この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。
「共産主義国家」と「共産主義社会」の件、私は「誤魔化」すつもりは全くありません。
こうとくしゅうすいさんが、なぜ、「共産主義国家」という言葉を使うのかなあ、と思っただけです。
社会主義・共産主義社会が高度に発展した段階は「国家権力そのものが不必要となる社会」というのが史的唯物論の基本です。
前回、私がこうとくしゅうすいさんに読んでいただきたいとお願いした「質問・意見に答える」の「国家の死滅という見通しについて」の部分、読んでいただけましたか。
次のように述べられています。
「この過渡期が終わると、ともかく大局的には『社会主義・共産主義の社会』が出来上がったといえる段階がやってきます。その時、国家はどうなるのか。社会主義に前進しようという勢力とこれをおしとどめようという勢力との階級闘争などは、すでに、過去の話になったという段階ですから、階級的な性格をもった国家は、もういらなくなります。」
「しかし、マルクスもレーニンも階級がなくなったから、ただちに国家がなくなるとは単純に考えませんでした。国家は死滅する、共同社会の中で強制力をもった国家としての機能が次第に無用なものとなり、次第に眠りこんでゆき、長い時間がかかっても、最後には社会から消滅するだろう、と考えたのです。これが国家の死滅という見通しです。」
私も「共産主義国家」という用語が一般に使われていることは承知していますが、「国家」死滅した社会を「共産主義」と呼ぶのに「国家」と「共産主義」という相反するものを一つにして「共産主義国家」とするのは矛盾していると考えます。
この点についてはエンゲルスが「空想から科学へ」で見事に説明していますので、少し長くなりますが引用します。
「階級対立のなかで運動してきた従来の社会は国家を必要とした。いいかえれば、そのときどきの搾取階級が自分の外的な生産条件を維持するための組織、したがってとくに、搾取階級を既存の生産様式によってあたえられた抑圧条件(奴隷制、農奴制また隷農制、賃労働性)のなかに無理やりおさえつけておくための組織を必要とした。国家は社会全体の公式の代表者であり、目に見える一つの団体に全社会を総括したものであった。
しかし、国家がこのようなものであったのは、ただ、それ自身がその時代に全社会を代表していた階級の国家であったかぎりのことだった。すなわち、古代では奴隷を所有する公民の、中世では封建貴族の、現代ではブルジョアジーの国家である。
しかし、国家は最後に実際に全社会の代表者になることによって、自分自身をよけいなものにする。抑圧しておかなければならない社会階級がもはやなくなってしまえば、そして、階級支配が除去され、これまでの生産の無政府状態に基づく固体生存競争が除去されるとともに,これらのものから生ずる衝突や乱暴もまた除去されてしまえば,特別な抑圧権力である国家を必要とした抑圧しなければならないものはもはやなにもなくなる。
国家が現実に全社会の代表者として行動する最初の行為 ― 社会の名において生産手段を掌握すること ― は、同時に国家が国家としておこなう最後の自主的な行為である。 社会的諸関係への国家権力の干渉は、一つの分野から他の分野へとつぎつぎによけいなものになってゆき、やがてひとりでにねむりこんでしまう。人に対する統治にかわって、物の管理と生産過程の指導が現れる。国家は、『廃止される』のではない。それは死滅するのである。」
次を注意してください。
「だから『自由な人民国家』という空文句は、そのさしあたりの扇動上の正しさという面からも、またその最終的な科学的不十分さからも、右に述べたところによって評価されなければならない。国家はきょうあすにも廃止されなければならないといういわゆる無政府主義者たちの要求もまたこれによって評価されなければならない。」
社会科学的に考えるならば、「共産主義国家」というのも「空文句」だと考えられます。
「ネップ」と「市場経済」については次に再投稿します。少しお待ちを。