この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。
未来派さんの「民主集中制の弊害」拝読させていただきました。まず、大会決議案に対する批判的意見についてどうなっているのかということですが、既に党中央には各機関、党員から多数の意見が寄せられていると思いますが、党はそれを大会決議案の討論の特集として冊子を発行すると発表しています。この冊子には当然の事ながら党の路線に疑問を持つ意見や反対する意見も掲載されています。この冊子は党内外の人が、党内論議の同行を見られるようになっています。大事な点はこのプロセスを通じて少数意見や反対意見の党内での表明を保証し、大会議案の討議を様々な角度から全党が考えてゆくことができるようにすることです。他党の大会では議員だけで「決定」したり「執行部承認」などというそれこそ「非民主的」な運営しか聴いたことがありません。
また、古い話ですが、第7、8回党大会においては春日正次郎といった綱領反対派の人たちの中央委員会における発言については、「16中総においては今日反党分子に転落したうちの一人は、実に56回におよぶ発言の機会をあたえられている」(『日本革命の展望』1965年第10版新日本新書25ページ)というように徹底して保証しています。
民青同盟内に発生した「新日和見主義分派」問題ですが、これは民青中央グループに属する一部の人達が、青年同盟の命脈とも言える日本共産党の導きを受け、科学的社会主義の理論を学ぶという方針をおろそかにし、民青同盟の活動方向と党の民青グループに対する指導に反する傾向を持ち込み、且つ、事実上の分派を形成していたところに問題の本質があります。近年『査問』などという本を記した川上氏などはこうした問題を党から指摘されたことについては口をつぐみながら「私は解任された」「査問され、粛正された」などと述べていまししたが、党外の団体における党員グループの役割=その団体の方針と運動を前進させ発展させるために全力を尽くし且つ、必要な党の指導をうけるという党員グループの任務を正しく理解せず、自らの誤りに対する党からの指導と批判について、謙虚な反省がないと言わざるを得ません。
『民主文学』編集長を務めていた霜多氏の問題については資料が見つからなかったのでコメントは差し控えたいと思います。
自分の意見が党内で少数であったり、言動が誤っていたりすることはおおうにしてあることです。人間ですから当然の事です。レーニンは共産主義者として大事なことは誤りや失敗を犯した時に、正面からそれを総括することができることであると、述べています。先日のセクハラ問題をめぐる志位委員長の発言について、委員長が誤りを認め謝罪したことは象徴的です。問題なのは意見が違ったり党から自分の誤りを批判されたからといって、「党内民主主義の弾圧だ」「民主集中制だから」などと自分の問題としてとらえられないで、党に責任を転嫁することです。はては、党外で党を攻撃するにいたったりするのはもう党員としての自覚も放棄することに他なりません。
余談になりますが、党は『新日本文学会』内の党員作家による反党声明問題や綱領問題をめぐる反党分派活動問題のさいにも彼等をいきなり除名したわけではありません。ひとつめの問題では、彼等が行動をおこす前に中野重治が党を訪ね、宮本顕治氏が説得を試みています。ふたつ目の問題では、内藤と内野が宮本氏と会談し、彼等の手の内も明かして「暫く党を離れる事になるかも知れないが」と述べたのに対して、宮本氏は「意見の違いは問題ではない。分派活動をしたら党に戻れなくなる」と説得したそうです。ですからとうが 、党が報復的に追放したり排除したりすることはありえないことですし、してはならないことなのです。日本共産党はそうした排除の論理が党と国民にどんな害悪をもたらすかを、50年問題の痛苦の経験を通じて知っている党です。
ながながと駄文を記しましたが未来派さんの御考えはいかがでしょうか?民主集中制は本当に党にとって弊害なのでしょうか?民主集中制をなくしたら逆に私は共産党は日本社会党やイタリア左翼民主党のように国民に向かって党内から正反対の意見が無責任に発せられ、はては科学的社会主義の旗を投げ捨てたり、党そのものが解体してしまうという低落、衰退の道を歩むに違わないと思いますがいかがでしょうか?