この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。
「搾取の廃止」と「労働時間の短縮などの人間的発達の土台」と『生産手段の社会化』がどう関係あるのか、『生産手段の社会化』と「市場経済の制約と計画経済の導入の話」がどう関係するのか という疑問が「こうとくしゅうすい」さんから出されています。
これらの疑問に答える前提として、まず「生産手段の社会化」とはどういうことなのかということについて考えてみたいと思います。これはMBさんの疑問にも関係することだとも思います。
新綱領案の第5章「社会主義・共産主義の社会をめざして」の15節に「社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化である」と書かれています。
あらためて書く必要はないかもしれませんが、「生産手段」とは人間が自然に働きかけて、人間に必要な衣食住をはじめとする生活物資を生産するための手段で、土地、資源、原材料、道具、機械、建物(工場など)、施設、設備などです。
資本主義社会ではこの「生産手段」を「資本家」が所有しています。そして生産手段を持たない「労働者」はこの資本家に雇われ、自分が持っている「労働力」という商品を売って「賃金」をもらってしか生きていくしかありません。「資本家」といっても現在の資本主義では、資本を「所有」し、「経営」もしている資本主義初期の個人としての「資本家」は基本的には存在せず(「所有と経営の分離」)、「株式会社」という法人が生産手段を所有しています。
労働者は労働して賃金をもらいますが、それが「労働力」という商品と等価交換であったとしても その何倍もの「剰余価値」を作りだしており、これがマルクスの最大の発見である「搾取」という概念です。「剰余価値」は資本の「利潤」となり、資本主義的生産は競争に敗北しないために、この「利潤」(もうけ)追求を最大の「規定的」な「動機」として営まれており、「利潤追求」以外のこと、労働者の生活のこと、労働時間や職場の安全・衛生などの労働条件のこと、自然環境のことなどは後回しです。「後回し」というよりも「後は野となれ山となれ」、「我が亡き後に洪水よ来れ」です。
資本主義における生産は結果としては社会を維持するために必要な生産が行われますが、生産自体は社会の必要を直接の目的にしておらず、「計画性」もなく、「無政府的」に、ひたすら内外の競争相手を打ち負かして、自分の会社の利潤追求(剰余価値生産)に突き進むことが本性です。
この「利潤追求」第一主義が、いったい何をもたらすのか、次にこれを考えてみます。(続く)