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綱領改定討論欄

 この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。

資本家から他人へ

2003/7/12 MB、30代

 労働者集団と社会主義との関係について不破氏は次のようにも述べている。

  さきほども触れたように、マルクスは、『資本論』のなかで、機械制大工業の現場を研究し、労働者が集団として巨大な生産手段を動かしている、その集団が、他人の指揮のもとではなく、自分が名実ともに生産の主役となって、生産手段を動かして社会のための生産にあたる、そこに社会主義的変革の最大の中身がある、という結論を引き出しました。

 まずここでは「資本家の指揮」が「他人の指揮」といいかえられている。また「自分たち」という複数形が「自分」という表現にかわっている。さらりと言い換えられているので見落としやすいが、明かに不破氏は意図的に言い換えている。疑問は次の通り。
①他人とか自分とか、このような表現を本当にマルクスは使ったのか?
②資本-賃労働関係が「他人ー自分」の関係に置きかえられている。なぜか?
③他人とは何か? 誰のことか? おそらく”同志”以外の人物を指すと思われるが、全く理解できない。

 さらに不破氏は次ように述べている。

 マルクスは、『資本論』第三部では、社会主義・共産主義の経済体制を特徴づけるさい、そのことを特別に重視して、「結合された生産者たち」が生産と社会の中心になるという点をくりかえし強調し、この経済体制を「結合的生産様式」と規定したりもしました。「結合された生産者たち」とは、生産体制のなかで結びついた集団的な労働者のことで、こうして「結合された」労働者たちが、連合してその力を自覚的に発揮するようになる、それを社会主義・共産主義の経済の主役として描きだしたわけです

 まず「労働者集団」=「集団的な労働者」とされている。彼らは「結合された生産者」でもある。注意すべきことは、これまでの労働者集団は「現場」の労働者であったが、ここでは「現場」という表現はない。資本家がいなくなったからである。

 さて、不破氏はなぜここまで「労働者集団」という表現にこだわるのだろうか。まずここで登場する労働者集団は、資本家と戦う集団ではない。ただ生産手段を動かす集団である。『資本論』から引用しようと思えば、「労働時間短縮闘争」などいくらでも引用できる箇所はあるはずだが、なぜかこの奇妙な「労働者集団」だけが引用されている。資本家は他人となり、もはや階級闘争の対象ではなくなった。ソ連のようになってはいけない、と消極的な議論しか展開されない。そして、代わりに登場した論理が「国民の合意」である。
 「国民の合意」は国民多数の合意形成、国会の安定した過半数を基礎としてしている。「資本家がいなければ」という願望は、国民の過半数が「資本家がいなくなって欲しい」と思わなければ実現しない。しかも「他人の指揮」のもとでは働きたくない!!という合意も必要である。だが「合意」が強調されることはあっても、「闘争」が強調されることはない。日本共産党は怖くない政党ですよ、皆さん仲間じゃないですか、そう呼びかけているのだろう。資本家と戦うことは一切強調されない代わりに、「資本家の指揮のもとではなく」という無意味な仮定を置くことで、日本共産党の社会主義論は完成したのである。