日本共産党資料館

伊藤律の生存確認の報道に関して

日本共産党中央委員会広報部見解

 一、伊藤律が中国で生存していることが報道されたが、彼は一九五八年、わが党から除名処分が確認された人物で、それ以後わが党は彼となんらのかかわりあいももっていない。

 一、伊藤律は、一九五〇年からの党分裂の当時、分裂した一方の側に属し、北京に亡命し、一九五三年九月、北京にいた同じ亡命者の集団のなかで除名された。これは、分裂した一方の側でおこなわれたことで、日本共産党の正規の機関の決定ではなかった。その後、党の統一を回復した一九五八年の第七回党大会は、伊藤律が五〇年の党分裂の以前から再三その規律違反を統制委員会から提起されていた不純分子として、彼の除名措置そのものは確認した。

(「赤旗」一九八〇年八月二十四日)


伊藤律の帰国をめぐる問題について

日本共産党中央委員会広報部発表

 日本共産党の戎谷春松副委員長は一九八〇年八月三十日午後院内で記者会見し、党中央委員会広報部の「伊藤律の帰国をめぐる問題について」を発表しました。これには岡崎万寿秀広報部長が同席しました。発表文はつぎのとおりです。

 (一)

 八月二十三日、中国政府は、伊藤律が北京で生存しており日本への帰国を希望している旨を発表しました。それ以来、この問題をめぐる報道が、連日、テレビ、新聞をにぎわせており、週刊誌も特集を競っています。
 今日では大多数の国民は、伊藤律がどういう人物であり、なにをしてきたのかも知らない状態です。
 この問題がいまごろなぜそのように扱われるのでしょうか。それは、スパイである事実が発覚して党から除名された伊藤律の過去の経歴や行動を報道することになんらかの今日的意義をみいだしてのものではないようです。
 サンケイ新聞が、これを契機に、日本共産党を〝暗いもの〟と印象づけようとする〝生き証人伊藤律〟という特集を連載し、『週刊文春』は九月四日号の特集のなかで、〝宮本体制を揺るがす証言も〟などと書きたてています。
 これらには、帰国後の伊藤律に日本共産党攻撃の新しい道具としての役割を最大限に果たさせようとしている意図がみえすいています。この問題がおこると、反党活動によって党から追放され、あるいは党から脱落していった人物が、マスコミに珍重され、無責任な発言をくりかえしているのも特徴的です。

 (二)

 この問題については、八月二十三日付で日本共産党広報部がすでに、「伊藤律の問題について」というコメントを発表し、小林常任幹部会委員が記者会見して日本共産党の態度についてのべています。
 しかし、その後のマスコミのこうした状況と、今日ではわが党も、この問題の事実を知らない党員が大多数となっているという点を考慮し、伊藤律の除名についての日本共産党の態度をつぎのようにあきらかにしておきます。

 〈伊藤律の除名について〉

 (1) 伊藤律は、戦後、党の再建にあたり、転向者でも反省があれば入党を認めるという当時の方針にもとづき党に入り、当時書記長だった徳田球一にその「才腕」をおおいに買われ、指導的中枢にくわわり、一九四七年の第六回党大会後は、日本共産党中央委員、政治局員の一人でした。戦後、党はアメリカ帝国主義の全面占領のもとで、全面講和の締結と全占領軍の撤退、独立、平和、民主、生活向上の日本の実現をめざして奮闘してきました。
 一九五〇年六月、朝鮮侵略戦争を前にして占領軍司令官マッカーサーは、吉田首相に書簡を送り、日本共産党への弾圧を指令し、これを受けた政府によって、国会議員をふくむ共産党の全中央委員二十四名とアカハタ編集委員十七名の追放、アカハタ発刊禁止などの弾圧をくわえてきました。こうした状況のもとで、日本共産党中央委員会は公然と活動する自由、中央委員が公然と相互に連絡する自由も奪われるなかで、徳田ら政治局の多数は意見のちがう中央委員を排除して一方的に非公然体制に移行し、党が分裂するという事態が生まれました。
 こういう占領軍やその手先としての政府の日本共産党への不当な自由抑圧をぬきにして、日本共産党を弾圧した当局の立場から猟奇的に論評することは理性的でありません。
 一九五〇年の党の分裂のさい彼は徳田を中心として分裂した一方の側の組織に属し、当時、米日反動勢力によって敵対国とされ、渡航の自由もなかった中国の北京に亡命していましたが、ここで彼は腐敗問題をひきおこし、それの調査をきっかけに戦前から彼が特高警察に屈服してスパイ活動をつづけてきた事実が暴露され、北京の亡命者の政治集団によって除名されました。このように伊藤律への措置は日本共産党の中央委員会がおこなったものではありません。
 反党盲従分子として党から除名された西園寺公一は、伊藤律の中国での身柄の扱いについて中国側要人からの談として、「われわれは、日本共産党に頼まれて、伊藤律氏を預ってきたが……」(八月二十八日「読売」夕刊)うんぬんのことを紹介しています。しかし、日本共産党中央委員会が、伊藤律の身柄を中国側に預かってくれと依頼した事実はありません。
 この点にかんしては、一九五九年におこなわれた日本共産党の宮本委員長と毛沢東との会談で、毛沢東がみずから、「五〇年問題にさいして中国共産党がスターリンの日本共産党の内部問題介入に同調したのは正しくなかった」(宮本顕治「私の五十年史」)とのべ、また、分裂した一方の側の党幹部群を北京によんだのも正しくなかったと語ったことでも明白です。
 ここまでの経過と事実は以上のとおりです。

 (2) 党はその後一九五五年七月の第六回全国協議会で、分裂を克服して統一を回復する第一歩をふみだしました。
 伊藤律の除名問題はこの会議で報告、確認され、第七回党大会前の過渡期ではありましたが、司年九月十四日に、「伊藤律について」という要旨次のような党中央委員会常任幹部会の発表がおこなわれました。

 一九三三年、伊藤律は大崎署に検挙された。当時、伊藤律は第一高等学校の学生で共産青年同盟の事務局長をしていた。伊藤律は警視庁特高課宮下弘の取り調べを受け、完全に屈服し、共青中央の組織を売り渡して釈放された。
 一九三九年、伊藤律は商大の進歩的グループの検挙に関連してふたたび検挙され、目黒署に留置された。そのとき、特高伊藤猛虎の取り調べに屈服し、党再建のために努力していた岡部隆司、池田忠作、長谷川浩、保坂浩明、木村三郎、その他十数名の同志を敵に売り渡し、さらにゾルゲ事件の糸口となった北林トモを売り渡した。
 伊藤律は特高宮下弘、岩崎五郎、伊藤猛虎にたいし、北林トモを売り渡すこと、および毎月一回ずつ警視庁をおとずれて進歩的な人びとの間の情報を提供することを条件として九月上旬に釈放された。
 その後、伊藤律は従前通り満鉄東京支社に勤務し、支社内と本社内の進歩的な人びと(そのなかにゾルゲ事件で処刑された尾崎秀実氏をふくむ)の言動までくわしく定期的に警視庁に報告した。
 そればかりでなく伊藤律は宮下、岩崎の私宅を訪問し、さらに、これらの特高と料理店で会食もしている。
 一九四一年十月、ゾルゲ事件の直前、伊藤律は保釈を取り消され、久松署に留置されたまま、内部からゾルゲ事件および満鉄事件の拡大と証拠がためのため協力した。
 一九四二年、伊藤律は三度釈放された。
 その後も、伊藤律は警視庁と連絡を保ち、細川嘉六同志その他進歩的な人びとの動静をさぐり、横浜事件のデッチ上げと拡大、および証拠がために協力した。伊藤律は、前後を通じて百五十数名の革命的進歩分子を、直接敵の手に売り渡した。
 一九四三年、伊藤律は豊多摩刑務所に収容され、特別待遇を受け、一九四五年八月、スパイ大泉兼蔵とともに釈放され、ただちに宮下弘、伊藤猛虎に手紙を出し、宮下からは返事をもらっている。
 戦後、伊藤律は当時わが党のもっていた、いくたの欠陥をたくみに利用し、党中央に潜入し、すでにこれまで発表した反革命的行動のほか、党を内部からカク乱し、破壊する工作を一貫しておこなった。
 とくに、一九五〇年の党の分裂と混乱を計画的に激発するため、あらゆる奸策をろうした。

 以上の諸事実を、伊藤律はあらゆる方法で党にかくし、あるいは、ごまかしつづけてきたが、審査をはじめてから以後、彼はこれらの事実をみずから告げるにいたった。
 この発表には、伊藤律のスパイ、党破壊活動の事実と除名した理由が明確にされています。伊藤律本人の供述と自己批判を基礎にしたこの発表は、伊藤律のスパイ反党活動の事実の基本点をしめしているものであり、それについてはこの他にも数多くの傍証があります。したがって〝伊藤はスパイではなかったのではないか〟とか、〝政治的意見の相違で追放されたのでは〟などという論調はなんらの根拠ももつものではありません。
 党が統一を基本的に完成した一九五八年の第七回党大会は、正規の党大会として、伊藤律の除名を確認しました。したがって、その除名は、今日党の正式の決定として確定されているものです。

 (三)

 伊藤律の帰国が今日の日本共産党になんらかの重大な影響をあたえるかのごとき論評は、まったく的はずれのものです。彼の帰国で日本共産党が困ることはなにもなく、むしろ困るのは、〝日本共産党が伊藤を消したのでは〟とか〝死体が党本部の地下に埋められている〟式の「勝共連合」等の根も葉もないデマ・中傷をおこなっていた反共集団の方であり、また伊藤をスパイとして反党活動に利用していた戦前の特高警察の流れをくむ公安当局側の方でしょう。諸般の情報によれば、伊藤は望郷の念やみがたく、余生を帰国して静かに送りたいといっているようであり、家族もその希望をいれようとしているようです。事態がそのようにすすむ限り、日本共産党はこれになんら不当な関与などするものではありません。
 しかし、伊藤律は過去はいっさい語りたくないといいながら、北京でも日本大使館員に中国での生活その他について一定の話をしているやの報道もあります。したがって、伊藤の帰国後の言動について、わが党に不当なかかわりをもつ場合、党として必要な対応をする場合があるのも当然です。
 日本共産党が伊藤律のこんごの私生活に介入するものでないことはさきにもあきらかにしたとおりであり、むしろ、反動反共勢力と心ない一部反共ジャーナリズムが伊藤の帰国をどう扱うかの方が問題でしょう。

(「赤旗」一九八〇年八月三十一日)