日本共産党資料館

新日和見主義と党建設問題
「日本共産党第十一回大会第七回中央委員会総会での岡副委員長の報告と結語」(要旨)から

 現在の新しい日和見主義については、不破書記局長の報告でも、党の基本路線にかんする日和見主義、「左」からの修正主義の特徴をもっていることが、沖縄問題、その他いろんな問題にかんし具体的な指摘があったし、上田同志や榊同志の「赤旗」論文などでも論じられていますが、党建設上における日和見主義は、やはりこの政治的基本路線における日和見主義とむすびついているのが特徴です。その一人ひとりの考え方からすれば、そのことがあまりはっきりしていない、あるいはかならずしもむすびついているといえないような場合もあるでしょうけれども、全体としていうならば、むすびつく、あるいはむすびついているといってさしつかえないといえます。
 たとえば国際共産主義運動にかんしていえば、党の自主独立の立場をほんとうによく理解しないところから、国際連帯における党の態度に疑問をもつとか、あるいは、軍国主義・帝国主義復活の問題についても、党のち密な分析と方針を理解できず帝国主義自立論や復活完了論にかたむくとか、また、党の選挙活動や議会活動の方針にかんしても、それらを一面的にとらえ、そのなかに大衆闘争軽視と結合したブルジョア議会主義や平和革命唯一論の日和見主義があるのではないかというようにみるわけです。
 このような考え方は要するに、党の政治的な基本路線や各分野の活動方針を、善意ではあるとしても、全体と関連させてよく理解するということがない。そのために確信をもっていない。そのために、党の路線や活動へのブルジョアジャーナリズムの中傷的な批判やそれに類した周囲の正しくない見解に簡単に影響され、動揺しやすい。この動揺しやすい、確信のない状態は、全般的に党活動そのものにかんして受動的、消極的になるわけですが、とくにさきほどのべた党建設、党勢拡大のようにとりわけ積極性、戦闘性を必要とする活動がもとめられてくると、その受動性と日和見主義はつよまるし表面化します。そしてそれを合理化する考え方、党建設上でいえば「またか論」「かべ論」「段階論」などの日和見主義的な考え方におちこんでいくわけです。あるいは、機関の場合には、不退転の決意、不動の決意で指導にあたることをもとめられると、それはやらなければならないが、しかしそう簡単にいくかとか、できるだけやるけれども、下もむかしとちがって簡単に動かないし、まあほどほどにやろう、ということになる。これも明らかに原因を共通するおなじ日和見主義です。
 すでに綱領討議以後のこの十数年来のとりくみのなかで明白になってきているように、党の政治的な基本路線についての正しくない見解や十分でない理解と党の組織的な基本路線党建設の問題についてのそれとは不可分のものとしてあらわれてきたし、またあらわれつつあるという特徴をもっています。かつての春日(庄)、内藤一派の、政治路線での修正主義と党建設での自然成長主義がみごとに結合していたのはその典型ですが、また福田一派その他の見解でも、政治路線での「左からの修正主義」が組織上の分派主義、解党主義などと結合しています。それは、政治的と組織的のちがいはあるが、やはり同じく党の基本路線にかんするものである点からいって当然なわけです。
 要するに、「またか論」その他の受動的、消極的な態度は、善意からきているものであっても、本質的にはやはり新しい形の自然成長主義であり、新しい日和見主義の一種にはちがいありません。この点をしっかりと理解し、これをりっぱに克服して新しく前進することの重要性をこんどの大運動ははっきりと示したということができます。したがって中央委員会は、どうしてもこの点を最終的に明確にし、政治的、理論的な全党の団結をいっそうかため、今後はさらにしっかりした足どりで前進することが必要であります。

(注――出版局編集部)
「またか論」……党勢拡大運動の意義を理解せず、「拡大月間」などをたんなる年中行事のくりかえしのようにみて、「またか」などと受動的消極的に受けとめる傾向。
「かべ論」……全党的運動の発展と大衆の変化を正しくみず、自分のまわりの状況を一面的に評価して党の政治的影響力が壁につきあたり党勢拡大の可能性がないという主観的な判断のもとに、党勢拡大のとりくみに消極的になること。
「段階論」……大衆運動が発展しないのに拡大はできるはずがない。まず大衆運動を発展させるために活動することが大事で党勢拡大のとりくみはその次だとして、結局それに消極的になること。
 これらは、いずれも党建設上の日和見主義の形のかわった表現である。

(「赤旗」一九七二年八月二日)