日本共産党資料館

袴田転落問題、なぜ
――読者の質問に答えて

 日本共産党の元副委員長であり、反党活動をやって党を除名された袴田里見が、『週刊サンケイ』に共産党攻撃の妄想「手記」を書きつづけています。「赤旗」では、そのつど袴田の妄想=ないことを、あると思いこむ病気にメスをいれた反論をおこなっていますが、これに多くの読者から「袴田のでたらめぶりがよくわかった」といった声が寄せられています。「袴田の転落の経過をもっと知りたい」「なぜ袴田のような人間を副委員長にしていたのか」といった質問もあります。そこで、こうしたいくつかの疑問にこたえ、袴田転落問題のポイントをあらためて明らかにしてみましょう。

 袴田は、なぜ除名されたか

 袴田は、一九七七年十二月三十日、党破壊活動をやったために日本共産党を除名されました。
 同年十二月下旬、袴田が『週刊新潮』(七八年一月十二日号)にみずから書いているように「党規違反を承知の上で」、共産党と宮本委員長(現議長)を攻撃する反共手記を発表したことが明らかになりました。当時袴田は、手紙や電話で党の内外に指導部への中傷をふりまいて同調者をつくろうとする分派活動をおこなったり、少なくとも一九七〇年から七年間にわたって野坂議長(現名誉議長)をスパイにでっちあげる陰謀をめぐらし、また党にかくれてソ連共産党中央委員会に個人的使者をおくったりするなど、いくつもの規律違反で調査中の身でした。ところが袴田は、それを反省するどころか、逆に開き直って、公然と党攻撃をおこなったため除名されたのです。

 なぜ副委員長が党攻撃を

 つぎに袴田がどうして日本共産党を攻撃するようになったか、という問題です。
 袴田は、戦前、宮本氏とともに不当に弾圧、投獄された治安維持法等被告事件での獄中闘争で、当時の共産党の決定に反して警察や予審で黙秘をつらぬかず、党の組織について供述したり、事件についても特高警察のでっちあげに乗せられるようなデタラメを供述したりする誤りをおかしながらも、〝共産党をやめるので許してください〟とはいわず、非転向をつらぬきました。非転向をつらぬいた戦前からの党中央委員は、宮本氏と袴田だけでした。袴田は、こうした古い党歴を鼻にかけたり、自己中心主義がつよい、勉強せずに理論水準が低く、粗暴な態度をとったりするなどの弱点を持っていましたが、日本共産党は必要な批判を加えながら、戦前からの数少ない非転向の幹部として生涯をおくらせる配慮をしてきたのです。
 ところが袴田は、こうした周囲の配慮にあぐらをかき、幹部としての地位を「身分」のように考えて慢心をつのらせました。そして若い幹部が中央指導部にはいり、副委員長の数もふえ集団指導の体制が充実強化されると、みずから副委員長の重責にありながら党の幹部政策に不満をもつようになりました。
 そうしたなかで、七五年末の『文芸春秋』の立花論文などによって袴田の獄中闘争の弱点が暴露されると、非転向を周囲に誇示してきた袴田は動揺し、弱点を真剣に自己批判して反共攻撃とたたかうのではなく、かえって完全黙秘と原則的な公判闘争で獄中闘争をたたかいぬいた宮本委員長を攻撃することで、自分の誤りを正当化しようとしたのです。
 袴田は、こういう立場から、七六年十二月の総選挙で共産党が後退すると突然、常任幹部会の会議で党と指導部への攻撃をはじめました。そして、野坂議長にたいする謀略、分派活動=党に反対する派閥づくりなど袴田の規律違反問題が明らかになり、七七年十月の日本共産党第十四回党大会では中央役員に選出されませんでした。袴田は、これを自己反省する機会としてとらえず、逆に分別を失い、公安当局など反共反動勢力にとりこまれて、週刊誌で共産党を攻撃するところまで転落したのです。
 いま袴田は、ますます共産党憎しの思いをつのらせ、『週刊サンケイ』誌上で五年前のデマをむしかえしているのです。

 なぜ袴田のような人物が副委員長に?

 袴田が重大な弱点をもつ人物でありながら、なぜ副委員長にしていたのかー。この点については、五年前、宮本委員長(当時)が読売新聞の「なぜ長期にわたり幹部にしていたのか」という質問にこたえて、つぎのようにのべています。

 「一つは獄中闘争のやり方は袴田の場合も顕著な弱点はあったが『共産党をやめます。捨てます』という事はいわないという非転向だった。これはあたりまえのことだが、日本の革命運動の弱さの反映で、そういう人も少ないため評価された。そういう点で戦後派の人も一応の尊敬を払った。もう一つは、古い幹部に問題があってもできるだけ保全し、若い幹部を育てていくのがわが党の幹部政策だ。長くやってきた人間の晩年を全うさせる気持ちでできるだけ配慮してきた」「読売」七八年一月十三日付)

 当時の野坂議長(現名誉議長)もつぎのようにのべています。

 「なお、『なぜ、あのような人物を副委員長にしてきたのか』という疑問にたいして、ここで触れておきたい。
 人間は、だれについても言えることだが、固定的に善人であったり、悪人であったりするわけではない。あるとき正しかったものが、のちに過ちを犯すことがあり、逆に、弱点をもったものが努力して、それを克服することもある。
 かつて、弱点はもちながらも、党の幹部としての自覚を失っていなかった時代の袴田は、その著書のなかで、反党分子にたいして、次のように言っている。
 『党は、創立されてから四十五年間、いろいろな苦難をへて今日にいたっているわけですが、この革命的な伝統をもった党から離れて、そして別な行動をとる。これはどういう口実を設けようと、どのように自分の利己的な、個人主義的な野心をごまかした表現を用いようと、やはり党にたいする裏切りです。戦前の言葉でいえば、これも「転向」者です』
 この言葉は、かれが戦前に非転向であっただけに、読むものをうなずかせる力をもっていたことは事実である。だから、かれは、謙虚であったならば、党の前進のために、もっと貢献することができたのである。そうであったからこそ、党は、かれの弱点や欠点を知りながらも、非転向の実績を尊重し、かれの弱点の克服を促しながら、かれが副委員長の役職を果たせるように配慮し、援助してきたのであった。袴田が少数意見を持ったときでも、十分にそれを聞き、批判すべき点は道理にもとづいて批判したので、かれのほうから、すすんで自分の誤りをみとめて、自己批判したこともあったのである。ところが、かれが、ひとたび党幹部としての、また党員としての自覚を失うや、かれは、その弱点にかけるべき自制の歯止めもこわして、急速に破滅の谷間へと転落していったのである。
 かれを副委員長に選んできたことを、その結果だけからみて誤りだということはできないと思う。一人の人間に接するとき、その人の弱点には留意しつつも、その長所がいっそう発展するように促し、その結果、みずからの力でその弱点を克服できるように援助するのが、プロレタリア的徳義のありかただと思う。党が、袴田を副委員長に選び、かれが晩節を全うできるように援助してきたことは、結果において、かれによって、逆に裏切られることにはなったが、許されてよいのではなかろうか」「赤旗」七八年二月二日「袴田里見の反党行動の本質」)

 このように日本共産党は、袴田の弱点、欠陥を不問にしてきたわけではなく、弱点については内部で批判し、正しながら、戦前から長く幹部として活動してきた人間の晩年をまっとうさせる立場をつらぬいてきたのです。
 しかも、わが党はもともと、どのような党員、幹部にたいしても、重大な規律違反でないかぎり、弱点があるからといって、その同志のすべてを否定して除名したり幹部からはずすという態度はとりません。もともと、「完全な人間」はいないわけですから、同志の弱点は批判と援助で正すのが道理あるプロレタリアヒューマニズムの立場であり、わが党の規約の精神なのです。
 ですから日本共産党は袴田の誤りや欠陥にたいしては、常任幹部会の会議や三役会議で、あるいは野坂、宮本氏らが個別に批判し、道理を説いて解決するためにねばりづよく努力しました。
 また、袴田の地方出張中の粗暴な言動を見聞きした幹部や党員たちも、なかには人知れず胸を痛めていた人もいますが、多くの場合、率直な批判と意見を党中央に寄せ、問題を早期に解決するために努力しました。
 これにたいし袴田も、規律を守って活動する自覚をあるていど持っていた間は、常任幹部会で批判されたときも「興奮したあまりのいいすぎだった」とか「今後はそういうことはしない」とのべるなど反省の色をみせていました。それが、最後の一年ほどの間に、急速に変節、転落していったのです。
 党は、七七年二月袴田の規律違反が明らかになると、すぐに常任幹部会のなかに調査委員会をつくり、事実をきびしく調査するとともに、そのなかで次つぎに重大な規律違反がわかったため十月に開いた大会では中央役員に選出しませんでした。
 そして、袴田が『週刊新潮』で公然と党破壊活動に乗りだした段階では、党の統制委員会のメンバーが再三袴田宅を訪れ、また書記局からも電話して、党本部に出頭して党の調査に応じるよう求めました。しかし、袴田は、最初は、「心臓病」を理由にこれを拒否し、党側が医師の診断書の提出を求めると最後には「勝手にしろ」と怒鳴って党の調査を拒否したので、党はついに党規約にもとづいてきっぱりと彼を除名したのです。

 情も道理もある共産党

 袴田にたいして党中央がとってきた以上のような態度は、みにくい派閥争いや権力争いをくり返す自民党などと違って、情もあれば道理もある日本共産党の態度をしめすものです。一つは、「長くやってきた人間の晩年をまっとうさせる」ために、弱点は周囲の努力でおぎないながら、全体として古い幹部と新しい幹部の団結をはかるというプロレタリアヒューマニズムの立場に立った幹部政策。もう一つは、規律違反の問題にたいしては、幹部であってもあいまいにせず、中央の幹部であればあるほど規約や規律にたいして厳格にするという原則的で道理ある態度です。
 もちろん、日本共産党の最高幹部のなかから袴田のような転落者を出したことは非常に残念なことですが、やはり問題は、袴田が過去の「非転向」にしがみつき、自分にたいする厳しさを失い、党の上に個人を置き、自国の党の集団の知恵への信頼を欠き、たゆみない研究と学習によって自分を進歩させる努力をおこたったことにあります。
 そのことは、袴田自身も、十六年前に『党とともに歩んで』という本のなかで、戦後の転向問題の教訓として強調していたことです。

 「西沢隆二というのは、獄中を非転向で通してきたということを一枚看板にしていた男ですが、自分自身の不勉強と、そして生活の堕落、そういうところから、闘争のきびしい試練に耐え、日本のすべての階級闘争を指導している党についてゆけなくなった。そして、中国の毛沢東一派に迎合し、日本共産党に反逆した。これらもやはり『転向』者です。だから、共産党員は規約にも書いてあるように民主集中制の原則を守り、少数は多数に従い、下級は上級の指導をうけて活動するという、この立場をけっして崩してはなりません」

 このように、袴田自身が十六年前に教えてみせた教訓にてらしても、彼の行動は、変節堕落して党についていけなくなった転落者のたどる無残な姿を、象徴的に示しているのです。

(「赤旗」一九八三年七月十七日)