日本共産党資料館

「労働新聞」の乱暴な覇権主義の論法

(1984年9月27日 『赤旗』無署名論文)


 朝鮮民主主義人民共和國人民軍海軍警備艇による日本漁船銃撃事件について日本共産党の立木洋国際部長が党の見解をあきらかにした(「赤旗」八月四日付)のにたいし、朝鮮労働党機関紙「労働新聞」八月六日付の「論評」は、「不当ないいがかり」「内政干渉」などと中傷し、人命まで奪った日本漁船銃撃を当然視するひらきなおりの態度を露骨にしめした。はては、その「論評」に「誰を代弁した『見解』なのか」と題して、日本共産党があたかも日本の「右翼反動」に同調しているかのように攻撃したり、「人々の『歓心』でも買おうとする意図」等々の悪罵(あくば)をつらねた。そこで日本共産党は、論文「人道も国際法も無視する立場の自己暴露――『労働新聞』の日本共産党攻撃にたいして」「赤旗」八月十六日付)を発表して、「労働新聞」の「論評」になんの道理もないことを具体的に指摘し、日本共産党への攻撃にきびしく反論した。
 これにたいし、「労働新聞」九月七日付は、ふたたび「論評」を発表した。今回の「論評」は、「赤旗」八月十六日付論文への反論と称し、あれこれとのべて日本共産党が「黒白を転倒している」などと非難してはいるが、まともな反論はなにひとつできず、ひらきなおりの態度をむしかえし、日本共産党の立場が「朝鮮民主主義人民共和国に対する日本当局の敵視政策の免罪論に通じる」などという悪をつらねたものである。そして、論者たちが強弁すればするほど、かれらの理不尽な独善的、覇権主義的態度がいっそう浮きぼりになるばかりである。

  一、国内法できれば国際法に反しても「自主権」とするもの

 「赤旗」八月十六日付論文は「海洋法に関する国際連合条約」(「国連海洋法条約」、一九八二年採択、未発効)など、海洋にかんするいかなる条約も、沿岸国に特別の権利を認める海域としては、主権のおよぶ「領海」、若干の必要な規制ができる「接続水域」(公海の一部)、天然資源にかんする主権的権利等のおよぶ「排他的経済水域」などを規定するのみであること、「領海」においてさえ外国船舶の無害通航権を承認していること、「領海」や「接続水域」さらに外側に「自衛」のための「軍事境界線」なるものを設定するとか、その区域内での無害通航権を否定するとかの権利をまったく認めていないことを指摘した。
 「労働新聞」九月七日付の「論評」は、この重大な指摘には一言もふれようとさえしていない。そのこと自体、「赤旗」論文のこの点の指摘の正しさが争いがたいものであることを裏づけている。
 「労働新聞」九月七日付の「論評」で、「『赤旗』は、無責任な形式論理でわれわれの軍事境界線問題に対「処している」とのべている点が、国際法の規定にかんする「赤旗」八月十六日付論文の指摘にたいする反論"らしいが、その無力さはいうまでもない。そして、「国連海洋法条約」には、朝鮮民主主義人民共和国も一九八二年十二月十日に署名しているのである。同条約の規定をとりあげての日本共産党の主張を「無責任な形式論理」などと非難するのであれば、それは、自分で同意し署名している条約を無視して行動する、それこそ「無責任な」、あらゆる「論理」ぬきの、無法な態度をみずから表明するものとなるだけである。
 「赤旗」八月十六日付論文はまた、「海上軍事境界線」なるものを設けている国自体が世界にもほとんどなく、ましてや「国際慣例」などにはけっしてなっていないことを指摘した。「労働新聞」九月七日付の「論評」は、この指摘にもなんら具体的にこたえず、「世界のさまざまな国は、自己の安全と民族の利益を守るために『軍事境界線』『安全保障水域』『封鎖区域』『航海禁止区域』など、相異なる形態の禁止、または制限区域を設定している」などと漠然とのべるだけであって、なんらまともな議論になっていない。それでいて、「海上軍事境界線」なるものの設定、その区域内での無害通航権の否定が「国際的にみても」「明白な慣例になっている」などと独断的にくりかえすのは、事実にも道理にも無関心な論者たちの態度をしめすものである。
 朝鮮民主主義人民共和国が一九七七年に設定した「海上軍事境界線」(「軍事警戒線」ともよばれている)なるものは、西海(黄海)では経済水域線(起算線から二百)、東海(日本海)では起算線から五十時であり、この区域内では、民間船舶でさえ「事前の合意または承認のもとでのみ」航行できるというものである。つまり、黄海では自国の排他的経済水域(「国連海洋法条約」では沿岸から二百以内を限度と定めている)の全域、日本海では、自国の領海(同条約による限度は沿岸から十二以内)の四倍以上、接続水域(同条約による限度は沿岸から二十四以内)の二倍以上の海域を、まるまる囲いこんで、それら区域内では、航行の自由はもとより無害通航権まで全面的に否認し、それら広大な海域を自国の領土と同じかそれ以上に封鎖的にあつかうというものであり、しかも、戦時・平時を問わず恒常的なものである。
 さらにつけくわえると、朝鮮民主主義人民共和国が日本海において領海や排他的経済水域、あるいは「軍事境界線」なるものの起算線(基線)としているのは、ソ連との国境点と韓国との境界点をいきなり結ぶ直線である。国際条約は、沿岸国の「海岸の潮線」を「通常基線」とし、海岸線がいちじるしく曲折しているとか沿岸の至近距離に一連の島があるとかで「直線基線」の方法を用いるときも、海岸線の一般的方向からいちじるしく離れて引いてはならないとさだめている。朝鮮側の基線の引き方は、国際法上のこうした規定と大きく違ったもので、まことに奇怪なものである。このため、完全に「公海」に属する海域まで排他的経済水域にくみこまれ、「海上軍事境界線」なるものも、実際の沿岸からは五十明をはるかにこえ、場所によっては実際の沿岸から百峰ほどにもおよんでいる。
 朝鮮民主主義人民共和国によるこのような「海上軍事境界線」なるものの設定が「国際慣例」などではけっしてないことは、明白である。もし、そのようなことが「明白な」「国際慣例」として確立しているとするならば、一九八二年採択の「国連海洋法条約」において、領海での無害通航権を承認するとか、排他的経済水域でも天然資源にかんする沿岸国の主権的権利等を侵害しないかぎり公海と同様に航行の自由や海底電線の敷設の自由を承認するとかのとりきめを結ぶことは、けっしてありえなかったであろう。そして、「自衛」のためと称して海洋を勝手に囲いこむのを容認するなどといったことが、平和で民主的な国際秩序の確立という国際法の正しい発展方向にまったく逆行するものであることも、いうまでもない。
 こうして、「労働新聞」九月七日付の「論評」は、「赤旗」八月十六日付論文の指摘には少しもこたえずに、ひたすら「軍事境界線設定は何よりも、わが共和国の自主権に属する問題である」とくりかえしさけぶのみである。自国の国内法令でなにか定めれば、どんな国際法――しかもみずからも参加したとりきめにも背反してもかまわず、それが「自主権」だなどとするのは、現代国家では到底考えられない前近代的、独善的な態度を浮きぼりにするばかりである。

  二、「情勢」と「自衛」の名で何をしてもよいという論理

 「赤旗」八月十六日付論文は、ある国が「情勢」上必要と一方的に判断し、自国の「安全と自主権」の防衛のためと称しさえすれば勝手に「軍事境界線」なるものを設定してよいとする「労働新聞」八月六日付の「論評」の論法がもし世界にまかりとおるならば、力のある国が勝手に軍事勢力圏を設定するのを放任することになる、と批判した。「労働新聞」九月七日付の「論評」は、この批判を「現実とかけ離れた抽象論」と非難し、「情勢の要求」なるものについて力説している。
 しかし、どの国も必要と考えれば「軍事境界線」に類するものを一方的に設定してよく、それは「国際慣例」だと一般的に主張した――「労働新聞」の言葉を借りれば「抽象論」を提出したのは、ほかならぬ「労働新聞」の論者たちであった。そうした国際法上の権利一般論、「国際慣例」論が破産に直面したので、こんどは、朝鮮をめぐる「情勢」について力説し、朝鮮の場合は特別だとする議論に力点をおこうというわけである。だが、朝鮮だけは別だという議論によりかかろうとする態度自体、各国間の対等、平等を意に介しないものである。
 「労働新聞」九月七日付の「論評」のいう「情勢の要求」とは、「アメリカ帝国主義と日本反動と南朝鮮かいらい一味の侵略と戦争策動によって、わが国の情勢は極度に激化している」、「武装スパイ船『プエブロ』号の侵入事件とその他」、「アメリカは約四十年間、わが国の半分の地を占領し、……共和国に対する新戦争挑発準備騒動を行っている」、「日本反動が……朝鮮戦線に日本武力を投入する陰謀を企んでいる」等々、というものである。こうしたことを列挙して、「労働新聞」の今回の「論評」は、「海上軍事境界線」なるものの設定が「民族自主権の当然の行使」であり、「適切で正当であった」としている。
 しかし、航行の自由を保障すべき広大な海域を「軍事境界線」なるもので勝手に封鎖し、その区域に許可なく立ち入るものには武力攻撃をくわえるなどとするのは、戦闘継続状態のなかでさえ必ずしも正当化はされない措置であって、ましてや「情「勢の緊張」といった理由で正当化されるものではけっしてない。
 一九八二年のフォークランド紛争のさい、イギリスは、フォークランド諸島周辺二百を「戦争水域」に指定し、ついで同区域の「封鎖」を宣言し、イギリス国防省の許可なく同区域に立ち入るすべての艦船や航空機を敵対者として武力攻撃すると発表したが、この措置が国際的にも多くの批判をまねいたことは、周知のことである。朝鮮民主主義人民共和国による「海上軍事境界線」なるものの設定は、自国の本土防衛のためか自国領有の植民地奪回のためかの違いを別とすれば、イギリスがフォークランド紛争において一時的に設けた「戦争水域」「封鎖区域」と、封鎖の形態や方法においてきわめて共通したものである。
 このような「海上軍事境界線」なるものの設定を「情勢」にてらして「適切で正当」とする「労働新聞」の論者たちは、一九五三年の朝鮮休戦協定調印から三十年以上たった今日でも、朝鮮民主主義人民共和国がアメリカや日本や韓国と戦闘継続状態にあるとでもいうつもりであろうか。戦闘継続状態においてさえかならずしも正当化はされない措置を、「緊張激化」という理由で「適切で正当」とする論法が許されるならば、さまざまの地域で緊張が激化している現在の世界では、ほとんどすべての海洋が各国に分割されて、〝領土〟化され、諸国民の平和も生活もいちじるしくふみにじられてしまうだろう。
 もちろん、日本共産党とわが国の自覚的民主勢力は、米日韓軍事同盟の策動を、日本と朝鮮をふくむアジア諸国民の平和と安全にたいする重大な脅威とみなし、これと断固としてたたかっている。同時に、現在の情勢は、緊張しているとはいえ、まだ戦争状態にはなく、そうした破局を阻止するために奮闘することこそ緊急の重要課題となっている。そのときに、戦闘継続状態のなかでさえかならずしも正当化されない措置をとって当然だとするのは、結局、「自衛」のためと称しさえすれば何をしてもよいというもので、それは、無法な覇権主義の論理をかさねてしめすものでしかない。
 「労働新聞」の論者たちが強調してやまない「自主権の行使」の実際の対象となったものが、航空母艦でも潜水艦でもスパイ船でもなく、五十トン未満のイカ釣り漁船であったという事実にてらせば、いうところの「自衛的措置」が覇権主義的行為であることはいっそう明白である。

  三、漁業協定交渉でも日本側は「軍事境界線」を認めず

 「労働新聞」九月七日付の「論評」は、「日本の当該漁業団体にわれわれが軍事境界線を設定した趣旨を説明し、わが国の経済水域内で日本漁船が漁労作業を行う時に守るべき事項について通告し、日本側はこれを全的に受け入れ了解した。このことについては日本共産党も知っているであろう」とのべている。かつては日本側も「軍事境界線」を認めていたではないか、というわけである。しかし、事実はまったく逆である。
 それは、一九七七年九月、日本側の日朝漁業協議会代表と朝鮮側の朝鮮東海水産協同組合連盟代表との間で調印された「漁業分野における協力に関する暫定合意書」(いわゆる日朝民間漁業協定)が「軍事警戒線を除く経済水域」内での漁業活動にかんするとりきめとなった経過をみれば、明白である。この交渉のさい、日本側代表団は、「軍事境界線」なるものを認めることを拒否し、その区域内での日本漁船の操業を認めるようつよく要望したが、朝鮮側が頑として認めず、交渉は決裂寸前にまでいたったが、結局、「軍事境界線内を除く経済水域内での漁労を「認める」というのが「朝鮮政府の一方的な措置であるという日本側の主張を認めこれを前提として」(日朝友好促進議員連盟の「第二次訪朝団報告書」)協定が結ばれたのである。だからこそ「暫定合意書」でも、「朝鮮民主主義人民共和国政府が軍事警戒線を除く経済水域内で、一九七七年十月一日から一九七八年六月三十日まで、日本国の零細漁業者の漁労活動を保障する暫定措置を講じたことに関連し、……漁業分野における協力を増進するため、次のように合意した」と書かれ、日本側からは、「軍事境界線」を認めるとか、その区域内で操業しないとかの意思表示はいっさいしていないのである。
 この一九七七年の交渉のとき、日本共産党からは、渡辺武参議院議員(当時)が、日朝友好促進議員連盟(日朝議連)訪朝代表団の一員とし交渉に参加し、日本共産党としては、「軍事境界線」なるものは、公正な海洋秩序をめざす方向や領海内での無害通航権を認める方向と矛盾するもので、認めるわけにいかないとの態度を明確にし、これを日本代表団にも説明し、朝鮮側との会談にもこの立場でのぞんで、「軍事境界「線」内での日本漁船の操業を認めることをもとめた。日本共産党のこの態度や日本代表団の交渉の経過等は、渡辺氏が「赤旗」一九七七年九月十一日付で明確にのべており、これにたいして朝鮮側は、これまでなんの異議もさしはさまなかった。
 さらに、翌七八年六月、日朝民間漁業協定の二年間延長をとりきめた交渉のさいにも、日本側を代表した日朝議連の久野忠治氏は、「軍事戒線の設定は事情は了とするが」としながらも、「認められず、同意できない」と明確にのべた。また、このとき、日本側は、朝鮮の日本海における基点と基線の引き方についても異議をとなえて協議するよう主張したが、朝鮮側は協議を拒否した。
 なお、一九七七年八月一日に「軍事境界線」なるものの設定が発表されたさい、朝鮮民主主義人民共和国の公式通信である朝鮮中央通信は、「軍事境界線」内に立ち入るのに「事前合意または承認」を要する船舶について「漁労船舶除外」としていたが、七七年九月の民間漁業協定の交渉にのぞんでみて、日本側代表団は「漁労船舶除外」がなされていないことをはじめて知ったという、まことに奇妙な経過があったことも付言しておこう。
 これらをみればあきらかなように、日朝民間漁業協定の交渉でも、「軍事境界線」なるものは、朝鮮側が一方的におしつけ、日本側は、日本共産党はもとより日本代表団としても、認められず不同意であるとの態度を明確にしめしたのであって、日本側が「全的に受け入れ」たとか「了解」したとかいう事実はまったく存在しないのである。日本側は、日本の零細漁民が朝鮮民主主義人民共和国の経済水域内でいっさい操業できなくなっては困るので、やむなく、「軍事境界線」を除く経済水域内の操業にかんする協定に調印したのである。
 国際法にてらし、「軍事境界線」なるものが本来認められないこと、および今回の事態などにかんがみれば、日朝民間漁業協定における「軍事境界線をのぞく」という点が克服されるべき問題点であることは、今甘いっそうあきらかである。  国際法にもそむく無理な措置を一方的におしつけた経過には口をとざし、日本側がやむなく協定に調印した事情と日本側の見解を承知のうえで、調印したのだから「全的に受け入れ了解」などとうそぶくといったことは、およそ社会主義国にあるまじき態度といわなければならない。

  四、人命軽視の姿勢と実態はいっそう明らか

 「赤旗」八月十六日付論文は、今回の日本漁船銃撃事件のような行為が、かりに沿岸国の法令に違反する行為や無害でない航行にたいする規制措置としても、不法で過剰な措置であって、国際法上も合理化できず、人命尊重という社会主義のほんらいの大原則にてらしても不当であることを指摘した。これにたいして、「労働新聞」九月七日付の「論評」は、今回の事件は「軍事境界線内に不法侵入した」「重大な犯罪事件」で、「不法侵入した船舶に対して取り締まるのは主権国家の当然の権利である」といって、ひらきなおりをくりかえすだけである。
 「海上軍事境界線」なるものの設定やそこでの無害通航権の否定などがもともと国際法上不当なのだから、「不法侵入」はもともと成立しないのであり、当該区域を航行しているというだけで停船命令を発した銃撃したりすることの方が、不法な行為である。
 かりに、そこになんらかの「不法侵入」とみられるような行為があったと仮定しても、スパイ活動とか漁業活動とか、沿岸国の安全や秩序を実際におびやかす行為がなければ――朝鮮側の発表によっても、問題の漁船がその種の行為をしたとは認めておらず、ただ立ち入っただけという行為がすべての発端とされている――「重大な犯罪」などとは到底いえない。そして、たとえ「不法侵入」のような行為への規制措置であっても、軍事的措置ではなく警察的措置という立場に徹し、人命尊重の原則を堅持するならば、相手の生命、身体の安全の確保にできるだけ努力するのが、近代国家の常識である。かりに「停船命令」なるものに不服従だとみえたからといって、あるいはかりに警備艇に「衝突」したとみえたからといって、銃撃して乗員を死亡させるなどというのは、あきらかに不法で過剰な権力行使である。その誤った行為を当然視する「労働新聞」の「論評」は、結局、「軍事境界線」なるものの〝侵犯"への規制を、相手がどんな船舶や人物であれ、軍事行動、戦闘行動としておこなうという、まったく乱暴な、人命軽視の姿勢をしめすものである。「労働新聞」九月七日付の「論評」は、日本漁船を銃撃して乗員を死亡させたことを弁解しようとして、「武装した敵船なのか、非武装漁船なのか、見分けることのできない状況下で、やむをえず警告射撃、威嚇射撃を行った過程で偶然生じた不祥「事である」とのべている。しかしこれは、なんら弁解にならない。それどころか、これは、少なくとも、〝相手が非武装漁船であるかもしれないのに、識別もつけないまま、「武装した敵船」にたいするのと同じように対処して銃撃した〟、〝射撃は「警告」や「威嚇」のつもりだったのに、その範囲から大きく逸脱してしまったという重大な過失の行為であった〟と、みずから認めたものにほかならない。これで弁解したつもりでいるところに、「労働新聞」の論者たちの人命軽視の立場が如実にあらわれている。
 実際には、問題の「第36八千代丸」が「軍事境界線」なるものの内側に立ち入ったかどうかさえもあきらかではない。「労働新聞」九月七日付の「論評」は、生き残った乗員らが「不法侵入」の「犯罪」事実を「明白に認めた」などといっているが、帰国した乗員たちは、朝鮮側の当局の言い分を認めないと帰国できないのでやむなく認めたとのべており、朝鮮側の取り調べ官たちが虚偽の自白を強要した疑いが濃厚である。「第36八千代丸」の船体の弾痕をみればわかるように、同船は数十発もの銃撃をうけ、その銃撃は船長のいた操舵(そうだ)室にもっとも集中している。銃撃が「警告」や「威嚇」の範囲をこえていたことは明白であり、それは、過失ではなく故意にねらい撃ちされたといってよいものである。そして、乗員らは、足でけられ銃でなぐられて鼻血を出し、清津港までの連行の十一時間もの間、両手を後頭部にあげたまま甲板に正座させられ、連行の間にも暴行をうけ、威嚇射撃をうけ、そればかりか、現金、背広、作業衣、たばこ、ライター、カップうどんなどなどの私物もとられたという。これではまるで、強盗と同じではないか。
 「労働新聞」九月七日付の「論評」は、「人命軽視の銃撃」という「赤旗」八月十六日付論文の批判にたいして「事件の真相に対する耐え難いわい曲」などと非難しているが、この非難はそのまま「労働新聞」にかえさなければならないし、実際にてらせば、「赤旗」論文の非難はおだやかすぎたといってよいほどである。

  五、銃撃合理化の態度こそ日本政府の朝鮮敵視政策への煙幕

 「赤旗」八月十六日付論文は、「労働新聞」八月六日付の論評」が今回の事件の「責任は全的に、わが共和国に対して敵視政策を実施している日本当局にある」としたことについて、それが、自己の不法行為の責任を他に転嫁しようとする卑劣な論法であることを批判した。これにたいし、「労働新聞」九月七日付の「論評」は、「事実と合わない言いがかり」だと非難している。そのいうところは、「日本当局は、自国の漁船がわが国の経済水域に不法侵入することがないよう徹底した対策をとらなかった」、「日本当局は、日本漁民の『平和的操業』を保障しうる漁業協定の締結を妨害している」、「こうしたことにより、日本漁船の不法な侵犯事件が発生し、不祥事まで起こるようになった」、「それゆえにわれわれは、日本当局に責任があると言った」ということである。
 ここでまず指摘しなければならないのは、日本漁船にたいする銃撃と乗員の死亡という「不祥事」が、日本政府が適切な措置をとらないことからあたかも不可避的に自動的に発生したかのようにいって、朝鮮側に責任がないと主張している点である。これは、朝鮮警備艇側が自己の決断で日本漁船の「取り締まり」なるものに着手し、銃撃して乗員を死亡させたのに、それをまるで、物体が地球の引力によって落下したのと同じ事態であるかのごとく描きだすものであって、まことに無法で乱暴論法である。
 日本漁船への銃撃を、一方では「自主権の行使」だと誇り、他方では朝鮮側の意思決定の自由がない状の結果であるかのように主張して、その根本的な矛盾を少しも異としない態度は、「労働新聞」の論者たちが、自分らが「犯罪者」とみなしたものにたいしては「罪」の軽重を問わず〝自動的〟に殺傷してもかまわないという前近代的な立場にたつことをしめすものであり、また、自分たちの行為をなにがなんでも正当だといいはるためには手段をえらばないという立場をとっていることを露呈するものである。これは、「責任を他に転嫁しようとする卑劣きわまる論法」という「赤旗」八月十六日付論文の批判の正しさを、かさて実証している。
 「労働新聞」九月七日付の「論評」がここであげている「日本当局」の責任の問題について一般的にいえば、たとえば日朝民間漁業協定が一九八二年六月の期限切れのままになっていることについて、朝鮮民主主義人民共和国側の代表の日本への入国を拒否するなど、日本の自民党政府に大きな責任があることはいうまでもない。
 しかし、日本漁船を銃撃して乗員を死亡させた今回の事件は、「労働新聞」九月七日付の「論評」がここであげている問題に、かれらの論法のように結びつけることはできない。
 今回の事件は、朝鮮側自身の発表からもあきらかなように、国際法上も不当な、日本側のだれもが同意していない「海上軍事境界線」なるものの内側に立ち入ったとされる問題であって、漁船かどうかに無関係の問題であり、経済水域とか漁業活動とかとはまったく別次元の問題である。日朝民間漁業協定についていえば、一九七七年調印いらいの同協定では、朝鮮側は「海上軍事境界線」内に日本漁船が立ち入ることを一方的に認めていないのであるから、協定が存在していても「軍事境界線」内に立ち入った日本漁船は銃撃される危険に直面するのであり、今回の事件は協定の有無とは直接関係がない。
 このように、今回の事件の全責任が日本政府の朝鮮敵視政策にあるとする議論は成りたたず、それは、論者たちの支離滅裂ぶりを暴露するだけである。こういう矛盾と混乱にみちた議論のあげく、「労働新聞」の今回の「論評」は、「『赤旗』の論法は結局、朝鮮民主主義人民共和国に対する日本当局の敵視政策の免罪論に通じるもの」などといっているが、それこそ中傷と悪以外のなにものでもない。むしろ、国際法も人道も無視した乱暴な朝鮮側の行為と、それをなにがなんでも当然だといいはる「労働新聞」の態度こそ、日本の自民党政府の朝鮮敵視政策の実態を日本国民と国際世論の目からかくす煙幕の役割を果たすことにならざるをえないのである。

  六、社会主義のイメージを傷つけ、内政干渉しているのはだれか

 「労働新聞」九月七日付の「論評」は、日本共産党にむかって、「われわれのイメージを傷つけて何を得ようとしているのか。われわれは、これに対して疑惑を持たざるをえない」などといっている。しかし、日本共産党が「得よう」としているのは、科学的社会主義の理念と大義、その「イメージ」の擁護にほかならず、そこにはなんの「疑惑」をいれる余地もない。「イメージを傷つける」とか「疑惑」とかは、日本漁船銃撃して乗員を死亡させた行為を当然だとひらきなおる「労働新聞」の側にこそ向けないわけにはいかない。
 朝鮮側が科学的社会主義の「イメージを傷つけて」いるのではないかとの「疑惑」は、残念ながら、今回の事件にかぎられてはいない。たとえば、ラングーン事件である。
 日本共産党は、科学的社会主義の党として、また自主独立の党として、この事件にかんしても、ビルマ側の発表やマスコミの報道だけでなく、朝鮮民主主義人民共和国当局の公式見解その他にも十分な注意を払って事件を検討し、そのうえで党の見解を節度をもって公表してきた。その日本共産党の見解は、テロリズムは社会主義共産主義の運動とは無縁であること、まして外国へのテロの輸出などは、どんな勢力、どんな国の行為であっても許されない行為であることを強調したが、朝鮮民主主義人民共和国とか韓国とか、いずれの犯行だとも断定はしていない。同時に、日本共産党は、事件を朝鮮民主主義人民共和国の工作員の犯行と断定したビルマ当局の判断やラングーンの法廷の判決などを、「政治謀略」だ、「デマ」だ、「噴飯「もの」だと一方的にかたづける、朝鮮民主主義人民共和国の報道機関や在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)傘下の日本語新聞「朝鮮時報」などの主張にも同調してこなかった。この日本共産党の態度にたいして、「朝鮮時報」の一文は、「事件に共和国が関係しているかのようにきめつけ」「反動派の謀略に同調するもの」だと非難した。
 朝鮮側の主張に全面的に同調しないからといって、ただちに「反動派の謀略に同調」ときめつけて攻撃する態度こそ、朝鮮側が、日本共産党や日本の民主運動の全面追従をもとめる覇権主義の立場にたっている、との「疑惑」をいだかせるに十分であり、こうした朝鮮側の態度自体、社会主義、共産主義のイメージを大きく傷つけるものである。
 ラングーン事件そのものについての朝鮮側の対応をみれば、「疑惑」はいっそうつよまらざるをえない。朝鮮民主主義人民共和国の公式通信である朝鮮中央通信のこの事件にかんする第一報(八三年十月十日付)は、「全斗煥が……ラングーンで強力な爆弾の洗礼を受けた」と報道し、このテロ事件を非難はしなかった。その後になって、朝鮮側は、事件は「政治謀略」だ、事件への朝鮮民主主義人民共和国の関与をいうのは「デマ情報」だ等の主張をくりかえすようになった。第一報からテ口、暗殺を非難することをしなかったのは、政治上の敵対勢力への打撃として役立つならばテロリズムでも肯定的にみるという発想があったのではないかという「疑惑」をもたれても、やむをえないものである。
 ラングーンの法廷に出された、朝鮮民主主義人民共和国軍人カン・ミン・チョル大尉の自白調書の内容は、その具体性、重大性からして、たんに「噴飯もの」といってすませるようなものではなかった。伝えられた自白調書の内容は、爆破事件を命令したという朝鮮民主主義人民共和国の司令官、実行班を構成した軍人、それをかくまった在ビルマ朝鮮民主主義人民共和国大使館の参事官などの氏名などをも特定して事件を、朝鮮民主主義人民共和国の公権力の行為とするものであった。ビルマ政府は、これらを真実と認めたからこそ、外交関係断絶の挙に出たのであった。この自白調書の内容の真否について、朝鮮民主主義人民共和国側は、具体的に論じることのできる立場にあり、また、論じるべき責務があるといってよい。ところが、朝鮮民主主義人民共和国の報道機関は、今日まで、「デマ」だというだけで、なんら具体的な反論はせず、名ざされた人物の存否についてさえ言及していない。これでは、朝鮮民主主義人民共和国側の犯行ではないかとの「疑惑」、少なくとも朝鮮民主主義人民共和国側の関与がきわめて否定しがたい事件ではないかとの「疑惑」をもたれても仕方のない状況である。それでいて、「デマ」だ、「デマ」だとくりかえし、それに同調しないものを攻撃するのは、若干の民主的常識をもつものにとっては、およそ想像を絶する事態である。しかも、朝鮮側は、その後はこの事件にほとんど言及しなくなっており、これは、自分らの主張や対応への自信の欠如をあらわしているというほかはない。このような事態が、社会主義の「イメージを傷つけ」ること甚大であることは、いうまでもない。
 朝鮮側は、みずからのこうした態度が自分の「イメージを傷つけて」いることに、思いをいたすべきではないか。
 「労働新聞」の「論評」が、日本漁船銃撃事件という、日本国民の切実な利益にかかわり、重大な国際問題であることが明白なこの事件について、日本共産党が当然にも見解を表明したことにたいして、「内政干渉」などという中傷をくりかえしているので、朝鮮側こそ内政干渉をおとなっていることについても、のべないわけにはいかない。
 わが国では、「日本キムイルソン(金日成)主義研究会」とか「チュチェ思想研究会」とか「自主の会」とか称する、「キムイルソン主義」なるものの信奉者たちのグループが、さまざまの策動をしている。かれらは、科学的社会主義の哲学的唯物論にたいして、「人間を、下等な動物……とあまりかわらないものに落としこめる」などと、反共デマ宣伝と同じ攻撃をくわえ、「キムイルソン主義は日本人民の革命闘争において指導思想となる」とか「チュチ思想は、日本を変革するうえで、唯一の思想的基礎となる」などといって、朝鮮の指導者の「思想」で日本の革命運動、民主運動を支配しょうとくわだて、はては、かれらの刊行物において日本共産党の路線や政策や方針にたいして公然と名ざしの攻撃をくりかえすにいたっている。
 日本共産党とわが国の民主運動に公然と敵対しているこれらの「キムイルソン主義」信奉者とかれらの策動にたいして、朝鮮労働党機関紙「労働新聞」は全面的な支持をあたえている。
 「労働新聞」六月二十九日付は、これら信奉者たちの季刊雑誌『キムイルソン主義研究』二十九号の紹介記事を掲載した。内容は目次の紹介にとどまってはいたが、そのなかには研究報告「チュチェ思想と日朝運動」がふくまれている。
 この研究報告なるものは、「チュチェ思想は日本を変革し新しい日本を建設するうえで、唯一の思想的基礎となるもの」とのべつつ、日本共産党にたいしては、つぎのように中傷している。

「現在、職場、地域における日本共産党の活動は、党利党略の上に立ち、自分たちの利益とならないものは、すべて敵対意識をもち、大衆迎合にもしばしば陥り、プロレタリア独裁を執権にかえた中央の政策が如実にあらわれております。昨年起き大韓航空機の領空侵犯事件、ラングーンのアウンサン廟爆破事件等の国際事件の見解についても、マスコミの報道を真実とするかのような態度を取り続けています」

 また、同報告は日朝協会についても、「共産党主導の運動」であり、「ここに大きな運動の停滞があります」と中傷している。  「労働新聞」七月三十日付は、同様に日本青年チュチェ思想連絡協議会の機関誌『チュチェ思想』第五号(五月一日号)、第六号(六月一日号)を、同八月二十日付は『キムイルソン主義研究』第三十号を紹介している。このように「労働新聞」は「キムイルソン主義」信奉者たちの三つの発行物の主要な目次を紙上で紹介している。ちなみに『チュチェ思想』第五号や『キムイルソン主義研究』第三十号は、日本共産党を公然と中傷・攻撃した論文をのせているものである。
 こうした行為は、「労働新聞」が朝鮮労働党機関紙である以上、朝鮮労働党による日本共産党への内政干渉にほかならない。
 また、日本共産党への攻撃に狂奔している「日本キムイルソン主義研究会」など信奉者たちの朝鮮訪問団は昨年一月から今年九月前半まで「労働新聞」にあらわれただけで少なくとも十八組にのぼっている。昨年九月の共和国創建三十五周年行事には、日本共産党攻撃の急先鋒となっている尾上健一らが参加し、歓待されている。尾上は八三年八月刊の『自主の道』で日本共産党を中傷する「論文」を発表しており、朝鮮労働党がこうした人物を招き、同党指導部が会って、その策動を激励している。これも明白な内政干渉である。
 日本共産党とわが国の民主運動に公然と敵対して策動している集団の言動などを、「労働新聞」などで支持的、肯定的に報道し、しかもそれを系統的、継続的におこなってきていることこそ、日本共産党と日本の民主運動にたいするきわめて重大な介入、干渉の行為であり、日本の革命運動、民主運動の自主性を侵害するものではないか。
 「内政干渉」をうんぬんするなら、まず、「労働新聞」や「朝鮮時報」のこうした介入と干渉こそ、きっぱりと停止されるべきである。そして、朝鮮労働党と朝鮮民主主義人民共和国がかかげているのと同じ「キムイルソン主義」とか「チュチェ思想」とかが、科学的社会主義の理論と日本共産党にたいする公然たる中傷、攻撃に使われていることについて、朝鮮側の態度を明確にすべきであろう。さもなければ、「キムイルソン主義」や「チュチェ思想」を礼賛する勢力であれば、それが日本共産党や日本の民主運動への敵対者であっても、おかまいなしに肯定、支持し、育成をはかるという、他国の運動への覇権主義的干渉が、朝鮮側の基本方針なのだとみられても仕方ないことになる。

  おわりに

 「労働新聞」九月七日付の「論評」は、このように、事実も道理も無視した支離滅裂な議論をむしかえして、日本漁船を銃撃して乗員を死亡させた不法行為を当然視してひらきなおりをつづけている。この「論評」は、「誰も、軍事境界線を設定したわれわれの正当な自衛的措置を非難することができない。軍事境界線問題は、懸案問題でも、論争問題でもない。誰が何と言おうとも、われわれはわれわれの自主権をひき続き守りぬくであろう」と結んでいる。これこそ、どんなにまじめな批判にも耳を貸さず、自己に不都合な問題は論じることも避け、問答無用でおしとおし、朝鮮側のいい分に全面的に同調することだけを理不尽にもおしつけようとする態度である。「赤旗」八月十六日付論文が「独善」「覇権主義」と批判したのがまことに的確であったことは、かさねて実証された。
 「労働新聞」九月七日付の「論評」は、同紙八月六日付「論評」を批判した「赤旗」八月十六日付論文が、「悪」とか「乱暴な主張」とかの言葉をも使ったことにたいし、「侮辱的な言辞をあびせ」たなどといって非難している。しかし、「不当な言いがかり」「内政干渉」などといって日本共産党の当然の見解発表を攻撃し、「誰を代弁した『見解』なのか」とか「人々の『歓心』でも買おうとする意図」とかの低劣な悪罵中傷を日本共産党にあびせたのは、「労働新聞」八月六日付の「論評」であり、それが「悪罵」にすぎないと「赤旗」論文が指摘したのは当然である。そして、日本漁船を銃撃して乗員を死亡させた不法不当な行為をあれこれと強弁するのがいかに「乱暴な主張」であるかは、「労働新聞」の二回にわたる「論評」そのものが如実にしめしている。日本共産党は、航行の自由が保障されるべき広大な海域を勝手に囲いこんで自国の領土のようにあつかい、そこに立ち入ったものにたいして、その原因や理由などのいかんにかからず武力攻撃をくわえて当然だとする、野蛮で前近代的、反民主主義的な「労働新聞」などの態度を、科学的社会主義の理念を大きく傷つけ、平和と民主主義、社会進歩の事業をそこなうものとして、きびしく糾弾する。日本共産党は、いかなる覇権主義的行為にたいしても、断固反対してたたかうものである。

(中見出しは「赤旗」編集局)