この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。
私の投稿に対してdemocrat氏とばるさん氏からご批判をいただいた。だが、どちらの言い分も、私としては驚きをとおりこして、ただあきれるほかない。両氏とも私より党歴が長いだろうに、天皇制問題の現行綱領における位置付けを理解していないようだ。それゆえ、不破綱領がそれをどのように改変しているのか、まるでわかっていないし、私の意見に対して「君主」の知識が間違ってるなどと見当ハズレの批判、レベルの低い論難しかできないのである。
まず、私は君主制の廃止を「民主主義革命」の課題だと言ったのであって、「統一戦線政府」の課題だとも「行動綱領」に書いてあるとも言っていない。論点のスリカエはいいかげんにしてもらいたい。
私は、現行綱領の位置付けに従って、民主主義革命の課題だと言ったのである。
「統一戦線政府」の樹立は綱領の言う「民主主義革命」の第一歩であって目標でも終わりでもない。「統一戦線政府」のための「行動綱領」で最初から掲げられていても、実際には「君主制の廃止」と同じように革命政権が実現する課題も存在だろう。そうした一連の「民主主義革命」の中に、天皇制の廃止が位置付けられているからこそ、democrat氏も引用したように、現行綱領は「民主主義革命」の過程において「君主制を廃止する」と明確にうたっているのだ。
つまり、現行綱領では、党は、「民主主義革命」によって「民主共和制」をめざすため、それに対立する「ブルジョア君主制」は廃止されるのである。
現行綱領は、天皇制を「ブルジョア君主制の一種」と定義している。私が「君主制」という場合、当然ながら現行綱領に依拠しているのであって、democrat氏やばるさん氏が勝手に定義した意味で使っているのではない。
ここで、なぜ現行綱領が「ブルジョア君主制」という用語を使っているのか理解されていない両氏のために簡単に説明しておこう。
加藤哲郎氏のHPで指摘されているように、「君主制」という用語は、一般に社会科学の用語として「共和制」に対して用いられている。democart氏やばるさん氏が使う意味での実質的な主権を有する「君主制」というものは、そもそもブルジョア革命が克服すべき課題であって、川上氏が7/24付けの投稿で丁寧に述べているように、いわゆる先進諸国ではすでに解決されている。そのブルジョア的解決形態が、マルクス主義の用語としては「ブルジョア共和制」であり「ブルジョア君主制」なのである。
なお、「立憲君主国」という用語は、君主が実質的な主権をもつ場合も含まれるという曖昧さが残るため、マルクス主義者は使わない。もし仮に、わが党が天皇制のことを「立憲君主制」だと述べているのであれば、democrat氏やばるさん氏、そして両氏が擁護する不破氏の説明も妥当性をもつだろうがそうではない(ただし、アメリカの支配層はマルクス主義者でないのだから、その用語を使ったからと言って間違いというものでもない。彼らなりの定義上・分類上の扱いの問題である)。
いずれにしても、現行綱領の「ブルジョア君主制の一種」という用語は、もとから主権の存在しない君主という意味で使われているのであって、不破氏の詭弁で削除される理由など一つもないのである。
さらに、現行綱領が「民主主義革命」でめざす「民主共和制」とは、「ブルジョア君主制」と対立するだけでなく「ブルジョア共和制」とも対立するがゆえに、「民主共和制」と呼ぶのである。したがって、現行綱領の「ブルジョア君主制」という用語をマルクス主義の用語ではなく、democrat氏やばるさん氏の言う用語、したがって不破綱領の用語に変更したとしても、つまり、日本が実質的に「ブルジョア君主制」よりも「ブルジョア共和制」に近い体制だと規定したとしても、どちらの体制も民主主義革命の過程で廃止されなければならない、つまり天皇制も廃止しなければならないはずである。
では、不破綱領はどうなっているのか? ここからが、私の本来の意見である。長くなったので、再度、続きを投稿するつもりだが、導入部分として述べておく。
不破綱領が現行綱領と同じだという趣旨のことを、democrat氏は投稿で述べているが、あまりにも不破綱領に対する理解がなさすぎる。
不破綱領では、そもそも「君主制の廃止」という方針を削除したために、綱領における「民主主義革命」との必然的な連関がなくなっている。いったい、党は、天皇制の廃止をいつ提起するというのか? 不破綱領いわく、「将来、情勢が熟したときに」! 「民主主義革命」そのものが、「将来、情勢が熟したとき」に実現するものであるにもかかわらず、そのさらに「将来、情勢が熟したとき」とは、いつなのか? その革命政権は提起するのかしないのか? democrat氏やばるさん氏は、そういった疑問をもつこともないようだ。
私は、こういう内的連関が読めないと、改定案を理解したことにはならないと考えている。「丁寧に書いている」から「優れている」など述べるのは、小学生の作文の論評レベルであろう。もちろん、私は党内民主主義の観点から、そうした意見を出すなとまでは言わないが。(つづく)