日本共産党資料館

社会党「通達」の「日本共産党の路線変更」論を反駁する

(『赤旗』1967年6月15日)

(1)

 わが党はこれまで、日本社会党本部の5月18日付通達「日中友好運動及び善隣学生会館事件にたいする党の態度について」が、在日華僑学生などによる日中友好協会本部襲撃事件をわが党が民青などを動員して中国人学生を暴力的に襲撃した事件として事実に反する断定をおこない、わが党と日本民主青年同盟にたいして不当な非難と中傷をくわえたことを重視し、いくつかの反論を公表してわが党の見解と態度を明らかにしてきた。(『赤旗』5月24日付「日中友好協会本部襲撃事件にたいする日本社会党の『通達』について」、『赤旗』5月29日付“主張”『日本社会党本部の“通達”をめぐるわが党の態度について――『他党からの干渉』という一部の非難にふれて」、『赤旗』6月4日付「『事情調査』の名による真実の歪曲――日中友好協会本部襲撃事件にかんする社会党本部の『参考資料』について」)

 6月6日から9日までひらかれた第4回中央委員会総会は、中央委員会幹部会がこの問題にかんしてとった措置を全面的に承認するとともに、この問題のすみやかな解決がきわめて重要であることを確認した。

 問題をすみやかに正しく解決するための最大の前提は、わが党と日本社会党がともに真実を尊重し、真実を追求する立場と、日本の民主運動の自主性を守る立場にたつことである。

 第4回中央委員会総会が全員一致で採択した声明「日中友好協会本部襲撃事件をめぐる諸問題について」は、つぎのようにのべている。

 「わが党は、日本社会党が、人民に責任をおう民主的政党として、あくまで真実を尊重する立場にたつことを、つよく要望するものである。もし、日本社会党本部が、こうした態度をとらず、今後とも事実と道理に反する『通達』の内容を固執する態度をとりつづけるならば、それは公党としての責任にそむき、人民の期待に反することとならざるをえない。
 わが党は、あくまでも真実を追求し、プロレタリア国際主義と愛国主義を正しく統一して、日本の民主運動、革命運動の自主性と正しい国際連帯の立場を断固として擁護する見地から、この問題の原則的な解決のために力をつくすものである」

 真実を追求し、日本の民主運動、革命運動の自主性を守るというこの当然の見地から、わが党がとくに重視しないわけにはいかない問題の一つは、日本社会党本部の「通達」が表明した「日本共産党の路線変更」論である。

 「通達」は、つぎのようにのべている。

 「この事件は、中国と日本共産党の路線の違いに端を発したものである」
 「日中友好運動は、日本共産党の路線変更により、阻害されてきたが、この事件により『日中友好協会』による日中友好運動の破局的段階にたちいたった」

 「通達」は「イデオロギー論争には参加しない」などとのべている。しかし、この事件が「中国と日本共産党の路線の違い」なかんずく「日本共産党の路線変更」にもとづく日中友好運動の「阻害」を原因としたものであるとする「通達」の断定は、まさに中国共産党の極左日和見主義、大国主義分子やそれに盲従するわが国の反党事大主義分子の誤った主張をそのままうけいれたものであり、公然と共産主義運動内部のイデオロギー論争に介入することにほかならない。同時にそれは、「通達」のなかには、いわゆる「路線変更」や日中友好運動の「阻害」の原因について、いくらかでも真実を追求しようとする立場や、外国勢力による不当な干渉からわが国の民主運動の自主性を守ろうとする態度がまったく皆無であるという悲しむべき事実を示すものにほかならない。

 ここには問題が二つある。一つは、わが日本共産党の「路線変更」というのは事実かどうかという問題であり、もう一つは日中友好運動を「阻害」したものが「日本共産党の路線変更」であったのかどうかという問題である。

(2)

 第一の問題からみていこう。

 昨年、日中友好運動にさまざまな困難が生まれ、わが党と中国共産党とのあいだの重要な見解の相違が表面化して以来、ブルジョア・ジャーナリズムから「左」右の反党分子まで、いっせいにその原因をわが党の「路線転換」に帰し、わが党の「中共路線」から「自主独立路線」への「転換」なるものについてさわぎたてたことは記憶に新しい。

 わが党は、1950年の党の分裂および党の一部での極左冒険主義的戦術の採用という深刻な教訓のなかから、日本の革命運動に自主的な責任をもつ独立した党として、マルクス・レーニン主義とプロレタリア国際主義にもとづく自主独立の立場を堅持することの重要性を確信し、以来一貫してその立場をまもってすすんできた。そのことは、1958年の第7回党大会以来のわが党の諸決定や重要論文のすべてが明白に示しているところである。ここではそれらをくわしく跡づける必要を認めないが、プロレタリア国際主義と愛国主義とを正しく統一するわが党の自主独立の立場が、昨年にわかに採用されたものであるかのようにいいたてる人びとのために、6年前の第8回党大会の決定を一つだけ引用しておこう。

 「自国の解放の闘争が、『おもに自分の肩にかかっている』ことを十分自覚した労働者階級と革命的前衛であってこそ、今日の時代の特徴、人類社会発展の内容、方向などを主体的に理解し、国際労働者階級の一翼としてのプロレタリア国際主義と、自国の人民の幸福のためにたたかう愛国主義を正しく結びつけて実践することができる」(「綱領(草案)についての報告」)

 わが党が、どの党であれ外国の党の路線に追従してきたという非難は、まったく根拠のない中傷にすぎない。そのような事大主義の傾向は、わが党が、1950年以来の経験もへて、すでに基本的に克服したものなのである。

 わが党の「路線変更」なるものを、無責任にうんぬんしている一部の人びとは、わが党がフルシチョフを中心とするソ連共産党指導部のわが党にたいする不当な大国主義的干渉と、それをささえる現代修正主義、分裂主義の路線にたいして断固とした闘争をおこなうにさいして、事実上中国共産党の路線に追従していたかのように事態を描き出そうとしている。これもまた、まったく根拠のない中傷である。

 国際共産主義運動内部の論争が巨大化していったさい、わが党は「あくまで真理を追求し、正しいものを正しいとし、誤っているものを誤っているとする」「共産主義者としての当然の態度」(第9回党大会決定)をとった。そして、フルシチョフらの修正主義、大国主義、分裂主義の誤りにたいする一連の批判点にかんして、わが党と中国共産党、朝鮮労働党その他のいくつかの党とのあいだに基本的に一致点があったとすれば、それはまさにマルクス・レーニン主義にもとづく真理がただ一つであったからである。

 そのことは、わが党の中国共産党の路線にたいする追従をごうも意味するものではない。現代修正主義の国際的潮流とたたかってマルクス・レーニン主義の原則を擁護する歴史的闘争において、一定の期間、わが党と中国共産党との戦闘的連帯が強化されていった事実は、わが党の「中共路線」への追随などとは、まったく無縁のものであった。そのことは、たとえばつぎのいくつかの事実をみただけで一目瞭然である。

 第一に、わが党が開始したフルシチョフらソ連共産党指導部にたいする公然たる論争は、中国共産党のソ連共産党にたいする公開論争になんら追随したものではなかった。1963年8月に、第9回原水禁世界大会出席のため来日した中国共産党の一党員は、「パスに乗りおくれるな」といってわが党の幹部にソ連批判をすすめたが、わが党は相手にしなかった。わが党は、その後1964年に、ソ連共産党指導部が、1960年の声明がさだめた兄弟党間の関係の基準をふみにじって反党集団志賀一派を公然と激励し、わが党の路線を全面的に攻撃した長文の書簡を一方的に公表するという、許すことのできない重大な干渉、破壊活動を強行してきたときにはじめて、自主的に、マルクス・レーニン主義党としての当然の権利から、公然たる反論を開始したのである。わが党は、当時、中国共産党をはじめ、他のどの党も公開論争をおこなっていなかったとしても、この公開の反論をあえてしたであろうことはもちろんである。

 第二に、わが党のフルシチョフらにたいする批判は、わが党とわが国の人民の闘争の実践と、わが党自身の研究にもとづいて、全面的に正否の明らかな論点にかぎった独自の内容のものであって、けっして中国共産党の諸論文の観点に追随したものではなかった。わが党は他党の論点を無批判的に借りてくるようなことは一度もしたことがない。そのことは、ソ達共産党中央委員会にたいするわが党中央委員会の返書をはじめとするわが党の数多くの重要論文(『日本共産党重要論文集』の第1巻から第4巻におさめられている)の内容そのものが、きわめて明白に物語っている。

 第三に、すでにわが党がソ連共産党指導部にたいする反論を開始した当初、すなわち1964年ごろから、正確にはそれ以前からも、わが党と中国共産党指導部とのあいだには、国際共産主義運動の論争問題にかんして、重要な一致点と同時に、いくつかの重要な見解のちがいが生まれていた。それは当時の両党の文献を読み比べてみるだけで、だれにでも明白になることである。革命の平和的移行の問題その他両党の見解のちがいは多岐にわたっているが、ここでは、なかでももっとも重要な国際共産主義運動の団結問題に関連する意見のちがいの主要なものだけをあげておこう。

(イ)ソ連の現代修正主義者の評価にかんして、中国共産党指導部は、これを「アメリカ帝国主義とその手先の反革命の一兵卒」(『人民日報』・『紅旗』編集部のいわゆる「八評」、1964年3月31日付「プロレタリア革命とフルシチョフ修正主義」)および「ソ連のブルジョアジー、とくにその特権階層の政治面での代表者」(同「九評」、1964年7月14日付「フルシチョフのエセ共産主義とその世界史的教訓」)と規定し、国際共産主義運動の組織的分裂は不可避であるという立場をとりはじめていた。これにたいして、わが党は、ソ連共産党指導部の修正主義、大国主義、分裂主義の路線をきびしく批判しつつも、思想、理論上の闘争と組織的分裂の問題とを明確に区別し、1957年の宣言と1960年の声明の革命的原則を堅持して、国際共産主義運動の統一と団結をかちとるためにたたかいつづけた。(第9回党大会決定)

(ロ)フルシチョフらが一方的な国際会議をひらいて国際共産主義運動の分裂を決定的なものにしようとくわだてたのにたいし、中国共産党は「今日のこのような状況のもとでは、兄弟党の国際会議はおそく開く方が早く開くよりよいし、さらには開かない方が開くよりよい」として、事実上共産党・労働者党の国際会議をいっさい否定するという見地を表明していた(1964年5月7日付ソ連共産党中央委員会への書簡)が、わが党は、分裂のための国際会議に反対すると同時に、「1957年の宣言と1960年の声明に明確に規定されている各国人民の共同の敵が現におこなっている侵略と一致してたたかう具体的な共同行動について協議する国際会議を準備する」という積極的な反対提案をおこなっていた(1964年10月5日付『アカハタ』主張「各国共産党・労働者党の国際会議は、分裂のためでなく、団結に役立つようにおこなわれるべきである――日本共産党の提案」)。

 これらの政治上、理論上の見解のちがいが、実践上でも一定の態度の違いをみちびきだすことは当然である。それはたとえば、国際民主運動のなかで、原則上の見解の不一致を保留しつつ、国際的な統一行動を重視してゆくわが党の方針と、国際民主運動を主として帝国主義、修正主義を暴露し孤立させる舞台とみなす中国共産党の方針との違いとしてあらわれていた。

 以上に指摘した三つの問題をみただけでも、わが党が中国共産党の路線に追従していたという非難が、ためにするつくり話にすぎないことを明らかにするには十分であろう。そして、それがつくり話である以上、「中共路線から自主独立路線への転換」なるものも、事実に反した中傷であることはきわめて明白である。

 日本社会党本部が、わが党の「路線変更」なるものをうんぬんしてわが党を非難しようとするのなら、少なくとも、以上に指摘したようなわが党が公表した諸決定や文献を研究したうえで、事実にもとづいて発言すべきであろう。それは公党としての最低限の義務であり責任である。とくにわが党の場合、大会の諸決定や『赤旗』の主張あるいは重要論文は、紙の上のたてまえにすぎないものではけっしてなく、全党を拘束する決定あるいは党の代表的見解を表明したものであって、全党がそれにもとづいて実践するみちびきの星であるからである。

 国際共産主義運動の諸問題にかんするわが党の基本路線は、公表されたわが党のすべての決定、文献が明々白々に示しているように、党が前衛党として全責任を負った、系統的、整合的、体系的なものである。それは、なしくずしの「路線転換」やひそかな「路線変更」などが可能なものではまったくない。重要な理論問題にかんするわが党の見解も、自主独立の立場も、両翼の日和見主義にたいする二つの戦線での闘争という見地も、すべて一貫したものである。日本社会党本都が、もしも真実を探求するための、わずかな労さえいとわなかったならば、ブルジョア・ジャーナリズムや反党分子のいうことに無批判に追随して、わが党に「路線変更」などという中傷をくわえることは、けっしてできなかったはずである。

(3)

 第二の問題、日中友好運動を「阻害」したものが、「日本共産党の路線変更」であったかどうかに移ろう。

 さきにわれわれは、3年まえの1964年、わが党の第9回党大会当時にも、いくつかの問題で、わが党と中国共産党指導部とのあいだに見解の違いがあったことを指摘した。けれどもここで重要なことは、当時すでに生まれていたこれらの理論上、実践上の違いに過大に注目することではない。もっとも重要なことは、これらの見解のちがいは、両党が兄弟党間の関係を律する基準――自主、平等、相互の内部問題への干渉――を相互に守りあっていたかぎり、日本共産党と中国共産党のあいだの兄弟的関係をすこしもそこなうものではなかったし、ましてや日中友好運動にいささかの影響ももたらさなかったということである。当時、両党は、両党間の話し合いや、幹部間の接触をつうじて、相互の見解のちがいを十分に知りあいながら、同時に兄弟間の関係の基準をまもって一致点で行動を統一することによって、アメリカ帝国主義と闘争し、現代修正主業を克服するための戦闘的団結を強化し、日中友好運動の発展のために積極的に協力してゆくことができたのである。

 そしてわが党にかんするかぎり、この立場と態度は一貫しており、いまも当時もなんの変わりはない。変わったのは、わが党ではなく、中国共産党の一部指導者の側であり、中国共産党の極左日和見主義、大国主義分子が指導した重大な「路線変更」こそ、日中両党間の関係を悪化させると同時に、昨年来、日中友好運動を阻害し、混乱させ、困難をもたらした根源なのである。

 ソ連共産党指導部の評価や国際共産主義運動、国際民主運動の団結問題に関連する両党間の見解のちがいは、1965年2月、アメリカ帝国主義がベトナム民主共和国にたいする連続的な爆撃を開始し、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争が国際情勢の焦点となり、それに反対する反帝民主勢力の国際統一行動、国際統一戦線の強化が、反帝民主勢力のもっとも緊急な任務となるとともに、しだいに重要な比重と意味をもつにいたった。

 1965年11月10日、『人民日報』編集部・『紅旗』編集部は、「ソ連共産党指導部のいわゆる『共同行動』を反駁する」を発表した。この論文は、それまでの見解を極点にまでおしすすめ、ソ連共産党の新指導部をアメリカ帝国主義の同盟者と規定して、ソ連共産党指導部を組織的に排除した反米・反ソの国際統一戦線と国際共産主義運動の「大再編」の主張をもち出したものであった。

 この論文は、なによりもまず中国共産党指導部が強調しつづけてきた反米統一戦線の問題にかんする、重要な見解の変更を意味していた。かつては、中国共産党指導部もフルシチョフらの修正主義路線を批判するさい、わが党と同じようにアメリカ帝国主義との闘争を回避する日和見主義にこそ批判のほこ先を向けていたのであり、この意味では、すべての反帝民主勢力の反米統一戦線の強化をめざす立場をとっていたからである。たとえば、『人民日報』・『紅旗』編集部のいわゆる「六評」「二つの根本的に対立する平和共存政策」(1963年12月12日)にはこうのべてあった。

 「これらはすべて、一つの目標、すなわち、社会主義陣営と国際プロレタリアートを中核とし、団結できるすべての力と団結して、アメリカ帝国主義とその手先に反対する幅ひろい統一戦線をうちたてることに集中されている」

 現代修正主義を克服して、全社会主義陣営、資本主義諸国の勤労人民、民族解放運動の反帝国際統一戦線をめざすという路線から、ソ連共産党指導部を排除した反米・反ソの国際統一戦線の路線へとその路線を変更したのは、まさに中国共産党の指導部であったのである。

 さらにこの論文は、現代修正主義の誤った路線と闘争してきた一連のマルクス・レーニン主義党にたいしても、あたらしく批判のほこ先をむけるという姿勢をしめしたものであった。論文はこうのべていた。

 「フルシチョフ修正主義に反対する闘争が先鋭化し、深刻化するにつれて、革命の隊列のなかには、つねに 新しい分化が不可避的におこり、どうしても一部の人が革命の隊列から落後していくものである」

 これは、論文の主張の趣旨からいって、中国共産党指導部があらたに主張しはじめた反米・反ソの国際統一戦線という路線に同調しない諸党を「落後者」あつかいにしたものであることは明白である。

 アメリカ帝国主義が、国際共産主義運動の不団結につけこんでベトナム侵略戦争を拡大し、不団結問題がさらに悪化すれば、ハノイ、ハイフォン爆撃は必至という当時の緊迫した情勢のなかで、中国共産党指導部が発表したこうした見解は、きわめて重大な意味をもっていたことは言うまでもない。わが党の指導部はただちに行動をおこし、1966年1月から4月にかけて宮本書記長を団長とし幹部会員4名をふくむ代表団がベトナム、中国、朝鮮の3国を訪問して、それぞれの党と会談をおこなった。これらの会談は、帝国主義に反対し、マルクス・レーニン主義の原則の擁護をめざしてともにたたかってきたそれぞれの党との友好関係をさらに強化するとともに、ベトナム侵略に反対ずる国際反帝統一戦線の強化をねがっておこなわれたものであった。

 北京でおこなわれた日中両党会談とその後の毛沢東との会見については、すでにわが党は、「紅衛兵」や中国共産党の一部指導集団、反党分子の攻撃にこたえて、必要な範囲でその経過を明らかにしてある。(『赤旗』1967年 月24日付「『紅衛兵』の不当な非難に答える」、同2月14日付「一盲従分子の信仰と虚構――西沢隆二らは、日中両党会談の経過をどのようにねじまげているか」、同3月19日付「『人民日報』その他の不当な攻撃と干渉を糾弾する」、同5月19日付「『趙安博談話』なるものがゆがめたもの」)

 日中両党会談と毛沢東との会見では、いくつかの一致点とともにある両党間の意見の相違が、きわめて重要な、かつするどいものであることが、いっそう明確になった。しかしわが党は、これらの不一致点は歴史の経過と実践による検証に待つこととし、重要な不一致点が生まれているという事態のなかで、いっそう自覚的に自主・平等・相互の内部問題不干渉という兄弟党間の関係の基準をまもりながら、一致点にもとづいて日中両党間の連帯と団結を強化してゆこうとする態度をとった。

 ところが、きわめて残念なことには、わが党のこうした態度にもかかわらず、中国共産党の極左日和見主義、大国主義分子は、わが党代表団が帰国した直後の4月下旬ごろから、兄弟党間の関係の基準とプロレタリア国際主義の原則をふみにじり、権力をにぎった社会主義国の党の国際的義務にそむいて、わが党とわが国の民主運動にたいする乱暴な干渉と攻撃を開始したのである。(この経過は、『赤旗』1967年1月14日付「対外盲従分子の党攻撃に反論する――国際交流問題を中心にして」、前掲「『人民日報』その他の不当な攻撃と干渉を糾弾する」にくわしく明らかにしてある)

 わが国の対外盲従分子は、日中友好運動に最初に混乱をもちこんだのは、1966年6月下旬、日本民主青年同盟が日本共産党の「反中国」の指導のもとに、「第2回日中青年大交流」に不参加を表明したことであるとして、わが党こそ日中友好運動破壊の元凶であるとののしっている。

 しかし、事実はまったく異なっている。日中友好運動の基礎と基準を破壊しはじめたものは、それ以前、4月下旬から5月にかけて中国を訪問した日本の各種代表団にたいし、また5月末に来日したいくつかの中国の友好代表団によって、突如として毛沢東思想の不当な大国主義的おしつけや日本共産党の見解にたいする事実上の批判がはげしくおこなわれたことであったのである。

 メーデーに前後して中国を訪問した約30近い民主団体の代表団は、ほとんと例外なく、中国共産党中央委員で中日友好協会会長の廖承志や、中国共産党の対日関係工作員で中日友好協会秘書長の趙安博らから、かつてなかった挑戦的な態度で、これまでの日中交流のなかでは考えられなかった内容の話をきかされている。

 第一は、日中両党間の見解の不一致点、とくにソ連共産党指導部の評価と反帝国際統一戦線の問題に最大の重点をおき、はっきりそれとわかるかたちでわが党の主張を攻撃しはじめたことである。

 たとえば趙安博は、『人民中国』普及活動家代表団、全日自労代表団、日中友好協会第12次代表団、同労働者代表団、日本平和委員会代表団、アジア・アフリカ労働者会議日本準備会婦人代表団などにたいし、「いま、マルクスーレーニン主義党のあいだに意見の相違をタナ上げにしてベトナム支援の共同行動をおこそうとするものがある。ソ連をふくむ国際統一戦線などは、ソ連の孤立をすくってやることであり、人民をだますいつわりである」「統一というのは挑発だ。あなたたちはソ連修正主義と共同行動をやるならやればよい、そしてソ連に指導され援助されている志賀一派といっしょにやればよい」「日本の友人は何回しっぺ返しをうけたらわかるのか」「ある日本の人たちや日本のある新聞は、中国は統一戦線をはばみ拒否している教条主義、セクト主義だといっているが、これはデタラメだ」などと強調した。

 第二は、日本の情勢や日本人民の闘争戦術について、中国側の特定の見解の一方的おしつけが開始されたことである。

 廖承志、趙安博らは、『人民中国』普及活動家代表団、全日自労代表団、フジア・アフリカ労働者会議日本準備会婦人代表団などにたいして、日本情勢と日本人民の闘争戦術について、極端な主観主義的見解をのべ、中国共産党の特殊な経験を不当に一般化しながら、日本共産党が議会主義と右翼日和見主義におちいっているかのようにあてこすった。

 第三は、毛沢東思想の礼賛への同調が求められたことである。

 中国側は、日本の代表団にたいし、たんに中国革命と中国人民の指導者としてでなく、日本人民をふくむ全世界人民の指導者および指導理論として毛沢東とその思想を描き出した。「毛沢東思想は現代におけるマルクス・レーニン主義の最高峰である」「毛沢東は中国人民だけでなく、全世界人民の指導者である」というたぐいの主張が熱心にとかれ、毛沢東思想への帰依は日中友好の当然の前提であるかのようにあつかわれた。

 第四は、日本共産党にたいする不当な中傷と攻撃である。

 趙安博は、労音代表団にたいし、「みなさんが帰国後『親中派』として批判をうけるだろうと心配している。しかし中国はマルクス・レーニン主義を代表している。『親中派』がどこが悪いか」などとのべ、アジア・アフリカ労働者会議日本準備会婦人代表団にたいしては「日本のなかでも先進的な組織で、まだ修正主義との闘争ではっきりしていない面がある」などと、わが党のことを批判した。

 日本の民主団体の代表団をおどろかせ、当惑させた、これらの例は、枚挙にいとまがない。

 この時期にわが国を訪問した中国の友好代表団の場合も、事態は変わりがなかった。

 たとえば5月末来日した広東省訪日代表団は、三重、愛知、岐阜、兵庫、大阪、京都、静岡などを歴訪し、各府県で日中友好協会の主催により大衆集会、懇談会、レセプションなどがもよおされたが、どこでも判で押したように、大部分の時間をついやして、「ソ連修正主義はアメリカ帝国主義より悪い敵であってソ連との共同行動は絶対にできない」「ソ連のベトナム援助はごまかしであってアメリカ帝国主義と協力している」「反帝統一戦線は北京を中心に発展している」「毛沢東思想は中国人民だけでなく、世界人民の革命闘争の指導思想である」

 「日中友好運動をすすめるにあたっても毛沢東思想をよく研究しなければならない」など、もっぱら日中両党間の意見の違いに関連する問題だけをのべつづけた。とくに静岡では「毛沢東は3回も除名された。正しいことは除名されてもとおすべきだ」とまで主張した。これまでの中国の友好代表団は、日本側出席者の性質や層におうじて、中国における社会主義建設と中国人民の生活状態、日中友好の必要と課題などについて、謙虚な態度で具体的に話すのが通例だったため、どこの会場でもあとで不満の声がきかれ、「こんどの代表団はいままでとちがう」といわれはじめた。

 北京放送訪日代表団の場合も同様である。団長はお別れのレセプションでも毛沢東思想の問題にもっとも重点をおき、「毛沢裏思想を支持するかしないかは、真の反帝か、にせの反帝か、真の革命家か、にせの革命家か、また真のマルスス・レーニン主義か、にせのマルクス・レーニン主義者かの試金石である」と強調した。

 これらの事態は、中国共産党の極左日和見主義、大国主義分子が、日中両国人民の共同の課題にもとづいて、自主、平等、相互の内部問題不干渉の基準をまもって日中友好運動を発展させようという従来の態度を一転させ、日中友好運動をかれらの見解への盲従運動に変え、わが党を非難攻撃する干渉・破壊活動の道具に変えようとしてきたことを示す以外のなにものでもなかった。しかも、中国国内のいわゆる「文化大革命」の展開とともに、この策動はますます強められてゆくことは必至という情勢であった。このような策動を許すかぎり、広範な日本人民を結集した真の日中友好運動は破壊されざるをえない。わが党と日本民主青年同盟が、日中友好協会などに協力して真の日中友好の大道を守りぬくために、日中友好運動の内部で自主、平等、相互の内部問題不干渉の基準を再確立するための努力を強化せざるをえなかったのは当然のことである。日本民主青年同盟が、6月下旬に、事実上反米・反ソの統一戦線と毛沢東崇拝を大前提にした「第2回日中青年大交流」に不参加の態度を表明したのは、なによりもまず、こうした事態のなかで民青同盟が日本の青年運動にたいして負っている責任を正しくはたし、日中友好運動のなかでの日本の青年組織の自主性を守るためであった。民青同盟の不参加の理由を説明した森下中央常任委員の談話は、団結を考慮して一言も日中交流運動のなかに生まれている事態にふれていなかったにもかかわらず、中国共産党の大国主義分子とかれらに盲従する反党事大主義分子らは、逆にこの問題をとらえて民青同盟を「反中国」だとする攻撃を公然と開始したのである。

 以上が、日本社会党本部の「通達」が「中国と日本共産党の路線の違いに端を発し」などといっていることの真相である。日中友好運動の破壊策動が、なんに「端を発し」ているかについては、議論の余地はないであろう。昨年4、5月に中国を訪問した30近い民主団体代表のなかには日本社会党員もいるし総評の組合員もいる。社会党はここでもいくらでも真実を知ることができるはずである。

 わが党や自覚的民主勢力の努力にもかかわらず、7月以後、「文化大革命」の熱狂化と歩調をあわせて、日中友好運動の破壊策動はさらに露骨になり、急速に強化されていった。中国共産党の極左日和見主義、大国主義分子は、訪中したわが国の民主団体の代表にたいして、兄弟党間のあいだでは考えられないような態度でわが党とわが党の幹部を名ざしで公然と「修正主義」とののしりはじめ、『人民日報』紙上では、わが党および自主的態度をとっている民主勢力にたいし、「ソ連修正主義の新旧の追随者」という不当な非難があびせられはじめた。9月以降、かれらは、宮崎世民、三好一、佐藤重雄らの反党教条主義者や、社会党の黒田寿男らとの密接な連携のもとに、「文化大革命」の礼賛を前提にしてつくられた黒田寿男と廖承志の「共同声明」なるものを分裂の武器として利用し、「反中国」「日中友好の妨害者」などという口実で日中友好運動から自主的態度をとっている勢力を排除しょうとした。そしてこの策動がみじめに失敗するや、昨年10月未、自主性を失った対外盲従分子は、みずから日中友好協会から脱走して、「正統派」と称する分裂組織を結成した。現在事実上、日中の人事交流を独占しつつあるこの分裂組織が、物質的にも精神的にも中国共産党の極左日和見主義、大国主義分子の直接の支持に依存した買弁的組織であることは、すべての事実が立証している。

 これらが、日本社会党本部の「通達」が、「日中友好運動は日本共産党の路線変更により阻害されてきた」とのべていることの真相である。いったいだれが「路線」を変更したのか、だれが一貫した路線を堅持したのかは、あまりにも明らかではないか。いったいだれが、日中両国人民の利益と関心にもとづき、自主、平等の立場で発展してきた日中友好運動を破壊してきたのか、だれが困難な事態に直面しながら真の日中友好運動を守り発展させるために努力してきたのかも、あまりにも明らかではないか。そして日本社会党本部の「通達」が、日中友好運動の「阻害」にかんして告発する相手をまったくとりちがえていることもまた、あまりにも明らかである。

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 日本社会党本部の「通達」が、このように徹頭徹尾事実に反した「日本共産党の路線変更」論なるものを採用して、昨年来日中友好運動を「阻害」したあげくのはてに、「善隣会館事件」をひきおこして「破局的段階にたちいた」らせた最大の責任者として、わが日本共産党を告発していることは、わが党を不当に中傷し、わが党の名誉を不当に傷つけたものである。しかしこのことは、実は、ひとりわが党だけにかかわる問題ではない。ここには、日本の民主運動の自主性を守るという、日本社会党もまた当然もたなければならない態度のかわりに、中国共産党の一部指導集団の言い分をうのみにし、かれらが昨年来おこなってきたわが党およびわが国の民主運動にたいする乱暴な大国主義的干渉や分裂破壊策動を不問に付するどころか、逆に事実上それを肯定してはばからないという態度があらわれている。これは、日本の民主運動にとって、「通達」がおこなったわが党にたいする不当な非難、攻撃とともに、きわめて重大なことである。米日反動勢力にたいする日本人民の闘争のなかで、一定の積極的役割をはたしてきた日本社会党の指導部が、もしも日本人民にたいして責任を負う態度をすて、民主勢力の団結を守ることにまっこうから背をむけて、こともあろうに日中友好運動を中国共産党の極左日和見主義、大国主義分子にたいする盲従運動に変えることに手をかし、日中友好協会本部という日本の民主団体にたいする暴力的撃襲事件に加担するという、自主性を失った卑屈な事大主義におちいるならば、それがもたらす結果は軽視することができないものがあることは、いうまでもないことであろう。

 社会党の一部の人びとは、緊張するアジア惰勢のなかで日中友好はいまや中心的課題となっていると称して、「通達」がとった態度を合理化しようとしている。

 わが党は、この人びとに反問したい。日本の民主運動の自主性と主体性とを守ることなしに、なんの日中友好運動がありうるのかと。自主、平等、相互の内部問題不干渉の基準の破壊のうえにすすめられる「日中交流」なるものを、日中両国人民の真の友好にどのようにして役立たせるのかと。

 今日、中国共産党の極左日和見主義、大国主義分子と、それに盲従する「日中友好協会脱走派」が、毛沢東や「文化大革命」の礼賛を無条件の前提としながら、独占的におしすすめつつある「日中友好運動」や「日中交流」は、実際には真の日中友好とは縁もゆかりもないものである。なぜならそれは、第一に中国共産党の極左日和見主義、大国主義分子への卑劣な追従、第二に日本共産党をはじめ、こうした盲従を排して自主的な態度をとっている人びとの乱暴な排撃との二つを前提にしたものであり、日中両国人民が願う真の日中友好にそむくものであるだけでなく、それを破壊するものだからである。

 ベトナムを中心とするアジアの緊迫した情勢は、ますますアジアの反帝民主勢力のかたい連帯と日本の民主勢力の統一と団結を要求している。アジアの反帝民主勢力の統一戦線を妨害し、日本の民主勢力の分裂策動に狂奔する「日中友好」が、緊迫するアジア情勢にこたえうるものであるどころか、アメリカ帝国主義と日本反動勢力をよろこばせるものにすぎないことはいうまでもない。

 現在、日中友好協会を中心とする日中友好運動のまえには、多くの困難があることは事実である。相手方である中日友好協会が、日中友好協会との関係をいっさい断絶し、脱走派とのあいだでだけ、文化交流、人事交流をおこなおうとしていることなどはその一例である。しかしもしも、日本の自覚的民主勢力が、これらの困難に屈したり、一時的な交流だけに目をうばわれて、独立、自主、対等の原則を尊重しあった真の日中友好運動を放棄するようなことがあれば、それは日中両国人民の願いを裏切ることになるであろう。

 いま必要なことは、日本のすべての民主勢力が、科学的な歴史の展望とそれにもとづく不動の確信をもって、目前の困難に屈せず、いっさいの妨害とたたかって真の日中友好の歴史的事業を、日本人民と中国人民の真の利益のために、アジアの民族解放と平和のために、ねばりづよくおしすすめることである。

 日本共産党第4回中央委員会総会の声明「日中友好協会本部襲撃事件をめぐる諸問題について」は、つぎのようにのべている。

 「真の日中友好は、大国主義的干渉やそれにたいする卑屈な盲従によってきりひらかれるものではなく、いかなる勢力によるものであれ、日中友好を破壊しようとするいっさいの妨害や圧力とたたかい、双方の自主、平等、内部問題不干渉の原則を毅然として守りつつ、日中両国人民の真の友好と連帯への発展のための努力を着実につみかさねることによってこそ、ゆるぎない基礎のうえにきずきあげられるものである。これこそ、かつて、日本帝国主義の中国侵略戦争にたいしてあらゆる犠牲をかえりみず断固としてたたかったわが日本共産党の不屈の伝統を、今日においてうけつぎ発展させる唯一の道である。
 この道こそ、日中両国人民の真の利益に合致し、アメリカ帝国主義のアジア侵略政策とたたかっているすべてのアジア諸国人民の願いにもこたえうる真の日中友好の道である。わが党は、いっさいの自覚的民主勢力とともに、その実現のために、今後ともさらに一貫した努力をおこなうものである。」

 この声明を採決した第4回中央委員会の開催中に、宮本書記長は、中央委員会の委任にもとづいて、日本社会党の成田書記長に、野坂議長の佐々木委員長への申入れ書を手渡し、問題をすみやかに解決するため、佐々木委員長がさきに言明した日中友好協会本部襲撃事件の事実調査について回答することを要請した。そのさい、宮本書記長は、東京都知事選挙などで共同してたたかった両党は、真実をおそれない立場によって大衆の支持をうける革新政党として、この事件にかんしても、少なくとも真実を共同で探求する立場に立つことを成田書記長に要望したのである。

 わが党は、日本社会党にたいし、「日本共産党の路線変更」論などをはじめ、日本社会党本部の「通達」に示された誤った見解や態度をすてて、共同して真実を追求し、共同して日本の民主運動の自主性を守る態度をとり、現在日中友好運動のなかに生まれている困難がどこからきているかを直視し、わが党や日中友好協会などとともに協力して、日中両国民の真の利益に合致し、アジア諸国人民の願いにもこたえうる真の日中友好の道をおしすすめるために努力することを、心から期待してやまないものである。

(『日本共産党重要論文集』第5巻)