この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。
はじめにまず一言。これほどの綱領案をわずか二・三日で満場一致決定できるということは、やはり驚きである。中央委員とはよほど頭のいい人たちか、あるいはよほど頭の悪い人たちのどちらかなのであろう。実相がいずれであれ、<民主集中制>の党体制下で、この方々の決定を批判し修正させるしごとの容易ならざることは間違いない。
「しんぶん赤旗」紙上に早速載ったイエスマンたちの賛美の声は、彼ら彼女らの<確信>なるものが、ほとんど盲目的といっていい<党信仰>にほかならないことを証明している。こうした声だけが党内討議に先立って掲載され、合意へと導く圧力を形成していくのであるから、党が掲げる<民主主義>が民主主義に値するものかどうかは多言を要しまい。
さて、差し当たってここでは、「民主的改革の主要な内容」(改定案第四章(一二))について、一つ二つ述べて、諸兄姉のご吟味を願うこととした。
注目したのは、大方がそうであろうように、<天皇条項について>と<自衛隊について>である。この案件について、綱領改定案は、とどのつまり、<天皇条項の第一章は守るが、戦争放棄を定めた第二章即ち第九条は守らない>という二重基準を示したと評することができよう。
すなわち、〔憲法と民主主義の分野で〕の第1項で「現行憲法の前文をふくむ全条項をまもり、とくに平和的民主的諸条項の完全実施をめざす」と掲げながらも、天皇と自衛隊について次のように示しているのである。
まず、天皇条項については、「天皇の政治的利用をはじめ、憲法の条項と精神からの逸脱を是正する」とし、「国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべき」だと主張はしながら、「これは憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢の熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである」として、その長い将来にわたる存続を事実上認容し、<憲法を守る>としている。
その一方で、憲法の条項と精神から徹頭徹尾逸脱した存在たる自衛隊については、「海外派兵立法をやめ、軍縮の措置をとる」としつつ、「安保条約廃棄後のアジア情勢の新しい展開を踏まえつつ、国民の合意での憲法第九条の完全実施(自衛隊の解消)に向かっての前進をはかる」として、これまた、自衛隊の長い将来にわたる存続を容認し、<憲法を守れない>と明言しているのである。
憲法について、このような二重基準を綱領に刻むことによって、二重橋前で不破氏は<トンボをきって>大向うをうならせたかったのであろう。議員引退後、氏が叙勲に連なるための下工作をされてはかなわないのである。
折しも、<有事関連三法>が国会の圧倒的多数の<選良>の協賛を得て通過成立し、引き続き「イラク特措法」の強行突破がはかられているこの重大なたたかいと彼我せめぎ合いの最中である。味方の背後に放水をしかけるかのように、自衛隊容認論を開示するとはなかなかの政治感覚である。
先の第22回党大会決議・決定における自衛隊活用論からの当然の帰結だとしても、あまりといえばあまりのタイミングである。一つの党の消長はともかくとして、何よりも、党内外の主体的な平和民主勢力のたたかいにたいする<利敵行為>であり、その災厄は、折しも併行して発覚した<セクハラ事件>の比ではなかろう。
もっとも、かの「国旗・国歌法」成立にあたって、自殺点ゴールを蹴込んだ我が日本共産党の無邪気さを思えば、これもまた不破指導部の面目躍如たる光景と達観しなければならないのであろうか。
<その1>
今回は、筆者の第一の関心事である自衛隊政策について、まず考察しておこう。
綱領改定案と現綱領とをつきあわせて、もう一度おさらいしよう。自衛隊に言及した部分は次の3箇所である。話の運びの便宜上、これにA~Cの記号を付して掲げる。
A
改定案:二-(5)
「日本の自衛隊は、事実上アメリカ軍の掌握と指揮のもとにおかれており、アメリカの世界戦略の一翼を担わされ、海外派兵とその拡大がたくらまれている。」
現綱領:(三)
「日本の自衛隊は、事実上アメリカ軍隊の掌握と指揮のもとにおかれており、日本独占資本の支配の道具であるとともに、アメリカの世界戦略の一翼をになわされ、海外派兵とその拡大がたくらまれている。」
B
改定案:二-(6)
「軍事面でも、日本政府は、アメリカの戦争計画の一翼を担いながら、自衛隊の海外派兵の範囲と水準を一歩一歩拡大し、海外派兵を既成事実化するとともに、それをテコに有事法制や集団的自衛権行使への踏み込み、憲法改悪など、軍国主義復活の動きを推進する方向に立っている。」
現綱領:(三)
「アメリカ帝国主義と日本独占資本は、憲法の平和的民主的条項をふみにじってつくられた再軍備の既成事実を合法化し、自衛隊の増強をすすめ、これをアメリカの軍事戦略にくみこむ海外派兵と日米共同作戦の体制を強化し、そのために憲法改悪をくわだて、軍国主義の復活と政治的反動をつよめている。」
C
改定案:四-(12)〔国の独立・安全保障・外交の分野で〕の3
「自衛隊については、海外派兵立法をやめ、軍縮の措置をとる。安保条約廃棄後のアジア情勢の新しい展開を踏まえつつ、国民の合意での憲法第九条の完全実施(自衛隊の解消)に向かっての前進をはかる。」
現綱領:(五)
「党は、自衛隊の増強と核武装、海外派兵など軍国主義の復活・強化に反対し、自衛隊の解散を要求する。」
以上である。
本来なら、こうした考察をするに際しては、改定案と現綱領の全体にわたって、その構想・基本認識を比較考量することが必要であろう。したがって、ここに述べる当座の考察が、十全なものでないことはあらかじめお断りしておかなければならない。
さて、以下、問題点をあげていこう。
1 自衛隊は、権力の根幹機構ではなかったのか。
Aを対照すると、自衛隊は「日本独占資本の支配の道具」ではもはやなくなってしまったらしい。安保条約が無くなれば、<自衛のための必要最低限度の実力>として、政権交代に従順に従う、御(ぎょ)しやすい実力部隊になってくれるらしいのである。「アメリカ軍の掌握と指揮のもとにおかれた」機構が、かくも政治的に中性であろうと期待するとは、なんとも無邪気である。
この認識(認識の欠如)は、Cに言う、自衛隊の「軍縮」及び「解消」をどう図っていくのかに関わる問題である。より根本的には、革命の任務をどう捉え、いかに達成していくのかという課題と密接に関わる権力論のあいまいさを示す徴表のように思われる。
2 安保体制と自衛隊の分離
Cの<自衛隊解消策>に端的に示されているのが、安保体制と自衛隊の意図的な分離である。<反米愛国のたたかい>によって、自衛隊を国民のための実力部隊として維持する意図をにじませているかのように読まれるくだりである。この意図は、CのみならずA、Bともに相照らし合わせるとき一層色濃く浮かび出てくるようである。
無論、情勢に応じた将来の政策提起と戦線結集にあたっては、課題の選択に段階を必要とすることは言うまでもなかろう。しかしながら、憲法の平和主義を回復・実現するためには、非武装平和主義と平和的生存権に基づく根底的な批判の視座が必要なのであって、その視座なしには、軍事的体制を打破するゆるぎない政策立案は不可能であろう。
「自衛隊は、事実上アメリカ軍の掌握と指揮のもとにおかれており、アメリカの世界戦略の一翼を担わされ」ていると改定案が自ら認めているのであるから、日本をおおうこの軍事的体制を打破するにあたって、あらかじめ問題の解決のための階梯を固定化してしまうような政策はナンセンスというほかない。
3 自衛隊の違憲性追及は<現実>の前に無効となったか。
BとCには、自衛隊の違憲性についての不破指導部の実に臆病な態度が読みとれる。まず、Bにおいて、現綱領は「憲法の平和的民主的条項をふみにじってつくられた再軍備の既成事実を合法化し」と述べて、自衛隊の前身たる警察予備隊創設の超法規的不当性(<立法>措置さえ無く、占領軍命令により創設)を真っ当に指摘し、自衛隊の違憲性を指弾している。
この記述を改定案が削除した意図は何か。<<海外派兵>はともかくとして、自衛隊の存在はもはや<合法化>された>とでもいうのであろうか。あるいは、自衛隊の存在については<国民の合意>が現に存在することを認めようとでも言いたいのだろうか。改定案のこの立場は、旧社会党のあの<違憲合法論>と五十歩百歩を絵に描いたようなものに思われる。
このように、<国民の合意>に叶うか否かに臆病にも汲々としている不破指導部にとっては、「自衛隊の解散を要求する」などという<不穏な>文言を口にするなどはもってのほかであるのかもしれない。
4 「自衛隊の解消」への行程
Cの改定案に示された、自衛隊解消への行程は、先の第22回党大会決議における自衛隊政策を踏まえたものであり、当然ながら<自衛隊活用論>も織り込みずみの政策である。
したがって、この件に関して、<さざ波通信>に私がこれまで投稿した小論(一般投稿欄 「不破指導部に否を」2000年8月13日。「上田耕一郎氏の自衛隊論を読む」2001年4月1日参照)と重複する部分が多いのであるが、なお手短に論じておこう。
改定案はCにおいて、「海外派兵立法をやめ、軍縮の措置をとる」としているが、その実行のための多数派形成にとって、自衛隊違憲・解散要求をしっかりと保持した根底的な憲法論が不可欠であって、3で指摘したような臆病な態度はきわめて有害である。
<有事関連三法>が成立し、憲法がずたずたにされている現在(コイズミの国権の最高機関たる国会における憲法蹂躙発言の数々を見よ!)において、必要なことは、<イラク特措法>など自衛隊の海外派兵に歯止めをかけるたたかいと並行して、そのたたかいの前進に資するためにも、憲法の非武装平和主義・平和的生存権の回復に向かって世論の陣地(国会の各議院における三分の一の確保)を形成していくことであろう。
ひるがえって、この間の、<アメリカの戦争に協力する有事法制反対>という、党及び<党支配下(敢えてこの表現を使う)>の諸組織の掲げたスローガンをどう見るべきだろうか。法案の本質を突くうえでそれなりに有効な論理ではあっただろう。しかし、<有事法制は、日本の自衛のためには必要でしょう>という<国民>の即自的な意識に対して、有効な批判とオルタナティブを示し得たかといえば疑問無しとしない。
ましてや、<自衛隊活用論>をきっぱりと捨てぬ限り、自衛隊を活用するためには<良い有事法制>を認容せざるを得ないことは必然である。党及び党支配下の諸組織の<有事関連三法>反対運動は、批判的に検討するなら、まさしく尻抜け状態を呈していたといって過言ではない。
おそらく、<有事関連三法>反対運動に立ち上がった多くの市民運動の中で、<自衛隊活用論>をかかえた党の憲法論は孤立し、軽蔑の対象にさえなっているではなかろうか。
<国民の合意>なるものを、おだやかで口当たりの良い政策で<一歩一歩>取りつけようとするあまり、根底的な議論を回避し見失ってしまう羽目に陥ってはならない。目指すところは、占領軍命令によって仕立て上げられた自衛隊という超憲法的現実を否定して、憲法の回復を図るという当然の課題にすぎない。それにもかかわらず、不破指導部は<非国民>のそしりを恐れてか、かくも杜撰な改定案の強行を図ろうというのであろうか。
なるほど「海外派兵立法をやめ、軍縮の措置をとる」ために身を挺してたたかうというのならば、大いに頼もしい限りではある。しかし、党と党員の憲法平和主義認識を<決壊>させ、<軍事力の有効性>を市民運動内にも持ち込んでしまった<自衛隊活用論>の歴史的過失に照らすとき、「海外派兵立法をやめ、軍縮の措置をとる」という公約が反故にされない保証は残念ながら見いだせないのである。
まして、最近、党がしきりにくりかえす、「国連憲章にもとづく平和の国際秩序」(改定案三-(一〇)でも言及)なる言説は、政権獲得の数あわせの成り行きによっては、自衛隊のPKO活動拡大の認容などに転向しかねない危惧をいだかせるにじゅうぶんなものをもっているといわねばならない。
ともかく、違憲の自衛隊はどこまでも違憲である。
この立場に立ってこそ、安保と自衛隊によって形成されている現日本の軍事の体制を打破するための有効な諸措置(海外派兵阻止のための部分的な歯止めや、軍縮も含めて)が提起できるのであり、改定案のごとくに遠い将来に引き延ばすのではなく、軍事の体制の転換のために着実に踏み出し得る多数派(民主党の動揺分子をわれわれの側につかせるのは、妥協的甘言ではなく、原則的立場であることが、この間のたたかいで既に実証済みであろう)を形成できるのである。
<その2>
次に、天皇条項についても簡単に触れておきたい。前節に続いて、該当箇所の摘要をD・Eとする。
D
改定案:二-(四)
「第二は、日本の政治制度における、天皇絶対の専制政治から、主権在民を原則とする民主政治への変化である。この変化を代表したのは、一九四七年に制定された現行憲法である。(中略)形を変えて天皇制の存続を認めた天皇条項は、民主主義の徹底に逆行する弱点を残したものだったが、そこでも、天皇は『国政に関する権能を有しない』ことなどの制限条項が明記された。」
現綱領:(二)
「世界の民主勢力と日本人民の圧力のもとに一連の「民主化」措置がとられたが、アメリカは、これをかれらの対日支配に必要な範囲にかぎり、民主主義革命を流産させようとした。現行憲法は、このような状況のもとでつくられたものであり、主権在民の立場にたった民主的平和的な条項をもつと同時に、天皇条項などの反動的なものを残している。天皇制は絶対主義的な性格を失ったが、ブルジョア君主制の一種として温存され、アメリカ帝国主義と日本独占資本の政治的思想的支配と軍国主義復活の道具とされた。」
E
改定案:四-(一二)〔憲法と民主主義の分野で〕10
「天皇条項については、『国政に関する権能を有しない』などの制限規定の完全実施を重視し、天皇の政治的利用をはじめ、憲法の条項と精神からの逸脱を是正する。党は、一人の個人あるいは一つの家族が『国民の統合』の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ。しかし、これは憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである。」
現綱領:(五)
「党は、自衛隊の増強と核武装、海外派兵など軍国主義の復活・強化に反対し、自衛隊の解散を要求する。天皇主義的・軍国主義的思想を克服し、その復活とたたかう。」
(六)
「この権力は、労働者、農民、勤労市民を中心とする人民の民主連合の性格をもち、世界の平和と進歩の勢力と連帯して独立と民主主義の任務をなしとげ、独占資本の政治的・経済的支配の復活を阻止し、君主制を廃止し、反動的国家機構を根本的に変革して民主共和国をつくり、名実ともに国会を国の最高機関とする人民の民主主義国家体制を確立する。」
天皇規定の実に大きな転回に驚かされる。
不破指導部のご教示によれば、憲法の「天皇条項は、民主主義の徹底に逆行する弱点を残した」が、「『国政に関する権能を有しない』ことなどの制限条項が明記された」結果、天皇とその制度は実に馴致(じゅんち)しやすいものに変わったらしい。
さすれば、憲法は1947年5月3日の施行(ただし、南西諸島・沖縄と小笠原諸島を除く)であるから、現綱領は1961年以来実に42年間にわたってウソを掲げていたことになり、その責任を負って、中央委員全員は辞任する必要があるのではなかろうか。
もし、そうではないというのなら、いつから天皇制の性格が一変したというのであろうか。戦争責任者裕仁氏から明仁氏への代替わりでそれが一変したと言いたいのであろうか。(7中総における全議事について現在のところ未読のこともあって、改定案についての不破指導部の弁明については、ここで触れる余裕がない。)
そもそも、日本国憲法における象徴天皇が、国政に関する権能を有しないことなど、改定案で教えてもらうまでもなく、だれもが百も承知二百も合点の常識である。にもかかわらず、あの病臥・死去から<大葬>にいたるまで、天皇制は自由の抑圧を横行させたのである。
明仁氏の<御代>になっても、天皇・皇族の行くところ、異常な警戒態勢がしかれ、市民の自由が侵されることに何の変化もない。官公庁における元号使用の誘導・強制、晴れて法制化された日の丸・君が代が日々もたらしている抑圧の構造等々を一瞥すれば、天皇制の廃止が、日本の政治と社会の変革にとって根本的な課題であることは明白である。
もとより、天皇制に<期待される>役割に変遷のあったことは言うまでもないし、その分析が、的を射た政治・社会の課題設定に必要であることも当然である。
しかしながら、改定案の天皇制認識は、あまりに無警戒で無邪気である。Dにおいて、改定案と現綱領とを形式的に比較しても、否定面と非否定面とを記述する順序を変えただけで、変革の課題がいかに変わってしまうかを読みとる必要があろう。ここにもまた、自衛隊問題同様、不破指導部による<非国民回避路線>が結実しているように思われる。
ここでは、私が舌足らずの迷論を述べるよりも、ふさわしい論者の指摘を引用してひとまずレポートを終えよう(断るまでもないが、引用は私が勝手におこなうものであって、もとより原著者の責任外のことがらである)
「象徴天皇の制度の極小化と国民主権と人権の普遍的保障の極大化を試みることは前者の拡大運用を阻止するだけでなく、前者が究極においても後者と矛盾対立することを鮮明にし、この対立克服の必要性を覚醒しつづけるといういわば戦略的効果を伴う。」(三輪隆著「『象徴』天皇論の徹底―再構成のための覚書」、横田耕一・江橋崇編著『象徴天皇制の構造―憲法学者による解読』1990年、日本評論社)