この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。
「共産党ファン」さんが、一月ほど前の「朝日新聞」に掲載された日本共産党綱領案(以下、不破綱領とします)についての加藤哲郎氏のコメントを非難していましたが、「さざ波」の読者である皆さんは、加藤氏のホームページに掲載されたより詳しい論評を読まれたでしょうか? 彼の立場が、共産党を左から批判する「さざ波」と異なることは確かでしょうが、「JCPウォッチ!」等で見受けられる右派・リベラル派の論評とは質的に異なり、一読の価値があります。
原文を読むのが一番だと思いますが、論点を2つに絞って紹介しておきます。
まず、加藤氏は、不破綱領が社民化であることを明確に指摘しています。曰く、共産主義と社会民主主義との分岐となった論争が、「言葉の遊びで融合され」、「革命」が「改革」に「格下げ」され、「レーニンやローザ・ルクセンブルグが死活の問題としたイデオロギーの壁が、ひそやかに消えました」、「社会民主主義を批判して『分派』を作った共産主義が、社会主義インターナショナルの本流の方に、『自己批判』抜きで戻ってきました」、と。
しかしながら、西欧社民に近いはずの加藤氏が、これをちっとも評価していないところに私は注目しました。加藤氏は、不破綱領には、「現代資本主義と『新しい階級パターン』の真摯な批判的分析」が欠けているからだ、と実に的を射た指摘をしているのです。
実はここに一番の問題があると私は考えています。不破綱領が社民化であることは、「カウツキー主義」を肯定する不破報告が自ら進んで認めていることです。そんな不破氏に向かって、社民化じゃないか、「『共産党』と名乗り続けるレーゾン・デートル(存立根拠)が崩れたことを、……どれだけ自覚している」のか、と詰め寄ったところで、それがどうした?となるだけでしょう。不破綱領の目的は、現代資本主義を分析し変革するというよりもむしろ、綱領から逸脱した不破指導部のこの間の実践を理論化(正当化)するところにあるのではないでしょうか。
加藤氏は、その天皇制の扱いについて、「日本は君主制ではない」とする不破綱領に対して、アメリカ政府のホームページに掲載されている「公式見解」では、日本が「立憲君主制」となっていること、「国家元首chief of state=天皇 Emperor Akihito」が、堂々と小泉首相の前におかれてい」ることを指摘しています。また、不破綱領の論理が、野坂参三の「日本的に特殊な君主制存続を正統化する論理と、似通ってい」ることも指摘しています。どちらも実に示唆に富んだ指摘です。
ここでも本質的な問題点は、不破綱領案が戦前から戦後における天皇制の変化に力点をおき、戦後から現在にいたる天皇制のあり方の具体的分析を欠いているところにあります。長くなりますが、異論もないのでそのまま加藤氏の文章を引用しておきます。
……「君主制」は、単純に「共和制」と区別される概念です。「立憲君主制」はイギリスだけではありません。ヨーロッパでもオランダ、ベルギー、スペイン、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク等々に君主制があり、その憲法上の権能、現実の政治的機能は、様々です。ほとんどが高度な民主主義国家です。……しかし、日本共産党は、1931年政治テーゼ草案以来、わざわざコミンテルン・テーゼの「君主制」を「天皇制」といいかえて翻訳し、戦後も学界でこの共産党製用語が広く執拗に議論されてきたのは、不破氏がイギリスの女王ほど憲法上の権限がないから旗をおろしても大丈夫だと一生懸命に政治的無害性を証明しようとしているのとは反対に、象徴天皇制に「いろいろな歴史的事情」からなお重要な政治的・社会的機能があり、現に中国・韓国など近隣諸国との関係で「お言葉」が実際に外交的意味を持ち、1989年昭和天皇の死の際にも異様な政治的雰囲気に包まれて、自民党政治家の中には中曽根康弘氏のようにそれを利用しようとする勢力がいるからではないでしょうか? ひょっとしたら、アメリカ政府もそれを警戒して、建国神話にもとづく「立憲君主制」と言っているのかもしれません。
綱領は政治文書だと、不破報告にも書かれていますが、それならば天皇制問題も政治学者に指摘される前にきちんと政治的に押さえて欲しいものですね。