日本共産党資料館

袴田里見の党規律違反と反党活動について

 袴田里見の党規律違反は、一九七七年一月末に表面化し、日本共産党中央委員会常任幹部会および統制委員会が、慎重に問題の調査をすすめるとともに、党中央はその期間しばしば袴田の分派的な規律違反にたいする批判と警告を直接本人にたいしておこなってきた。しかし袴田は、この批判と警告にも耳をかたむけるどころか、月ごとに、その規律違反を拡大し、最後には党中央の調査の機会をいっさい拒否するとともに、ついには、反共ジャーナリズムに身を投じ、その一翼をになって日本共産党を攻撃するという、むきだしの反党活動に転落するにいたった。
 党中央委員会常任幹部会が、統制委員会の審議結果を承認し、十二月三十日、袴田里見の除名を決定したのは、二面所報〔「赤旗」七八年一月四日付〕のとおりである。
 袴田の党規律違反の経過については、常任幹部会はこれまでにも、党中央委員会総会およびその他の必要な会議で報告してきたが、党の内部問題として取扱い、一般には公表してこなかった。袴田が公然とした反党活動をもって党に挑戦してきた今日、この問題が起きてからの全体的な経過の基本点について、あらためて全党に明らかにするものである。

 一、一九七六年十二月の常幹会議での突然の党中央非難

 (1) 問題が表面化した発端は、一九七六年十二月七日、総選挙の開票翌日の常幹会議においてであった。総選挙の総括についての論議のなかで、袴田里見は突然、「こんどの選挙では高みの見物をさせてもらった」と、選挙戦の傍観者であったことを自認する前置きをしながら、同志間の討議では許されない悪罵や暴言をくわえつつ、党中央、とくに宮本委員長にたいする非難・攻撃を開始した。そのおもな論点はつぎのとおりであった。
 (イ) 開票日に十分な総括をしないまま、常幹声明をだしたのはけしからん。あんなものは、当日だす必要はなく、二、三日おくれてもよい。
 (ロ) 反共は世界のどこでもあることであり、選挙でまけたのは反共が原因ではなく、党の路線と活動の誤りに原因がある。選挙中の〝よりましな政権〟論などは、宮本委員長が勝手に記者会見で発表したが、事前に常幹にはかるべきだ。
 (ハ) 治安維持法等被告事件についての袴田論文(「スパイ挑発との闘争と私の態度」、「赤旗」一九七六年六月十日付)などは、常幹で強圧的におしつけられたもので、自分は認めない。獄中で生命をかけてたたかったのは袴田だけだ。宮本はなにも苦労していない。宮本が獄中でのんびりしていたことは、『十二年の手紙』をみればわかる。
 (二) 選挙中なぜ自分を演説会にださなかったか。仕事をとりあげて自分を干そうとしている。
 これらの主張は、いずれも、袴田がはじめて常幹会議にもちだしたものであった。袴田は選挙中も選挙前も、自分の都合で欠席する以外は、ほとんどの常幹会議に出席していたが、党中央の方針への批判は一言も口にしなかった。それだけに、多くの同志は、袴田の突然の、しかも常軌を逸した党非難におどろきながら、かれの態度と主張の誤りをただちに全面的に批判した。しかし、袴田が「気分が悪い」と中途で退席したために、あらためてつぎの会議で検討することにした。

 (2) 常幹会議の中途から退席して病院で受診した袴田は、翌八日午前中、退院前に、幹部会事務室の一同志をよび、委員長への伝言ということで、ふたたび、常幹と委員長への非難をくりかえし、口述して筆記させた。

 (3) 十二月十六日、常幹会議が開かれ、袴田も出席したが、この席で、袴田が前回の会議で提出したおもな論点のすべてについて長時間にわたって検討した。この会議には、ベトナム訪問中の同志と病気療養中の同志を除く全常幹が出席し、もれなく発言して袴田の主張と態度の誤りを批判した。
 そして、この討議の結論として、つぎの点が袴田をふくむ全員一致で認められた。
 (イ) 総選挙の開票当日、党中央がその結果について基本的な見解を明らかにするのは、党中央の当然の責任に属することである。もし党中央がくわしい総括を完了するまでということで、当日見解をのべることを回避したら、そんな党は無定見だということで、党の内外に混乱をひきおこす、きわめて無責任な結果になる。手続き的にも、当日の声明は、出勤していた常幹の緊急会議を開いて検討したうえ、袴田をふくめて欠勤していた常幹のすべてに、常幹声明をだすことの了解を求め、同時にその内容について電話で知らせ、意見を求める措置までとった後に、最終的に発表したものであった。袴田が、この重要なときに、理由もなく本部を欠勤していたこと自体は不当なことだが、それにもかかわらず、常任幹部会は欠席者にもすべて連絡したうえで発表したのであり、緊急時でも常幹として民主的手続きを正しくつくしたものである。なお、袴田はこの連絡のさい、なんらの異論をのべなかった。
 (ロ) 選挙中の暫定政権構想の発表は、内容的には過渡的な政府についての党綱領の規定の一つの具体化であり、方針の基本的な転換ではない。またこの構想の発表のさいにも、袴田をふくむ全常幹に事前に内容を案文全体をよみあげて連絡し、全員の意見と承認をえたうえで、宮本委員長が記者会見をおこなったものである。袴田は、最初は「自分には連絡がなく宮本委員長が勝手にやった」と主張したが、討議の過程で、それが袴田のまったくの虚偽の主張であり、事前に内容を伝達されていたこと、袴田自身、標題などについての部分的な意見をのべただけで、反対はしなかったことを、認めざるをえなかった。
 (ハ) 治安維持法等被告事件にかかわる袴田論文その他は、常任幹部会でそのときどき必要な検討を集団的におこなったものだが、最終的には袴田自身も承認して発表したものであり、「常幹の強圧」うんぬんは、まったく根拠のないねじまげである。戦前のどんな困難な状況のもとでも、またどんな主観的動機からであろうと、袴田が警察や予審での問に応じたことは原則的な誤りであり、「赤旗」にも発表された当時の党中央委員会の決定にも反したことであった。そして袴田の調書の一部が公刊され反共攻撃の材料になっているときに、この誤りにたいする袴田自身の態度を明らかにすることは必要だったし、袴田も、警察や予審で訊問に応じたことが正しくなかったことをみずから認めて、前記の論文を発表したものである。この点にたいして常幹がとった態度は、その誤りを糾弾して袴田を傷つけるためではなく、反共攻撃とたたかいつつ、同時に袴田自身にたいしても配慮をつくしたものだった。
 また、戦前生命をとして苦労したのは袴田だけだとして、宮本委員長の獄中生活を安楽なものであったかのように中傷するのは、事実に反するばかりか、思いあがった独断である。『十二年の手紙』についていえば、きびしい検閲を経た獄中獄外の往復書簡に、獄中生活の酷烈さについての叙述がないのは当たり前である。獄中で生死の境をさまよいながら、「訊問に一言でも応じれば保釈する」とかの誘惑も断しりぞけて、黙秘の原則的態度をつらぬいた宮本委員長の獄中闘争にたいし、根拠のないひぼうをおこなうことについては、事実にもとづいてきびしい批判がくわえられた。袴田自身も「いいすぎがあった」ことをその場で認めた。
 (ニ) 選挙中の地方からの弁士要請については、秋田県からだけ袴田の派遣要請があった。選対局、書記局は、袴田が居住している三多摩の後援会の会合などへの袴田の弁士としての要請には同意していたが、秋田へは派遣しなかった。袴田はこれに不満を表明したが、かれの予審調書問題などで、袴田自身、週刊誌などからの取材申し込みを厳にことわってきていた当時、そして右派マスコミが集中的に袴田に目をつけている状況のもとで、袴田自身を党の内外でいそう困難な立場に置かないよう配慮した措置であることを袴田にも伝え、党活動にはいろんな局面があるから、こういうときは副委員長として選挙戦をふくむ他の党活動で委員長を補佐してほしいと、地方党組織からの定例の政治報告から問題点を整理して委員長や常幹に提起す仕事を依頼し、かれもこの仕事に同意した。そして、熱意のない不十分なものながら、かれからも若干の報告が提出された。
 また、仕事の全般にわたる問題についていえば、袴田が副委員長として特定の部門を担当せず、全般にわたって委員長を補佐するというのは、一九七二年に袴田をふくめて常任幹部会で一致してきめてきたことである。それは、副委員長としてあれこれの部門に具体的な指示をだしはじめると、書記局を中心とした日常の指導に混乱が生じるからである。とくに袴田についていえば、かれがなんらかの機会に特定部門の仕事に介入しはじめた場合、これまでも常幹の会議にもはからず、党の組織系統も無視して個人の独断専行で介入し、指導上の混乱をおこした経験が少なくなかったからである。このことは一再ならず袴田にも率直に伝えられていた。ところが、この点で袴田は、この副委員長としての重要な任務については、ほとんど責任にふさわしい能力を示さず、かれが好んだのは、特定の部門を直接にぎって、これを独断的に指図することであった。この経過を〝仕事を干す〟などということ自体、筋違いの非難である。
 以上のべたように一九七六年後半期では、委員長を補佐する具体的な任務としては、常幹では、袴田に、地方の党組織から毎月出される政治報告に目を通して、そのなかから全国的な問題点を委員長や常幹会議に提示することなどを委託していたが、袴田自身、この重要な仕事をいったんひきうけながら、あとになってあんなものは仕事ではないといい放っていたくらい、全党組織指導にかんするこの仕事を軽べつし、不熱心であった。
 こうして一九七六年十二月十六日の会議では、袴田がだした四つの問題点について以上のような結論が一致して確認され、袴田自身も自分の意見の非を基本的に認めたために、一応の決着がついた。

 (4) ところが、十三中総の最終的な準備のために十二月二十六日に開かれたつぎの常幹会議では、袴田はふたたび同じ問題をむしかえし、さらには十二月十六日の会議自体についても「みんなで寄ってたかっておれを反党分子のように扱った」とか、ある常幹の同志にたいして「宮本の代弁をしておれを攻撃した」とか、前回の常幹会議の討議と結果をまったく無視し、常幹全体をひぼうする重大な発言をくりかえした。こうした点での一貫性のなさ、無責任さはまったく他の常幹全員をおどろかすものだった。これにたいし、常幹会議はふたたび袴田の誤った態度をきびしく批判し、かれのそうした態度が、共産党員、とくに幹部会委員としてきわめて危険な逸脱状態にあることを、かさねて指摘した。こうして、常幹は、袴田の粗暴で異常な攻撃的態度にもかかわらず、あくまで常幹内部の問題として平静にねばりづよく意思統一の努力をつづけた。

 (5) 一九七七年一月二十一日の常幹会議では、今後、常幹の内部でこの問題を討論するとしても、正常な同志的討論を保障するために、討論にのぞむ袴田の無原則的な態度、なかでも、常幹での時間をかけての条理をつくした討議で自己の非が論証されると「寄ってたかって反党分子扱い」「宮本の代弁者」などとひぼうしたことや〝宮本委員長への伝言〟を口述して筆記させるという理由で、党中央への非難を常幹でない同志にひろげた問題をあらためてとりあげた。袴田もその場ではこの批判をうけいれ、前言を取り消すとともに自己批判の文書を常幹に提出することを約束した。しかし、袴田は一週間後、宮本委員長あての手紙で、この約束した自己批判書の提出を一方的に拒否してきた。

 二、袴田の規律違反と調査委員会の設置

 この間、一月末になって、代々木病院の医師から報告があり、袴田が、党中央非難の放言を常幹会議の外でおこなっていることが、明らかになった。すなわち、一九七六年十二月七日の常幹会議直後、病院で受診したさいに、「選挙は反共で負けたのではない。宮本委員長に独断専行が多かった。北海道で党員ばかり集めて演説会をやっても何になるか」など、宮本委員長への攻撃・中傷をおこなったというのである。もちろん宮本委員長は、衆議院選挙で北海道に遊説したさい、屋内と街頭など大衆演説会にのぞんだが、党員集会など一度もおこなっていないので、この点も明白な虚偽である。
 常幹は、この問題を袴田の無原則な態度のあらわれとして重視し、袴田も出席した二月五日の会議で、副委員長としてそうした非難を常幹会議の外で無原則的に放言することが重大な規律違反であることを指摘し、常幹内に調査委員会をもうけて梅田の規律違反問題を調査することを決定し、その構成も決定した(書記局長不破哲三〈責任者〉、統制委員会責任者戎谷春松、組織局長諏訪茂、三月に西沢富夫副委員長も加わった)。袴田もこれに賛成した。
 調査委員会は二月八日、第一回の会合を開いて袴田本人から事情をきいたが、かれは、医師に党中央非難の話をした事実およびそれが党規律に反する行為であったことを認めた。また、袴田は、これは興奮したあまりの放言だったと釈明したうえ、自分が常幹外でこの種の問題を話したのは、十二月七日の医師への話と、八日に幹部会事務室の同志に口述して筆記させたときとの二回だけであって、それ以外には妻にも一言も話していないことを確言し、今後はこうした規律違反は絶対にくりかえさないことを、約束した。
 ところが、この言葉が、その一週間後には、いっそう無原則的なやり方でふみにじられ、規律違反が新たな拡大をしていることが、やがて明らかになった。
 すなわち、ある人物が、二月十五日に、袴田の自宅をたずねたところ、袴田は、袴田の妻も同席しているところで「自分の病気中に自分についての調査委員会が勝手に一方的につくられた。若い連中が宮本をもちあげて、宮本はえらくなりすぎた。もう宮本とはともに天をいただかずだ。おれは、志賀のようなやり方はしない。あくまで常幹内部でたたかう」と、宮本委員長への敵意むきだしにした非難攻撃をはじめた。この人物がおどろいて、二月末に党中央に知らせたので、常幹はこの事実を知ったのであるが、これは、袴田の病院などでの規律違反が偶発的なものでなく、きわめて根ぶかいこと、調査委員会での規律順守の約束もその場のがれの二心的なものであったことを明らかにするものだった。

 三、ソ連共産党への個人的使者の派遣

 しかも、前記の人物の報告には、いっそう重大な内容がふくまれていた。
 この人物は、七七年一月に所用でモスクワに行って帰ってきたのであるが、出発にさきだって、袴田から〝モスクワに行ったらソ連共産党中央委員会のコワレンコ課長と会い、袴田の伝言を伝える〟ように指示をうけ、二月十五日の袴田宅訪問は、その復命のためのものだった、というのである。その伝言の内容は、ソ連市民としてソ連に住んでいる袴田の実弟袴田陸奥男が、日本兵としてシベリア抑留されていた当時の回想録を書いているのにたいし、ソ連共産党中央委員会その出版を禁止する措置をとってくれ、という依頼である。この指示をうけたさきの人物は、これを党中央の依頼と理解し、その任にあたったと報告している。しかしこれは、党中央も、国際関係の部門の同志たちも、まったくあずかり知らない行為であって、袴田が党にかくれてやったことであった。
 たとえ実弟にかんすることであっても、この実弟はソ連国籍をもつ人物であり、他国の共産党中央委員会に党にかくれて個人的な使者をおくり、あれこれの申し入れをすることが許されないことは、組織原則のイロハである。しかも相手の党は、十数年来わが党に干渉しつづけ、干渉の全面的な中止と両党関係の正常化をめぐって、わが党との間にきびしい交渉がおこなわれている党である。その党にたいして日本共産党の指導部にかくれて個人的に依頼するなどのことが、わが党の国際関係を傷つける、言語道断の、重大な規律違反であることは、自明である。
 さらにつけくわえれば、この個人的使者が、ソ連共産党中央委員会のコワレンコ課長に会見したのは、西沢副委員長がわが党中央の公式代表として、モスクワに立ち寄り、両党関係の正常化をめぐる問題について、ソ連共産党指導部と会談したのと、ほとんど時を同じくしていた。日本共産党中央委員会の公式代表団が会談のためモスクワを訪れる直前に、それとは別に袴田の個人的使者がソ連共産党中央委員会の課長に袴田の「伝言」をもっていったということは、ソ連の関係者になにか異常なものを感じさせたとしても、けっして不思議ではない。
 なお、袴田の実弟はモスクワ放送の特派員として、一九七六年一月から七七年一月まで一年間にわたって日本に滞在していた。この間公式には、モスクワ放送の特派員として行動しながら、かれはシベリア時代の知人やあるいは接近できる党機関の同志に日本共産党のソ連共産党への態度が不当であるという趣旨のことを陰陽にふりまいた。袴田がかりにその回想録の出版を止めようと考えたとしても、なぜ実弟の日本滞在中にその手をうたず、実弟が帰国するとそれを追いかけるように個人的使者を出し、ソ連共産党中央委員会経由で出版反対の意思表示をしようとしたのか、疑惑の多いところである。いずれにしても、この事実は、袴田が、自主独立の党として、国際関係にのぞむ党規律の初歩的原則さえ、平気で無視する心境に陥っていることをあらわすものであった。

 四、調査委出席拒否、第六十一条適用の決定

 (1) 袴田の規律違反問題がこのように拡大するなかで、常任幹部会および調査委員会は、三二日、二日、二十四日とくりかえし常幹会議や調査委員会への出席を袴田に求めた。袴田は、二月十五日から入院しており、病気を理由に常幹会議にも出席せず、調査委員会への出席もすべて拒否してきた。
 そして、調査委員会の代表が出席を求めて病室をたずねると、出席を拒否するだけでなく、そのあと、医師や看護婦に「本部から不愉快な話をもってくるから病気が悪くなる」などといい、幹部会事務室に、常幹の代表は来ないように申し入れてくるなどの勝手きわまる態度さえとった。調査委員会の代表は、面会のときはつねに病院側に面会可能という確認をとって訪問している。ところがこの間、袴田は、面会謝絶などの病状ではもちろんなく、自分の病室に自分の希望する人物はしばしば招き、長い面談をしていたのである。とくに調査委員会は、三月二十四日には、医師の意見を十分きき、一定時間なら会議出席は可能という診断にもとづいて、調査委員会への出席を求めたが、これも拒否してきた。そのとき、常幹代表は、ソ連への使者派遣問題をふくめ、規律違反の新しい事実についてただしたが、袴田はその事実は認めながら、「そんなことはたいした問題ではない、党にはもっと重大な問題がある」とのべ、二月八日のときとはちがって、自分の規律違反を開き直って合理化する居直り的な態度にでた。
 また、袴田は、こうして病気を理由に医師の診断も無視して会議出席を拒否して、自己の問題が党機関で正式に究明される機会をさけながら、医師や看護婦にたいして、「常幹内の意見の相違は当面は凍結状態だが、参院選が終わったら会議に出席して問題をはっきりさせる」などと、自分の〝勝手な計画"をしばしば口外していた。これは、病気を理由にした調査委員会への出席拒否の態度がきわめて作戦的なものであって、その背景に、参院選でふたたび後退の結果がでたら、それを契機にふたたび党攻撃を再開しようとする意図のあることを、うかがわせるものであった。

 (2) 袴田はその一方で、いろいろな問題について、党の方針の転換を求める一連の意見書を、党中央に文書や電話による口述で寄せはじめた。その一つは、日ソ漁業問題にかんするもので、漁業問題では、ソ連の大国主義的態度への批判ではなく、戦前戦後にわたる日本側の反ソ主義を批判することにこそ中心問題があるというもので、党はいまこそ「社会主義陣営の立場にたつ」べきだと主張し、事実上、千島問題、漁業問題において自主独立の立場と大国主義批判を放棄することを要求したものであった。
 また、労働組合運動と大経営での活動についての意見書は、社会党と共闘するために、総評などの「特定政党支持」体制への批判をすべて中止せよとか、資本主義社会で、経営内の党員が共産党を名のるのは原則的に誤りだという理由で、経営内での党の公然活動をいっさいやめ、とくに公然党員は、労働組合役員に立候補しないようにせよなどの主張を骨子としたもので、結局、労働組合運動を社会民主主義の指導に無条件でひき渡し、党はひたすら非公然の活動に専念せよといった、極端に右翼的な主張である。
 しかも、これらの主張は、党の方針とは無縁であるばかりか、袴田自身も、これまで党のどんな会議にも一度ももちだしたことのなかった議論である。かれが総選挙の結果を機会に党への挑戦的態度を表面化させるようになってから、そうした議論をにわかに、党の従来からの基本方針に対置する形でもちだしてきたところに、この時期の一連の意見書の特徴があった。これは経過にてらせば、かれの個人主義的な無規律な行動の背後に、さも体系的な立場があるかのように思わせる布石であった。
 突如としてもちだされたこれらの主張と立場の重大な誤りや無原則性については、調査委員会の代表として西沢、戎谷同志らが四月下旬に袴田の病室をたずねて面会したさい、詳細な批判をくわえ、それが袴田も参加してきめてきた党の方針に反することをあきらかにしたが、袴田は「情勢の評価は君たちとちがうのだ」というだけで、従来の立場からの転換がなぜ急に生じたかについてなんら説明できず、重大な規律違反についての事実を認めざるをえなかったが、反省の色をまったくみせなかった。
 さらに、この間の袴田の状況の一つの奇異な特徴は、病気を理由に常幹の会議への出席を拒否しながら、党の内部資料の入手の点でだけは常幹の権限を行使しようとし、とくに人事、統制、組織の関係などの書類はかならず病室まで送付するようにしつように求めてきていたことであった。

 (3) 常幹は、この段階で、三月二十八日、幹部会にたいして、袴田の規律違反をめぐる事実と経過について、はじめて報告をおこなった。

 (4) 常任幹部会はまた、袴田が規律を守らないことを公然と自認し、常幹の内部問題について外部に無原則的に放言しつづける規律違反をかさね、党機関への不信を分派主義的に拡大することにつとめている一方、党の調査に応じることは拒否し、しかも常幹としての権限を自分の都合のいいように一方的に行使しようとしている状況を、このまま放置することは、党の防衛にとってもきわめて危険であると判断し、四月二十八日の会議で、第十三回党大会規約の第六十一条二項の規定(「規律違反について、調査審議中のものは、第三条の党員の権利を必要な範囲で制限することができる。ただし、六ヵ月をこえてはならない」)にもとづいて、六ヵ月の党員権制限の措置をとることを決定した。統制委員会も、四月二十九日午前の会議で、常幹から報告をうけ、全員一致で以上の措置に同意した。
 そして四月二十九日午後、常幹代表は、口上書をもって、このことを袴田に通告した。袴田は、「自分が参加しない常幹会議の決定は承認できない」とのべ、常幹および各同志にたいする口汚い非難をくりかえしたが、常幹代表は、これまで袴田自身が調査委員会への出席通知を医師が出席を可としている場合にも不当に「病気」にかこつけて拒否してきたこと、規律違反を拡大しその事実を認めながら反省がまったくないこと、権利制限は処分ではなく調査中の措置であることを、説明した。この権利制限の措置は、規約違反の被疑者が、規約違反の事実について調査をうけている場合、調査が保障されるため、一定期間権利を制限するというもので、党役員だからといって例外的に免除される規定でないことは明白であり、袴田の場合へのこの適用は、まったく規約の精神に沿い、かつ実情に適した措置であった。
 五月十九日に開かれた幹部会は、常幹の報告をきいて、常幹がとった措置を承認した。また幹部会は、その後に最初に開かれた中央委員会総会――七月十六日に招集された第十五回中央委員会総会にたいして、袴田の規律違反の経過と、常幹および幹部会がとってきた措置について報告した。

 五、以前からの規律違反の諸事実

 (1) 第十五回中央委員会総会で報告をした後、何人かの中央委員の同志から、自分たちが経験した袴田の言動について報告があり、また、その後各方面から党中央によせられた報告によって、袴田の分派主義的規律違反が、もっと以前から、きわめて広範におこなわれてきたことが、明らかになった。その代表的な事例はつぎのとおりである。
 (イ) 袴田が、自宅の近所に住み個人的に親しいと思っている党員にたいし、党中央の個々の同志にたいする非難や中傷を口にするのは日常のことで、ある婦人の同志は一昨年の総選挙前に、「自分が死んでも君がきてくれればいい、宮本には絶対にきてもらいたくない」といわれて、そのむきだしの敵意におどろいたと報告している。また十二月七日の常幹会議で袴田が党非難の発言をおこない、翌日帰宅したさいに、たまたまこの同志が居合わせたが、その面前で袴田は「今日はものすごい発言をした、堂々とやって気がすっとした」と妻に語り、妻も「とうとうやったのね」と喜びあっていたという。
 (ロ) 地方からきていた非党員のお手伝いの婦人の前でも、数年以上前から、袴田夫妻は党幹部への非難を日常不断に口にしており、やめて地方に帰ったその人が、地方の党機関にこうした事情を泣いて訴えたということも、その機関の同志から報告されている。
 (ハ) 一九七七年の正月に自宅をたずねた中央委員の若干の同志に、袴田は、十二月の常幹会議にもちだし討論の結果、かれ自身も非を認めたはずの、党中央や宮本委員長への非難を、そのままくりかえしている。
 (ニ) 党中央の運転手の党員に、常幹の経過を話し、「こんどの大会で自分はどうなるかわからん、お前も覚悟しておけ」などと話している。この運転手の党員は、この事実を自分から周囲に話し、袴田自身も八月十日の調査委員会でその事実を認めた。
 (ホ) 袴田の身近で活動している秘書などの同志たちは、袴田が一昨年夏ごろから、常幹の方針への不満や宮本委員長など党幹部への非難をもらしているのに接して、これは副委員長としての任務放棄ではないかと内心考えながら、その解決の方法を見出せず、悩みぬいていたことを、あとになって報告している。
 これらの事実は、袴田の党中央にたいする不信や不満にもとづくかれの無規律的な言動が、最近のものではなく、以前からのものであったこと、しかし、常幹会議などで自分の意見を率直に提起しようとはせず、常幹以外の、自分の親しいと思う党員にだけ党中央非難を分派的にもらして事実上同調を求めていたこと、そして一昨年の選挙の後退などを好機として、公然と本音をだしてきたものであることを物語っている。
 袴田は四月三十日に退院して自宅にもどったが、退院後も、自分自身が電話をかけたり、妻がでかけて口頭でのべるなどして、袴田が権利制限の措置をうけていることを、党内外のさまざまな方面に知らせ、いかにも党中央に五〇年問題のときのような不正常な事態が再現しているような印象をふりまいて、党への不信をかきたて自己の同情者や同調者をひろげようとしていることも、数多く報告されてきた。

 (2) 参院選が終わると、袴田は態度をかえて「二日でも三日でも討論しよう」などといいだし、一応調査委員会にも応じる態度を示したので、八月十日、党本部で調査委員会を開き、袴田出席させて、すでに事実が明確になった袴田の分派的規律違反の行為にたいし、究明と批判をおこなった。
 しかし、袴田はその後も活動をあらためず、ひきつづき党中央への非難を無原則的にひろげてきた。たとえば八月には、診察にいった医師と看護婦に、五〇年問題の経過にもふれた攻撃をおこない、さらに、「かれら――党中央は、おれが死ねばいいと思っている」などとまで口走っている。九月には、新日本出版社の出版担当者に電話して、獄中闘争で正しかったのは袴田であり、宮本委員長の闘争を評価することはできない、治安維持法等被告事件についての七六年の袴田論文その他は、ほかのものが勝手に書いたもので、自分は反対だ、などとのべたてた。これらは、同情を買い、党中央への不信をひろめ、自分の仲間をふやそうという意図が、根底にある工作である。
 しかも、こういう状態が、働きかけをうけた各方面から党中央に報告されてきて、その点について梅田に警告すると、袴田は、自分の働きかけた人から党中央に報告がされるはずがないと思いこんでいるので、最後には、そんなことがわかるのは、党が自分の家に盗聴器をつけているからだとわめきたてる始末だった。また、党内の問題を、公安機関からの盗聴の危険のある電話で平気でしゃべりたてる袴田のやり方は、目的のためにはなりふりかまわぬ態度であり、しかも、その点を注意すると、「電話で話してなぜ悪い」とその電話で居直る始末であり、党防衛の観点などまったく念頭にない態度であった。

 六、野坂議長攻撃への長期間の陰謀

 とくにおどろくべき重大な問題は、八月十日の調査委員会で、党中央の統一と団結を破壊する、きわめて重大な、そして長期にわたってつづけられてきた別の規律違反行為が、新たに明らかになったことである。
 袴田は前述の規律違反について指摘されると、事実を基本的に否定できず、「それはたいしたことではない。自分のような状態になれば、自分の行動は当たり前だ」と、規約無視の態度を終始とりつづけた。さらに、自分の問題よりも、もっと重大な規律違反があるといって、宮本委員長の規約違反問題なるものと、野坂議長のスパイ容疑なるものとを、もちだしてきた。これらは、いずれも、まったくこっけいな非難である。

 (1) 宮本委員長にたいする非難として、袴田が新たにもちだしてきたのは、一つは、戦前、東京市の党組織に潜入した荻野増治というスパイに宮本同志が無警戒だったと非難することだが、この荻野を宮本同志に紹介したのはほかならぬ袴田自身だった。この一事をみても、この非難のこっけいさは明瞭である。
 もう一つは、宮本同志が獄中で法廷闘争のための書籍差入れなどをかちとったことについて、家族が検事にお百度まいりした結果だと、いかにも屈服のあらわれのようにいう非難だが、これは、宮本同志が公判前の密室での審理にはいっさい応じないという党の決定に忠実な原則的な態度を貫いた結果、公判ではじめて陳述するにあたって、それに必要な資料の差入れを、弁護士の交渉を通してたたかいとった成果にたいし、袴田がなんとかケチをつけたいためにつくりあげたまったく事実無根の悪口にすぎない。そして、警察でも予審でも、拷問もうけずにすすんで供述しはじめた袴田自身の屈服を合理化する伏線でしかない。

 (2) 野坂議長のスパイ容疑というおどろくべきかれの非難も、その根拠はまったく荒唐無けいのものである。
 袴田自身が調査した根拠としてあげているのは、(イ)戦前、眼も悪くないのに、眼が悪いといういつわりの理由で保釈になった、(ロ)一九三〇年代に、アメリカで活動していたのがおかしい、(ハ)西沢隆二(一九六六年に反党分派活動で除名)が批判していた、(ニ)ソ連に信用がない、などである。こういう重大問題で、反党分子やソ連の党幹部などが、もっとも信頼できる〝証人〟としてもちだされてくるところに、党派性を失った袴田の今日の心情がうかがわれる。

 (3) 袴田が決定的な材料だとしているのは、アメリカのジェームズ・小田なる人物からもちこまれたものである。それは、野坂議長が在米中協力者としていたジョー・小出という人物が、戦後、マッカーシー旋風のさい転向したことを理由に、さかのぼって野坂=小出のスパイ共謀説なるものをでっちあげたものである。小出はコミンテルンから派遣されたアメリカ共産党員で、かれの戦後の転向に、野坂議長がなんのかかわりあいもないのは、自明のことである。
 しかも、この小田こそは、きわめて疑わしい人物で、最近も、わが党の国会議員がロッキード問題などの調査のためにアメリカに行くことをとらえて、これはCIAと関係があるのではないかといった、笑うべきデマ情報をふりまいたりしている。かれ自身、アメリカの日本占領中、占領軍の情報関係の一員として日本にきていた経歴をもち、野坂議長への疑惑なるものも、その発端は、当時、占領軍の情報機関であるCICからもちこまれた挑発情報からひきだされたものである。
 袴田は八月十日以前から、自分を規律違反で処分するならば、党指導部の致命的打撃となる「資料」をもっているからそれで「たたかう」と周囲に宣伝していたが、この致命的な「資料」というのが、野坂議長への中傷を書きつらねたジェームズ・小田からの一九七四年四月の手紙等だったのである。調査委員会は、その調査活動の結果、袴田と小田との長期の陰謀活動の全貌をほぼつかんでいたので、それにもとづいて袴田に小田との関係を質問した。ところが袴田は、これまでは党中央に致命的打撃をあたえるきめ手をもっていると、自身または妻を通じて豪語していたが、いよいよこの問題が調査委員会から質問されると、はじめは「この件についての『資料』はない、自分の頭の中に入っているだけだ」などといい、小田からの手紙の提出をためらっていたが、この点でいっそうの追及をうけて、ようやく自分のもっていたこのジェームズ・小田の手紙を提出するという確信のない態度をとった。

 (4) 重大なことは、袴田が、一九七〇年に万国博で来日した小田とあい、それ以来小田と協力して、野坂議長をスパイとしておとしいれる活動を、党中央にかくして、七年間にわたってつづけてきたことである。最近では、七六年十月にも来日した小田と会っており、そのとき小田が野坂スパイ説を公表しようというのを「総選挙前で時期が悪いから待て」といってとめた、というが、このこと自体、まさに共謀者の関係にあることをしめすものである。
 袴田は、このこっけいきわまりない野坂スパイ説とそのための年来の策謀で入手した小田からの連絡文書を、かれの規律違反批判への最大の反撃資料として、〝これで党はまいるだろう〟といわんばかりに得々とひそかに宣伝していた。しかし、この策謀自体が、重大で恥ずべき反党裏切り行為そのものであり、かれがこれをもちだしてきたことは、自分の裏切りをみずから告白したことである。もし袴田がこの容疑を真剣に考えているのだったら、七年前にその情報をえたとき、すぐ党指導部に報告し、対処すべきである。ところが、袴田は、党の一員として当然のそういう態度はとらず、その後の党の会議でも表面ではなんの異論もとなえずに野坂同志の中央委員会議長への選任に賛成し、裏では、いつか攻撃の材料にしようと党にかくれて秘密の行動をすすめてきた。八月十日の調査委員会でも、党にかくれたその独断行為を批判すると「こういう活動は独断でやるのが当たり前だ」と開き直ったが、こうした無軌道きわまる二心的な態度が、党幹部、副委員長として許されないだけでなく、共産主義者の態度ともまったく相反することは、歴然としている。

 七、党大会後の反党活動への転落

 中央委員会は、一九七七年十月に開かれた第十四回党大会に、次期中央役員の候補者名簿を提案するにあたって、大会で採択された「中央委員会の選出基準と構成について」の決定にてらし袴田を名簿にふくめなかった。このことは、役員選考委員会でも承認された。大会では、どの代議員からの追加的な提案もなく、この候補者名簿にもとづいて、大会は、新しい中央委員会を選出した。そのさい、役員選考委員会は、個々の同志の評価は公開しないという原則的な立場から、袴田を中央役員の候補者名簿にいれなかった理由についても、公表しなかった。
 党中央は、大会後、党役員の資格を失った袴田にたいして、統制委員会を通じて規律違反問題の調査をすすめるとともに、今後の生活の問題についても、生活費の支給等をにわかに打ち切るなどはせず、十分に慎重で配慮ある措置をとってきたが、党にたいする袴田の敵対的態度は、いよいよむきだしになってきた。
 党大会直後、本部に残してある袴田の私物を自宅までとどけるように袴田から党本部に連絡があり、党本部から若干の者が袴田宅へ出むき、私物をとどけると同時に、袴田宅にあった党中央の関係文書や備品を引き取ったことがある。そのさい、党の備品ではあっても使用中の医療器具には手をつけず、帰りぎわに「使っている間はいいが、不用になったら返却してくれ」と一言いったところ、袴田は血圧計を床にたたきつけたが、これも党にたいする常軌を逸した敵意のあらわれだった。しかも、かれは、雑誌に党攻撃の文章を準備しつつ、たびたび直接電話をかけて党に「給料」をよこせと要求し、また党中央が党役員としての居住施設として貸与してきた現在の家屋に居すわりつづけることを通告してきているという厚かましさである。
 調査のための統制委員会の再三の呼び出しについても、これをいっさい拒否しつづけ、こうしてみずからを党の規律ある隊列の外におくと同時に、一昨年来、反動支配勢力の反共キャンペーンに重要な役割を果たしてきた反共ジャーナリズムに身売りし、そこから日本共産党に低劣きわまるデマ攻撃をあびせるという、もっとも恥ずべき転落ぶり――これまでの、反党分派主義者のいかなる〝先輩〟も顔まけするような反動的な堕落ぶりを、さらけだしたのである。

 八、袴田の自己中心主義と党の路線を否定する日和見主義

 以上が、袴田里見の党規律違反と反党活動への転落の主要な経過であるが、この経過が示すもっとも重要なことの一つは、袴田の反党活動の基本的な動機が、党の路線や方針についてのなにかもっともらしい「見解」などに起因するのでなく、度はずれの自己中心主義にもとづく個人的な野心やえん恨にあった、ということである。

 (1) 袴田は、党の規律に反する無原則的分派的な活動をあからさまに開始する以前には、わが党の方針や路線に基本的な異論を対置したことはなかった。あとでのべるように、党勢拡大運動に反対する意見をとなえたことは何回かあったが、そのつど、党中央での討論をへて袴田自身が自分の誤りを認めることや、結局提案された党中央の公的方針に同意することで、問題は解決されてきた。したがって、党綱領が決定されてから一九七六年の総選挙にいたる十五年間、党大会はもちろん、党の中央委員会や幹部会の方針は、すべて袴田自身の賛同のもとに、決定されてきたのである。
 今回も、一九七六年十二月七日の常幹会議で、袴田は若干の異論を提起したが、すでにのべたように、これらの問題点については十二月十六日の常幹会議で長い時間をかけた論議が徹底しておこなわれ、四つの論点のすべてにかんして袴田が自分の誤りを基本的に認めることで、解決されたのである。
 袴田は、公然とした党規律違反の道にのりだした後は、「宮本委員長や常幹が自分の意見をうけいれなかったため」などとのべたてて、自分のそうした行為を路線上の意見の相違なるものによって正当化しようとしている。しかし、こうした主張になんら根拠がないことは、袴田が、この数年来、党のいかなる会議でも、党中央の方針にたいする基本的な批判や反対の意見を提出したことがなかったという事実一つをみても、明瞭なことである。

 (2) 袴田は、党の規律に挑戦するとともに、自分の主張や方針を、党の路線に対置しはじめた。そのなかには、かれが過去において何度か表明し、それについての批判をうけ誤りを自認したものをむしかえした主張もあれば、最近になって突然となえはじめた方針もある。しかし、共通して確認できるのは、その無規律、無原則な活動に転落する過程で、袴田が、これまでみずからも決定に参加してきたはずの党綱領にもとづく諸方針を、基本的に理解していなかったこと、党の基本路線に反する日和見主義的、動揺的見地こそが、かれの地金であったことを、みずから露呈してしまった、という事実である。
 党の路線に対置する形で、袴田がもちだしてきた主張や方針のおもな論点は、つぎの諸点にある。
 第一は、党勢拡大への独自のとりくみに反対する新日和見主義の傾向である。
 袴田の中心的な主張は、大衆運動の重視を口実に党勢拡大運動に反対することであり、選挙での後退についても、その最大の原因は党勢拡大運動にあるといってこれを攻撃している。この主張は本質的に、広谷らの新日和見主義と共通のものである。それは、わが党の党勢拡大が日本の革命運動の発展でしめる政治的重要性についての無理解と事実上の敵視にある。
 これまでも、袴田は、しばしばこうした主張をもちだして党中央で批判をうけた。第一回は一九六九年で、総選挙近しという状況が長く続いて党勢拡大運動が困難に直面した時期に、袴田はこの主張をもちだし、宮本委員長などによってきびしく批判された。そしてかれの主張の誤りは、その年の秋の拡大運動の成功とつづく十二月総選挙での党の躍進によって、ただちに実証された。第二回は、一九七二年の党創立五十周年記念の拡大運動のときである。袴田が各地の党組織に出かけて、拡大運動が党を破壊するといわんばかりの講演をやっていることが地方の機関からの苦情でわかり、袴田講演の内容も事実によってよく調べたうえで党中央の三役会議で徹底的に討論し、その誤りをきびしく批判した。そのときには、袴田も誤りを認め、党中央委員会で、暗にそのことを認める発言をしたこともあった。しかし、かれが、本質的な反省をしていなかったことは、今日、明白になった。
 こうした袴田の日和見主義的動揺を、分派主義者はよくかぎとっていた。新日和見主義の分派問題がおきたときにも、分派主義者たちが袴田を自分たちの理解者として扱っていたことは、当時の調査のなかでも明らかとなっていた点である。愛知のスパイ分派の組織者であった西村が、そのスパイとしての正体が暴露される以前の時期、袴田に直接電話して、袴田への講演依頼をしていたことも偶然ではない。
 第二は、大衆運動における右翼日和見主義の方針である。袴田が重視するという大衆運動についても、かれがもちだしてくる方針は、党の方針とは一致しない日和見主義の方針である。袴田の主張は、一貫したものではなく、ときには、社会民主主義主要打撃論を思わせるような極端な社会党非難を特徴とすることがしばしばあったが、一昨年来、袴田が各分野で主張している方針は逆に、右翼日和見主義、受動的な迎合主義を、共通の特徴としている。
 (イ) 労働運動では、かれの主張が「特定政党支持」への批判をやめ、これを容認して、社会党との摩擦をさけよ、経営内で、共産党の旗を公然とたてず、非公然主義に徹せよという、受動的な日和見主義の方針であることは、すでにのべた。
 (ロ) 青年運動では、一九七七年一月の常幹会議で袴田は、民主青年同盟から「党のみちびきをうける」という規定をはずし、民青同盟を覚から独立した青年組織にせよ、という主張をもちだしてきた。
 (ハ) 農民運動についても、九月に、幹部会の一同志に電話をかけて、農民組合には意味がない、全農民が入っている農協のなかの活動だけで十分だ、という主張をいきなりもちこんできた。
 こうした主張はすべて一昨〔七六]年の衆議院選挙以後、突然もちだしてきたもので、綱領にもとづくわが党の十数年来の活動とその成果がいっさい無視されていることが、共通した特徴である。
 第三に、国際問題では、ソ連の大国主義への追随が袴田の立場の特徴となっている。これも千島・漁業問題で露呈してきたことはすでにのべたが、八月十日の調査委員会では、ソ連と公然とした論争関係にない外国の党の態度を模範例として援用しながら、世界政治におけるソ連の役割をもっと称賛すべきだという主張にまで発展した。
 これは、党の自主独立の立場とはまったく異質なものだが、袴田のこうした立場には歴史的な背景があり、一九六〇年代はじめに党中央が自主独立の立場にもとづいてソ連を中心とする大国主義的傾向に同調しない態度を決定した後にも、袴田がこの問題で動揺的態度や二面的態度をもちつづけていたことも、最近の調査で明らかになってきた

 (3) 党規律を「さまつな形式主義」として否定したり、自分の立場では党規律をやぶってもやむをえないなどといって、自分を党規律のうえにおく自己中心主義は、志賀、春日(庄)らの反党分子とまったく共通のものである。すべてを自己中心にみるこの傾向は、あらゆるものの見方に強くあらわれており、とくにわが党の歴史についても、戦前は生命がけでたたかったのは自分だけだとあつかましくもいいたてることで、自分自身の誤りにはなんの反省もしようとしない。自分が警察や予審で訊問に応じたことについても、「宮本が黙秘して真実をいうものがいなかったから、やむをえなかった」などと、宮本委員長の原則的な獄中闘争に責任をかぶせるようなことを平気でいう。
 第八回党大会以後の活動についても、袴田が担当していた部門はすべてがうまくゆき、担当をやめるとまずくなったと主張するとか、その他、事実に反する自己礼賛的評価で一貫している。その反面、自分の行動や態度、規律違反などにはまったく無反省であるだけでなく、なにかの機会にかれの欠陥を指摘したものにたいして、いつまでも深いえん恨をもって憎悪し、それへの報復的攻撃を決して忘れない。
 過去の反党分子すべてに共通していた〝おれがおれが〟の自己中心主義が、ここにもっとも典型的な形であらわれていることを指摘しなければならない。

 (4) こんどの規律違反についても、その最大の動機が、党と党規律の上に自己をおくことを当然視する袴田の自己中心主義にあったことは、ことの経緯にてらして、明瞭である。
 党の発展とともに、党が、中央指導部の構成についても、大会決定の方針にもとづき、若い幹部の抜てきと経験ある古くからの幹部の保全との結合に一貫した努力をはらってきたことは、周知のことである。ところが袴田はこの点で、かれが中央委員会幹部会副委員長という重要な職責にありながら、みずからがこの職責を発揮できる能力に欠けてきたことを反省しないどころか、自分が直接党機構を動かす中心にいないということに、陰湿な不満をもやしてきた。そのことは、今回の党攻撃のなかでかれの言動によって、明らかになったことである。
 袴田は、調査委員会の席上で、「宮本は常幹会議で〝袴田は書記長のイスをねらってきた"と
いって自分を中傷した」と何度もくりかえしたが、これはまったく事実無根の中傷である。宮本委員長をはじめ、常幹のだれ一人として〝書記長のイスをねらう〟などといった非難を袴田にあびせたものはいない。会議の記録によれば、事実は、一昨〔七六年十二月以降、袴田自身が、常任幹部会の席上などで「おれは委員長や書記長になろうと思ったことはない」ということを唐突にみずから強調し始めたので、同席したものが共通して奇異な印象をもったというのが、真相である。事実の黒白をひっくり返してまで、袴田が〝書記長問題〟に固執するのは、逆に、自分中心に党の指導体制を考える、党派性とはおよそ無縁な袴田の心情の表明といわなければならない。
 さらに、治安維持法等被告事件で、袴田の戦前の警察や予審での党の組織関係までふくめての無原則な陳述が公開される結果になったことが、宮本委員長にたいする袴田の個人的な報復主義に拍車をかけたことも袴田自身の言動が証明している重要な問題である。
 袴田が、戦前の獄中闘争での非転向を自分の最大の栄光として、誇示していたことは、関係者によく知られたことである。しかし、反共キャンペーンのなかで部分的に公開された袴田の調書は、袴田が、共産主義者としての信念を捨てないということで非転向の立場を表明しながらも、拷問もうけないままに、警察や予審ですすんで訊問に応じて供述し、その供述も、かれは特高警察のでっちあげへの反論の必要ということで強弁しているが、供述の内容はそういう口実の範囲をはるかにこえて、党の組織活動の詳細な叙述にまで及んでいたことを、あらためて明らかにした。これは、どのような強弁をもってしても許されない敵への屈服であり、同志を敵に売り渡す裏切りにほかならない。
 常任幹部会が、袴田の立場にたいしても、それに配慮しつつ、袴田をふくめた討議で、この問題にたいする袴田の最小限の自己批判をふくむ文章を発表したことは、すでにのべた。袴田は、表面ではこれに同意しつつ、自分の獄中の経歴の弱点が明らかになったことに深い個人的なえん恨をいだき、そのほこ先を、こともあろうに、もっとも原則的な態度で不屈の獄中闘争をたたかった宮本委員長にむけるにいたったのである。
 野坂議長への非難攻撃にしても、八月十日の調査委員会で、なぜ野坂議長攻撃をいまもちだしたのかという質問にたいして、袴田の答えは、「野坂が宮本と共謀しておれを攻撃しているからだ」というものであった。ここでも、その動機が、邪推にもとづく個人的報復にあることは、袴田自身のこうした言動からも明白である。
 袴田は、こういう立場から、党の総選挙での後退を最大のチャンスと考え、ここで公然と攻撃の旗をあげれば、あれこれの不満分子が自分を支持して集まってくるだろうという目算で、突然、無軌道な党攻撃を開始したのである。しかし、その目算はみごとにはずれ、わが党は第十四回党大会を戦闘的な団結でむかえた。そして第十四回党大会で中央役員に選出されなかったかれは、これを冷静に自己を反省する機会としてとらえず、逆に、えん恨と焦燥の果て、分別をまったく失い、今回の決定的転落にふみだしたのである。こうして袴田里見がみずから演出した結果は、党内の不満分子、無規律分子という状態から、反共ジャーナリズムに身売りした最悪の裏切り分子への転落という、無残な反革命的自己破産であったのである。

(「赤旗」一九七八年一月四日)