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綱領改定討論欄

 この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。

綱領改定案に対する批判(2)

2003/8/2 S・N生、60代以上、無職

2.民主主義革命概念の空洞化・議会主義への移行

 以上のように,改定案は、第1に、現綱領で民主主義革命以前の統一戦線政府の樹立としていたものを民主主義革命と言い換え、第2に、現綱領が力説していた民主主義革命と社会主義革命との密接な連関を否定して、2つの革命を切断した。そこで、これらの変更をどう見ればよいかを検討しよう。

 まず第1点をめぐって。改定案は、現在の日本社会の特質と民主主義革命についての現綱領の規定をことごとく変えてしまった。

(1)戦後民主主義革命の評価の変更。

 現綱領は、敗戦後日本を占領したアメリカは一連の民主化政策をとったが、これを彼らの対日支配に必要な範囲に限り、戦後「民主主義革命を流産させようとした」と述べ、また日本独占資本は「民主主義革命をざせつさせ」た、と述べている。ところが、改定案では、これらの戦後民主主義革命の「流産」「ざせつ」という言葉はすべて削除された。それに代わって、主権在民原則の憲法の制定、天皇権限の限定、地主制の解体等を挙げて、「国会を通じて、社会の進歩と変革の道を進むという道すじが、制度面で準備されることになった」と述べている。すなわち、改定案は、対米従属の問題を別とすれば、戦後民主主義革命は達成されたという見解に変わったのである。ここで注目すべきことは、戦後民主化の評価基準を「制度面」に求めていることである。

 だが、「制度」が民主化されたからといって、社会の実体が直ちに民主化されるとは限らない。戦後、平和主義・民主主義を掲げる新憲法が制定され、明文改憲は阻止されたが、それを公然と踏みにじる自衛隊が設立されたことに示されるように、また、労働者の権利がさまざまな形で踏みにじられていること(公務員労働者のスト権の否認、労働基準法の労働時間規制の空文化、資本支配に批判的な労働者に対する迫害=企業内ファシズムなど)に示されるように、この憲法は必ずしも社会生活の規範とはならなかったのである。

 改定案の「制度」信仰は、民主的な制度が整備されればその途端に実体的な社会関係も民主化されたとみる考え方を「ウルトラ形式主義」と喝破した、丸山真男の言葉(『増補版 現代政治の思想と行動』p.146)を想起させるものである。

(2)2つの敵の規定の消滅と民主主義革命概念の空洞化。

 現綱領は、「現在、日本を基本的に支配しているのは、アメリカ帝国主義と、それに従属的に同盟している日本の独占資本である」という2つの敵の存在を明示し、「労働者階級の歴史的使命である社会主義への道」を切り開くためには、当面、この2つの敵の支配を打破する反帝反独占の民主主義革命が必要だと主張していた。ところが、改定案では、2つの敵は明示されなくなった。日本の対米従属の点は繰り返し強調され、したがって独立の課題は重視されているが、日本独占資本は打倒すべき支配者=敵として掲げられなくなったのである。「革命」の対象は、「対米従属と大企業の横暴な支配を最大の特質とするこの(現在の日本社会の)体制」(第2章末尾)だというのである。

 つまり、大企業の「横暴な支配」は規制しなければならないが、大企業の存在そのもの、その経済的支配そのものは、打破すべき敵として明示されなくなった。この点は、後に見る改良主義的見解――「ルールなき資本主義」を「ルールある資本主義」に変え、大企業の「横暴」を「民主的に規制」すれば、大企業が存続していても日本の政治・経済の矛盾は解決されると説く見解――と呼応するものである。こうして、現綱領の2つの敵の規定は消滅し、2つの敵の支配を打破するという民主主義革命の概念は空洞化されてしまった。「革命」という言葉は、独占資本の政治的経済的支配体制の打破という内容から、大企業の「横暴」を規制する政府の樹立、つまり単なる「政府の交代」に矮小化されてしまった。

(3)天皇制の評価の逆転。

 現綱領は、戦後民主主義革命「流産」の結果、天皇制が「ブルジョア君主制の一種として温存され、アメリカ帝国主義と日本独占資本の政治的思想的支配と軍国主義復活の道具とされた」と規定し、すなわち、天皇制は政治的にきわめて有害な存在だという認識を示し、したがって、当面する民主主義革命の目標の一つとして「君主制の廃止」「民主共和国」の樹立を説いていた。

 ところが、改定案と不破議長の「提案報告」では、天皇制は「ブルジョア君主制ではない」とされ、現綱領の上記の規定はすべて破棄され、憲法の天皇条項は「弱点」ではあるが、「天皇は『国政に関する権能を有しない』ことなどの制限条項が明記された」ので、天皇制は政治的に無害になったことが強調され、当面する民主主義革命の段階では「現行憲法の前文をふくむ全条項をまも」ること、したがって天皇条項(憲法第1~8条)をも擁護することが宣言され、天皇制の廃止は「将来の課題」とされて、当面する民主主義革命の課題からは外された。これは、根本的な転換だと言わなければならない。

 改定案の天皇制問題をめぐって、この「さざ波通信」で議論が交わされているが、これにかんして次の点を指摘しておきたい。

 第1に。現綱領は、明確に「天皇制は絶対主義的な性格を失ったが、ブルジョア君主制の一種として温存され」と規定しているのに対し、不破「報告」は「主権在民の原則を明確にしている日本は、国家制度としては、君主制には属しません」と明言した。ここで、天皇制の認識が逆転していることを、まず確認しておかなければならない。

 だが、封建制・絶対君主制から資本主義・ブルジョア民主制に移行した歴史をもつ諸国(英仏日など)において、国家制度としては、立憲君主制・制限君主制(憲法または慣習法によって統治権を制約された世襲の君主が残存している)か共和制(世襲の君主の存在を否定した)しかありえない。現在の日本は、「象徴」という名のもとに世襲の君主が存在し、憲法によって規定された首相任命権を始めとする「国事行為」権限をもっているので、明らかに立憲君主制に属する。これを否定した不破氏は、では、日本は共和制になったと言うのであろうか。改定案では、「民主共和制」は将来の課題だと言われているので、不破氏は、現在の日本を共和制だというわけにもいかない。そこで、不破氏は、現在の日本の国家制度がいかなるカテゴリーに属するかについては、口を閉ざしている。すなわち、改定案と不破「報告」は、現在の日本の国家制度についての科学的な規定を放棄したと言わざるをえないのである。

 第2に。改定案は天皇制容認姿勢に転換したのか、という点について。
 現綱領が天皇制の政治的危険性を強調し、民主主義革命の課題の一つとして「君主制の廃止」を掲げたことは上記の通りである。これに対し、改定案は、天皇制の政治的危険性についての現綱領の文言を削除し、天皇制は政治的に無害になった(あるいは無害にできる)ということを強調するとともに、第4章「憲法と民主主義の分野で」の最初の項で、「現行憲法の…全条項をまもり」と言っているのであるから、天皇条項をも守ると言っているわけである。これは、明らかに天皇制の当面容認論である。その後で、「党は、…民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ。しかし、これは憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである」と言って、「将来」の課題に先送りしている。こうすることによって、改定案は、当面の民主主義革命の課題の一つとしては「君主制の廃止」を掲げないという姿勢に転換したのである。

 渡辺治氏は、日本国憲法は、国民主権・基本的人権・平和主義という「支配的原理」とともに、この「支配的原理と矛盾・衝突する」第1章天皇の規定をもっており、これが憲法の「支配的原理」を「不断に侵害・侵蝕する危険性を持っている」と把握し、この見地から憲法を「一枚岩」と見て、「象徴天皇制を含めて憲法を全体として評価する完全な『護憲論』」を批判している(『日本の大国化とネオ・ナショナリズムの形成』p.322-3)。

 日本共産党も、これまでは渡辺氏と共通の「日本国憲法を民主的条項と反動的条項に二分して民主的条項のみを評価する『腑分け論』」に立ち、この立場から、現綱領では、「憲法改悪に反対し、憲法の平和的民主的諸条項の完全実施を要求し」、民主主義革命の暁には「君主制を廃止し」「民主共和国」をつくるとしていた。それが今回の改定案では、憲法認識でも立場を変え、完全「護憲論」に移行してしまったのである。

 第3に。天皇制の政治的危険性について。
 戦後、保守勢力が一貫して天皇制を政治の反動化に利用してきたし、現在でもそうしていることは、一々例示するまでもあるまい。問題は将来の天皇制の危険性についてである。「さざ波通信」のこの欄の討論において、川上慎一氏は、将来、社会変革の激動期に入り、民族民主統一戦線の政府が樹立されそうになった時、反動勢力が憲法の天皇の国事行為条項(第6、7条)をクーデター的に利用して、天皇に「国会を召集しない、内閣を認証しない」という抵抗手段をとらせる危険性があると指摘している(7月13日)。これに対して、democrat氏は、そのような可能性は「絶対にない」と言い切ってよいと言い、「現在の政治状況でそのような愚挙が行われる可能性は考えられないし、それ以前に法的に不可能な抵抗です」と述べ、「天皇のサボタージュによって国政に影響が及ぶのなら、それは事実上天皇の拒否権を認めたに等しいわけだから、そのような解釈は憲法上認められません」と言っている(7月21日)。

 ここで、注目したい点は、まず、川上氏が「激動の変革の時代」のことを問題にしているのに、democrat氏が「現在の政治状況」に問題をそらしていることである。また、天皇のサボタージュを容認するような「解釈は憲法上認められません」と言っているように、democrat氏が問題を憲法解釈の分野に限定していることである。だが、革命を論じようとするならば、「激動の変革の時代」には憲法を否定するような動きが起こりうるということについて、想像力を働かせる必要がある。そうした激動の時代に、反動勢力が、次項で述べる自衛隊のクーデターなどによって憲法を停止してファシズム体制に移行しようとする可能性は高い。そのような時に、天皇は反動勢力にとって極めて有力な道具であって、自衛隊のクーデターと連動して、天皇に「国会を召集しない、内閣を認証しない」という超憲法的行為をとらせるという可能性を否定することはできない。革命政党であるならば、こうした危険性をも考慮に入れて、将来の展望をどう描くかを考えるべきなのである。

(4)自衛隊の危険性の無視

 共産党の第22回党大会(2000年11月)は、「自衛隊問題の段階的解決」という「理由」を掲げてその当面の存続を容認し、しかも「急迫不正の主権侵害」時には自衛隊を「活用」するというようなことまで主張するに至った。この自衛隊「活用論」は、自衛隊の最高指揮監督権は首相にあるという制度(自衛隊法第7条)を論拠とするもので、国会で合法的に民主連合政府(日米安保条約を廃棄する政府)が成立した場合、自衛隊は当然その首相の指揮監督に従うものだという考え方に立っている(ここでも「ウルトラ形式主義」的制度信仰がベースにある)。今回の綱領改定案もこの22回大会の決議の路線を踏襲しており、当面の民主主義革命に際しても、現綱領が掲げていた「自衛隊の解散」という率直な要求は捨てられて、「憲法第9条の完全実施(自衛隊の解消)に向かっての前進をはかる」という微温的な姿勢に転換するに至った。天皇制と自衛隊についてのこうした姿勢の転換は、最近の民衆の保守化傾向への迎合と言わざるをえない。

 しかし、こうした自衛隊についての見方ほど現実離れしたものはない。今回の改定案でも、「日本の自衛隊は、事実上アメリカ軍の掌握と指揮のもとにおかれており、アメリカの世界戦略の一翼を担わされている」ということが指摘されているが、その自衛隊が、日米安保条約の廃棄を掲げ、アメリカ軍の撤退を要求する民主連合政府が成立した時、この政府に唯々諾々と従うであろうと考えることは、まさに空想的という他はない。アメリカは当然、この民主連合政府を敵視するであろうし、その支援と指示のもとで、自衛隊はこの政府の成立を阻止するために、あるいは成立後にはこの政府を倒すために、クーデターを企図するであろう。これは殆ど100%予想されることである(チリで合法的に成立したアジエンデ政権が1973年ピノチェトの軍事クーデターによって崩壊させられた事例をみよ)。

 共産党は、当然こうした危険性を警告し、人民大衆にそれに対する心構えを用意させておかなければならない。それではどうすべきか。ここで、エンゲルスが「『フランスにおける階級闘争』1895年版への序文」において述べたことが参考になる。彼は、資本主義の初期には、民衆の武装蜂起が旧支配体制の武力を圧倒して革命を成功に導いたこともあったが(例えば17世紀のイギリス革命、18世紀のフランス革命)、1848年以後そうした条件はなくなったと述べ、労働者階級とその政党は普通選挙権を活用して勢力を伸ばすべきこと、革命勢力は軍隊に対して精神的影響を及ぼして「軍隊を脆弱化させること」、を説いている(『マルクス・エンゲルス全集』第7巻、p.518-536)。すなわち、労働者階級を始めとする勤労人民は、普通選挙権を活用して国会で多数を占めるために闘うとともに、労働運動・大衆運動(例えばゼネスト)を通じて敵の暴力装置(軍隊・警察)を麻痺状態に追い込むことが、革命のための必須の条件だというのである。今回の綱領改定案ではこうした視点が全く欠如している。

(5)労働運動・大衆運動の軽視

 現綱領は、人民の闘争の発展のために、とくに「労働者階級」の「階級的戦闘性と政治的指導力をつよめる」必要性を説くとともに、革新3目標を掲げた統一戦線政府から革命の政府に進むためには、「当面する民主主義革命の目標と任務にむかっての、民主勢力の広範な統一と大衆闘争(を)前進」させ、「反民族的・反人民的な支配勢力を敗北」に追い込むことが必要であることを強調していた。しかし、改定案では、こうした労働運動や大衆運動の強調は姿を消してしまった。そこでは「日本共産党と統一戦線の勢力が、積極的に国会の議席を占め」ることが強調される一方で、「国会外の運動」は議会闘争と「結びついて」と言われるに留まった。労働運動・大衆運動の軽視と議会主義への移行と言わざるをえない。

 特に、改定案が日本の労働運動の凋落ぶりに一言も触れず、その克服が急務であることを強調していないことは、最大の欠陥である。革命勢力が国会で多数を占めるためにも、上記の自衛隊のクーデターの危険性を防ぐためにも、労働運動の高揚は欠かせない。労働運動の高揚を語らずして民主主義革命の展望を語ることは、幻想をあおるだけであって、無責任という他はない。