この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。
「これで日本の共産党も普通の政党になった」綱領改定案を一読しての感想です。
そう言えば、私の中には何か大きな期待があったのかもしれません.。このところずっとパッとしない共産党だけれど、痩せても枯れても社会変革をめざす共産党なのだから、綱領改定ともなればそれなりに今の時代と格闘した少しはうならせるようなものを出してくるのではないか、、、いや、そうあって欲しいものだ、等など。
しかし、何も目新しいものは出ませんでした。そして何よりもこのことこそが注目されることなのでしょう。
綱領とはある政党が最も基本とする方針や政策を要約して示したものであり、また場合によってはその政党の思想的原則をも表わすものだと一般に考えられています。そうだとすれば、40年ぶりに綱領を改定するにあたっては、この40年間の社会変化と自らの運動の経験を、自らがよって立つ原則や思想にもとづいて振りかえって検討することが求められるでしょう。そして必要とあれば、この自らがよって立つ原則や思想そのものをも反省し、革新すべきということにもなるはずです。
この40年といえば、その前の40年と比べても世界と日本は激しく動き、そのあり様は大きく変りました。近現代史の簡単な年表をみても1922~61年の40年間よりも、1962年以降の40年間の方が大きな事件が多発しています。そしてこの40年間の社会変化は、その前40年間の社会変化より単に量的に著しいからではなくその内実・質においてこそ重大でしょう。
ところがまったく見事ともいえるほどに、この40年間の社会変化と実践についての反省はないのです。いや、まったくないというのは不正確でしょう。第3章「世界情勢 20世紀から21世紀へ」(約9600字)では、9節(約1180字)の中で「広範な人民諸階層の状態の悪化」から「AALA諸国での貧困の増大」などが約200字にわたって、平板にではあれ列挙されているからです。しかし、第3章の記述は、第2次世界大戦までの20世紀前半(7節、約5900字)、現存した社会主義(8節、約1100字)、核と米帝の軍事的脅威(9節、約1180字)、国際的闘争の課題(10節、約680字)からなっています。こうした「世界情勢」についての記述の構成自体が、共産党が世界情勢を総体的に捉えることができないないことを語っています。つまりこの40年間についての反省的検討は実質的にないと言ってよいのです。
もちろん、戦争と平和をめぐる問題は重大ですから、これを十分に取り上げることは必要でしょう.しかし、およそ資本制社会を変えようとする政党であるというならは、この数年急速に強まった米帝の先制攻撃戦略に警鐘を鳴らすだけでなく、その背景ともなっている新自由主義的グローバル化がひきおこしている困難を構造的に解明することこそが求められるでしょう。「世界情勢」を戦争と平和をめぐる問題ばかりで描いて良しとするのなら、共産党は平和党と改称すればよいでしょう。およそ人間は齢をとると新しいことを学ぶことが難しくなるといいます。共産党もメンバーが高齢化していますから、世界情勢の理解も多くの党員がまだ若かった時に勉強したものが頑固に凝り固まってしまっているのかもしれません。
世界情勢の記述が偏ったものであれば、日本社会の現状認識や、それをふまえた変革課題の把握も期待できるものであるはずがありません。
この40年間にもたらされた産業と労働の大きな構造的変化については、注意が向けられた痕跡すら見出せません。従って、働く者の政党であるのに労働者の生活・権利については、何と「ヨーロッパの、、、到達点をふまえて、ルールある経済社会」をつくることが求められるに留まります。仮にヨーロッパ社会がある程度の「ルールある経済社会」を実現していたとしても、そのヨーロッパでもこの間新自由主義的グローバル化の中で福祉国家の再編・解体が鋭く争われ、これまで福祉国家体制づくりを支えてきた社会民主党を中心とする運動勢力はどこでも戦略の根本的な見なおしの直中でもがいています。日本の共産党はこの事実を知らないのでしょうか?
おそらく殆ど知らないのでしょう。あるいは、気がついていてもそこから学ぶことはできないのでしょう。そうです。日本の共産党は資本生社会の変革にとりくむ政党ではなくなっているのです。しかし、落ち着いて考えてみれば、この党はもう随分前から実際にはそうなっていました。これまでにも綱領はすこしずつ手直しされていきました。その度に、61年以降の大きな社会変化をふまえた根本的改定にいつ取り組むかが問われてきました。「機が熟せばそのうちいつか、、、」「痩せても枯れても共産党なのだから、、、」。私もつい期待をもって見ていました。しかし、今はっきりしたことは、根本的反省を避けながら小出しになされてきた手直しは、いかにそれが行き当たりばったりに恣意的になされたと感じられるものであったとしても、決して求められている根本的反省を近い将来にきちんとするための当座の措置などではなく、その都度の力を尽くしての反省だった、いわば“誠実な”改定であったということです。
そう理解しなければ今度の全面的な改定が、この間すこしずつ小出しになされてきた手直しをそのまま言葉だけつなげて書きなおしただけの、全体としてふわっとした仕上がりになっていることを説明できません。「なかでも、、、ていることは重大である」という直訳調の言い回しが連発されたり、人民・国民・民族といった言葉ががさしたる注意もなく混用されていたり、「まあ、こりゃあ共産党もひどく学力低下したものだ」と嘆く向きも多いでしょうが、私はもう嘆きません。
日本共産党は社会変革をめざす諸勢力や運動の指導部として頑張ることをしないし・できない。このことを自ら認めたのが今度の綱領改定案だということができるでしょう。何か寂しい気もします。しかし、もはや資本制社会の全体的変革をめざしているという党がいばる時代ではありません。このまま行けば、日本共産党は何年も経たないうちに平和憲法と「豊かな社会=ヨーロッパ」を愛好するまじめな老人たちの同窓会的サークル集団へと静かに変っていくでしょう。そうなったときには、『しんぶん赤旗』はなくなり、新自由主義的改革に対抗する勢力は国会から駆逐されているでしょう。これはこれで困ったことです。
女性、青年、環境など、すでにこうした個々の問題では共産党より先進的な民衆運動をすすめているところは少なくありません。この国の共産党が静かに衰退していく前に、現在の資本制社会が生み出している様々な人間破壊的な問題に対して、民衆の立場からの対抗を模索している諸運動が互いに連携しあい、共に資本制社会に代わるもう一つの社会・社会主義の社会の構想をねりあげ、ともに進む政治的関係を作っていく必要があるのかもしれません。