投稿する トップページ ヘルプ

綱領改定討論欄

 この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。

綱領改定案の天皇(制)を論ずる

2003/7/13 川上 慎一、50代

 党は、一人の個人あるいは一つの家族が『国民統合』の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ。しかし、これは憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである。(綱領改定案より)

 「一人の個人あるいは一つの家族が『国民統合』の象徴となるという(現)制度」そのものが、原理的に「民主主義および人間の平等の原則と両立するものではない」というわけではなく、民主共和制であっても国民統合の象徴なるものを必要とするなら、定期的な選挙等で選べばよいのであります。それをたとえば、大統領などとよぶこともあり得るでしょう。この場合には別に「民主主義および人間の平等の原則と両立しない」ことはありません。
 天皇(制)が「民主主義および人間の平等の原則と両立する」ことがない理由は、明治以後新たに政治の実権を握った天皇制がわずか60年ほど前まで、実際に絶対君主として君臨したという歴史の延長上で今日なお特異な君主制として存在していること、さらに、その地位は世襲であり国民の意思がおよばない存在であることが「民主主義および人間の平等の原則と両立するものではない」ということであります。いかに憲法の条文で「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」とあっても、原理的に「民主主義および人間の平等の原則と両立する」ことはあり得ないのであります。

 天皇は政治的権能を有しないとされますが、内閣総理大臣と最高裁判所長官の任命権者は天皇であります。さらに、日本国憲法第7条に定める以下の行為も天皇でなければできないのであります。

 1 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
 2 国会を召集すること。
 3 衆議院を解散すること。
 4 国会議員の総選挙の施行を公示すること。
 5 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の委任状を認証すること。
 6 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
 7 栄典を授与すること。
 8 批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
 9 外国の大使及び公使を接受すること。
 10 儀式を行ふこと。

 天皇の国事行為にはこれだけの内容があります。もとより、「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負う」のですから、実質的な国政の権能を持たないことはいうまでもありません。しかし、これらのことは、(国事行為の委任を別にすれば)、天皇以外にはできないことであることに留意をしておかなければなりません。

 日本の歴史を概観すると、古代王権として誕生した天皇制が実質的に国を支配したといえる時代はそれほど長くはありません。長い歴史の歩みの中で、社会構成体そのものが発展するわけですから、古代王権による実質的な支配がそのまま継続すること自体がありえないことですが、天皇(制)がいろいろな曲折を経ながら今日まで存在し続けた理由は日本の歴史的発展の特殊性にあります。
 中国などでは社会の最下層農民の巨大な反乱が必ずといってよいほど歴史の変わり目に起きて、古い皇帝制度を根こそぎ廃止してしまう変革がしばしばあります。日本では、そこまで徹底した革命の歴史がないため実質的な権力を持たなくなった天皇(制)が連綿と存在し続けたといえます。
 日本の歴史では、新しい時代を切り開いた勢力が、古い権威=天皇(制)を利用して権力をうち立てるパターンが目立ちます。織田信長にしてそうであり、明治維新などはその典型でした。存在していた天皇(制)を利用することが権力獲得の上でたいへん有利な条件となっていました。幕末に、天皇の「政治的利用」をめぐって佐幕派と討幕派が死闘を繰り広げた歴史もあります。
 「天皇の政治的利用」という概念を、政治の相対的な安定期を背景として考えれば、「軍国主義復活」云々ということになるでしょう。しかし、現代的な軍国主義復活が、もはや戦前の古典的な「森喜朗流の天皇中心の軍国主義」というストレートな形をとって現れるとする考え方にはあまり現実味がありません。むしろ天皇(制)の政治的利用が現実味をおびて歴史の舞台に登場するのは「歴史の大きな変わり目」や「戦争の時代」であったし、今後もそうであろうことを忘れてよいか、という疑問が残ります。

 綱領改定案における「天皇問題」がそれほど大した問題ではないとする思考の背景には、おそらく天皇が国政における実質的な権能を有しないということと、「天皇中心の軍国主義」復活があまり現実味がない、ということがあるのではないかと思います。
 私も「天皇問題」が綱領改定案の最大の焦点であるとは思いませんが、それでも、この問題は最大の焦点の1つであることに間違いない、と思います。
 私はこの投稿をdemocratさんの「天皇制問題は騒ぎすぎ-正確な議論を 2003/7/10」に触発されて書いているのですが、democratさんの思考の背景にどのようなものがあるかはわかりませんので、氏の投稿を逐一検討して批判するという形をとっていませんし、それを目的とした投稿でもありません。ただ、氏の論点は、氏ご自身が「法律家(弁護士)の立場から一言」と述べておられるように、いわば法律論の域を出ないように思います。天皇(制)の歴史や今後の闘いの展望を見通せば、法律論だけでカタがつく問題ではありません。日本共産党綱領における天皇(制)は優れて政治の問題であり、単なる法律の問題ではないことを確認しておく必要があるでしょう。

 もし革命というべき「時代の変わり目」や「激動の変革の時代」、あるいはまた不幸にして戦争の時代が来るとすれば、そのときに起こる事態を正確に具体的に予測することは誰にもできません。
 これに関する不破氏の世界観ははっきりしています。氏の思考によれば社会は徐々に段階的に少しずつ変わるものだそうですから、不破氏の頭の中ではそういう時代がくることはないのでしょうし、日本社会も議会制度を中心とした政治制度において、選挙を通じて徐々に変わっていくのでしょうから、「激動の変革の時代があり得るという想定」は氏の思考のすべての前提から排除されているといわねばなりません。したがって、不破氏の思考の前提が正しければ、「その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである」とする見地で問題はないでしょう。「実際にも戦後の歴史において……基本的には天皇が統治権を行使した事実はない」(上記democratさんの投稿より)のですから、天皇(制)を「政治の相対的安定期」を背景として、主権(者)の問題としてのみとらえるのであれば、不破綱領改定案に問題があるとしても、それはそれほど厳しく批判されるべきものではないという評価はあり得ることでしょう。

 さて、「時代の変わり目」とか「激動の変革の時代」などというあまり学術的ではない用語を使っていますが、これについて私の考えを述べます。
 具体的には、ソ連邦や東ヨーロッパの社会主義国の崩壊をイメージしていただくとありがたいのですが、もうひとつチリのアジエンデ政権の崩壊もつけ加えていただきたい。いずれも政権の崩壊であります。
 ソ連の場合には反ゴルバチョフ派のソ連共産党や政府官僚によるクーデター(未遂)事件があり、最終的にはエリツインによる議会への武力弾圧で決着が着きました。また、ルーマニアではかつての最高指導者チャウシェスクが処刑されるほど激しいものがありました。この影像はテレビで放映され、いまだに生々しいものがあります。また、チリの場合には大統領選挙と議会での選出という合法的な手続で成立したアジエンデ政権が、その政権下で発生した経済的、社会的混乱のなかで、ピノチェットによる軍事クーデターによってアジエンデ大統領は殺害され政権は崩壊しました。
 これらの「権力の移行」を伴う「時代の変わり目」とか「激動の変革の時代」という歴史的事実をみるとき、何の混乱もなく経過したような例はまず存在せず、これらの社会が有した内在的合法的な手続によって旧権力(政権)が崩壊した例はほとんどありません。権力の移行は、旧社会における法規に照らせば何らの「超法規的措置」を伴うことなしに推移することはないでしょう。「時代の変わり目」とはそういう時期であると考えるのが歴史の常識でしょう。
 そういう時期には政治勢力の間での闘いが熾烈を極め、厳しい闘いが展開されます。現実性があるかどうかは別にして、具体的に、たとえば、日本の国政選挙で(現行綱領でいう)民族民主統一戦線勢力が国会で反対勢力をわずかに制して、政府を組織することがかろうじてできるぐらいの勢力を確保したとき、あるいは拮抗するぐらいの状態になり、民族民主統一戦線勢力が政府を組織したときなど、天皇個人の意志とは関係なく、天皇(制)を利用しようとする勢力が「国会を召集しない、内閣を認証しない」などの抵抗手段をとる可能性が「絶対にない」と言いきれるでしょうか。いっぱんに、いろいろな市民運動や大衆運動などでも、闘いが厳しい局面を迎えたとき、ささいな手続問題などが決定的な争点にせり上がってくることがあります。そして、変革期の混乱がさらに長引けば、最終的には武力を持つものによって決着が付けられることになります。これが歴史の教訓であります。
 天皇(制)問題を、単に政治的権能を有するかどうか、統治権が誰にあるか、などだけで判断してよいか、ということこそが問題であります。前回大会における「前衛」という語句の削除のときもそうでしたが、「ものごとを分析するふりをしてものごとを矮小化する」という手法は最近の不破氏の得意技のひとつでもあります。
 天皇(制)の様々な形態での利用は、むしろ「時代の変わり目」、「激動の変革の時代」、あるいはまた不幸にして戦争の時代にこそ登場するであろう、そしてどのような事態が起こるかは具体的に想定することは不可能だと私は思います。したがって、天皇制の廃止を掲げる現行綱領の立場がはるかに適切です。私は綱領改定案にこの点でも反対であります。