産党の責任ある人びとは、この時期の問題について、ふたたびこのようなことはくり返されてはならないという見地をわが党の代表に表明したことがある。

 わが党は、第7回党大会での50年問題の総括および第8回党大会にいたる綱領討議の過程で、「占領下の平和革命論」の右翼的な誤りを正しく克服すると同時に、極左冒険主義の誤りをうみだした理論上、政治上の基礎にたいする徹底的な批判をおこない、いかなる外国の党の路線や理論にも無批判的に追従することなく、日本の党自身が、日本革命を指導する日本の労働者階級の前衛党として、マルクス・レーニン主義を自主的に日本の情勢に適用し、それによって日本革命の前進の道をみずから切りひらいてゆくという自主独立の確固とした立場をうちたてた。そして、革命の移行形態の問題についても、わが党は、革命の平和的移行を「唯一の道」として絶対化する修正主義者の右翼日和見主義的な「平和移行必然論」に原則的な批判をくわえるとともに、51年綱領に定式化されているような、平和移行の可能性を全般的に否定する極左日和見主義的な「暴力革命唯一論」をも正しく克服し、「マルクス・レーニン主義党としては、革命への移行が平和的な手段でおこなわれるように努力するが、それが平和的となるか非平和的となるかは、結局敵の出方による」という革命の移行形態の二つの可能性を全面的に考慮にいれたマルクス・レーニン主義的見地を確立したのである。この問題についてのわが党の綱領の見地は、共産党・労働者党代表者会議の宣言と声明に定式化された国際共産主義運動の理論的達成をたんに受動的にうけいれたものではなく、わが党自身の歴史的経験および自主的な理論的究明による一貫した裏づけをもったものなのである。

 ところが、西沢、安斎一派、「長周新聞」一派は、これらの歴史的教訓を理解する能力をもたず、それ以後の闘争のなかで党がかちとってきた政治的、理論的前進をいっさい否認して、中国共産党の極左日和見主義、大国主義分子の指示と激励のもとに、かつて党と革命の事業に深刻な打撃をあたえた極左冒険主義の方針と戦術を、ふたたび「復活」させようとしているのである。これは、まさに許すことのできない犯罪的挑発行為である。

 われわれは、わが国の革命運動に責任をもつ前衛党として、この挑発的な主張をかかげたかれらの反革命的策動を徹底的に粉砕する必要がある。

三、国際共産主義運動の歴史的教訓

 極左日和見主義者たちのわが党綱領への攻撃が、マルクス・レーニン主義の立場からのものではなく、これに敵対する議会闘争否定、極左冒険主義の立場からの攻撃であることは、いまみてきたとおりである。かれらは、このようにわが党綱領にたいして反マルクス・レーニン主義的攻撃をくわえながら、その真の立場をごまかして自分たちをなんとか「マルクス・レーニン主義者」にみせかけようとして、躍起になっている。かれらは、そのために、たとえば「自分たちは議会の革命的利用に反対しているわけではない。ただ議会の利用についての日本共産党の綱領の路線が、マルクス・レーニン主義の見地から逸脱していることを批判しているだけだ」などと主張し、しきりにレーニンの文章をひきあいにだして、いかにも自分たちの見地こそ、議会の活用や革命の方法の問題についてのマルクス・レーニン主義の革命的原則を擁護するものであるかのように、みせかけようとしている。ほとんど論文全体をレーニンからの引用でうずめた安斎庫治の反党論文「綱領をつらぬくブルジョア議会にたいする修正主義路線に断固反対する」などは、かれらのそうした手法をもっともきわだったかたちであらわしたものである。

 だが、かれらがいくらレーニンを引用してみても、それは、かれらの議論のマルクス・レーニン主義的性格の証明となるものではない。逆に、それは、かれらが、二重の救いがたい教条主義におちいっていることを暴露している。第一に、かれらに特徴的なのは、レーニンの文章をそれがのべられた歴史的、具体的情勢どの関連をぬきにして断片的にとり出し、つづりあわせて、それをすべての時代、すべての国に妥当する絶対的な命題とみなし、今日の日本の革命運動にそのまま無条件に適用するという論法である。だが、これは、あらゆる命題を「(イ)歴史的にのみ、(ロ)他の諸命題と関連させてのみ、(ハ)歴史の具体的経験と結びつけてのみ、考察することを要求」する「マルクス主義の全精神、その全体系」(レーニン「イネッサ・アルマンドヘ」、全集35巻、262ページ)にそむく教条主義の典型である。第二に、レーニンを援用してわが党綱領を批判するかれらの論法自体が、引用のしかたから論理のくみたてにいたるまで、すべて中国共産党の一部の人たちの議論をそのままひきうつしにしたものである。つまり、中国共産党の極左日和見主義、大国主義分子への盲従をその思想と行動の最高の基準にしている反党事大主義分子たちは、レーニンの思想、理論についても、その全面的研究を自主的におこなってその真髄をつかむのではなく、もっぱらこの一部外部勢力の論調を基準にして「研究」し、これらの外部勢力がひきだした結論をおおむがえしにくりかえしているにすぎないのである。

 このような二重の教条主義は、宣言と声明も強調しているように、マルクス・レーニン主義の基本原則を自国の具体的な歴史的条件に応じて自主的、創造的に適用し、自国の革命の展望と課題を決定するという、真のマルクス・レーニン主義者の態度とはまったく無縁のものである。

 「教条主義とセクト主義は、マルクス・レーニン主義理論を発展させ、これを具体的な変化する条件のもとで創造的に適用することを困難にし、具体的な情勢の研究を引用文と経文読みにすりかえ、党を大衆から遊離させる」。(1957年の社会主義国の共産党・労働者党代表者会議の宣言)

 では、これから、かれらが自分たちの反マルクス・レーニン主義的「批判」の合理化のためにもちだしている言い分を一つひとつ検討し、その議論の正体を明らかにしてゆくことにしよう。

 反党対外盲従分子が、自分たちの極左冒険主義、「暴力革命唯一論」をレーニンの名で正当化しようとしてもちだしている言い分の第一は、わが党が主張しているように、国会で多数を獲得して統一戦線政府の平和的、適法的な樹立をめざすこと自体、マルクス・レーニン主義に根本からそむき、「議会による革命」を主張した第2インタナショナル流の日和見主義、修正主義に転落することだという議論である。

 たとえば、安斎は、この問題についての綱領の規定を非難して、つぎのように書いている。

 「現在の反動支配のもとで、ブルジョア議会である国会において『安定した過半数を獲得しよう』とする考えそのものが、反マルクス・レーニン主義の思想であり、これこそ、レーニンが、その生涯をかけて、たたかいつづけた修正主義の理論である。
 レーニンは、その全著作をみれば明らかなように、資本主義のもとで、ブルジョア独裁のもとでのブルジョア議会で、プロレタリアートが多数を占めねばならぬとか、あるいは占めうるとかは、たった一度もいったことがなかった。
 むしろ、レーニンは、そのような戦術を、プロレタリアートの党の基本的な戦術のひとつにすることに、一貫して反対してたたかった。
 なぜなら、資本主義のもとで、ブルジョアジーとその国家の抑圧のもとで、生産手段の私的所有が存在する条件のもとで、ぜがひでも、ブルジョア議会で多数を獲得しようとしていたのが、当時、身も心もブルジョアジーに身売りしていた、第2インタナショナルの『紳士』どもであったからである」

 安斎は、「議会の多数の獲得をめざすのは修正主義だ」というそのテーゼが、マルクス・レーニン主義の不変の原則であろことを証明しようとして、レーニンの著作や論文からたくさんの引用をしてみせる。だが、安斎のこの努力は、「具体的な情勢の研究を引用文と経文読みにすりかえ」るかれの教条主義の実例として役だつにすぎない。なぜなら、どんな社会問題を検討する場合でも、「それを一定の歴史的なわくのなかで提起し、つぎに、もし問題になっているのが一国である場合には、同一の歴史的時代のなかで、その国を他の諸国から区別している具体的特殊性を考慮することがマルクス主義理論の無条件の要求」(レーニン「民族自決権について」、全集20巻、427ページ)であって、議会や選挙の問題ももちろんその例外ではなく、この問題についてのマルクス・レーニン主義の理論の総体を全面的、歴史的に研究することなしに、ただある歴史的時代における個々の発言を単純にもちだしても、それは今日の問題を正しく解決することには、けっしてならないからである。

 実際、マルクス・レーニン主義の創始者たちは、議会や選挙の問題にたいする労働者党の戦術を問題にする場合、けっして機械的な画一主義的態度をとらず、革命のために議会や選挙を活用する範囲や形態が、その時代、その国の歴史的、具体的情勢におうじて異なってくることを、つねに強調していた。そして、ブルジョア議会を人民にたいする宣伝と扇動の演壇として、また労働者と人民のために改良をかちとる闘争の舞台として、一貫して重視すると同時に、歴史的な諸条件がそれを許す場合には、議会で多数を獲得して適法的に政府をにぎるためにたたかうことを、労働者階級のまえに提起することをためらわなかった。マルクス以来の国際共産主義運動の歴史は、あれこれの資本主義国で、労働者階級が、議会での多数の獲得と政府の合法的な樹立をめざしてたたかった多くの例をしめしているのである。国会での「過半数」の獲得を問題にすることそのものが、反マルクス・レーニン主義の思想だなどという反党教条主義者たちの議論は、マルクス・レーニン主義の革命理論と国際共産主義運動の歴史的経験とにたいするかれらの無知を、さらけだしたものといわなければならない。

 だが、この議論は、教条主義者たちの党綱領「批判」のカナメをなレているだけに、かれらの言い分を徹底的に粉砕するために、この問題についての国際共産主義運動の歴史的教訓を、ややたちいってふりかえってみることにしよう。

(1)革命の平和的合法的発展の展望とマルクス、エンゲルス

 すでにのべたように、マルクス、エンゲルスは、当時のヨーロッパの情勢を分析して、大陸の大多数の国ぐにでは暴力革命がさけられないものとなることを指摘しながら、イギリスなど一部の国ぐにでは、労働者階級が平和的な手段で政治権力を獲得できる可能性があるという結論をひきだしていた。マルクスは、1878年、労働者党が革命の平和的発展を問題にするのは、最終目的にいたるたんなる「一段階」にすぎず、根本の目標は暴力革命にあるのだというプロシアのビスマルク政府の非難にこたえた文章のなかで、イギリスなどでの革命の展望についての自分たちの考えをより詳細につぎのようにのべている。

 「この場合の目標は労働者階級の解放であり、この解放にふくまれる社会の変革(改造)である。しかし、事実は、そのときに社会で権力をにぎっている連中が暴力的な障害を途上におかないかぎりでのみ、歴史的発展は『平和的』でありうるのである。たとえば、もしイギリスまたはアメリカで、労働者階級が議会または国会で多数を獲得したとすれば、かれらは、かれらの発展を妨げる法律や制度を合法的に廃止することができるし、また社会的発展がそれを明らかにする程度に応じてのみ、それらを廃止することができるであろう。しかし、その『平和的』な運動は、古い制度を利益とする連中の反乱の結果として暴力的なものにかわるかもしれない。かれらが(アメリカの南北戦争やフランス革命のときのように)暴力によっておしつぶされるとすれば、それは『合法的』権力にたいする叛徒としてなのである。」(マルクス「社会主義者取締法討論の概要」未完成手稿、一八七八年)

 マルクスの死後、エンゲルスも再びこの問題にふれて、つぎのように書いた。

 「その人(マルクス――引用者注)の全理論は、イギリスの経済史と経済状態との終生の研究の結果であり、またその人はこの研究によって、少なくともヨーロッパでは、イギリスは、不可避な社会革命が平和的で合法的な手段によって完全に遂行されるかもしれない唯一の国である、という結論に達したのである。もちろん、彼はこの平和的合法的革命にたいしてイギリスの支配階級が『奴隷制支持のための反乱』なしに屈服することは、ほとんど期待していない、とつけ加えることを忘れはしなかったのである。」(エンゲルス「資本論の英語版への序文」一八八六年、『資本論』国民文庫版第一冊五三ページ)

 これらの文章は、あきらかに、マルクス、エンゲルスが、当時のイギリスに、労働者階級が議会で多数を獲得して合法的に政治権力をにぎる可能性が存在しており、労働者階級はその可能性の実現をめざしてたたかわなければならないと考えていたことを、はっきりとしめしている。

 なぜ、マルクス、エンゲルスは、イギリスでの革命の展望について、このような結論に達したのだろうか。それは、当時のイギリスが、つぎのような一連の諸条件をそなえていたからである。

 第一に、農村でも、農業資本家と農業労働者への分化が広範にすすみ、労働者階級が住民のなかで完全に優勢をしめていたこと、労働者階級が労働組合に広範に組織されており、同時に、数世紀にわたる政治的自由の発展によって訓練されて、比較的たかい文化水準をもっていたことなどのために、普通選挙をつうじて労働者階級が多数をしめうる政治的、社会的な基礎があったことである。

 「普通選挙権は、イギリスの労働者階級にとっては政治的権力と同意義のものである。というのは、イギリスではプロレタリアートが人口の大多数を占め、公然とはやられなかったにせよ長い内乱のなかで、階級としての自己の立場の明確な意識を得ており、農村地帯にさえももう農民はみられず、ただ地主と産業的な資本家(借地農業者)と雇用労働者とがみられるだけだからである」。(マルクス「チャーティスト」1852年、マルクス・エンゲルス全集8巻、336~337ページ)

 マルクス、エンゲルスは、選挙と議会をめぐる労働者党の戦術を決定する場合に、この問題、すなわち、労働者階級が住民の多数をしめているかどうか、あるいは社会の中間層、農民や都市ブルジョアジーを味方に獲得して「国内の決定的な勢力」になりうる条件があるかどうかを、重視した。たとえばエンゲルスは、労働者階級が住民の少数部分をしめているにすぎないフランスやドイツでは、農村が運動にひきいれられないあいだは、普通選挙権は、労働者階級にとって解放の道具となりえないとのべている(エンゲルス「プロイセンの軍事問題とドイツ労働者党」1865年、全集16巻、711ページ。このことは、今日、議会の革命的利用の問題を考える場合にもきわめて重要な点のひとつである。

 第二に、当時のイギリスでは、君主制が存在していたとはいえ、人民代表機関である議会が国家機構のなかで法的にはきわめて大きな権限をもっており、政府の選出の問題でも、議会で多数をしめたものが政府を構成するというブルジョア民主主義の政治制度が存在していたことである。いうまでもなく、政府が議会から独立してすべての実権をにぎっている(法律上も、現実の事態のうえでも)専制国家では、たとえ議会が存在し、労働者階級がそこで多数を獲得しえたとしても、合法的手段で政府を樹立することは不可能である。エンゲルスは、「エルフルト綱領草案の批判」(1891年)のなかで、「人民代表機関が、全権力をその一身に集中」されているようなブルジョア民主主義の政治制度の存在が、合法的、平和的手段による革命の可能性を「考える」ための不可欠の政治的前提であることを指摘して、つぎのように書いている。

 「人民代表機関が、全権力をその一身に集中していて、人民の大多数の支持を獲得しさえすれば、憲法上は なんでも思うようにやれる国でなら、古い社会が平和的に新しい社会に成長移行してゆけるという場合も、考えられる。つまり、フランスやアメリカのような民主的共和国や、王朝を金で買いとることが目前の問題として日々に新聞紙上で論じられていて、この王朝が人民の意志をまえにしては無力であるイギリスのような君主国でなら、それも考えられる。だが、ドイツで、政府がほとんど全能で、帝国議会その他のあらゆる人民代表機関に実権のないドイツで、そういうことを、それもなんの必要もないのに宣言するということは、絶対主義からいちじくの葉をとりはずして、自分自身を絶対主義の裸身のまえにくくりつけるということである」。(国民文庫『ゴータ綱領批判、エルフルト綱領批判』、96ページ)

 第三には、当時のイギリスには徴兵制度もなく、本国には、比較的少数の軍隊が配備されているだけで、人民の多数の意思にたいしてブルジョアジーが暴力的挑戦をくわだてる場合、そのもっとも主要な道具となるべき軍事的・官僚的機構が、ドイツ、フランスなどの大陸諸国におけるほど、発達していなかったことである。このことは、イギリスのブルジョアジーが資本主義国のなかでもっともよく組織されており、「最大の階級的思慮を維持」(エンゲルス「ブルジョアジーの隠退」1889年、選集17巻、198ページ)してきたこととも結びついて、労働者階級が合法的手段によって政治権力を獲得する展望をうみだすひとつの条件となったのである。レーニンはこの点について、1871年には「イギリスは、まだ純資本主義的な国の手本ではあったが、軍閥がなく、また官僚制度もたいしてなかった」、だから「そこでは、革命は、人民革命でさえ、『できあいの国家機構』の破壊という前提条件がなくても当時は可能であるとおもわれたし、また実際に可能であった」(「国家と革命」、全集25巻、448ページ)と書いている。

 以上が、当時のイギリスでは、労働者階級が合法的手段によって政治権力の獲得に到達する可能性があるという結論を、マルクス、エンゲルスがひきだした主要な根拠である。

 ここで重要なことは、マルクス、エンゲルスが、労働者階級が合法的手段によって政治権力をにぎることができるかどうかという問題と、革命の達成が平和的におこなわれるか、それとも非平和的形態をとるかという問題とを、単純に同一視せず、区別して論じていることである。マルクス、エンゲルスは、労働者階級が議会で多数を獲得した場合でも、もちろん、この社会革命にたいして支配階級が暴力にうったえることなしに屈服することは、ほとんど期待しなかった。マルクスは、1871年、イギリスでは革命は「暴力的手段なしに実現される」のではないかと質問した「ザ・ワールド」紙通信員にこたえて、つぎのようにのべている。

 「私はその点についてはあなたほど楽観的ではありません。イギリスの中間階級(ブルジョアジーのこと――引用者)は、投票権の独占を享受していたかぎりは、いつでも多数派の判定をよろこんで受けいれることを示してきました。しかし、いいですか、この階級は、それが決定的問題と考えていることで投票に敗れるやいなや、ここでわれわれは新たな奴隷所有者の戦争を経験するでしょう」。(マルクスの『ザ・ワールド』紙通信員とのインタビューの記録、マルクス・エンゲルス全集17巻、613ページ)

 マルクスは、このように支配階級の暴力的抵抗によって、「平和的」な運動が「暴力的」な運動に転化させられる危険がきわめてつよいことを認識しながらも、一方で、合法的手段によって政治権力獲得の目標を達成する可能性が存在するかぎり、労働者階級がこの道をすすみ、またその可能性を拡大するためにあらゆる努力をすることを主張し、労働者階級が自分から合法的手段を放棄し、いきなり武装蜂起の道をえらぶことにつよく反対した。「イギリスでは、[自分の]政治的な力を発揮する方法は労働者階級に開放されています。平和的な扇動のほうが敏速かつ確実に仕事をなしとげうるところでは、蜂起は狂気の沙汰です」(同前、611ページ)。すなわち、合法的、平和的手段による革命の達成の可能性を追求し、それを成功させるために努力しながら、敵がその支配を維持するために暴力にうったえてくる危険性についていささかの楽観的気分をもたず、あらゆる「敵の出方」に十分な警戒心をもって対処してゆく――これが、マルクス、エンゲルスがイギリスの労働者階級にしめした革命路線だったのである。

 なお、つけくわえておく必要があるのは、マルクス、エンゲルスが、暴力革命をほとんど不可避とみなしていたフランスやドイツなどの国ぐにでも、労働者階級が農民との同盟を基礎にして議会の多数を獲得する可能性をけっして否定せず、むしろ普通選挙権を最大限に利用してブルジョアジーを追いつめてゆくことの重要性を、強調したことである。

 たとえば、マルクス、エンゲルスは、当時、フランスを、民主共和国ではあっても、ブルジョアジーの凶暴な弾圧、階級闘争のはげしさなどのために、労働者階級は暴力革命以外にはほとんど勝利のための手段をもたない国とみなしていたが、マルクスは、ここでも、普通選挙権を駆使して、これを「欺まんの手段」から労働者階級の「解放の道具」に転化させることを、労働者党のもっとも重要な任務のひとつと規定した。(「フランス社会主義労働者党綱領」1880年、国民文庫「コータ綱領批判、エルフルト綱領批判」、114ページ)

 また、1890年代のドイツにおける労働者党の戦術についてのエンゲルスの指示もきわめて教訓的である。当時、ドイツでは、カイゼル君主制のもとで、「ほとんど全能」の政府にたいして、議会はなんらの実権をもたず、平和的手段による革命など「考える」こともできない状態にあった(エンゲルス「エルフルト綱領草案批判」、前掲)。エンゲルスは、このドイツで、暴力革命の不可避性を認識せず、議会的平和的手段による革命が可能であるかのように主張した日和見主義者たちをはげしく批判した。しかし、同時にエンゲルスは、労働者党の当面の「主要任務」を、今日の極左日和見主義者たちのように「暴力革命の思想的、政治的、組織的準備」や「議会制度の破壊」のための闘争に求めたりはせず、普通選挙権や中央、地方の議会制度などを最大限に和用しつつ、「社会の中間層、小ブルジョアや小農民の大多数を獲得して、国内の決定的な勢力に成長」すること、「この成長を不断に進行させて、ついにはおのずから今日の統治制度の手におえないまでにすること」、「この日々増強する強力部隊を前哨戦で消耗させないで決戦の日まで無傷のまま保っておくこと」に求めた(「『フランスにおける階級闘争』(1895年版)への序文」、全集7巻、534ページ)。そして、ブルジョアジーが人民の多数の意思に暴力で挑戦してくる以前に、労働者党が自分から議会制度の破壊と武力闘争の道にすすむことを、ぱかげた愚行としてきびしくいましめたのである。

 「この合法性はわれわれに大いに役だっているから、ながいあいだの前例があるように、もしわれわれがこの合法性をおかしたら、われわれはばかであろう。それよりも、もっと手ぢかにあるのは、つぎのような質問だ。暴力によってわれわれをおしつぶすために、法規法令をおかすのは、ブルジョアジーとその政府ではないか? われわれはそれを期してまつことにしよう。とにかく『どうぞおさきに射ってくれたまえ、諸君』ブルジョアよ!」。(「ドイツにおける社会主義」、1891年、マルクス・エンゲルス選集17巻、405ページ)

 資本主義国における革命の展望や労働者党がとるべき戦術についてのマルクス・エンゲルスの以上のような方針をみれば、労働者階級が議会で多数を獲得したり、合法的に政府を樹立したりする可能性をいっさい否定し、どんな場合でも下からの武装闘争による権力獲得だけを追求するのがマルクス・レーニン主義だと思いこんでいる対外盲従分子たちの議論が、いかに幼稚なものであり、マルクス・レーニン主義のいかに乱暴な偽造であるかは、きわめて明白であろう。

(2)レーニンと議会での多数の獲得の問題

 つぎに、反党対外盲従分子が、おろかにもその議論の最大の「援軍」とみなしているレーニンについてみよう。レーニンが、帝国主義段階における階級闘争の諸条件の全面的な分析と国際的な革命運動の新しい諸経験の科学的な総括とにもとづいて、マルクス主義の革命理論を大きく前進させ、すでに古くさくなったいくつかの命題や結論を新しい歴史的情勢に適応した新しい命題や結論でおきかえたのは周知のことである。そして、西沢、安斎一派や「長周新聞」一派などの「左翼」日和見主義者たちは、すでにみたように、レーニンが、ブルジョア議会で多数を獲得してから革命をおこなうべきだとした第2インタナショナルの修正主義者たちを徹底的に批判したという「事実」を、その極左日和見主義を正当化する最大の論拠としてふりかざしているのである。かれらは、たとえば、レーニンのつぎのような文章をしきりに引用する。

 「この前衛は、ブルジョア議会への、ブルジョア的憲法制定議会等々への投票によって、すなわち、賃金奴隷制が存在するところでの、搾取者が存在するところでの、彼らの抑圧のもとでの、生産手段にたいする私的所有が存在するところでの投票によって、あらかじめ人民の多数者を獲得せよと要求すること、あるいはそういうことを前提することは、実際には、プロレタリアートの独裁の立場をまったく捨てさり、事実上、ブルジョア民主主義の立場にうつることを意味する」。(「ドイツ独立社会民主党の手紙にたいするロシア共産党の回答草案」1920年3月、全集30巻、345ページ)

 だが、極左日和見主義者たちがやっているように、レーニンが、第1次大戦後のヨーロッパの革命運動に関連してのべたこの命題から、帝国主義の段階では、マルクス、エンゲルスの時代とはちがって、どんな場合でも、労働者階級がブルジョア議会で多数を獲得することは不可能になり、民主的な政府を適法的、平和的な手段で樹立するための闘争などはいっさい否定されるべきだなどという結論をひきだすことは、レーニン主義を戯画化するものである。

 第一に、レーニンは、ここで、主として当時のカウツキー主義者の主張――すなわち、労働者階級は、資本主義のもとでの投票で多数を獲得したときにはじめて権力をにぎることができるとして、議会での多数の獲得をあらゆる社会主義革命の不可欠の前提条件として要求し、ロシア革命のように、この議会的な道をへない革命を非民主的なものとして非難したカウツキー主義者の主張を批判しているのであって、労働者階級とその前衛党は、どんな場合でも投票で多数を獲得することはできないという命題を不変の原則にして、自分および将来の革命家の手をしばるようなことはしなかった。

 たとえば、レーニンは、「イタリア、フランス、ドイツの共産主義者へのあいさつ」(1919年10月、これも極左日和見主義者たちがよく援用している論文である)のなかで、プロレタリアートが革命に成功するためには、「勤労者の多数者(したがってまた、住民の多数者)の共感が無条件に必要である」ことを強調したうえで、こうした共感の有無を判定するために「ぜひとも投票をおこなうよう……『要求』している」議会主義的クレチン病患者の主張を批判して、こう書いている。「生きた生活が、現実の諸革命の歴史がしめしているところでは、どんな投票(搾取者と被搾取者との『平等』のもとで搾取者の手で施行される投票はさておき)によっても、『勤労者の多数者の共感』を証明できないばあいがきわめて多い」(全集30券、48ページ)。

 すなわち、投票での多数の獲得を無条件に「要求」するカウツキ一主義者にたいして、レーニンは、実際の革命運動では、「勤労者の多数者の共感」が投票とは別の形態(ここでレーニンは、その例として諸党のうちの一つの党の成長、ソビエト内でのその党の党員数の増大、ストライキの成功、内乱での成功などをあげている)で証明される場合が「きわめて多い」ことを主張しているのであって、「勤労者の多数者の共感」が投票によって証明される場合がありうることを、けっして否定していないのである。

 いま、極左日和見主義者たちが主張しているように、レーニンのこれらの命題から、議会での多数の獲得の可能性を原則的に否定することを、帝国主義時代の革命運動の普遍的原則にしたてあげることは、カウツキー主義者にたいするレーニンの正当な闘争を、まったく一面的で独断的な命題につくりかえることなのである。

 第二に、レーニンは、当時、労働者階級が資本主義制度のもとでの普通選挙で多数を獲得することがきわめて困難なことを、くりかえし強調しているが、それは、当時の歴史的情勢、とくに、ヨーロッパの革命運動をめぐる情勢の分析からひきだされた結論であった。

 レーニンは、論文「憲法制定議会の選挙とプロレタリアートの独裁」(1919年12月)のなかで、普通選挙でプロレタリアートが多数を獲得することをなぜ期待できないのかという理由について、つぎのようにのべている。すなわち、それは、資本主義諸国には、革命の任務を自覚したプロレタリアートの自覚的部分とならんで、多数の無自覚な非プロレタリア的勤労大衆がおり、これらの大衆と同盟してはじめて、プロレタリアートは住民の多数者を獲得することができるのであるが、この非プロレタリア的勤労大衆は、ブルジョアジーや小ブルジョア的協調派のつよい影響のもとにあり、たんなる「説得」によってではなく、権力をにぎったプロレタリアートが「搾取者の負担で非プロレタリア的勤労大衆の経済的必要を革命的に満たす」ことを実践的に経験してはじめて、プロレタリア独裁の不可避性、正当性、合法則性を確信するようになるからだというのである。

 「プロレタリアートがこれらの同盟者を獲得することは、国家権力のような道具を利用するばあいにはじめて、ブルジョアジーを打ちたおしてその国家機関を破壊したあとではじめて、可能となるのである」。(レーニン「憲法制定議会の選挙とプロレタリアートの独裁」、全集30巻、275ページ)

 このように、レーニンが、投票で多数を獲得することがきわめて困難だとみなした根底には、「労働者階級は、権力獲得以前には、非プロレタリア的勤労大衆の多数を味方にかちとることはできない」という認識があるが、この前提は、明らかに当時のヨーロッパの革命運動が当面していた歴史的情勢からひきだされた結論であった。当時の情勢の主要な特徴は、(イ)第1次世界大戦の破壊的な諸結果とロシア革命の勝利によって世界の資本主義体制が大きな打撃をうけ、ヨーロッパ全体が、深刻な革命的危機に直面し、ドイツ、ハンガリーなど一連の国ぐにでは、国内戦の状態さえうまれつつあったこと、(ロ)革命運動が、全体として民主主義革命の任務をではなく、社会主義革命とプロレタリア独裁の樹立の任務を、直接の日程にのぼせていたこと、(ハ)労働者と小ブルジョア大衆のかなりの部分を影響下におき、議会内でも多くの議席をもっていた社会民主主義政党が、社会主義の事業を裏切って、第1次大戦では、帝国主義戦争支持の立場を、戦後の革命的危機のもとでは、資本主義制度擁護の立場をとって、革命運動に敵対していたこと、(ニ)イギリスをのぞく多くの資本主義国で、労働者階級が人口の多数をしめていなかったこと、などの点にあった。こうした情勢のもとで、カウツキー主義者が主張していたように、労働者階級は投票で多数を獲得するまで権力をにぎってはならないなどと主張することが、革命を裏切り、危機にひんしていた資本主義体制の再建の手助けをすることでしかなかったことは当然である。

 しかし、同時にまた、この結論が、帝国主義時代のあらゆる時期のあらゆる革命に機械的にあてはめられるものでないこともまた、明白である。たとえば、ここで最大の問題とされている非プロレタリア的勤労大衆の革命にたいする態度の問題にしても、けっして固定的なものではない。それは国内的、国際的な情勢の発展、当面する革命の性格、労働者階級とその前衛党の闘争、統一戦線の状態などによって変化するきわめて可変的なものである。とくに、今日の日本のように、労働者階級のまえに、当面の中心的任務として、民族独立、民主主義の擁護、政治、経済の民主主義的変革などの民主主義的任務が提起され、社会主義革命とプロレタリア独裁のための闘争ではなく、民族的民主主義的綱領のもとに広範な人民を民主主義的な統一戦線に結集して民主主義革命を達成し、それをつうじて社会主義への道をきりひらくことが問題になっている場合には、事情が根本的にことなってくることは、だれにも容易に理解できるであろう(しかもレーニンは、当時でさえ、労働者階級が住民の多数の支持を獲得してから権力の獲得にすすむ場合が、「歴史上まれな例外」としてはありうることをみとめていたのである――同前、全集30巻、274ページ)。このことを無視して、第1次大戦後の主としてヨーロッパの革命運動についてレーニンが主張した命題を、帝国主義時代の全時期をつうじて、あらゆる革命を律する不変の「原則」にまでたかめ、議会で多数を獲得したり、議会を基礎にして統一戦線政府を樹立したりする可能性を絶対みとめてはならないと主張する反党対外盲従主義者たちが、革命運動の歴史的諸条件をなにひとつ考えずに、レーニンの引用を盲滅法にふりまわすだけの最悪の教条主義におちいっていることは明白であろう。

 第三に、レーニンは、議会での多数の獲得をきわめて困難とみた当時の歴史的情勢のもとでさえ、今日の反党対外盲従分子と同じように議会闘争を軽蔑した「左翼」セクト主義者たちをきびしく批判し、議会制度や普通選挙の利用が、労働者階級の革命運動の前進のために欠くことのできない課題であることを力説した。極左日和見主義分子がその「反議会主義」の「論拠」としてしきりに引用している「イタリア、フランス、ドイツの共産主義者へのあいさつ」などの論文自体、カウツキー派などの議会的日和見主義にたいする機械的反発から、ブルジョア議会への参加に反対するという「反議会主義」的気分にとらえられた、ヨーロッパの共産党内の「左翼」日和見主義的傾向への批判をひとつの主な目的にして書かれたものであった。また、レーニンは、この論文を書いたのと同じ1919年に、議会制度の歴史的意義について、つぎのようにのべている。

 「民主的共和制と普通選挙権とは、農奴制度に比べれば巨大な進歩であった。それらは、プロレタリアートに、いま彼らがもっているあの団結、あの結束をなしとげ、いま資本にたいする組織的闘争をおこなっているあの整然たる、規律ある隊列をつくる可能性をあたえた。……資本主義がはじめて、都市文化のおかげで、被抑圧階級であるプロレタリアに自分自身を認識する可能性をあたえ、大衆の闘争を意識的に指導しているあの世界的労働運動を、全世界で党に組織されているあの幾百万の労働者を、あの社会主義諸党をつくりだす可能性をあたえたのである。議会制度がなかったなら、選挙制がなかったなら、労働者階級のこのような発展は不可能であったろう」。(「国家について」1919年7月、全集29巻、493~494ページ)

 ところが、極左日和見主義者たちは、こっけいにも、このレーニンの名で自分たちの議会闘争否定論――「反議会主義」を合理化しようとしているのである。

(3)統一戦線政府の歴史的経験

 実際、レーニンの名によって、議会での多数の獲得や議会を基礎にした統一戦線政府の樹立を原則的に否定する教条主義者たちの誤りは、その後の国際共産主義運動の歴史的経験によって、現実に立証されている。

 レーニンの指導のもとに、第3回世界大会(1921年)以後、第2インタナショナルおよび第2半インタナショナルなどとの統一戦線のための闘争にとりくんできたコミンテルンは、レーニンが指導した最後の大会であった第4回世界大会(1922年)において、この統一戦線戦術から不可避的に生じる結論として、統一戦線政府を樹立する政治的課題とその可能性の問題を討議し、とくに、「ブルジョア社会がとくに不安定な諸国、労働者政党とブルジョアジーのあいだの力関係から、だれが政府をつくるかという問題の解決が、当面の実践的な必要となっている諸国」では、労働者の統一戦線にもとづく「労働者政府」――統一戦線政府のための闘争が、大きな政治的意義をもっていることを明らかにした。ここで、とくに重要なことは、大会が、ブルジョア権力が打倒され、労働者階級が権力をにぎる以前に、「労働者政府」が樹立される場合があることをはっきりみとめたこと、そして、この統一戦線政府がなによりもまず議会外の大衆闘争を基礎にしてつくりあげられることを主張しながら、同時に純粋に議会内の諸政党の新しい連合による多数にもとづいて樹立される可能性もあり、その場合においてさえ統一戦線政府の樹立が革命運動の発展をさらに有利にする契機となりうることを指摘していたことである。

 「このような労働者政府は、それが大衆闘争のなかから生まれ、労働者大衆のもっとも抑圧された部分がつくりだした、闘争力ある労働者諸組織に支持されるばあいにのみ、可能である。労働者政府は、それが、議会内での事態の転換によって生まれ、したがってその起源がまったく議会内にあるというばあいでも、革命的労働運動を活気づける機会をあたえることができる」。(コミンテルン第4回大会の「戦術にかんするテーゼ」)

 レーニンの理論的、政治的指導のもとにおこなわれた、統一戦線政府についてのコミンテルン第4回大会の決定は、自分たちの「反議会主義」をこともあろうにレーニンによって正当化しようとする極左日和見主義者たちの議論を、決定的に粉砕するものということができる。

 統一戦線政府のための闘争は、レーニンの死後、コミンデルンの戦術方針から一時期すがたを消したが、1935年のコミンテルン第7回世界大会は、ドイツにおけるファシズムの権力獲得という新たな情勢のもとで、レーニンのこの思想をふたたびとりあげ、それをいっそう発展させた。

 当時、世界資本主義の全般的危機のふかまりを背景に、ほとんどすべての資本主義諸国で、人民は、ブルジョア民主主義の諸制度を一掃してファシズム独裁をうちたて、新たな帝国主義世界戦争に道をひらこうとする凶暴な金融資本の攻撃に直面していた。

 ファシズムはイタリア(1922年)につづいて、1933年には、ドイツでも権力を獲得したが、ドイツにおけるヒトラーの権力獲得は、ファシズム独裁が人民になにをもたらすかを、全世界の人民のまえにきわめて具体的にしめした。ヒトラーは、政権獲得後、ただちに、共産党だけでなく、ファシズムに妥協的態度をとっていた社会民主党をも解散させ、多数の共産主義者、民主主義者を投獄し、暴力で労働組合などあらゆる大衆的民主運動を圧殺し、文字どおりの反動的テロ支配をうちたてて、勤労大衆の犠牲のうえに帝国主義的侵略戦争への道をまっしぐらにすすみはじめた。ファシズムのこうした凶暴な攻撃は、資本主義諸国の情勢を大きく変化させ、反ファシズム、民主主義擁護の任務を労働者階級の当面の最大の任務とするとともに、共産党が社会民主主義政党その他の政党と民主主義的な統一戦線を結成し、独占資本とファシズムに反対する統一戦線に人民の多数を結集することのできる新しい条件をつくりだした。

 こうした情勢のもとで、1935年7月、コミンテルン第7回大会がひらかれた。この第7回大会は、ファシズムの攻勢を粉砕して、民主主義、平和、勤労者の生活を守ることが、各国の労働者階級と共産党の当面の中心任務となってきたことを明らかにし、労働者階級を先頭に勤労農民、都市小ブルジョアジー、インテリゲンチアなど広範な人民を民主主義的な共同綱領のもとに結集して反ファシズム人民戦線を樹立することをめざす統一戦線政策を明確にうちだした。そして第7回大会は、政治的危機の一定の条件のもとでは、独占ブルジョアジ―の権力が革命的に打倒される以前に、反ファシズム人民戦線にもとづく統一戦線政府の樹立が可能であり、かつ必要ともなることを、明らかにしたのである。

 「大衆運動の高揚とともに、プロレタリアートの利益のために、プロレタリア統一戦線政府もしくは反ファッショ人民戦線政府――それはまだプロレタリア独裁の政府ではないが、ファシズムと反動にたいする決定的な措置の実現をひきうける政府である――が可能であり、かつ必要であるとみなされる場合には、共産党はそういう政府が樹立されるようにとりはからわなければならない」。(コミンテルン第7回大会決議「ファシズムの攻勢とファシズムに抗する労働者階級の統一のための闘争における共産主義インタナショナルの任務」)
 「われわれは、プロレタリア統一戦線政府もしくは反ファッショ人民戦線政府の樹立が可能なだけでなく、プロレタリアートの利益からみて必要であるような情勢がおこる可能性をみとめるものである。……私はここで、プロレタリア革命の勝利後に樹立されるような政府のことをいっているのではない。……私はソビエト革命の勝利の前夜に、またその以前に、可能性のある統一戦線政府についていっているのである。
 この統一戦線政府はどういう種類の政府であろうか? またどういう情勢のもとでこういう政府は問題となりうるのであろうか?
 それはなによりもまず、ファシズムに反対し、反動に反対する闘争をおこなう政府である。それは、統一戦線運動の結果うまれ、かつ共産党と労働者階級の大衆団体の活動を制限せず、逆に反革命的な金融王やそのファシスト的な手先にたいし断固たる措置をとるような政府でなければならない。
 その国の共産党は、増大しつつある統一戦線運動に依拠しながら、適当な瞬間に、一定の反ファシズム綱領にもとづき、そラいう政府の樹立を宣言するであろう」。(ディミトロフ「ファシズムの攻勢と共産主義インタナショナルの任務」、コミンテルン第7回大会での報告)

 このコミンテルン第7回大会の翌年、1936年には、フランスとスペインで、人民戦線が総選挙でファシスト右翼や中間勢力をおさえて投票と議席の過半数をかちとり、統一戦線政府を樹立することに成功した。フランスとスペインにおけるこの経験は、共産党と統一戦線勢力が議会で多数をしめて統一戦線政府を合法的に樹立することが一定の条件のもとでは現実に可能であることを実践によってはじめて具体的に実証したものとして、国際共産主義運動の歴史のなかでもきわめて重要な意義をもつ経験であった。

 フランスでは、ドイツにおけるヒトラーの成功にはげまされたファシスト反動は、独占ブルジョアジーの支持のもとに、共和制を破壊しファシズム独裁をうちたてるために、1934年2月、パリで暴動をくわだてた。これにたいして、フランスの労働者階級は、共産党のよびかけにこたえ、社会党指導部や労働組合右翼幹部の動揺や妨害をのりこえて、ファシズムの攻勢に対抗する巨大な統一行動にたちあがり、また、大資本によって経済生活と自由をおびやかされていた農民や都市小ブルジョアジーの広範な層のあいだでも、大資本の抑圧に反対しファシズムに反対する要求と闘争が強まった。こうして、ファシズムの差し迫った脅威に直面して、フランスには、広範な勤労人民を「パンと自由と平和」のための共同のたたかいにたちあがらせ、反ファシズムの共同綱領のもとに、労働者階級の統一、「労働者階級と中産階級の同盟」を実現し、人民の多数を反ファシズムの統一戦線に結集することのできる情勢が、急速につくりだされた。

 このような情勢と労働者を先頭とする全国的な大衆闘争の前進の圧力のもとに、1934年7月、共産党と社会党のあいだで行動統一協定が調印され、ついで1935年には、急進社会党や労働組合その他の社会団体もくわわって、反ファシズムの人民の統一戦線=人民戦線が成立した。人民戦線の成立は、労働者階級と人民の反ファシズム闘争をさらに前進させ、ファシズムと大資本の攻勢をうちやぶる大きな力となり、1936年4~5月の国会選挙では、人民戦線は大勝利を博した。すなわち、共産党、社会党、急進社会党を中心とする「人民連合」は、総投票数980万票のうち550万票(うち共産党150万票)をえ、議席では610議席のうち375議席(うち共産党72議席)をしめ、右翼諸党を圧倒して得票と議席の過半数を獲得することに成功したのである。そして、この選挙結果にもとづいて、社会党のブルムを首班に、人民戦線に基礎をおく一種の統一戦線政府――いわゆる「人民戦線内閣」がつくられた。共産党は、この政府に閣僚をおくらなかったが、必要な批判をしながら、これを積極的に支持する態度をとった。

 選挙における人民戦線の勝利と人民戦線の支持する内閣の成立は、労働者階級の全国的なストライキをはじめ、人民の自覚と闘争の新たなたかまりをひらいた。人民戦線に支持されたブルム内閣は、人民の大衆闘争の支持と圧力のもとに、ファッショ団体の解散、賃下げなしの週40時間労働制と有給休暇、団体協約権の確立、恩給年金切下げの停止、フランス銀行の改革、軍需工業の国営化、失業救済の大土木工事など、人民戦線綱領にふくまれていた、人民の差し迫った要求にこたえる一連の民主的諸政策を実行した。

 フランスの「人民戦線内閣」は、その後、人民戦線に対抗する独占ブルジョアジーの圧力、これと結びついた急進社会党、社会党幹部の動揺と裏切りなどのために、内政面でも、外交面でも一連の後退をつづけ、人民戦線綱領をつぎつぎと放棄して次第に統一戦線政府としての性格をうしない、1938年には、ヒトラー・ドイツによるヨーロッパ侵略を公然と許した「ミュンヘン協定」の締結に前後して、急進社会党が人民戦線からの脱退を宣言し、人民戦線自体が解体されるにいたった。人民戦線のこうした後退と崩壊の根本には、当時の内外情勢の制約とともに、のちにフランス共産党自身が自己批判しているように、工場、地域を基礎にした人民戦線委員会の全国的組織を十分発展させることができず、けっきょく上層部での話しあいが統一戦線の主要な形式になってレまったという、人民戦線の基本的な弱点がよこたわっていた。

 しかし、こうした結末にもかかわらず、この人民戦線とその選挙での勝利が、ファシズムと大資本の攻勢から民主的自由と人民の利益を守り、労働者階級と人民の闘争を前進させるうえで、積極的な役割をはたしたことは、明白な事実である。フランスにおける人民戦線の経験は、コミンテルン第7回大会が各国の党と労働者階級のまえに提起した展望――党と統一戦線勢力が議会で多数をしめて統一戦線政府を樹立し、議会と政府を、ファシズムと独占資本に反対するたたかいに活用するという展望がたんに理論上可能であるだけでなく、一定の条件のもとでは現実に可能であることを実践によって具体的にしめした最初の経験のひとつとして、国際的にも大きな意義をもち、世界の反ファッショ民主勢力をはげまし勇気づけたのである。

 さらに、スペインの経験は、党と民主勢力が議会の多数を獲得して統一戦線政府を樹立したというだけではなく、この統一戦線政府が、ファシズムと反動にたいする闘争をつうじて、民主主義的な革命権力に転化していったという点で、とりわけ大きな意義をもっていた。

 スペインの当時の情勢は、1931年に王制が打倒され、共和制が実現されたものの、国内では封建的反動勢力がひきつづき大きな力をもち、国は未解決のブルジョア民主主義革命の課題に直面したまま、封建的反動と結合したファシズムの攻勢におびやかされていた。こうした情勢のなかで、スペインの労働者階級は、たび重なる弾圧、とくに1934年の武装蜂起の敗北の痛手にも屈せず、共産党のはげましのもとに、1935年以来強力な人民戦線運動を組織し、1936年1月には、社会党、共産党、左翼共和派、労働組合などのあいだに人民戦線協定を成立させた。この人民戦線は、労働者、農民をはじめ、スペインの民主的前進をのぞむ人民の大多数を代表していた。1936年2月の国会選挙で、人民戦線は、反動勢力をうちやぶり、473議席のうち、269議席を獲得した。こうして、人民戦線が国会の議席の多数をしめることを基礎にして、左翼共和党のアサニャを首班に、人民戦線諸党の支持をうけたブルジョア民主主義政府がつくられた。これにたいして、フランコを中心とするスペインのファシスト反動派は、民主主義革命の前進を暴力でおしつぶすために、ドイツのヒトラー政府とイタリアのファッショ政府の援助のもとに、1936年7月、全国的な反乱を開始した。そして、この緊迫した情勢のもとで、9月、ブルジョア共和政府にかわって共産党員の閣僚をふくむ人民戦線政府が成立した。この人民戦線政府は、スペイン・ファシストおよびドイツ、イタリアの干渉軍にたいするはげしい共和国防衛の戦争を遂行しつつ、人民の支持とますます大きくなる共産党の指導的役割のもとで、急速に組織された労農義勇兵と共和国に忠誠をしめしつづけた幹部将校、兵士を中心に、新しい革命的民主的軍隊をつくりあげ、中央、地方の国家機構を根本的に民主的に変革し、さらに、反乱に加担した地主、企業家の土地や工場の没収、徹底した土地改革、勤労者の民主的権利の保障、基幹工業部門の国有化など、独占資本や大地主の経済的支配を打破して人民の経済的必要をみたす措置をとるなど、一連の革命的民主的な政策を実行した。こうして、国内戦の砲火のなかで、統一戦線政府は民主主義的な革命権力に転化してゆき、スペイン共和国は、人民が権力をにぎる新しい型の民主共和国に発展していったのである。

 この民主共和国は、人民戦線自体が、右翼降伏主義分子や、無政府主義者、トロツキストなどの極左分子による重大な内部的弱点をもち、さらに国際的にも、各国の共産党員、反ファシストによる国際義勇軍の支援という壮挙にもかかわらず、世界の反帝平和、民主主義と社会主義の勢力が国際的な力関係でまだ相対的に劣勢にあったという事情もあって、1939年3月、共和国の最後の拠点マドリードの陥落を最後に、その発展を完成しないまま、スペインのファシスト反動派と独伊ファシスト干渉軍の武力によって消滅させられた。

 フランスとスペインの人民戦線政府は、どちらも、人民戦線内部の弱点、とくに右派諸党の動揺や裏切り、国際的な不利な条件などのために、その任務を完遂しえずに、中途で挫折した。しかし、それは、統一戦線政府がその任務を確実にはたすためには、共産党と労働者階級がいっそう大きな指導的役割を発揮し、人民の統一戦線を真に広範で強固なものとする必要があることをおしえているのであって、この挫折の事実が、統一戦線政府の最初の経験としての歴史的意義をうしなわせるものでないことは、いうまでもない。フランスとスペインの人民戦線の経験、とくにスペイン革命の経験は、反動とファシズムに反対して人民の大多数を団結させるならば、議会で多数をしめて統一戦線政府を樹立することが可能であることを現実にしめした。それはまた、共産党と労働者階級の指導的役割が十分に発揮される条件のもとでは、この統一戦線政府を革命権力に向かって前進させ、独占資本や地主の支配を打破する革命の諸任務を遂行することができることを実際にしめした。さらにそれは、ソビエト共和国ではなく、普通選挙にもとづく国会を最高機関とする民主共和国が、人民の民主主義的権力の国家形態となることができることを具体的に明らかにした。これらの点で、フランスとスペインの人民戦線の経験は、国際共産主義運動に、あたらしく大きな政治的教訓をのこしたのである。

 以上、国際共産主義運動の若干の歴史的経験をふりかえってきたが、これを全体としてみるならば、どんな場合でも議会に多数をしめることを問題にすることは「修正主義」だとか、マルクス・レーニン主義は、下からの武装闘争による革命政府の樹立以外の手段はいっさいみとめていないなどという反党対外盲従主義者たちやかれらを支持激励する中国共産党の極左日和見主義、教条主義分子の主張が、どんなにばかげた、反マルクス・レーニン主義の議論であるかは、もはやまったく明白であろう。レーニンは、世界のそれぞれの国が社会主義革命にすすんでゆく道すじは、けっして画一的なものではありえず、その国の経済、政治、文化などの独特の特徴に応じて多様なものとなることを指摘し、その国における、「プロレタリア革命への移行あるいは接近の形態を見つけ出す」ことが、各国の共産主義者のもっとも重要な任務であることを強調した。そして国際共産主義運動の歴史的経験は、一定の歴史的条件のもとでは、議会を活用した統一戦線政府の樹立のための闘争が、資本主義国における「プロレタリア革命への移行あるいは接近の形態」となり、これによって革命の条件を有利にすることができることを、はっきりとおしえているのである。

 世界の共産党・労働者党が一致して採択した1957年の宣言と1960年の声明は、第2次大戦後の歴史的情勢のもとで、一連の資本主義諸国で、労働者階級が人民の大多数を統一戦線に結集することを基礎に、議会で安定した過半数をかちとり、議会を「勤労人民に奉仕する道具」にかえる展望が、うまれていることを指摘し、これらの資本主義諸国の共産党にとっては、社会主義への平和的移行の可能性の実現のために努力しつつ、支配階級の出方におうじて非平和的移行に対処しうる警戒心を堅持するという原則的態度の重要なことを明らかにした。わが党が、1966年12月23日付『赤旗』主張「81ヵ国共産党・労働者党代表者会議の声明の6周年を記念して」で明らかにしたように、この宣言と声明は、現代修正主義の潮流をはじめ各種のあやまった潮流との思想的、理論的闘争をつうじてたたかいとられた、国際共産主義運動の歴史的な文書である。そこには、これらの闘争の経過を反映して、ソ連共産党やソ連共産党第20回大会にたいする評価など、部分的には、不適切な評価や命題ものこっているが、宣言と声明が、今日、世界の共産主義運動、革命運動が当面する一連の根本問題についてあたえている定式化は、誤った路線を国際共産主義運動全体におしつけようとしたフルシチョフら現代修正主義の潮流のくわだてをうちやぶってかちとられた、マルクス・レーニン主義の重要な成果である。宣言と声明は、革命の移行形態の問題について、つぎのようにのべているが、これは、マルクス・レーニン主義からの逸脱であるどころか、基本的にはマルクス以来の国際共産主義運動の歴史的経験からの教訓に合致したものであり、マルクス・レーニン主義を今日の情勢に創造的に適用した国際共産主義運動の共通の理論的到達点をあらわしたものである。

 「労働者階級とその前衛であるマルクス・レーニン主義党は、平和的な方法で社会主義革命をやりとげようとしている。この可能性を実現することは、労働者階級と全人民の利益に、民族全休の利益に合致する。
 現在の条件のもとでは、一連の資本主義諸国で、前衛部隊にみちびかれる労働者階級は、労働者の統一戦線および人民戦線、その他あらゆる形態のいろいろな政党や社会団体の協定や政治的協力にもとづいて、人民の大多数を統一し、内戦なしに国家権力をにぎり、基本的な生産手段を人民の手にうつすことのできる可能性をもっている。人民の大多数をよりどころにし、資本家や地主との妥協政策をすてることのできない日和見的分子に断固たる反撃を加えることによって、労働者階級は、反動的反人民的勢力を敗北させ、議会で安定した過半数をかちとり、ブルジョアジーの階級的利益に奉仕する道具である議会を、勤労人民に奉仕する道具にかえ、議会外のひろい大衆闘争をくりひろげ、反動勢力の抵抗を粉砕して、社会主義革命を平和のうちに実現するために必要な条件をつくりだす可能性をもっている。だが、これはすべて、大独占資本に反対し、反動勢力に反対し、深刻な社会改革をめざし、平和と社会主義をめざす、労働者、農民大衆、都市中間層の階級闘争の、ひろい、たゆみない発展によってこそ可能になるものである。
 搾取階級が人民にたいして暴力にうったえてくる場合には、べつの可能性、すなわち、社会主義への非平和的移行の可能性をも考えにいれなければならない。レーニンが教えているように、また歴史の経験が証明しているように、支配階級は、みずからすすんで権力をゆずりわたすものではない。このような条件のもとでは、階級闘争のはげしさの程度とその形態は、プロレタリアートにかかっているのではなくて、むしろ人民の圧倒的多数の意思にたいする反動勢力の抵抗力、社会主義をめざすたたかいのあれこれの段階で反動勢力が暴力をつかうかどうかにかかるのである。
 それぞれの国で、社会主義へ移行するどちらの方法が現実に可能であるかは、具休的な歴史的条件によってきまる」

四、日本共産党綱領と国会の問題

(1)日本革命の具体的諸条件

 前章でみたような国際共産主義運動の歴史的教訓がしめすように、当面する日本革命の前進の過程で国会がどんな役割をはたしうるかについて、マルクス・レーニン主義的な結論をひきだすためには、内外の極左日和見主義、教条主義分子たちがやっているように、ただ、米日反動が軍隊や警察などの暴力装置をにぎっている事実や、今日の国会のブルジョア的性格を指摘するだけではきわめて一面的で不十分である。われわれは、今日の日本における政治的、経済的諸条件の総体、とくに、当面する革命において労働者階級が人民の大多数を結集しうる条件をもっているかどうかの問題、国家機構全体のなかで制度上国会がどのような地位と権限をもっているかという問題、人民の多数の意思にたいして反動勢力が暴力をもって挑戦する危険の問題などを、全面的に分析しなければならない。

 では、今日の日本の諸条件は、これらの問題でどのような展望をあたえているだろうか。

 (1)第一に指摘しなければならないのは、今日の日本には、レーニンが指摘した、第1次大戦後におけるヨーロッパ諸国の革命運動が当面していた情勢とはちがって、人民の大多数を、アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配に反対する人民の統一戦線――民族民主統一戦線に結集することの可能な条件が、現実に存在していることである。

 わが党の綱領は、高度に発達した資本主義国でありながら、アメリカ帝国主義になかば占領された事実上の従属国となっている日本の現状の全面的な分析にもとづいて、日本の当面する革命が「アメリカ帝国主義と、日本の独占資本を中心とする勢力の反民族的な反人民的な支配を打破し、真の独立と政治・経済・社会の徹底的な民主主義的変革を達成する革命」であることを明らかにするとともに、この民主主義革命への前進をめざす当面の中心任務として、人民の要求と闘争を発展させ、そのなかで、労働者、農民をはじめ圧倒的多数の日本人民を民族民主統一戦線に結集することの重要性を強調している。

 「当面する党の中心任務は、アメリカ帝国主義と日本独占資本を中心とする売国的反動勢力の戦争政策、民族的抑圧、軍国主義と帝国主義の復活、政治的反動、搾取と収奪に反対し、独立、民主主義、平和、中立、生活向上のための労働者、農民、漁民、勤労市民、知識人、婦人、青年、学生、中小企業家をふくむすべての人民の要求と闘争を発展させることである。そしてそのたたかいのなかで、アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配に反対する人民の強力で広大な統一戦線、すなわち民族民主統一戦線をつくり、その基礎のうえに独立・民主・平和・中立の日本をきずく人民の政府、人民の民主主義権力を確立することである」。(日本共産党綱領)

 綱領がここで正しく指摘しているように、革命がどのような発展の道すじをたどるとしても――平和的形態をとるにしても非平和的形態をとるにしても――、人民の大多数を反帝反独占の統一戦線に結集することは、日本における民主主義革命の勝利の欠くことのできない大前提をなすものである。レーニンは、「資本主義が発達し、最後の1人まで民主主義的文化と組織性とがあたえられている国」(ロシア共産党第7回大会での戦争と平和についての報告(全集27巻、94ページ))では、革命をはじめることは、ロシアの場合より困難であり、革命の勝利をかちとるためには労働者階級、被搾取勤労大衆の多数を獲得することによって、より根本的に革命を準備することを歴史は要求していると指摘した。

 「資本主義的に発展した国ぐにでプロレタリアートが組織されていればいるほど、われわれがそれだけ根本的に革命を準備することを歴史は要求しており、そしてわれわれはそれだけ根本的に労働者階級の多数者を獲得しなければならない」。(レーニン、コミンテルン第3回大会での「ロシア共産党の戦術についての報告」全集32巻、513ページ)
 「勝利するためには、権力を維持するためには、労働者階級の多数者にとどまらず、農村の被搾取勤労住民の多数者を獲得しなければならない」。(レーニン、コミンテルン第3回大会での「戦術を擁護する演説」、全集32巻、508ページ)

 もちろん、高度に発達した資本主義国である日本で、人民の大多数を革命の側に獲得するということは、けっして容易なしごとではない。それは、第10回党大会にたいする中央委員会の報告が、全体として明らかにしているように、何百万、何千万の労働者、農民、市民、青年、学生、婦人などの大衆闘争を発展させ、強大な大衆組織を建設し、全人民的な統一行動、統一戦線を発展させる活動、大量の宣伝機関をにぎる米日反動勢力の思想攻撃や社会民主主義など各種の日和見主義的潮流の影響を克服するための、正確でち密な説得力のある思想・理論闘争と多様な文化分野での活動、国会と地方議会に積極的に議席をしめ、議会内の闘争と議会外の大衆闘争と結びつけて、人民の利益を守るためにたたかうこと、数百万、数千万の大衆と結びつき、その先頭にたつ強大な大衆的前衛党を建設する闘争など、党と自覚的な革命勢力による長期にわたる多面的な不屈のたたかいをつうじて実現することのできる課題である。

 しかし、この課題の実現の過程がどんなに複雑で屈折した道をたどるにしても、今日の日本の政治的、経済的な諸条件は、人民の大多数を強大な反帝反独占の統一戦線に結集することのできる客観的な可能牲をあたえている。第一に、対米従属下での軍国主義、帝国主義復活の急速な進行は、人民の階級分化を促進し、人口のなかでの労働者階級の比重をますます増大させている。1965年の「就業構造基本調査」をもとに計算すると、わが国の有業人口(収入を目的とした仕事をもっているものの総数)の構成は、労働者56・2パーセント、農漁民25・2パーセント、勤労市民12・9パーセントとなっており、労働者階級は、すでに住民の過半数をしめている。しかも、農民のなかでは、貧農と農村労働者が75-8Oパーセントをしめており、これをあわせれば、わが国では、プロレタリアート、半プロレタリアートはすでに優に人ロの約4分の3という、圧倒的な比重をしめているのである。第二に、今日、日本の革命運動が当面しているのは、直接資本主義制度の廃止をめざす社会主義革命ではなく、民族の真の独立と徹底した民主的変革の実現をめざす反帝反独占の民主主義革命である。この革命は、労働者、農民をはじめとして、勤労市民、知識人あるいは婦人、青年、さらには、中小企業家などブルジョアジーの一定の部分をもふくめて、圧倒的多数の人民の利益に合致するものである。そして、対米従属的な国家独占資本主義のもとでの、広範な人民諸階層にたいするアメリカ帝国主義と日本独占資本の二重の搾取と収奪、日本を拠点としたアメリカ帝国主義のアジア侵略政策の展開と、日本軍国主義の復活強化、小選挙区制と憲法改悪、日米軍事同盟の延長強化など、日本の独立、平和、民主主義にたいする米日支配層の新たな挑発にあらわれているような、わが国をめぐる政治・経済情勢の発展は、アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配が、日本人民、日本民族の利益とますますあいいれないものとなり、独立、民主、平和、生活向上をめざす日本人民の要求を根本的に実現する道が、反帝反独占の民主主義革命の達成をつうじて以外にありえないことを、ますます明らかにしつつある。

 わが国の情勢のこれらの特徴は、今日の日本には、党と自覚的な革命勢力がねばりづよいがん強な闘争をおこなうならば、米日支配層と自民党、さらにそれに追従する政治勢力の影響をうちやぶって、かれらを政治的に孤立させ、人民の多数を、党と労働者階級の指導のもとに、民族民主統一戦線に結集することのできる客観的条件、したがってまた、普通選挙権を活用して党と統一戦線勢力が、投票で多数を獲得することを可能にする客観的条件が存在しており、しかもそれがますます強められていることをはっきりしめすものである。

 ここに、レーニンが投票による多数の獲得はきわめて困難だと指摘した第1次大戦直後のヨーロッパ諸国の革命運動がおかれた歴史的条件と、今日のわが国の革命運動がおかれている歴史的条件との根本的なちがいのひとつがある。このちがいを無視して、レーニンの当時のある言葉を教条主義的にふりまわし、今日のわが国で、党と統一戦線勢力が国会で多数をしめうる可能性を全面的に否認しようとする極左日和見主義者たちは、「労働者階級は権力を獲得するまえには人民の多数者を味方にひきつけることはできない」という命題が、そのまま今日の日本にあてはまるとでも考えているのだろうか。もし、そう考えているのだとしたら、それは、米日反動勢力に反対する日本人民の闘争の発展や、その政治的自覚の成長を信じることのできないかれらの受動的な敗北主義の見地を暴露する以外のなにものでもない。そして、高度に発達した資本主義国で、反帝反独占の民主主義革命に当面している日本において、人民の多数者を革命の側に獲得するという、民主主義革命の勝利の不可欠の前提をなすこの任務を軽視したり、このことをはなれてあれこれの一揆主義的な「革命闘争」なるものを夢想したりするものは、どんなに「革命的」な言葉で身をかざったとしても、その主張はけっきょく、革命が数百万数千万の大衆の事業であることを理解できず、革命勢力を広範な人民から孤立させる冒険主義の道にたつものにほかならない。

 (2)第二の重要な問題は、現在の日本の国家機構のなかで、国会が、憲法上、政府首班の指名権をはじめ、大きな権限をもっていることである。

 戦前の日本にも議会は存在したが、それは、きわめてかぎられた権限しかもたない、「天皇制独裁の有機的構成部分」(32年テーゼ)にすぎず、基本的には、絶対主義的天皇制の軍事的警察的支配をおおいかくすイチジクの葉の役割をはたすものでしかなかった。世界の少なくともいくらか主要な国で、議会制度がこれほどあらゆる民主主義的権利から「自由」であり、これほど憲法上の保障から「清掃」されている国はないということは、当時、国際共産主義運動の常識になっていた。

 だが、現在の日本では、現行憲法によって、国会には、戦前の帝国議会と大きく異なる新しい地位と役割があたえられた。第一に、国会は、衆議院および参議院による2院制をとっているが、両院とも、直接、平等、秘密の普通選挙によって選出されることが、憲法上保障されることになった。第二に国会は、憲法上「国の唯一の立法機関」と規定され、内閣による政令の公布や外国との協定の締結、地方自治体による条例の制定などの例外はあるが、全面的な意義をもつ主要な法律や条約はすべて国会の議決をへて制定あるいは批准されることとなった。最高裁判所が違憲審査の権利をもっている以外は、政府をはじめ他のいかなる国家機関も、国会の議決にたいする明白な拒否権をもっていない。第三に、行政権をにぎる政府についても、内閣総理大臣の選出は、国会でおこなわれることとされ、憲法上は、どんな場合にも、国会の承認なしに政府をつくることはできないようになった。これらの事実は、現在の国会が、ブルジョア議会としての弱点と制約を当然もっているとはいえ、今日の日本国家のなかで、政治的、法制的に重要な役割をはたしていることをしめしている。

 いうまでもなくあらゆる国家で政治権力の真の所在は、軍隊、警察などの暴力機構を中心にした執行機関を、だれがにぎっているかにある。しかし、アメリカ帝国主義と日本独占資本が、その反民族的、反人民的な支配に「国民の同意」による支配という欺まん的な形式をあたえることができたのは、かれらの利益を代表する政治勢カ―自民党が、国会で多数をしめているためである。日本の国家権力は、従属国の国家権力として、国家機構全体が日米安保条約、サンフランシスコ「平和」条約などによるサンフランシスコ体制のもとにおかれているが、サンフランシスコ条約以前のアメリカ軍による「全一的支配」の時期とはちがって、これらの超憲法的な諸条約とそれにもとづくサンフランシスコ体制にしても、国会でそれが批准されたということをもって、その最大の「合法的」根拠としているのである。

 今日の日本の国家機構のなかで、国会がこういう重要な役割をはたしている以上、わが党が、国会を、米日反動勢力と日本人民のあいだの全国的な政治闘争の重要な舞台の一つとして重視し、党と統一戦線勢力が国会で積極的に議席をしめ、議会外の大衆闘争と結びついて、国会内でも米日支配層の反民族的反人民的政策に反対し、国会における自民党の多数支配をくつがえすたたかいに、重要な意義をあたえていることは、当然である。レーニンがおしえているように、議会体制が確立され、議会が「支配階級と支配勢力の主要な支配形態」、「社会的=政治的利害の主要な闘争舞台」の一つとなったときには、「もっとも真剣な態度で議会政治ととりくみ、『国会』選挙と『国会』そのものに参加」し、議会内の闘争と議会外闘争を結びつけてたたかうことが、広範な大衆を獲得し、革命を根本的に準備するための労働者党の重要な任務となるのである。(「カデットの勝利と労働者党の任務」、全集10巻、220ページ)

 だが、今日、わが国における国会闘争、選挙闘争の重要性は、これにつきるものではない。さらに重要なことは、憲法に規定されたブルジョア民主主義の諸制度が基本的に維持され、さらに言論、集会、結社の自由、民主的な選挙法がかちとられ確保されるという条件のもとでは、共産党が強大な大衆的前衛党に発展し、広範な人民大衆の闘争の展開を基礎に民族民主統一戦線が人民の多数を結集することに成功するならば、党と労働者階級を中心にした民族民主勢力が議会外の大衆闘争の強大な発展と結びついて、国会で絶対多数をしめ、アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配に反対する統一戦線政府を適法的につくりうる可能性があることである。

 このような現実的な根拠にもとづいて、わが党の綱領は、「国会で安定した過半数」(すなわち、ただ1人や2人多いだけの過半数ではなく、議会内でも反動勢力にたいして数的にたしかな絶対多数)「をしめるならば、国会を反動支配の道具から人民に奉仕する道具にかえ、革命の条件をさらに有利にすることができる」として、党と統一戦線勢力による国会の絶対多数の獲得を、革命へ向かって前進する一つの可能な展望として規定し、この展望を実現し、国会をつうじての統一戦線政府の樹立と、その政府のもとでの革命の平和的発展という可能性を拡大し、成功させるために、わが党は努力しているのである。

 (3)もちろん、わが国に民族民主統一戦線に人民の多数を結集しうる条件が存在し憲法にもとづくブルジョア民主主義の諸制度が維持されているということは、それだけで平和的な手段による革命の達成を保障するものではない。

 第一に、党と統一戦線勢力が国会に多数をしめ、適法的に統一戦線政府を樹立したとしても、それは「権力への一つの過程であり、権力への橋頭保をにぎること」(第8回党大会における綱領についての報告、『日本革命の展望』39ページ)であって、まだ革命権力がうちたてられたことを意味するものではない。統一戦線政府が樹立されたとしても、自衛隊、警察、さらに在日米軍などの暴力装置を中心に、国家権力の主要部分をにぎる米日支配層が、この権力を活用して必死の抵抗と反撃を組織しようとせず、選挙の結果にしたがって簡単にすべての国家権力を人民にひきわたすと考えることは、非現実的である。民族民主統一戦線がかかげている要求は、民主主義的な性格の要求であるにしても、それは、アメリカ帝国主義の対日支配と、日本独占資本の政治的、経済的支配を終わらせることをめざしたものであり、独占体への人民的統制や重要産業の独占企業の国有化など独占資本の存立そのものに重大な打撃をあたえる要求をふくんでいる以上、アメリカ帝国主義と日本独占資本が、あらゆる手段をつかって、反帝反独占の諸政策の実行を妨害し、統一戦線政府の存続そのものを否定しようとすることを、予想しないわけにはゆかない。これまでのあらゆる革命の経験がしめしているように、反動勢力は、人民の革命が成功して、政治権力がうちたてられたのちにおいてさえ、その経済的政治的支配を復活させようとする反動的な野望を、けっして簡単に放棄しはしないのである。

 統一戦線政府の成立は、「それ自体反動勢力にとって重大な政治的危機であり、また革命的危機への接近と危機の激化」(第8回党大会における綱領についての報告、同前39ページ)であって、米日反動勢力と日本人民のあいだの国家権力をめぐる激烈な政治闘争――適法的に成立した統一戦線政府をたおすための反乱やクーデターの危険をもふくむ反革命勢力との闘争の出発点を意味するにすぎないのである。

 この危険性は、けっして空想的なものではない。たとえば、1962年5月、自衛隊の防衛研修所の一教官が、「共産主義政党といえども合法的手段によって、すなわち現憲法の原理である自由民主主義、議会主義の原則によって国民の総意を代表して政府を結成するならば、自衛隊は政治的中立の原則と合法かつ正当な命令の服務規律にしたがって、この政府のもとに防衛に参加するであろう」という趣旨の論文を、雑誌に発表して、右翼の抗議をうけるとともに政府と自衛隊内部で大問題になったことがある。けっきょく、この教官は、その資格をとりあげられ、防衛庁長官はこの問題での右翼の抗議にこたえて「粛軍」の決意を表明し、さらに同じ雑誌に、当時の防衛研修所長の名で、「共産主義政党が暴力革命によらずに政権を獲得したとしても、それは合法政権とはいいえない。自衛隊はそのような政権の指揮に服する理由をもたない」という趣旨の反論を発表して、この問題に一応の結着がつけられた。防衛研修所長名で発表された後者の論文が、自衛隊首脳部はもちろん自民党政府と米日支配層の「正統」の見解を代表していることは、いうまでもない。このように、自衛隊の首脳部は、日本共産党を先頭とする労働者階級と人民の闘争の発展によってアメリカ帝国主義と日本独占資本の支配が危機にさらされたときには、合法的政府にたいする不服従と反乱の道にたつこともけっして辞さないという意思を、むきだしに表明したのである。「間接侵略」にそなえるなどと称して自衛隊がおこなっている人民弾圧作戦の訓練や、アメリカ帝国主義の指揮のもとにつくりあげられた「三矢作戦」計画などが、侵略戦争のための「銃後」をかためる準備であると同時に、こうした事態にそなえるためのものであることは、明白である。

 このような、暴力的な反革命的反乱の危険をもふくむ米日反動勢力のあらゆる妨害や攻撃を粉砕して、国家権力全体を実際ににぎったときに、はじめて統一戦線政府は革命権力になることができるのである。米日支配層が、反革命の内乱を挑発したとき、かれらは、「合法的権力にたいする反徒」(マルクス)として行動せざるをえず、闘争の暴力的形態が米日支配層の歴史的責任にかかることは、きわめて明白に暴露される。このことは、日本人民を米日支配層の反乱を粉砕する闘争に動員するうえで統一戦線政府にとって政治的にも法的にもきわめて有利である。そして、このような反革命的反乱の危険があるということが、国会を利用した統一戦線政府の適法的樹立のための闘争を回避し放棄する理由となりえないことも、明白である。

 第二に、重要なことは、統一戦線政府が適法的に樹立されるという前提そのものが、絶対的なものではないことである。党と統一戦線勢力が国会で多数をしめるなどといった事態は、米日支配層にとっては、その反動支配のきわめて重大な政治的危機を意味するものであり、そのような政治的危機にさいして、あるいはそれ以前に、かれらが、選挙法の改悪や議会制度の破壊、右翼反動分子からの襲撃、テロ、クーデターなどの手段にうったえて、統一戦線政府の民主的、合法的な成立への道そのものをとざそうとすることは、十分予想されることである。現に、自民党は、いま、一方で「70年革命」説や「間接侵略」の危険をしきりにときながら、小選挙区制によってファッショ的な一党専制をうちたてようとする陰謀をおしすすめているが、これが、選挙ごとに後退しつつある「自民党の支配をたてなおし、さらに憲法改悪と徴兵制、海外派兵と軍国主義体制の全面的確立と日米軍事同盟の強化に道をひらく」(第10回党大会決定)くわだてであると同時に、その根底において、ブルジョア民主主義の諸制度を破壊して民主的政府の樹立への道をふさごうとする反動的意図と結びついていることも、明白である。

 そしてこうした反動的意図が、たんに選挙制度の改悪にとどまらず、重大な政治的危機のさいに、憲法や議会制民主主義そのものを公然と破壊するファッショ的反革命的クーデターとしてあらわれることは、1958年のフランスや1963年のブラジルなどの経験が、おしえているところである。

 さらに、わが国で革命の発展を展望する場合、けっして無視することのできないのは、日米安保条約にもとづく在日米軍の存在である。「大規模の内乱および騒じょうの鎮圧」を公然と在日米軍の基本的任務のうちにかかげた旧安保条約第1条は、1960年の安保改定のさいに一応とりのぞかれた。しかし、この条項が、かたちをかえて新条約第4条(日米両国は「日本国の安全にたいする脅威が生じたとき」に協議する)にひきつがれ、アメリカ帝国主義が、一定の条件下で軍事的干渉にでる法的根拠がなおのこされていることは、改定交渉の過程で、明らかにされたところである。しかも、安保条約、サンフランシスコ「平和」条約をはじめ一連の売国的諸条約は、一方的通告でただちに無効になるように規定されてはいない。安保条約については、1970年以後は、日本政府が廃棄通告をおこなった場合には、1年後には条約は廃棄されることになっているが、現実の政治問題としては、アメリカ帝国主義がこの通告をそのまま受諾し、おとなしく1年後に在日米軍を撤退させるという現実的保障は存在していない。むしろ予想されることは、アメリカ帝国主義が、1年間の「合法的」猶予期間を利用して、日本の反動勢力とともに、統一戦線政府を打倒して日米軍事同盟と在日米軍基地の存続を確保するための、必死の反撃をくわだてるであろうということ、すなわち、統一戦線政府の安保廃棄通告が、日本の進路をめぐる日本人民と米日反動勢力のあいだの闘争のもっともはげしい局面をひらくであろうということである。しかも、アメリカ帝国主義と自民党佐藤内閣は、事態のこうした可能性をも考慮して、1970年に安保条約を延長、強化することをも、くわだてている。

 これらの条件を全体として考慮するならば、わが国で、革命の平和的発展の道がすでに保証されているかのように考える「平和革命必然論」が、米日反動勢力の手中にある暴力装置を過小評価して、反動勢力のあらゆる出方にそなえることの重要性を理解しない右翼日和見主義、修正主義の見地におちいったものであって、米日支配層の反動的な攻撃のまえで革命運動を政治的、思想的に武装解除するきわめて危険な路線であることは、明らかである。だからこそ、わが党は、綱領をめぐる討議の過程でも、春日庄次郎、内藤知同一派の「平和革命必然論」にたいして徹底的な批判をくわえてきたのである。

 「平和的な手段による革命の可能性の問題をいわば無条件的な必然性として定式化する『平和革命必然論』は、今日の反動勢力の武力装置を過小評価して、反動勢力の出方がこの問題でしめる重要性について原則的な評価を怠っている一種の修正主義的な誤りにおちいるものである」。(第7回党大会での綱領問題についての中央委員会の報告、同前215ページ)

 同時にまた、たんに米日反動勢力が強力な軍事機関をもっており、日本がサンフランシスコ体制のもとで、米軍の半占領下にあるということだけを一面的に強調して、「暴力革命唯一論」でみずからの手をしばることは、国会を利用して統一戦線政府を樹立する闘争の可能惟とその重要な意義をまったく理解していない「左翼」日和見主義、セクト主義のあやまりをおかすものであり、高度に発達した資本主義国である日本での階級闘争の諸条件に反する極左冒険主義の道に革命運動をひきこむことによって、「平和革命必然論」にまさるともおとらない損害を、革命の事業にあたえるものである。

 支配階級の出方に応じた革命の移行形態の二つの可能性を正しく考慮にいれ、党と労働者階級を革命的精神で武装し、あらゆる「敵の出方」にたいして必要な警戒をはらいながら、人民の闘争と団結の力によって平和的移行の可能性を拡大し、これを成功させるために真剣に努力するというわが党の綱領の路線こそ、現在の日本におけるもっとも正確なマルクス・レーニン主義の革命路線である。そして、この道を確信をもってすすむ革命党だけが、ほんとうにあらゆる可能性をくみつくして、広範な大衆を革命の事業に結集し、強大な革命の力量――民族民主統一戦線をつくりあげることができ、革命の平和的発展の可能性をもっとも確実にとらえることができると同時に、敵が暴力を行使し闘争の非平和的形態を押しつけてきたときにも、広範な人民を結集して効果的な反撃をこれにくわえ、いかなる条件のもとでも革命運動を正しく前進させることができるのである。

(2)党綱領の路線と修正主義路線との根本的な相違

 西沢、安斎一派、「長周新聞」一派の極左日和見主義者たちは、わが党の綱領にたいして、第2インタナショナルの「議会の道」の再版だなどと攻撃しているが、これはまったくなんの根拠もない漫罵にすぎない。わが党の綱領にもとづく革命路線は、日本の具体的情勢にマルクス・レーニン主義の革命理論を適用したものであり、ブルジョア議会主義に屈服した、ベルンシュタインやカウツキーなどの日和見主義路線とは、根本的に対立したものである。

 第一に、わが党の綱領は、「綱領は、一般的に政治権力の獲得のことをのべて、その獲得方法を規定しない」(レーニン、前掲)という原則的見地を忠実にまもって、当面する反帝反独占の民主主義革命で、労働者、農民を中心とする人民の民主主義権力の確立の必要性は明確に規定しているが、権力獲得の方法については、規定していない。綱領は、議会で多数を獲得して統一戦線政府を樹立する問題についても、「党と労働者階級の指導する民族民主統一戦線勢力」が「国会で安定した過半数をしめることができるならば、国会を反動支配の道具から人民に奉仕する道具にかえ」ることができるとのべて、これを革命の発展過程における一つの可能な展望としてしめし、反動勢力の出方によっては、統一戦線勢力が人民を代表して国会の多数をしめる道がとざされ、革命への発展が別の道をとおらなければならなくなる可能性があることをも十分考慮にいれている。ここに、マルクス・レーニン主義の革命的見地と第2インター以来の修正主義者の日和見主義的見地との根本的な分岐点の一つがある。「議会闘争を、とくに一定の歴史的時期に有効な闘争手段の一つとは見ないで、主要な、ほとんど唯一の闘争形態と見、それは『暴力』、『奪取』、『独裁』を不必要にするものだ」としたこと(レーニン「カデットの勝利と労働者党の任務」、全集10巻、236~237ページ)こそ、ベルンシュタインやカウツキーらの「革命」理論のひとつの最大の特徴であったからである。

 第二に、綱領は、「国会を反動支配の道具から人民に奉仕する道具にかえ」ることの革命運動の発展過程全体にたいする意義を「革命の条件をさらに有利にすることができる」と正確に規定し、それがけっしてまだ革命の達成や人民による権力の獲得を意味するものではないことを明確にしている。さらに、綱領は、民族民主統一戦線政府をつくることが「アメリカ帝国主義と日本反動勢力のあらゆる妨害に抗しての闘争」であること、さらに、この政府を革命権力に強める土台は「当面するこの人民の民主主義革命の目標と任務に向かっての、民主勢力の広範な統一と大衆闘争の前進」にあることをはっきり指摘し、革命が平和的形態をとろうと非平和的形態をとろうと、その主要な推進力が、労働者階級と人民の議会外の革命的大衆闘争の発展、民族民主統一戦線の革命的力量の成長にあろことを明らかにしている。

 これにたいして、第2インタナショナルの日和見主義者たちは、革命的大衆闘争の意義を否認し、議会の多数を獲得することをそのまま国家権力の獲得と同一視し、理論的にも実践的にも、革命を議会闘争に解消してしまったのである。たとえば、カウツキーは、労働者階級の「政治闘争の目標」を、「議会内で多数者を獲得することによって国家権力をたたかいとること」および「議会を政府の主人に高めること」だと規定したが、レーニンは、カウツキーのこの規定を、口先では革命を承認しながら実際にはそれを否認する「純然たる、卑俗きわまる日和見主義」として批判した。(「国家と革命」、全集25巻、530ページ)

 第三に、綱領は、人民が権力をにぎったときに、現在の国家機関をそのまま利用することはできず、軍事的・官僚的機構を粉砕し、これを新しい民主的な国家機構でおきかえなければならないというマルクス・レーニン主義の革命的原則に忠実に、反動的な国家機構を根本的に変革することが、革命権力の主要な任務のひとつになることを、具体的に指摘している。

 「労働者、農民を中心とする人民の民主連合独裁の性格をもつこの権力は、世界の平和、民主主義、社会主義の勢力と連帯して独立と民主主義の任務をなしとげ、独占資本の政治的経済的支配の復活を阻止し、君主制を廃止し、反動的国家機構を根本的に変革して人民共和国をつくり、名実ともに国会を国の最高機関とする人民の民主主義国家体制を確立する」。(日本共産党綱領)

 そして、「あらゆる真の人民革命の前提条件」(マルクス)としての官僚的・軍事的機構の破壊の問題こそ、第2インタナショナルのあらゆる日和見主義者が最後までみとめようとしなかった問題であった。「プロレタリアートはこの機構(常備軍、警察、官僚制度)を粉砕しなければならない。これは、日和見主義者(社会愛国主義者)とカウツキー主義者(社会平和主義者)が異論をとなえるか、あるいはごまかそうとしていることである」。(レーニン「ロシア革命におけるロシア社会民主労働党の任務について」、全集23巻、392ページ)

 綱領のこれらの命題を全体としてみるならば、国会の利用についての綱領の路線がマルクス・レーニン主義の革命的原則につらぬかれたものであって、革命を「議会の多数の獲得」に解消する第2インター流の日和見主義的「議会主義」の路線などとひとかけらの共通点もないことは、明白であろう。これを「議会主義」への転落だなどといって非難するものは、それによって、自分たちが議会の革命的利用に反対する無政府主義の立場に転落していることを、証明しているだけなのである。

 反党盲従分子たちは、また、わが党の綱領の路線を、「フルシチョフ修正主義」への転落だと非難している。これもまたでたらめきわまる中傷である。フルシチョフらが資本主義諸国における革命の形態の問題でも、修正主義の立場をとったことは、明らかである。しかし、この問題で、フルシチョフがおかした誤りは、極左日和見主義者たちが粗雑に描き出しているように、かれが、平和的移行の可能性や議会での安定した多数の獲得を問題にしたことにあるのではけっしてない。フルシチョフの修正主義は、なによりもまず、かれが、労働者階級が議会で安定した多数を獲得しさえすれば、それはただちにブルジョアジーの権力をたおして労働者階級が権力を獲得することを意味するし、根本的な社会変革の実現を保証する条件がつくりだされることを意味すると主張して、革命を議会での多数の獲得の問題に事実上解消してしまったこと、そして、社会主義への移行の形態が最終的には反動勢力の出方によって決定されることを忘れて、平和的、議会的な手段による社会主義への移行の道を事実上ただ一つの必然的な道に高めてしまったことにあるのである。

 フルシチョフは、ソ連共産党第20回大会における報告のなかで、「平和的移行」の問題を論じて、つぎのようにのべた。

 「現在の諸条件のもとでいくつかの資本主義諸国の労働者階級は、国民の圧倒的多数をその指導のもとに統一し、基本的な生産手段を人民の手にうつす現実的な可能性をもっている。右翼ブルジョア政党とその政府はますますひんぱんに破産状態におちいっている。こうした情勢のなかでは、労働者階級は、勤労農民とインテリゲンチアとすべての愛国勢力とを自分のまわりに結集し、資本家・地主と妥協する政策をすてきれないでいる日和見分子をだんことしてしりぞけながら、人民の利益に刃むかう反動勢力をうちまかし、議会内で安定した多数をしめ、議会をブルジョア民主主義の機関から真に人民の意志を代表する道具にかえる可能性をもっている。このような場合、おおくの高度に発達した資本主義国で伝統になっているこの機関を、真の民主主義、勤労人民のための民主主義の機関とすることができる。
 プロレタリアートとすべての労働者との大衆的革命運動にささえられて議会内で安定した多数を獲得できれば、いくつかの資本主義国やかつての植民地諸国の労働者階級にとって、根本的な社会変革の遂行を保証する諸条件がつくりだされるだろう。
 資本主義がまだ強く、巨大な軍事的警察的機関を資本家がにぎっている国ぐにでは、反動勢力はもちろん、激しく抵抗するにちがいない。そこでは、社会主義への移行は、激しい階級闘争、革命闘争を伴うであろう」。(ソ連共産党第20回大会におけるフルシチョフの報告)

 フルシチョフのこの主張が、わが党綱領のマルクス・レーニン主義的路線と根本的に対立する、似て非なるものであることは明白である。

 第一に、フルシチョフは、ここで、資本主義諸国を、ブルジョア政府が破産状態にある「いくつかの資本主義諸国」と「資本主義がまだ強く、巨大な軍事的警察的機関を資本家がにぎっている国ぐに」との二つのグループに画然と区別し、第一のグループに属する国ぐにでは、議会を利用した社会主義への平和的移行が可能であり、第二のグループに属する国ぐにでは「はげしい革命闘争」がさけられないと主張している。フルシチョフのこの主張は、革命の形態が平和的となるか非平和的となるかは最終的には敵の出方によってきまるというわが党の綱領の見地とは、まったくことなっている。フルシチョフはここで、たしかに平和的移行と非平和的移行の二つの可能性を問題にしているが、フルシチョフによれば、非平和的移行が問題になるのは第二のグループに属する国ぐにだけであって、かれらが問題にしている第一のグル一プの国ぐにについては、議会的手段による平和的移行の道が、事実上ただ一つの道にたかめられてしまっているのである。

 第二に、フルシチョフは、議会での多数の獲得は「革命の条件をさらに有利にすることができる」と革命への接近の過程でのその意義と限界を正確に規定したわが党の綱領の見地とは根本的に異なって、労働者階級が議会で安定した多数をしめるならば、それだけで、「根本的な社会変革の遂行を保証する諸条件がつくりだされる」と断定している。さらに、フルシチョフは、ブルジョア国家機関の一部である議会を、人民の利益の擁護と革命運動の前進のために活用する問題と、人民の民主主義の権力機関をつくりだす問題とをまったくいっしょくたにして、労働者階級がブルジョア議会で多数をしめれば、この議会でただちに「真の民主主義の機関」、すなわち人民の革命権力の機関に転化するかのように主張している。これは革命の根本問題である国家権力の問題、軍事的-官僚的機構の破壊の問題を忘れて、革命をまったく議会の多数の獲得に解消するものであり、まさに第2インタナショナルの「議会による革命」論の現代版にほかならない。そして、わが党の綱領の路線は、フルシチョフらのこのような「平和移行必然論」や「議会による革命」論などを事大主義的な態度で日本にもちこもうとした、春日(庄)、内藤らの修正主義的主張との徹底的な闘争をつうじて、確立されたものなのである。わが党綱領における「フルシチョフ修正主義」をうんぬんする反党対外盲従主義者たちの非難が、なんの根拠もない、的はずれの非難であることは、これまでみてきたところからすでに十分明白であろう。

 さらに、注目に値するのは、反党対外盲従主義者たちが、わが党綱領への非難を根拠づけるために、1957年の宣言と1960年の声明にたいしても、「フルシチョフ修正主義の産物」というレッテルをはりつけ、その歴史的意義を全面的に抹殺しようとしていることである。

 たとえば、安斎は、こう書いている。

 「こういう批判にたいしてきみたち『指導者』は『そうではない。わが党の綱領は、世界共産主義運動の公認の綱領的文献――モスクワ会議の宣言と声明、――この二つの文献にもられた“革命的原則”にもとづいているのだ』というにちがいない。まさに、きみたちのいうとおりである。二つの文書には、資本主義から社会主義への移行について、わが党の綱領を理論的にささえる内容をふくんだ一連の規定がある。それはたしかであり、われわれは、それをすこしも否定しない。
 だが、このことは、すこしも、きみたちが修正主義者でないことを証明するものではない。なぜなら、この二つの文書こそ、フルシチョフによってもちこまれた修正主義理論によって汚毒されており、革命の、もっとも重要ないくつかの問題について、マルクス・レーニン主義の革命的真髄を骨ぬきにしているからである。いまわれわれが問題にしている、ブルジョア鐵会で安定した多数を獲得できれば……ウンヌンの問題もその一つにすぎない。……
 したがって、この二つの文書に、なんらの保留条件もつけず、無条件に同意した、わが党代表団は、この二つの会議で、事実上、フルシチョフの修正主義に屈服し、その信奉者となることを誓約したにほかならない」

 つまり、安斎によれば、ブルジョア議会での多数の獲得をうんぬんしている二つの文書は、フルシチョフの汚毒にまみれた修正主義の文書にほかならず、1957年と1960年の会議でわが党代表団がこれに同意したことは、「フルシチョフ修正主義の信奉者」となることを「誓約」したのだというのである。これは、国際共産主義運動の最近の歴史を勝手に書きかえるでたらめきわまる議論である。すでにのべたように、宣言と声明は、ユーゴスラビアの指導者やフルシチョフらに代表される現代修正主義の潮流をはじめ、各種の誤った見解との闘争をつうじてかちとられた、今日の国際共産主義運動の歴史的な文書であり、1957年の宣言は、12の社会主義諸国の共産党・労働者党代表者会議での全員一致の決定により、1960年の声明は、わが党代表団をふくむ81の共産党・労働者党代表者会議でのやはり全員一致の決定により採択されたものである。そこには、部分的には不適切な評価や命題もふくまれてはいるが、そのことは、宣言と声明に定式化された革命的原則の意味を失わせるものでは、けっしてない。いったい、宣言と声明を「フルシチョフの汚毒にまみれた修正主義の文書」と断ずる安斎は、1957年に、12の社会主義国の党がこぞって「フルシチョフ修正主義の信奉者」となることを「誓約」し、1960年には、ふたたび81ヵ国の党がこぞって、「フルシチョフの信奉者」となることを「誓約」したとでも主張するつもりなのだろうか。これは、最近の国際共産主義運動の歴史における、現代修正主義の潮流からマルクス・レーニン主義を擁護する闘争とその成果とを、まったく抹殺し、これを、現代修正主義の一方的な勝利と制覇の歴史として描き出すことにほかならない。

 そればかりではない。労働者階級が「議会で安定した過半数をかちとり、ブルジョアジョーの階級的利益に奉仕する道具である議会を、勤労人民に奉仕する道具にかえる」という可能性の問題や、革命の平和的移行と非平和的移行の二つの可能性を考慮する問題などは、国際的文書としては、1957年の宣言ではじめて定式化されたものであるが、この宣言は、フルシチョフを団長とするソ連共産党代表団と毛沢東を団長とする中国共産党代表団が共同で起草した「宣言草案」を社会主義諸国の共産党・労働者党代表者会議で討議した結果、採択されたものであった。

 1957年の宣言の、資本主義から社会主義への移行の問題にかんする部分がつくりあげられたこの経過については、中国共産党自身つぎのように説明している。

 「中国共産党は、ソ連共産党の指導部のだした宣言草案のなかの誤った観点にだんこ反対した。われわれは、ソ連共産党中央委員会が前後2回にわたってだした宣言草案にたいして、自分の意見を提出し、かなり多くの原則的な、重大な修正をしたうえで、自分の修正草案をだした。その後、中ソ両党の代表団は、われわれの修正案の基礎のうえに、なんども討議をかさね、そのうえで、『ソ連共産党と中国共産党共同起草になる宣言草案』をだして、その他の兄弟党代衷団の意見を求めた」。(『人民日報』編集部、『紅旗』編集部「ソ連共産党指導部とわれわれとの意見の相違の由来と発展――ソ連共産党中央委員会の公開状を評す」、1963年9月6日、太字は引用者)

 ここでは、中ソ両党代表団のあいだの論戦の事実とともに、1957年の宣言の基礎となったものが、中国共産党代表団の「修正案」をもとにしてつくられた「ソ連共産党と中国共産党共同起草になる宣言草案」であったこと、1957年の宣言は、中ソ両党代表団が共同で起草した「宣言草案」に、社会主義諸国のその他の兄弟党代表団の意見がくわえられて最後的に採択されたものであることが、きわめて明確に指摘されている。

 わが党の代表団は、このとき「平和のよびかけ」を採択した64ヵ国共産党・労働者党代表者会議には参加したが、宣言を採択した社会主義諸国の党代表者会議には参加していない。そして、宣言が採択されたのちに、その内容を検討して、これを支持する態度を表明したのである。もし、安斎が、わが党代表団がこの宣言に「同意」したことをもって、「フルシチョフ修正主義の信奉者」となることを「誓約」したものなどと非難するのだとしたら、同じ理由で、この宣言草案をソ連共産党代表団と共同で起草し、ソ連共産党代表団と共同で1957年の会議に提案した毛沢東を団長とする中国共産党代表団は、「フルシチョフ修正主義」の直接最大の「共犯者」とよばなければならなくなるだろう。いや、宣言草案が中国共産党代表団の「修正案の基礎のうえに」つくられたという前記の経過からみれば、「共犯者」どころか、むしろ「主犯」だということになろう。安斎らが、それをいうだけの勇気と確信をもっているのだったら、ぜひそのことをしめしてもらいたいものである。

 これにたいして、安斎らは、中国共産党はその後、1957年の会議でフルシチョフらに譲歩したことを「自己批判」しているといって弁解するかもしれない。しかし、安斎らにとってぐあいの悪いことは、1957年の会議のさいのソ連共産党代表団との論戦の過程で、中国共産党代表団は、資本主義から社会主義への移行の問題についての自分たちの意見をまとめた文書「平和的移行の問題についての意見要綱」をソ連共産党中央委員会に提出したが、フルシチョフらへの譲歩をまったくふくまない、中国共産党代表団自身の意見を説明したこの文書のなかで、革命の方法として暴力革命だけを絶対化するのでなく、平和的と非平和的の二つの可能注を提起した方がより正しいという考え方がのべられていることである。

 「(1)資本主義から社会主義への移行の問題について、ひとつの可能性だけでなく、平和的と非平和的の二つの可能性を提起した方が、いっそう柔軟性があり、われわれを政治的にいつまでも主動的な地位にたたせるだろう。
 1 平和的移行の可能性を提起するにあたって、われわれが暴力をつかう問題で、それがまず防御的なものであることを明らかにしておくことは、資本主義国の共産党がこの問題でうける攻撃を避けるのに、政治的に有利である。つまり、大衆を結集するのに有利であり、ブルジョアジーの口実をうばい、ブルジョアジーを孤立させるのに有利である。
 2 将来、国際情勢、あるいは国内情勢が急激に変化するという条件のもとで、もし特定の国に平和的移行の実際の可能性があらわれたなら、われわれは時をうつさずこの時機を利用し、大衆の同意と協力をえて、平和的な方法で権力の問題を解決することができる。
 3 しかし、われわれはこの願望によって自分を拘束してしまってはならない。ブルジョアジーがみずからすすんで歴史の舞台からひきさがるものでもないことは、階級闘争の普遍的な法則である。いかなる国のプロレタリア一トと共産党も、けっして革命の準備をすこしでもおこたることはできない。いつでも反革命の襲撃をむかえうつ用意をしなければならないし、労働者階級が権力を奪取する革命の瀬戸ぎわにおいて、もしブルジョアジーが武力で人民革命を弾圧してくるなら(一般的にいってこれは必然的であるが)、武力でそれを打倒しなければならない。
 (2)当面の国際共産主義運動の状況にもとづき、戦術的な見地から、平和的移行の願望を提唱することは有益ではあるが、しかし、平和的移行の可能性をあまり強調しすぎることは不適当である。……」(「平和的移行の問題についての意見要綱」、1957年11月10日)

 平和的移行と非平和的移行の二つの可能性にそなえるという見地は、さらに、1963年6月に中国共産党中央委員会が提起した「国際共産主義運動の総路線についての提案」のなかにも、くりかえされている。

 「プロレタリア政党は、二つの手法を準備しておかねばならない。つまり、革命の平和的発展を準備するとともに、革命の平和的でない発展にたいしても、かならず十分な準備をしておかねばならない」

 そして昨年8月の中国共産党第11回中央委員会総会の公報によれば、この文書は、毛沢東の直接の指導のもとに作成された「綱領的文書」だとされている。

 もちろん、これらの文書にのべられたすべてがわが党の見地と一致しているわけではないが、少なくとも、今日の状況のもとで、非平和的移行、すなわち暴力革命や人民戦争を革命のただ一つの方法として絶対化する態度をしりぞけ、労働者階級と共産党が「平和的および非平和的の二つの可能性を提起」することを主張しているかぎりでは、これらの文書がわが党と基本的には共通の立場にたっていることは、明白である。ところが、すでにみたように、西沢、安斎一派や「長周新聞」一派などの反党対外盲従分子にとっては、暴力革命や人民戦争の道以外に、平和的移行の可能性をすこしでもみとめることは、「マルクス・レーニン主義の許すべからざる裏切り」だとされている。そうだとすれば、毛沢東を団長とする中国共産党代表団のこの「意見要綱」もまた、「マルクス・レーニン主義を裏切った」罪を問われざるをえなくなることは、当然である。

 このように1957年の宣言の作成の経過を具体的にみるならば、皮肉なことに、革命の移行形態の問題で反党対外盲従分子がわが党になげつける非難や悪罵――「フルシチョフ修正主義への屈服」とか「裏切り者の焼印をおしつける」とかの悪罵は、けっきょく、かれらが無限の崇拝をささげている中国共産党と毛沢東の当時の立場をより決定的に、よりはげしく非難し悪罵する結果にならざるをえない。なぜなら、革命の移行形態の問題についての宣言の規定が、「フルシチョフ修正主義の文書」であるという安斎らの非難がもし正しいとすれば、フルシチョフらと「協同」してこれを起草し会議に提案した中国共産党代表団の「罪」は、会議がこれを採択したのちにこれに同意したわが党代表団の「罪」よりもはるかに重大なはずであり、その後の論争の過程で、多少の「自己批判」の発言をしたからといって、それで簡単に消しさるわけにはゆかないはずだからである。ここには、盲目的な対外盲従と個人崇拝から、一貫した理論的根拠も科学的確信もなしに、マルクス・レーニン主義にもとづく党の綱領を攻撃しはじめた対外盲従分子の立場の矛盾と支離滅裂さが、こっけいなまでに明白にさらけだされている。

五、マルクス・レーニン主義の国家論の歪曲

 極左日和見主義者たちは、このほかにも、わが党の綱領の路線の「修正主義」的性格なるものを論証しようとして、いろいろな言い分をもちだしているが、それは、いずれも、マルクス・レーニン主義の学説、とくにその国家と革命の理論にたいする、自分たちの一知半解ぶりを、ますます実証しているだけである。

(1)反動勢力による議会制度の破壊はさけられないか

 その言い分の一つは、議会制度や選挙法の内容は、「つねにブルジョア支配の必要と利益によって決定される」ものであり、いざとなれば、敵はかならず選挙法の改悪、議会制度の破壊や暴力支配にうったえてくるから、国会での多数の獲得をめざしても無意味であり、大衆に幻想をあたえるだけだ、という議論である。

 「議会に、どの程度の権限をあたえるか、どのような選挙法を採用するかというようなことは、みんなブルジョア支配の必要と利益によって決定される。
 日本においてもそのとおりだ――。
 およそ敵の利益を根本的におびやかすような問題についてはみんないわゆる暴力国会で決定してきた。
 彼らの根本利益をおかさない範囲内で、おしゃべりと、票決あそびが許されているにすぎない。
 だから人民の敵が権力をにぎっているという条件のもとで、『安定した多数』を獲得しようとすることは、不可能か、あるいは、あてにならないことである」(木村十兵衛)
 「もし民主勢力の代表が多数議会に進出し、安保条約の破棄を宣言して擬制支配のべールを打ち破るほどの前進をたたかいとるならば、アメリカ帝国主義とわが国売国勢力はただちに議会の利用を放棄して軍事干渉をおこない、直接占領によるむきだしの支配をおこなうであろう」(志田一派の「解放戦線綱領」)

 もちろん、「支配階級は、みずからすすんで権力をゆずりわたすものではない」(1957年の宣言)。すでにくわしく分析したように、今日の日本においても、革命運動の発展のあれこれの段階で、米日支配層は、革命運動の前進をくいとめるために、ブルジョア民主主義を破壊し、ファッショ的な暴力支配にうったえる危険があることは、いうまでもない。だからこそ、わが党は、あらゆる「敵の出方」にたいしてつねに必要な警戒をおこたらないことの重要性を一貫して強調し、革命の平和的移行の道が無条件に保障されているかのようにいう現代修正主義者のあらゆる色合いの「平和革命必然論」を、労働者階級と人民を思想的、政治的に武装解除してしまうものとして、これと徹底的にたたかってきたのである。

 しかし、このことは、国会の多数の獲得のための闘争を自分から放棄して、暴力革命の準備のために專念せよという、極左日和見主義分子の「暴力革命唯一論」を正当化するものでは、けっしてない。

 第一に、資本主義国家では、議会制度や選挙法の内容は、すべて「ブルジョア支配の利益と必要によって決定される」として、反動勢力がブルジョア民主主義の諸制度や人民の民主的権利をいつでも自分のすきなように切りちぢめたり、破壊したりできるかのように考えるのは、民主主義を擁護する人民の力を無視した、きわめて受動的な敗北主義の思想である。

 一連の資本主義諸国でファシズムの攻勢を撃退した第2次大戦前の反ファシズム闘争の国際的経験や、鳩山内閣の小選挙区制の陰謀を粉砕した闘争、警職法改悪や政暴法に反対した闘争など、政治反動強化のくわだてを人民の闘争によって後退させた日本人民自身の政治的経験にてらしても明らかなように、議会制度や選挙制度の具体的内容は、そのときどきの「ブルジョア支配の必要と利益」だけで自動的に決定されるものでなく、またその「支配の利益と必要」から民主主義を否定し破壊しようとする反動勢力の意図によってだけでなく、そのときの複雑な内外の諸条件、階級的な力関係の全体によってきまってくるものであり、とくに、それは、これに反対して民主主義の擁護と拡大をめざす民主勢力の闘争を、多かれ少なかれ反映せざるをえない。このことを否定して、反動勢力による議会制度の破壊やファッショ的支配が不可避だとはじめから主観的にきめてかかる極左日和見主義、セクト主義分子の議論は、たとえどんな革命的な言葉で外見をかざろうとも、軍国主義復活と政治反動に反対し、民主的権利の擁護と拡大をめざす民主的課題――小選挙区制粉砕、憲法改悪反対など当面のきわめて重要な政治課題から人民の運動をそらさせ、米日支配層の反動攻撃を助長する受動的敗北主義以外のなにものでもない。

 第二に、党と統一戦線勢力が国会で多数をしめたときには、米日反動勢力はかならず直接の暴力を行使して議会などを破壊したり、政府に反対する反革命的反乱を組織すると一義的に前提することも、正しくない。重大な政治的危機のさいに、米日反動勢力がどのような手段にうったえるかということは、ただ、反動勢力が、米軍、自衝隊、警察などの武力をにぎっているということだけで単純にきまるものではなく、そのほかの内外の多くの諸事情、とりわけわが党をはじめとする統一戦線勢力の闘争にも依存しているからである。

 第7回党大会における中央委員会の綱領報告は、平和的移行の可能性と、党と人民の闘争の主体的条件との関係について、つぎのようにのべている。

 「平和的移行のための必要な最重要な主体的条件はなにか。マルクス・レーニン主義の党が、労働者階級を統一し、労農同盟を中心とした適切な人民の政治的協力を基礎に、わが国では強大な民族民主統一戦線を基礎に人民の多数を結集しうるかどうか、敵と妥協する日和見主義分子を断固としてしりぞけることができるかどうか、アメリカ帝国主義者と売国的独占資本を政治的に包囲することに成功できるかどうか、反民族的反人民的勢力をうちやぶり、わが党と労働者階級を中心とした民族民主勢力が国会で安定した多数をしめ、議会を人民支配の道具から人民に奉仕する道具にかえることができるかどうか、こうした力に依拠して侵略者アメリカ帝国主義を窮地におとしいれてしまうかどうか、にかかっている。わが党を先頭とするこのような人民の多数の結集と組織化こそ、平和的移行の可能性を拡大する条件をつくりだすのである」。(宮本顕治『日本革命の展望』、311~312ページ)

 もちろん、これらの要因は、敵の抵抗を困難にする一定の条件にすぎず、党が人民の力で敵の暴力行使をかならず未然に防止できるという保証となるものではない。しかし、反動勢力の暴力的抵抗の危険を理由に、革命への道が非平和的な形態をとることは絶対にさけられないとして、平和的移行の可能性の条件を拡大する闘争を自分からなげすてることは、日本の解放闘争の具体的な諸条件を見ずに革命の発展のみとおしを一面的に単純化した根本的に誤った議論であり、支配階級をよろこばせるだけのものである。

 「『敵の出方』にかかることを正しくみることは、反動勢力の本質をつねにわれわれが誤認しないと同時に、それが本質的に反動側の歴史的責任にかかる点を明白にしているものである。
 同時に、出たとこ勝負の無準備でなく、敵のあらゆる攻撃にたいしても不意打ちをくらわない警戒心の必要を不断に考慮せよという積極的な教訓にみちびく。

 そして、それだからこそ、いっそう党と人民の陣列を強め、敵の攻撃を困難にする政治的包囲を完成するために奮闘しなければならない。それは、たんにつねに不意打ちをくらわぬように不断の警戒心で党と人民を武装し、守るというだけでなく、平和的移行の条件をいっそうひろげる努力にも通じる」。(第7回党大会での綱領問題についての中央委員会の報告、同前316ページ)

 第三に、極左日和見主義者たちの議論のさらに重大な反革命的ともいうべき誤りは、かれらが、米日支配層による民主主義破壊の不可避性なるものを口実として、逆に、革命勢力に、民主主義のための闘争を放棄する道にたつことを要求し、これを合理化しようしていることにある。

 ファシズムに反対する国際的な闘争の経験や、天皇制軍国主義のもとでの日本人民の闘争の経験が明らかにしているように、帝国主義や反動勢力による民主主義の破壊は、極左日和見主義分子の主張とはまったく反対に、労働者階級が、民主主義を擁護する全人民的な闘争の先頭に立ち、これを帝国主義と反動勢力の支配を打破する革命的闘争と結びつけることを義務づけるのである。そして労働者階級のこの民主主義的任務は、民主主義にたいする帝国主義と反動の攻撃が激烈になればなるほど、いよいよ重大となる。

 かつて、第1次世界大戦のさい、ブハーリンやピャタコフなどの「極左」日和見主義者たちが、帝国主義は民主主義を破壊する、だからもはや民主主義についてうんぬんしてもなんの役にもたたないといって、労働者階級が政治的民主主義のための闘争を放棄することを主張したとき、レーニンは、かれらの立場を「帝国主義的経済主義」と特徴づけて、これを徹底的に批判した。

 「一般に資本主義、とくに帝国主義は、民主主義を幻想にかえる――だが同時に資本主義は、大衆のなかに民主主義的志向を生みだし、民主主義的制度をつくりだし、民主主義を否定する帝国主義と、民主主義をめざす大衆との敵対を激化させる。……民主主義の問題のマルクス主義的解決とは、要するに、階級闘争をおこなっているプロレタリアートが、ブルジョアジーにたいするプロレタリアートの勝利、すなわち、ブルジョアジーの打倒を準備するために、すべての民主主義的制度とブルジョアジー反対の志向とを利用することである」。(レーニン「ぺ・キエフスキー(ピャタコフ)への回答」、全集23巻、17~18ページ)
 「民主主義のための闘争は、プロレタリアートを社会主義革命からそらせるか、あるいは、それをさえぎり、あいまいにする恐れがあるなどと考えるのは、根本的な誤りであろう。反対に、勝利をえた社会主義が完全な民主主義を実現しないということがありえないのと同様に、民主主義のための全面的な、一貫した革命的闘争をおこなわないようなプロレタリアートは、ブルジョアジーにたいする勝利の準備をととのえることはできない」。(レーニン「社会主義革命と民族自決権(テーゼ)」、全集22巻、166ページ)

 独占資本による「民主主義の否定」を理由に、政治的民主主義のための闘争を放棄しようとする「左翼」日和見主義、セクト主義の傾向は、1930年代の反ファシズム闘争のなかでも、国際共産主義運動の一部に「ファシズム不可避論」としてあらわれた。一部の人びとは、ファシズムの勝利を資本主義の崩壊から社会主義革命の勝利にいたる過程での必然的な事態とみなし、ブルジョア民主主義の擁護ではなく、ファシズムか社会主義革命かが当面の中心問題だと主張したのである。コミンテルン第7回大会は、このファシズム不可避論が、社会主義のための決定的な闘争などの革命的空文句を呼号しはするが、けっきょくは、当面する反ファシズム闘争で党と労働者階級を受動的立場にたたせ、独占資本のファッショ的攻撃を有利にするものでしかないことを明らかにし、ファシズムの勝利を阻止し、ブルジョア民主主義を擁護する闘争の重要性を強調した。

 「大会(コミンテルン第7回大会-引用者)はまた、ファシズムの勝利が不可避であるという宿命的な見解はうけつけない。こういう見解は根本からあやまっており、ただ受け身の態度をおこさせ、ファシズムに対抗する大衆闘争をよわめることができるだけである。労働者階級は、ファシズムの勝利を阻止することができる。彼らがその闘争における統一をうちたてることに成功し、また自分自身の戦闘行動を敏速に展開することによって、ファシズムの勢力を結集させないなら、またそれが正しい革命的指導によって、労働者階級のまわりに都市と農村の勤労人民の広範な層を結集することに成功したなら、労働者階級はファシズムの勝利を阻止することができる」。(コミンテルン第7回大会決議「ファシズムの攻撃とファシズムに抗する労働者階級の統一のための闘争における共産主義インタナショナルの任務」)
 「われわれは無政府主義者ではない。だから、その国にどんな種類の政治制度が存在しているか――民主的権利と自由が非常に制限されていても、ブルジョア民主主義形態でのブルジョア独裁が存在しているか、あるいは公然としたファシズム形態でのブルジョア独裁が存在しているか――ということは、われわれにとって全然どうでもよい問題ではない。われわれはソビエト民主主義の信奉者ではあるが、労働者階級が何年ものねばりづよい闘争の過程でかちとった民主的諸成果のすべてのものを守るであろうし、またこの成果をひろげるために断固としてたたかう。……ブルジョア民主主義にたいするわれわれの態度は、どんなばあいでも同一であるのではない。たとえば10月革命の時期には、ロシアのボリシェビキは、ブルジョア民主主義擁護というスローガンのもとに、プロレタリア独裁の樹立に反対したすべての政党にたいして、生死をかけた闘争をおこなった。……現在、資本主義諸国では、情勢はまったく異なっている。今日、ファシスト反革命は動労大衆にたいする搾取と抑圧のもっとも野蛮な制度を樹立しようとして、ブルジョア民主主義に攻撃をくわえている。今日、いくつかの資本主義諸国の勤労大衆は、プロレタリア独裁かブルショア民主主義かではなくて、ブルジョア民主主義かファシズムかを、今日、この日に、はっきりとえらぶべき必要に直面している。……民主的権利のための闘争を社会主義のための労働者階級の闘争と結びつけることができるためには、なによりもまず、ブルジョア民主主義擁護の問題にたいして紋切型の接近方法を一掃する必要がある」。(ディミトロフ「ファシズムにたいする労働者階級の統一」、コミンテルン第7回大会での結語演説)

 レーニンとコミンテルン第7回大会のこの指摘は、今日の日本でも、きわめて切実な意義をもっている。現在、わが国では、基本的には日本人民が長期のたたかいでかちとってきた民主的諸権利をじゅうりんし、民主主義の破壊と軍国主義体制の確立をめざす米日支配層の反動的な攻撃に直面して、民主主義のためのたたかいは、全人民的な性格をもった、きわめて重要な課題となっている。

 「アメリカ帝国主義のベトナム侵略と、日本政府の加担に反対する闘争とともに、もっとも緊急なものとなっているのは、自民党のファッショ的專制と軍国主義体制の確立をめざす佐藤内閣の小選挙区制および政党法制定の陰謀を粉砕する闘争である。……われわれは、この小選挙区制粉砕の闘争とともに、憲法の平和的、民主的条項のじゅうりんに反対し、その完全実施を要求し、憲法改悪を阻止するたたかいを強め、広範な改憲阻止勢力の団結をさらに強化しなければならない。小選挙区制と憲法改悪の陰謀は、米日支配層があらゆる手段をつくして達成しようとしている当面の基本方針であるからである」。(第10回党大会にたいする中央委員会の報告、『前衛』臨時増刊、32ページ)

 ところが、今日の極左日和見主義者たちは、小選挙区制粉砕、憲法改悪反対などの闘争を重視するのはブルジョア議会主義のあらわれだ、小選挙区制がしかれようがどうしようが「議会制民主主義」がブルジョア独裁の道具であることにかわりはない、マルクス・レーニン主義はブルジョア民主主義を擁護する立場にたったことは一度もなかった、などといって、「民主主義を否定」する米日支配層の攻撃にたいして、民主主義擁護の旗をかかげるのではなく、労働者階級と革命勢力が、民主主義のための闘争を放棄することを要求している。

 「修正主義者は、……小選挙区制は、自民党の『独裁』や『一党専制』をもたらすなどといっている。これらは『議会制民主主義』こそブルジョア独裁の道具であることをはぐらかし、アメリカ帝国主義と日本反動派の支配を否定するものである」。(光岡正史「修正主義の総仕上げ」、『革命戦士』3号)
 「『議会制民主主義』なるものは、ブルジョア独裁の一形態であり、金融寡頭支配の本質をかくすいちじくの葉であり、労働者、人民を徹底的に搾取し抑圧する道具にほかならない。『議会制民主主義』は、もともと、ブルジョアジーのための民主主義である。……マルクス・レーニン主義者は、当面する革命が民主主義的性質をもっている場合でも、『議会制民主主義の擁護』やその『徹底的民主化』のスローガンを絶対にかかげたことはなかったし、かかげてはならない」。(光岡正史「議会きちがいの醜態」、『革命戦士』6号)
 「小選挙区制を強行しようという支配層の意図は、ブルジョア議会が階級独裁をかくす『かくれミノ』であることを示す、よい実例である」。小選挙区制に「反対」する闘争をくむことは、「より広い人民大衆がブルジョア議会にたいする幻想を投げすて」るために重要なことだが、小選挙区制の「粉砕」を主張することは、「マルクス・レーニン主義党としては、許しがたい誤った方針」である。「小選挙区制に対しては、反対ではなくて、至上命令的な『粉砕』を目標にしている宮本一派の姿勢こそ、かれらが議席獲得を至上目標とした議会主義政党に堕落したことを示している」。(山田鉄九郎「日本共産党第10回大会における中央委員会報告について」、『毛沢東思想研究』1967年3月号)

 反党盲従分子によれば、小選挙区制などによる民主主義の破壊は、わが国におけるブルジョア独裁の当然の必然的なあらわれであって、ブルジョア議会の反動的な本質を暴露するためにこれに「反対」することはよいが、小選挙区制「粉砕」の闘争でこれを阻止しようとしたりすることは、「議会主義の幻想」をふりまく「許しがたい誤り」だ、マルクス・レーニン主義の党は、どんな場合でも議会制民主主義の擁護のスローガンをかかげてはならない、というのである。ここまでくれば、反党盲従分子の議論がだれの役に立つかは、すでにあまりにも明瞭であろう。それは、かつての「ファシズム不可避論」とまったく同じように、軍国主義的反動体制の確立をめざす米日支配層の反動的計画を「必然的」なものとして描き出し、これを阻止する労働者階級と人民の闘争を嘲笑し、「社会主義革命」や、「人民戦争」の名のもとに、民主主義のための闘争の放棄を説教することによって、米日支配層の民主主義破壊と軍国主義復活、強化の政策を側面から援助してやること以外のなにものでもない。

(2)国会を「人民に奉仕する道具」にかえることは不可能か

 極左盲従分子たちはまた、党と統一戦線勢力が、かりに国会で絶対多数をしめたとしても、敵の国家権力が根本的に打倒されないかぎり、本質的にブルジョア議会である国会を「人民に奉仕する道具」にかえることはできない、このような国会を基礎にした政府が進歩的革命的政策を実行することなど思いもよらないという議論をもちだしている。かれらによれば、たとえだれが多数をしめようが、ブルジョア議会はあくまでブルジョア議会であって、人民に奉仕したり、革命の条件を有利にしたりできるものではない、というのである。

 「たとえ、共産党が議会で多数を獲得しても、また政府に参加したとしても、これは、けっして議会や政府のブルジョア的性格が変ったことを意味するものではない。だからなおさら権力奪取を意味するはずがない。
……このような議会や政府にたよって、進歩的、革命的政策を実行するなどということは思いもよらないことである」。(木村)
 「わが綱領は、反動支配に奉仕する、この腐りはてた、金しだいの抑圧者の階級支配の武器であるブルジョア議会が、人民に奉仕する道具にかえうるということによって、すなわち、ブルジョア議会が反動にも、人民にも奉仕することのできる、超階級的な道具であるかのようにいうことによって、事実上このブルジョア議会の階級的性格を否定しているのである」。(安斎)

 これは、ばかげた誇張によって、マルクス主義の正しい命題をこっけいな背理に転化させる、教条主義者の観念的、形而上学的な空論の最たるものである。

 すでにくわしく解明したように、党と統一戦線勢力が国会で多数をにぎり、統一戦線政府を樹立したとしても、それがそのまま「権力奪取を意味する」ものでないことは当然である。しかし、それは、現在の条件のもとでは国家権力の獲得をめざす革命闘争の一つの重要な要素をなすものであり、そのことによって革命の条件を有利にすることができることは、疑問の余地がない。

 今日、国会は、自民党が多数をにぎることにより、自民党内閣を成立させ、反民族的反人民的な条約や法律を成立させるなど、アメリカ帝国主義と日本独占資本の反動支配をさきえる重要な政治的道具となっている。だが、この国会で、力関係が大きくかわり、議会外の大衆闘争の支持のもとに、党と統一戦線勢力が安定した過半数をしめるようになれば、国会のはたしうる役割は根本的に異なってくる。

 第一に、党と統一戦線勢力が絶対多数をしめる国会は、自民党政府の存続や、これに同調する中間政党による「中道」政府などの成立をゆるさず、人民の利益をまもってアメリカ帝国主義および日本独占資本とたたかう民族的民主的内閣ー統一戦線政府を成立させることができる。

 第二に、民族民主統一戦線勢力が国会の多数をにぎり、政府をうちたてるならば、国会と政府は、議会外の大衆闘争の強力な展開と結びついて、人民が権力をにぎる以前の段階でも、①安保条約やサンフランシスコ「平和」条約の売国的条項、日米地位協定など一連の売国的条約や協定の破棄、②人民の生活と権利を圧迫する反動立法の廃止、③人民の要求にこたえる積極的な立法など、人民に有利な決定をおこなうことができる。反動勢力やその手中にある官僚機構がこれらの決定の実現をはばもうとすることはいうまでもないが、これらの決定が、独立、民主、平和、中立、生活向上をめざす人民の要求を前進させるうえで大きな力になることは明白である。そして、政府と国会の上からの努力と国会外の大衆闘争の下からの力とが結びついて強力な闘争を展開した場合、米日支配層の政治的支配を根本的にうちやぶる以前においても、官僚機構や反動勢力の抵抗を排除しつつ、人民の要求にこたえる積極的な政策を実行にうつすことができることは、すでに戦前のフランスの人民戦線政府の経験などが実証しているところである。

 第三に、アメリカ帝国主義と日本独占資本の抵抗や妨害をうちやぶって、人民の民主的権力をうちたてる闘争で、基本的な力は「人民の民主主義革命の目標と任務に向かっての、民主勢力の広範な統一と大衆闘争の前進」(綱領)にあるが、民族民主統一戦線勢力が政府と国会をにぎることは、すでにのべたように国家権力の獲得をめざすこの闘争で、人民を政治的にも法的にも有利な立場にたたせるものである。反動勢力が軍事・官僚機構を動員し、暴力的な抵抗にうったえたとしても、かれらは「『合法的』権力にたいする叛徒」(マルクス)の立場にたたざるをえなくなる。

 国会と政府が解放闘争のなかでこういう役割をはたすようになるときに、これがもはや「反動支配の道具」ではなく、一定の意味で「人民に奉仕する道具」、米日支配層とたたかう人民の道具に転化することは、明白である。これを理解することができないのは、「ブルジョア議会」という言葉を観念的にくりかえすだけで、統一戦線勢力が国会で絶対多数をしめた場合、国会と政府がどんな役割をはたしうるかを具体的に考える能力もなく、考えようともしないなまけものの空論家だけである。かれらは、統一戦線勢力が実際に議会で多数をしめた場合は、「政府をつくるべきではない」といい、統一戦線政府が成立した場合には、「なにもやるべきではない」というであろう。これが米日反動勢力の反抗に直接協力するもの以外のなにものでもないことは、明白である。

 安斎・木村らの極左盲従分子たちは、また、自分たちの空論の根拠のひとつとして、1917年のロシア革命の過程でケレンスキーの臨時政府にメンシェビキなどの「社会主義者」が入閣したことについて、「古いブルジョア的、官療的な国家機構が手つかずにのこっている」あいだは、「大臣の首のすげかえ」をしてみても意味はない、とのべたレーニンの言葉(「革命の一根本問題」、全集25巻)をしきりに引用して、レーニンが革命によってブルジョア国家機構を粉砕する以前には、革命勢力が政府をにぎってこれを革命の発展のために利用することなどありえないとする立場をとったかのように主張している。だが、これも、きわめて乱暴なレーニンの歪曲である。レーニンの批判は、メンシェビキなどの「社会主義者」たちが、革命を放棄してブルジョア政府に入閣したことにむけられているのであって、真に革命的な勢力が議会や政府をにぎって、これを反動支配の打破のために利用することを否定したものでは、けっしてない。事実、レーニンの指導下にひらかれたコミンテルン第4回大会は、すでにみたように、ブルジョア権力が打倒される以前に、統一戦線政府が樹立される場合がありうることをはっきりと承認し、この政府が、労働者階級を中心とする大衆運動の支持のもとに、一連の革命的、進歩的な政策を実行し、革命運動の発展に有利な条件をつくりだすことができることを、明確に指摘したのである。

(3)議会の活用と反動的国家機構の破壊の問題

 反党対外盲従主義者が、わが党綱領の「修正主義路線」なるものを証明する論拠として、最後にもちだす議論は、ブルジョア国家機構の一部である国会を「反動支配の道具から人民に奉仕する道具にかえ」るというのは、ブルジョア国家機構の破壊、粉砕についてのマルクス・レーニン主義国家論の根本命題の修正だという議論である。

 「現綱領の誤りは、たんにマルクス・レーニンの教え――ブルジョア議会をふくむ国家機構全体は、暴力によって、こなごなに粉砕しなくてはならないという――この革命的思想を、すっかり埋葬してしまっているだけでない。それはまた、革命のさいにはプロレタリアートは、古い国家権力にかわる、新しいより民主主義的な人民の権力――その形態はどうであろうと、それは、必然的にプロレタリアートの革命的独裁に発展する――を創りだきなくてはならないというこの重大な、避けることのできない任務に当面することを、あいまいにしている点でも、すくうことのできない、致命的な誤りをふくんでいる」。(安斎)

 この非難の根底にあるものもまた、マルクス・レーニン主義の国家論のきわめて粗雑な歪曲である。

 第一に、わが党の綱領は、人民が、国会と政府をその手ににぎって、これを人民の利益の擁護、革命の勝利と反動的な国家機構の根本的な変革のために活用する展望をしめしているのであって、米日支配層による反動支配の道具である現在の国家機構を、そのまま人民権力の機構とするなどということは、まったく主張していない。

 いうまでもなく、「労働者階級は、できあいの国家機構をたんにその手ににぎり、それを自分自身の目的のためにつかうことはできない」(マルクス)ということ、すなわち民主主義革命であると社会主義革命であるとを問わず、官僚的、軍事的な国家機構の破壊が、あらゆる人民革命の前提条件であるということは、マルクス・レーニン主義の革命理論の根本命題のひとつである。それは、今日の資本主義国家の中央集権的国家機構、とくに警察、軍隊、官僚などを中心とする膨大な官僚的・軍事的機構は、本来、人民への抑圧と支配を主要な目的としてつくりあげられた反人民的な機構であり、たんに人民を代表する勢力が議会の多数をしめ、政府をにぎったからといって、それだけでこの機構全体を人民の利益のためにそのままつかうことはできないからである。

 労働者階級と人民が、ほんとうに自分の手に権力をにぎり、革命の諸任務を実行し、革命の勝利を確保するためには、官僚的・軍事的機構の粉砕を中心に旧国家機構を根本的に変革し、ほんとうに民主主義的な国家機構――人民の意思にもとづいて運営され、人民の利益のために活動する新しい国家機構をうちたてることが必要になる。わが党の綱領は、この点についてマルクス・レーニン主義のこの原則的見地を一貫して堅持して、「君主制を廃止し、反動的国家機構を根本的に変革して人民共和国をつくり、名実ともに国会を国の最高機関とする人民の民主主義国家体制を確立する」ことが、革命がどのような移行形態をとおっておこなわれようと、人民の民主主義権力のもっとも重要な任務のひとつとなることを、明確に規定している。そして、マルクス・レーニン主義の革命理論のこの原則的見地をあいまいにし、革命勢力が議会の多数をにぎりさえすれば、ブルジョア国家機構をそのまま人民の権力の道具にかえることができるとか、あるいは、独占資本が政治権力をにぎっているもとでも、労働者階級と人民がブルジョア国家の内部に「浸透」し、下から「民主的圧力」をくわえることによってブルジョワ国家機構をなしくずしに獲得することができるとか主張する内外の修正主義者たちの改良主義的「革命」論――「構造改革」論にたいして、わが党は徹底的な批判をくわえてきたのである。

 もちろん、このことは、革命の勝利にいたる過程で、労働者階級と人民が、一定の条件のもとで議会や政府などブルジョア国家機構のあれこれの部分を、当面する人民の権利の擁護、社会の合法則的発展を促進するために、革命の前進に、とくに国家機構の変革のために活用することを、否定するものではけっしてない。すでに明らかにしたように、労働者階級と人民が、議会で多数をしめ適法的に政府をにぎるならば、それが、人民の利益の擁護に役だち、革命の前進の条件を一般的に有利にするだけでなく、とくに、政府が法的にその統括下においている反動的な国家機構を変革する面でも、革命勢力をより有利な立場にたたせることは、明白である。すでに、1936-39年のスペイン革命の経験は、統一戦線政府の上からの措置と人民の下からの大衆闘争との圧力が結びついて、反動的な国家機構の根本的な変革と、人民の民主的な権力の諸機関の建設に向かってすすんだ、ひとつの歴史的先例を提供している。

 このように、労働者階級と人民が、官僚的・軍事的機構の粉砕を中心に反動的国家機構の根本的変革をめざしながら、その目的のために旧国家機関の一部を積極的に利用するということは、歴史と階級闘争の発展の弁証法をあらわすものであって、マルクス・レーニン主義の革命理論となんら矛盾するものではない。すでにエンゲルスは、マルクスの「フランスにおける階級闘争」への序文(1895年)のなかで、普通選挙権を「欺まんの手段」から「解放の道具」にかえる展望を強調しながら、それが、労働者階級に、ブルジョア国家機関全体との闘争のためにその一部(議会、自治体議会)を利用する新たな道をひらくことを指摘して、つぎのようにのべている。

 「普通選挙権がこのように有効に利用されるとともに、プロレタリアートのまったく新しい一闘争方法がもちいられはじめ、その方法は急速に発達した。ブルジョアジーの支配がそのなかに組織されているところの種々の国家機関は、労働者階級がそれを利用してこの国家機関そのものとたたかうことのできる、さらにもっと多くの手がかりを与えるものだ、ということがわかった」。(マルクス・エンゲルス全集第7巻、528ページ)

 今日、綱領が日本の労働者階級と人民にしめしている展望――革命勢力が普通選挙権を活用して国会の多数をしめ、適法的に政府をにぎって、これを革命の前進、とくに反動的国家機構の根本的変革と人民の民主主義国家体制の確立をめざす闘争に役だてるという展望は、エンゲルスが指摘した、ブルジョア国家機関の一部をその国家機関そのものとたたかうために利用するという闘争方法の、今日の日本の歴史的情勢のもとでの具体的な形態にほかならないのである。ここに、マルクス・レーニン主義の「革命的思想」の「埋葬」などをみる安斎らの議論は、マルクス・レーニン主義の革命論、国家論にたいして、かれらがなまかじりの知識しかもちあわせていないことをかさねて暴露しているだけである。

 第二に、安斎らは、綱領が、ブルジョア議会を、そのまま人民権力にひきつぎ、これを永遠化することを主張しているかのようにいって非難しているが、これもまた、まったくでたらめな中傷である。

 「わが綱領は、ブルジョア議会が、反動支配に奉仕するだけでなく、人民に奉仕したり、革命の条件を有利にすることができるということによって、事実上、ブルジョア議会の歴史的に制約された意義を否定し、ブルジョア議会に万歳!をさけびその永世不朽を主張しているのである。
 なぜなら、もし、ブルジョア議会が、人民に奉仕したり、革命の条件を有利にすることができるならば、ブルジョア議会の生命は、人民の存在するかぎり、また革命が前進するかぎり、永遠でなければならない、ということになるからである」。(安斎)

 これは、二つの異なる問題をわざとすりかえた卑劣な奇弁にすぎない。

 現在の国会を、革命の勝利のためにどう活用するかという問題と、革命が勝利したのちにつくりあげられる人民の民主主義国家体制のなかでの国会の問題とは、混同することのできない二つの問題である。

 わが党綱領は、革命後につくられるべき人民権力の国家形態を、名実ともに国会を国の最高機関とする人民共和国と規定しているが、この国会が、現在の国会と同じものではありえないことは、いうまでもない。

 今日の国会は、たしかに憲法上は、国民を代表する「国権の最高機関」として、日本の国家機構のなかできわめて重要な地位をあたえられている。しかし、実際には、第一に、選挙制度のあれこれの非民主的な制約のために、人民の多数の意思を、現状に正しく比例して国会に反映することが保障されていない点でも、第二に、国会は、政府首班を指名したり、予算や法律を審議し決定したりはするが、実際の「国家」活動の大部分は、政府をその頭部とする行政権力――官僚的・軍事的機構によって事実上国会から独立におこなわれているという点でも、今日の国会には、真の人民代表機関、「国権の最高機関」としての地位はほんとうには保障されていない。

 「アメリカからスイスにいたり、フランスからイギリス、ノルウェーその他にいたる、どの議会主義国でもよいから一瞥してみたまえ。真の『国家』活動は舞台裏でおこなわれ、各省や官房や参謀本部が遂行している。議会では、『庶民』をあざむこうという特別の目的でおしゃべりをしているにすぎない」(レーニン「国家と革命」、全集25巻、456ページ)。

 レーニンのこの批判は、主権在民という民主主義の根本をまったく形式だけのものにかえ、人民代表機関に名目だけの地位しかあたえていないブルジョア議会制度の根本的欠陥をするどくついたものだが、この点では今日のわが国の国会もけっしてその例外ではないのである。そして、国会のこの状態は、自民党のような反民族的、反人民的政治勢力が国会の多数をしめていることによるだけではなく、より根本的には、ブルジョア国家機構の一部分としての固有の歴史的制約――選挙制度の非民主的制約、立法活動と執行活動の分離、行政権力にたいする国会の統制力の弱さ、議員の特権的地位の保障など――によるものであり、たんに、自民党にかわって党と統一戦線勢力が国会の多数をしめることだけでは、根本的に解決することのできない性質のものである。したがって、党と統一戦線勢力が国会の安定した多数をしめた場合、国会が米日支配層による反動支配の道具となっている現状を打破し、これを「人民に奉仕する」道具に転化して統一戦線政府の樹立、売国条約の破棄、反動立法の廃止と人民の利益を守る法律の制定などをおこない、革命の条件をさらに有利にすることはできるが、ブルジョア議会制度の弱点をもった現在の国会が、そのままで、人民の民主主義国家の最高機関となることのできないことは、自明のことである。

 革命後に、人民の民主主義国家体制のなかで「名実ともに国の最高機関」となる国会は、ブルジョア議会制度の歴史的制約を一掃し、徹底した人民の民主主義にもとづき、真の国家権力全体を統括する最高機関としての地位と機能をもつようになった新しい国会、現在の国会とは根本的に異なる新しい質的内容をもった、真に人民的な国会である。

 マルクス、エンゲルスもレーニンも、ブルジョア議会制度の欠陥をするどく批判したが、人民によってえらばれ、人民の意思を代表する代議機関に国家の最高機関としての地位を保障する代議制度や選挙制度の意義を否定したことは、一度もなかった。レーニンは、「国家と革命」のなかで、パリ・コンミューンの経験とマルクスによるその理論的総括をふりかえりながら、ブルジョア議会制度からの活路、真の民主主義国家における代議機関の地位についてつぎのようにのべている。

 「もちろん、議会制度からの活路は、代議機関と選挙制の廃棄にあるのではなく、代議機関をおしゃべり小屋から『行動的』団体へ転化することにある。……
 コンミューンは、ブルジョア議会の金しだいの腐敗した議会制度を、判断と審議の自由が欺まんに堕することのないような制度に代える。なぜなら、コンミューン議員は、自分も活動し、自分で自分の法律を実施し、自分で実際上の結果を点検し、自分で自分の選挙人に直接責任を負わなければならないからである。代議制度はのこっているが、しかし、特殊な制度としての、立法活動と執行活動との分業としての、議員に特権的地位を保障するものとしての、議会制度は、ここにはない。代議制度なしには、民主主義を――もちろん、プロレタリア民主主義をもまた――考えることはできない。だが、ブルジョア社会の批判がわれわれにとって空文句でなければ、またブルジョアジーの支配をうちたおそうとする志向がわれわれのまじめな心からの志向であって、……労働者の票をつかむための『選挙用の』文句でなければ、議会制度のない民主主義を考えることはできるし、また考えなければならない」。(全集25巻、456~458ページ)

 当時の歴史的条件のもとでは、ブルジョア議会制度なしの民主主義を実現する道は、普通選挙にもとづく議会を維持することによっては不可能であり、労働者、兵士、農民代表ソビエトの共和国が、その実現を保証するただ一つの形態とされていた。ソ連で、市町村の勤労者代議員ソビエトから最高ソビエトにいたるすべての人民代表機関が、普通選挙権にもとづいて選出されるようになったのは、1936年に新しい憲法が制定されて以後のことである。だが、これらのことは、レーニン自身が「ソビエトは、プロレタリア独裁のロシア的形態である」(「プロレタリア革命と背教者カウツキー」、全集28巻、272ページ)と注意ぶかくのべていたことでもわかるように、ソビエトが人民の権力の普遍的な形態であることを意味するものではない。今日では、内外の歴史的条件が大きく変化し、革命勢力が普通選挙にもとづいて多数を獲得しうる現実的な見とおしがうまれた結果、ソビエト共和国の形態ではなく、普通選挙にもとづく議会を最高機関とする人民共和国の形態で、ブルジョア議会制度なしの完全な民主主義を実現することが可能になった。第2次大戦後の東および中央ヨーロッパにおける人民民主主義革命の経験は、そのことを具体的に実証したものであった。これらの人民民主主義国家では、いろいろ名称はちがうが、普通選挙にもとづく人民代表機関を人民権力の最高機関とする人民共和国をうちたてて、そのもとで民主主義革命と社会主義革命を実行したのである。

 わが党綱領は、これらの国際的な経験をも考慮しながら、今日の日本の歴史的条件の科学的分析にもとづいて、日本における人民の民主主義権力の具体的な形態として、君主制を廃止し、真に民主的な普通選挙にもとづく一院制国会を名実ともに国の最高機関とする人民共和国を確立する方向を規定しているのである。この国会が現在の国会とはちがって、行政権力を立法権力から分離したり、主権者としての人民の権利をたんなる投票権に解消したりする、ブルジョア議会制度のあらゆる制約から解放され、真の人民代表機関としての内容と、国家機構全体を統括する国の最高機関としての地位を保証された、「ブルジョア議会制度なしの代議機関」の一形態であることは、当然である。もちろん現在の反動的国家機構を根本的に変革して新しい人民民主主義国家体制の確立にいたる移行の過程は、革命の発展がどのような経過をたどるかに左右されるもので、いまから一義的に予測することはできない。しかし、革命後に樹立される人民の民主主義国家についての綱領のこの規定は、わが党を「議会制民主主義の破壊者」として非難する自民党などの反共宣伝をまっこうから粉砕すると同時に、ブルジョア議会の階級的性格を否認してこれを無批判的に美化し、人民の民主主義をブルジョア民主主義のたんなる延長とみなす修正主義者の右翼日和見主義、改良主義の見地を、厳しくしりぞけるものであり、わが党がブルジョア議会を人民権力にそのままひきつぐことを主張しているかのように言う極左盲従分子たちの非難に、なんの道理もないことを、明白に示しているのである。

 なお、この点で、反党教条主義者たちの立場をいっそうこっけいなものにしているのは、安斎が、宮本書記長が、第7回党大会での綱領問題についての中央委員会の報告のなかで、「1917年の革命をつうじてつくられたソビエト国家が労働者、農民、兵士代表ソビエトを基礎にしていた」のと比較して、人民民主主義国家を「労働者階級と共産党が指導権をにぎる民族民主統一戦線を基礎にし、普通選挙法にもとづく議会制度を徹底的に改革し、それを権力を掌握した人民のための機関としている国家形態」と特徴づけた(『日本革命の展望』、308ページ)ことをとらえて、人民民主主義革命の歴史の偽造だといって攻撃していることである。

 安斎はいう。――東欧の人民共和国は、「ソビエト型の権力機関ではなかったが、本質的には、ブルジョア議会もふくめて『寄生する肉瘤』である、古い国家機構をこなごなに粉砕し、そのあとに労働者階級を先頭とする勤労人民が新しくつくりあげたパリ・コンミューン型の権力機関」であった。これを「ブルジョア議会制度を徹底的に改革した国家形態」だなどというのは、「マルクス・レーニン主義にたいしての、最大の修正汚辱」であり、「とほうもない、事実の偽造」である――

 だが、これはまったくこどもだましのいいがかりにすぎない。

 宮本書記長がここで主張しているのは、東欧の人民民主主義革命が旧国家機関の破壊なしにおこなわれたとか、ブルジョア議会が人民共和国の最高権力機関になったとかというばかげたことではない。東欧諸国の人民民主主義革命の過程で、労働者階級と人民が反動的国家機構を粉砕して新しい人民の民主主義国家機構をうちたてたこと、この国家機構の最高機関である人民議会(ブルガリア)、国民議会(チェコスロバキア、アルバニア)、大人民議会(ルーマニア)、国会(ポーランド)などが、ブルジョア議会とは根本的に異なる代議機関であって、立法権力と行政権力の分離、人民からの官僚機構の独立などのブルジョア的弱点をもたない――その点ではパリ・コンミューンと基本的に同じ型の――人民代表機関であることは、安斎がいまさらなまかじりの知識をひけらかすまでもなく、きわめて当然の歴史的事実である。

 宮本書記長がここで提起したのは、まったく別個の問題である。それは、人民民主主義国家の国家形態の、ソビエト国家とは異なる特徴はどこにあるかという問題であり、宮本書記長は、その第一の特徴が、労働者、農民、兵士代表ソビエトではなく、徹底的に民主的に改革された議会制度――普通選挙にもとづく議会制度を人民権力の機関にしたことにあるという事実を、指摘したのである。安斎は、宮本書記長が、人民民主主義国家を「ブルジョア議会制度を徹底的に改革した国家形態」と規定したなどといっているが、宮本書記長は、普通選挙法にもとづく議会制度の徹底的な改革についてのべているのであって、「ブルジョア議会制度」の改革などについては、ひとことものべていない。ブルジョア議会制度うんぬんは、安斎のまったくのでっちあげである。いったい、東欧の人民共和国が、普通選挙法にもとづく一院制議会を国の最高機関としているという事実を指摘することの、どこに「マルクス・レーニン主義の修正汚辱」があり、どこに「とほうもない事実の偽造」があるのか。

 安斎のこのような非難こそ、議会制度とか普通選挙だといえば頭からブルジョア支配の道具として否定すべきだと思いこんでいる安斎の反マルクス・レーニン主義的見地と、さらには、その誤った議論のつじつまをあわせるために、東欧の人民共和国が普通選挙にもとづく一院制国会を人民権力の機関としているという歴史的事実をも否認してはばからない、歴史の偽造ぶり――党と革命の事業の裏切り者にこそふきわしい理論的「詐欺師」「ペテン師」ぶりを、なによりも雄弁に確証するものなのである。

六、トロツキストと野合した反革命挑発分子

 以上、あらゆる角度から分析し批判してきたことから明らかなように、わが党の綱領の路線を「ブルジョア議会主義」「フルシチョフ修正主義」などといって攻撃している反党教条主義者たちや、これを扇動する中国共産党の極左日和見主義、大国主義分子は、マルクス・レーニン主義の革命的立場にたつのではなく、これに正面から敵対する反マルクス・レーニン主義の立場、極左冒険主義の立場にたっているのである。

 そして、最後にかさねて強調しなければならないのは、反党教条主義者たちのこの議論が、日本人民の闘争の破壊と撹乱をもくろむ反革命挑発者の議論だということである。

 反党対外盲従分子の反革命挑発者としての役割は、かれらが、理論的にも実践的にも、トロツキスト一派と野合しつつあることによって、最近いっそう明確に暴露されてきている。トロツキストが、帝国主義と独占資本に奉仕して、共産主義運動、民主運動の撹乱をたくらむ反革命挑発者の徒党であることは、国際的にも、また日本人民自身の闘争の経験にてらしても、明白なことである。あの歴史的な安保闘争のさいに、当時全学連の指導部を占拠していたトロツキストは、田中清玄などの反共右翼とひそかに結びつき、その援助と指導のもとに、一部の学生を扇動して極左的挑発行動を組織し、反共主義をもちこみ、民主勢力の統一戦線の撹乱と破壊に狂奔した。その犯罪的な役割は田中清玄らとのみにくい結びつきとともに、今日、周知の事実となっている。

 ところが、反党対外盲従分子は、最近、安保闘争などにおけるトロツキストの挑発活動を、「大衆の革命的行動」として全面的に礼賛する議論をふりまきはじめ、かれらが思想的、政治的にトロツキストの同調者であることを、みずから告白するにいたった。

 たとえば、「長周新聞」一派は、毛沢東思想の旗のもとで「革命的大衆運動の大再編」をすすめるためには、安保闘争の再評価をおこなわなければならないとのべ、毛沢東や「人民日報」の当時の論調を引用しながら、国会突入などトロツキストの冒険主義的行動を美化して、つぎのように書いている。

 「党中央は日和見主義に同調しないこれらの革命的大衆を『一部のもの』と称してみな『トロツキスト』にしたてあげた。……『トロツキストとのたたかい』というのは闘争にたちあがった進歩的インテリゲンチア、革命的学生、戦闘的労働者にたいする集中砲火にほかならなかった」。(光岡正史「安保闘争の歴史的教訓――革命的大衆運動の大再編のために」、『革命戦士』5号)

 かれらによれば、トロツキストこそ、安保闘争における「革命的大衆運動」の代表であり、指導者だったのである。そればかりではない。かれらは過去におけるトロツキストの役割を美化するだけでなく、組織的、実践的にも、トロツキストと公然と徒党をくんで、わが党と民主勢力にたいする暴力的破壊活動を共同で実行しはじめた。すなわち、2月28日以来の日中友好協会本部襲撃事件は、一部の在日華僑学生と対外盲従分子に、「社学同マルクス・レーニン主義派」などのトロツキスト集団も公然と加担しておこなわれたものであったし、3月25日に、対外盲従分子がひらいた日本共産党攻撃の「中央決起大会」には、トロツキスト集団が参加し、札つきのトロツキストが「学生代表」として演説するなど、いまでは、対外盲従分子とトロツキストとの「反共同盟」はかくれもない公然の事実となっている。かれらは、こうした行動によって、かれらが中国共産党の極左日和見主義、大国主義分子への盲従者であるばかりか、理論的にも実践的にも、トロツキスト反革命集団の追従者であることを実証するとともに、かれらの呼号する「革命的暴力」なるものが、トロツキストのそれとまったく同じように、なによりもまず日本の党と民主勢力にたいしてむけられる反革命的暴力であることを、行動をもって証明したのである。

 反革命挑発者の徒党であるトロツキストとの野合と党と人民にたいする反革命的暴行――これこそ、反党盲従分子の対外事大主義と極左冒険主義がたどりついた最後の到達点であり、党と革命の事業を裏切った反革命挑発分子としてのかれら自身の正体を、もっともあからさまに暴露したものである。

 さらに、対外盲従分子や中国共産党の極左日和見主義分子が、日本人民におしつけようとしている議論の挑発的役割は、かれらの極左冒険主義の路線を、いったいだれが歓迎するかをみれば、ただちに明らかになる。

 ここ数年来の選挙の結果がしめしているように、自民党の得票率は選挙ごとに減少し、すでに過半数の支持者を大きく失いつつあり、これにたいして、日本共産党をはじめ民主勢力の得票は増大しつつある。アメリカ帝国主義および日本独占資本のアジア侵略、日本軍国主義復活の政策が新たな段階にはいり、日本の進路をめぐる米日反動と日本人民との闘争がいよいよ激化しつつある情勢のもとで、自民党の政治的影響力をいっそう後退させ、共産党を先頭とする民主勢力の前進を実現しうる条件はますます強まっている。自民党と反動勢力は、こうした事態を、ブルジョア民主主義の諸制度を破壊し、軍国主義反動体制を確立する方向で打開しようとして、一方で小選挙区制や憲法改悪の策謀をおしすすめるとともに、他方で「1970年革命」説を流布し、わが党を人民の意思を無視して「暴力革命」を準備していろ陰謀団体として描き出す謀略宣伝をしきりにおこなっている。

 自民党佐藤内閣は、一昨年、東京都議会選挙や「日韓条約」粉砕闘争のさいに、謀略的な「1970年革命」説をまきちらし、共産党は1970年をめざして「海外の共産勢力の応援」で暴力革命を起こそうとしているなどといった反共デマ宣伝で人民をおどしつけ、それによって日本共産党と民主勢力の進出をくいとめ、その侵略と戦争、軍国主義復活の反動政策を正当化しようとした。

 そればかりではない。自民党は、1970年のいわゆる「安保再改定」にさいして、日米軍事同盟をいっそう侵略的、反動的な方向で延長、強化しようとする計画をも、共産党が「武装蜂起」をたくらんでいるという反共宣伝と結びつけて、合理化しようとしている。たとえば、昨年5月初旬に自民党安全保障調査会がまとめた安保問題についての「中間報告案」では、「1970年革命」説が情勢分析の一つの主要な柱とされ、日米軍事同盟の延長強化のための重要な論拠とされている。

 「主として中ソ両国共産党の影響下にある国内の革命勢力は、1970年の日米安保条約の期限終了時に乗じて、その廃棄運動を展開し、これを反米運動に転化し、日米離間を策するとともに、大衆蜂起による社会主義革命に導き、さらに一部のものはこれを暴動化し、武装蜂起、暴力革命にまで発展させる計画をもっているとみられている」(「中間報告案」)

 これは、明らかに日本共産党の孤立化をはかり、党と民主勢力にたいする政治弾圧、自民党専制支配の確立と日米軍事同盟の強化などのための口実をつくりだそうとする悪質な策謀である。反党対外盲従主義者たちの極左冒険主義の主張が、まさに、いま米日支配層が謀略的手段によって共産党になすりつけようとしている「冒険主義」を自分からすすんで演じようとすることであり、米日支配層の反共攻撃に直接手をかす挑発者の議論であることは、まったく疑問の余地のないところであろう。

 かつて1950年に、アメリカ帝国主義が日本を最大の前進基地として、朝鮮侵略戦争を開始し、わが国の労働者階級と人民を軍事的抑圧とひどい搾取にさらし、党と民主運動にたいして凶暴な弾圧をくわえてきたとき、不幸にも分裂状態にあったわが党の一部が、外国の諸党のつよい影響のもとに極左冒険主義の戦術を採用した。この極左冒険主義的戦術は、わが党を人民から孤立させ、侵略戦争に反対するわが国の民主勢力のたたかいに重大な損害をあたえ、そのことによって、アメリカ帝国主義が日本を拠点にして朝鮮侵略戦争をおしすすめることを事実上たすける役割をはたした。これは、けっしてゆるがせにできない歴史の教訓である。

 ところが、今日、日本の反党反革命分子やこれと結託する中国共産党の極左日和見主義、大国主義分子は、この歴史的教訓をまったくふみにじり、わが党とわが国の革命運動にたいして、ふたたび挑発的な極左冒険主義の方針を押しつけようとしているのである。もし万一、この極左冒険主義の方針が、実際に日本の民主勢力によって採用されるならば、今日の条件では、それがわが党を先頭とする真の民主勢力を広範な人民から孤立させ、米日反動勢力に党と民主勢力にたいする弾圧の絶好の口実をあたえ、日本人民の闘争に重大な打撃をあたえる結果となることは、きわめて明白である。いま、アメリカ帝国主義は、それに従属的に同盟する日本独占資本の積極的な協力のもとに、日本をベトナム侵略戦争の作戦・補給基地にかえ、さらに、日本を拠点として、朝鮮民主主義人民共和国をはじめ、アジアの他の社会主義国にたいする新たな侵略戦争に放火する陰謀をすすめている。この重大な情勢のもとで、日本の党と民主勢力が、日本の具体的情勢を無視した極左冒険主義の方針によって、人民から孤立する道をふたたび選ぶことは、アメリカ帝国主義と日本独占資本が、人民と民主勢力の抵抗をうちやぶって戦争と侵略の政策、軍国主義、帝国主義復活の政策をいっそう有利に押しすすめることのできる情勢をつくりだしてやることであり、ただ、わが国の民主運動と党の発展に障害をあたえるだけでなく、アジアと世界の人民の反帝、民族解放、平和の事業全体にたいして、重大な否定的影響をおよぼすものである。これは、アメリカ帝国主義と日本独占資本が、わが党と自覚的民主勢力に決定的打撃をあたえるために、心ひそかにもっとも歓迎する反革命的挑発の方針でこそあれ、日本の革命運動にたいし、世界の反帝闘争にたいして責任をおっている日本共産党として、けっして選んではならない道である。

 アメリカ帝国主義が日本を拠点としてベトナム侵略戦争をますます凶暴に拡大し、日本独占資本がその共犯者として軍国主義、帝国主義復活の道を急速にすすみ、日本人民にとっても、アジア諸国人民にとってもきわめて危険な事態をつくりだしつつある今日、わが党と労働者階級のおっている責務は、国内的にも、国際的にも、ますます重大なものとなっている。こうした情勢のもとで内外の極左日和見主義分子がくわだてている悪質な挑発撹乱工作を粉砕することは、日本人民の革命闘争にたいして責任をおい、また国際共産主義運動の真の団結と国際的な反帝闘争の前進のために一貫してたたかっているわが党の、当然の任務である。

 全党は、自民党、反動勢力の反共攻撃や、「左」右から相呼応した反党分子の党綱領への攻撃を徹底的にうちやぶって、マルクス・レーニン主義にもとづく党綱領の革命路線を一貫して擁護し、日本人民の解放闘争を確信をもって前進させるとともに、いまやまったくの反党、反革命の挑発撹乱分子と化した西沢、安斎一派、「長周新聞」一派などあらゆる対外盲従分子の破壊活動と、中国共産党の極左目和見主義、大国主義分子の干渉、撹乱活動を断固として粉砕する闘争を、全面的に強化しなければならない。

 これら内外の挑発、撹乱分子の策動は、マルクス・レーニン主義にそむき、日本人民の解放闘争と国際共産主義運動の大業を裏切る階級的犯罪行為であり、どんなに恥すべき手段にうったえようと、挫折と破たんの運命をまぬがれることはできない。わが党の断固とした闘争は、かならず、かれらの党破壊活動をうちやぶり、これを徹底的に粉砕するであろう。

(『日本共産党重要論文集』第5巻より)