この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。
「生産手段の所有形態」に関してこうとくしゅうすいさんは 「(ネップを未だに過大評価している点は、学説的にも少数)、ソ連的『国有化』を一面的に否定する『傲慢さ』に理解できません 」と書かれています。この点に関する見解を述べます。
私はネップを過大評価しているわけではありません。共産党の綱領案でも「市場経済を通じて社会主義に進む」「計画性と市場経済と結合させた弾力的で効率的な経済運営」と書いていますから、この「市場経済」というものがどういうものなのかについて少し考えます。
ネップに関する歴史的経過を見てみます。
1921年にレーニンが打ち出した新方針のネップ(新経済政策)の柱は「市場経済」の導入という点です。
レーニンは10月革命後しばらくの間は外国の干渉と国内の反革命という非常に困難な条件の中で、国家が生産と分配の全体を握る「戦時共産主義」を推し進めました。その頃のレーニンの考えは、「市場経済」は「資本主義を生み出す最大の土壌」と考えており、社会主義と「市場経済」は両立しないものであり、社会主義建設は市場経済を押さえ込むことにあると考えていたようです。そして共産主義社会の経済は工業製品は国営の工場でつくり、農民の作った穀物は農民が消費する以外のものは国家が買い上げて、国民に配給するというシステムを考えていたようです。この「戦時共産主義」は1921年まで続けられました。
ところが、平和が回復されると、この「戦時共産主義」経済にたいして、国民からの大きな反発が噴き出してきました。農民、商工業者から自由な取引を求める声が高まり、農民の暴動や革命を進めた人の中からも反乱が起きるような状況となりました。こうした深刻な事態を何とかしなければと長く模索した上で出された方針が「新経済政策」(ネップ)でした。レーニンがこの新たな方針を提案したとき同志からは「われわれは牢獄で商売のやり方など学ばなかった。」「商売のような不愉快な仕事を共産主義者がやれるものか」と反発されたそうです。それでもレーニンは「不愉快な課題に直面したからといって、それを回避したり、それに落胆したりするのは、革命家に許されないことだ」と説得しました。
当時のロシアにとって、荒廃した経済を再建するためにも、また資本主義との競争に勝てるような社会主義・共産主義を作るためにも市場経済が重要であったのです。それは単なる部分的な問題にとどまらず、「市場経済を通じて社会主義へ」という方針に発展されました。
その方針は骨格は一定の範囲内で私的資本主義や外国資本の参入を認める、その中でも資本主義に負けない社会主義部門をつくり発展さす。また、経済全体の要となる部門は社会主義部門として確保する。農業では将来的には協同組合化を目指すが、自発的な意思を基本とし、上から権力的に組織はししない、というような内容でした。
そして、全体として「市場経済を通じて社会主義へ」進む道は①社会主義部門(国有、協同組合などの形態)②国家資本主義部門③私的資本主義④小商品生産部門などが並立して協力したり、競争したりしていくと考えていました。
レーニンは資本主義に負けない社会主義部門をつくるために、①資本主義から学べるものは学びつくす。その際、ただ生産性や経済効率だけでなく、職場の安全、環境の問題でも社会主義の優位性を発揮する②経済全体の要になる部門(例えば銀行、運輸、エネルギーなど)は国がにぎる③市場経済が生み出す否定的な現象、無政府性、弱肉強食、失業、貧富の格差、拝金主義、各種の腐敗現象などを規制し、社会保障などを充実するということを強調しました。
「市場経済」には重要な経済機能が存在することにも触れておきます。
個々の生産者は自分の生産と社会的な需要との関係を直接には知らずに生産を行います。しかし、その商品が過剰に生産されているか、過少に生産されているかは、価格の上下変動によって生産者は理解し、その結果「需要と供給」の調節作用が働くことになります。
また市場経済には「単純労働」と「熟練労働」の価値の相違を「生産者たちの背後」で進行する「一つの社会的過程」によって確定することができます。
さて、1924年、レーニンが死ぬと、数年後にはスターリンは「新経済政策」投げ捨て、市場経済を追放しました。また、商品の価値は社会的平均労働で計られるという「価値」論も捨て去りました。その代わりに持ち出された価値の基準が「目方」(重量)でした。シャンデリアでも、家具でも、農業機械でも、セメントでも、とにかく「目方」で価値の大小がが決められ、重い物をつくればつくるほど計画は超過達成され、割り増し報奨金がもらえるから、質も、使いよさもおかまいなしに、ひたすら重いものが作られました。結果は使いものにならず、売れないままに放置されました。
市場経済が追放されて約30年後の1959年、ソ連共産党中央委員会でフルシチョフは発言しています。
「消費者は、ソヴィエト製の家具を買わないで、外国製のものを探している。わが国の家具工場は、成績を上げようと思って、使い物にならない大きい肘掛け椅子ばかりつくるからだ」
1961年の中央委員会総会での報告も
「セメントにはいろいろな品質のものがあり、よい品質のものほど生産費は高いから、1トンあたりのセメントの原価は品質に応じて違ってくる。このことは誰でも分かっていることなのに、生産計画では、セメントの生産高はトンで計算されている」
フルシチョフが指摘したにもかかわらず、結局その後なんら改善されることなく、ソヴィエト経済は破綻しました。
現在中国やベトナムは今まで歴史上経験のない「市場経済を通じて社会主義を」目指しています。市場経済の否定面も多く存在しています。中国では倒産した民間企業、国営企業の失業が深刻です。利潤第一主義や拝金主義の広がりも見られます、貧富の格差、環境問題などもあります。犯罪や官僚の腐敗もあります。ある面、現在の中国、ヴェトナムではこれらの否定面を抑える「歯止め装置」はヨーロッパ諸国の資本主義よりも遅れているともいえるでしょう。経済面だけでなく民主主義の点でも解決すべき問題は多いです(天安門事件の総括もされていません)。これらの問題がどのように克服されていくのか、されないのか、大いに注視していきたいと思います。
いずれにしても、日本の場合は「いま資本主義的市場経済の中で生活しているわけですから、社会主義に向かってすすむという場合、社会主義的な改革が市場経済の中でおこなわれるのが当然の方向となります。市場経済の中で、社会主義の部門がいろいろな形態で生まれ、その活動も市場経済の中でおこなわれる、そういう過程がすすむし、その道すじ全体が『市場経済を通じて社会主義へ』という特徴をもつでしょう」(不破報告)
「ばるさんは、共産主義『国家』を目指しているのですか、それとも共産主義『社会』を目指しているのですか?」について。
質問の内容をもう少し具体的に書いていただけますか。この点については「質問・意見に答える」(不破発言)の「第5章に関連して」の「国家の死滅という見通しについて」でかなり詳しく触れていますので、できたら一読参照のうえ論議したいと思います。