この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。
不破議長の『ゴータ綱領批判』批判について、まるくすさんの疑問提起の投稿があったので、関連して私も述べます。
議長は、高次な共産主義社会についてのマルクスの言明、「必要に応じて受け取る」ことを、あっさりと、小ばかにしたように(CS中継で)否定してみせましたが、議長の妄言に私は「はぁ?」と思った一人です。
議長は、現代の資本主義社会にも触れて、人間の欲望の総和を超える生産力発展を、未来社会の条件として持ち出すのは不適当でありそもそもこんな発展は無理であろうとの意味を述べていました。(CSで)
しかし、マルクスは議長のような捉え方とは無縁でしょう。
当たり前ですが、欲望が社会のありようや歴史と無関係に、いわば欲望一般なるものとして存在していません。資本主義社会では、まさにその社会に規定された欲望として存在するわけです。
マルクスの思想には、社会の発展と人間自身の変容と発展、したがって「欲望も変わるのだ」、ということが自明のこととして入っています。これはイロハのことですが。
議長のように、資本主義社会の欲望から単線的・量的に上昇した欲望を想定し、それが社会主義社会でも存在するとした上で、それに対応する生産力発展を想定することはナンセンス、とする論法など、マルクスへの言いがかりに過ぎません。
資本主義社会においては、「売る」ことの困難性のために、膨大な宣伝広告を行い、流行がつくられ、欲望が喚起され、「買わされ」ます。同時にまたある種の生活スタイル(欲望を媒介にした自然と人間との物質代謝)が半ば強制されます。
そこでの欲望の充足が、いまや生活環境から地球環境、人類の生存に及ぼす破壊的な側面を持っていることが明らかな時代です。
議長は、こんな欲望が、社会主義社会でも肥大化するとする貧弱な理論や展望が、今までの科学的社会主義だったとでも言いたいのでしょうか。いったい議長はどうしたのでしょう。
理論の現代的な発展を言うのなら、資本主義的「欲望」への批判、また資本主義的生産力の発展の在り方をこそ問うこと、ではないかと思います。議長流に、欲望への資本主義批判の視角を落とした議論では、『ゴータ綱領批判』を書いたマルクスの意図を云々する以前に、マルクスの精神をこそ欠くものとなります。そしてこの資本主義批判の精神は、教条主義云々とは無縁であり、現状の改革を望む人々にとって、まさに有用な精神でしょう。