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綱領改定討論欄

 この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。

「天皇制容認路線は実践的に何をもたらしたか」……「綱領改定案における天皇(制)」討論についての私のまとめ(その2/2)

2003/8/11 川上 慎一

3 天皇制容認路線は実践的に何をもたらしたか
 「天皇制容認路線」は、61年綱領確定後の日本共産党の綱領的立場でなかったこと、また、「天皇制容認路線」は「日本共産党は憲法の全条項をまもる」ことを名目として行われてきたことを確認しておきます。
 これらの点については、私も過去2本の投稿で文献的な検討も含めて自分の見解を述べていますから繰り返しは避けたいと思いますが、次の点だけを指摘しておきます。
 文献上の表現としては、現行綱領の「憲法改悪に反対し、…」が改定案においては「憲法の全条項をまもる」に変わり、現行綱領が民主主義革命の課題として「君主制の廃止」を掲げていたのが、綱領改定案においては「その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである」に変わったという点です。また、これらの変更の根底には、戦後の民主主義革命および天皇制に対する見解の転換があったことについては、S・N生さんの投稿が的確に述べておられるので、これを参照していただきたい。

 私が実践上の問題として「天皇(制)容認路線」と受けとめている出来事は皇太后の弔詞問題(2000年6月ごろ)、皇太子の子の誕生にさいしての賀詞問題などですが、「日の丸・君が代」問題もいわゆる「柔軟路線」の一環として登場してきたと思います。これらについてdemocratさんも肯定的に評価していないことは、これまでの投稿をきちんと読めばわかります。私自身も「不愉快な思い」をした一人ですが、私はこれらを「儀礼の範囲」として自分を納得させるほどの柔軟さを持ち合わせていません。そのことはさておき、弔詞、賀詞などは、61年綱領確定後の天皇(制)に対する日本共産党の一貫した態度とは異質なものがあります。私はこれらを一連の右傾化路線の現れととらえています。

 弔詞、賀詞問題についていえば、これらに賛成した党幹部や地方議員の言い分をいくつかみてみます。

 「現憲法については、天皇条項も含めて、すべての条項を無条件に守るというのが我が党の立場であって、したがって、皇太后についての弔意の表明は、儀礼の範囲として賛成するということであります。」(木村委員・都議会弔詞起草特別委員会の記録より・2000年年6月28日)
 「(皇太子妃が)懐妊した時も『どの家庭でも新しい生命が誕生することは喜ばしいことだ』とコメントしている。我が党は今の憲法を守る限り、天皇制を認める立場で、賛成は自然なことだ」(市田書記局長・さざ波通信トピックス欄 (01.12.3)指導部の右傾化路線の行き着くところ─「賀詞奉呈」に賛成へ)。

 日本共産党の憲法、天皇制に対する綱領的立場は、「天皇条項も含めて、すべての条項を無条件に守る」とか、「我が党は今の憲法を守る限り、天皇制を認める立場」ではなかったはずであり、私の知るかぎりでは、このころはじめてこのような見解が顕在化しました。
 天皇制容認論が公然と日本共産党の決議に登場するのは、皇太后死去の年、2000年11月末の第22回党大会のことです。

 日本共産党は、当面の日本の民主的改革において、憲法の進歩的条項はもとより、その全条項をもっとも厳格に守るという立場をつらぬく。この立場は、わが党が野党であっても、政権党になったとしても、同じである。わが党がめざす民主連合政府は、政府として、憲法第九九条にもとづいて現行憲法を尊重し、擁護する立場にたつ政府である。天皇制についても、いまわが党がもとめているのは、憲法で定められた国政への不関与(第四条)、国事行為の範囲の限定(第六・七条)などを、厳格に守ることである。

 これも現指導部の得意技の「追認路線」です。だから、「天皇制容認路線」は実践的にはすでに行われているのであって、その結果もたらされたものが弔詞、賀詞への賛成にほかなりません。S・N生さんの投稿「綱領改定案に対する批判(2)」を参考にさせていただけば、国民主権・基本的人権・平和主義という「支配的原理」と矛盾・衝突する天皇条項による「支配原理の浸食」を容認する以外のなにものでもありません。
 このような「天皇制容認路線=右傾化路線」への批判の有力な根拠が現行綱領であったのですから、綱領を変えることによってますます大手を振って弔詞、賀詞に賛成できるようになる、ということは明らかでしょう。
 憲法の天皇条項は一面では、「天皇の元首化やさまざまな政治的利用」に対する闘い、「象徴天皇制からの逸脱を許さない」という闘いの根拠となる側面を持つと同時に、民主主義の原理と衝突するもう一面をもっていることも事実です。

 日本共産党が憲法の「反動的条項や弱点」を「まもる」必要はないのであって、不断にこれを批判する立場こそが大切だろうと私は思います。
 democratさんは、「『天皇制に対する日本共産党の原理的批判的見地を不断に確認する作業』がいかなる実践を意味するのか、私には全く理解できません」(2003/7/27)といわれますが、私はここで特別なことを言っているわけではなく、たとえば、弔詞、賀詞問題に際して「日本共産党の原理的批判的見地」にてらして、「賛成すべきか反対すべきか」を考えるべきだということを言っているだけです。そうすれば「賛成」などという結論が出てくるはずがありません。都議会の弔詞には、儀礼の範囲を著しく逸脱する文言が入っています。これに対してわが都議は批判の発言をしましたが、採決には賛成し「総員起立」で決定しました。日本共産党がこのような弔詞、賀詞に賛成すべき根拠は何もありません。百歩譲っても、議会の採決には「賛成、反対」のほかに「棄権、欠席」という態度表明もあり、このような弔詞、賀詞に賛成しなければ、日本共産党の議会活動が成り立たないような事情はまったくありません。

 ついでですからもう少し続けます。不破氏は「国会の開会式には出席しない」と言いつつ、「内閣の認証式には出る」と言っています。これも実はおかしな話です。「国会の開会式には出席しない」理由について不破氏は以下のように述べています。

……現在、わが党の国会議員団は、国会の開会式に参加していませんが、これは、天皇制を認めないからではありません。戦前は、天皇が、帝国議会を自分を補佐する機関として扱い、そこで事実上、議会を指図する意味をもった「勅語」をのべたりしていました。いまの開会式は、戦後、政治制度が根本的に転換し、国会が、独立した、国権の最高機関にかわったのに、戦前のこのやり方を形を変えてひきついできたものですから、私たちは、憲法をまもる立場に立って、これには参加しないという態度を続けてきたのです。

 「開会式はいけないが、認証式はよい」とする不破氏の論は、以下の点で説明になっていないと思います。
① 天皇が内閣総理大臣の任命権者であること、天皇の国事行為など、いずれも憲法の規定を根拠として行われている。
② 内閣の認証式は戦前のやり方をひきついだものではないのか。開会式はいけないが、認証式がよいとする根拠は何か。
 「国会の開会式には出ないが、認証式には出る」では、論理の整合性、一貫性がどうしてもとれない、と私は思います。いずれにしても、現憲法の範囲内でももともとこれらは形式的なことがらであり、最小限、天皇が「任命の辞令」や「国会召集の詔書」を出せばすむことですから、天皇をわざわざ国会開会式に呼ぶことも必要ないし、ぞろぞろそろって皇居まで行ってうやうやしく認証式に臨む必要もありません。この程度の変更は、別に憲法を変更しなくてもできることです。
 かりに、「激動の変革の時代」を経ることなく民主連合政府ができたとして、この程度の変更、つまり明治憲法下のやり方をひきついだ「開会式への臨席」、「皇居での認証式」をとりやめて、現憲法の「弱点」を最小限に抑制する程度の変更、憲法を何ら変更する必要がない措置さえとれないとすれば、その民主連合政府とはいったいどんな政府なのでしょうか。どんな政治勢力がその政府を構成しているのでしょうか。このような政府にいったい何ができるのでしょうか。このような政府がいかにして革命の政府になり得るというのでしょうか。このような努力こそが「天皇制を現行憲法の枠内に閉じこめる」闘いではないのでしょうか。不破氏はこれらのことについてきちんと答える義務があります。

 日本共産党が参加すれば「その政府が民主連合政府である」というような図式は当然のことながら成立しないのであって、団結した労働者階級を中心とする広汎な民衆の闘いに支えられていない政府は、村山政権や細川政権と五十歩百歩のものにしかなりません。不破氏に、最も欠落しているのは「団結した労働者階級を中心とする広汎な民衆の闘いこそが社会を変革する原動力である」という視点です。この視点が欠落すれば、闘いが高揚したときには「政治情勢が変わる」ということが理解できませんから、「認証式には出席する」というような答えしか出ない、ということになります。民衆の闘いの高揚を背景としてはじめて、天皇の国事行為を文字通り「紙に名前を書いて印を押す」だけの極限までに形式的なものに押し込めることができるのであって、そうでなければ「将来の君主制の廃止」などは綱領上の「空手形」に過ぎないし、歴史の彼岸のできごとで終わってしまうことでしょう。

4 天皇制の定義論争について
 さいごに「天皇制の定義論争について」ひとこと。私は、一連の討論が始まりかけたころから、定義論争はあまり意味がないと思っていました。
 そもそも君主制、天皇制の定義を持ち出したのは不破氏(提案報告・続いて志位氏も)でした。彼らはまことに意図的であって、綱領改定案の「君主制廃止の削除」、「憲法の全条項をまもる」ことを合理化するために「天皇は君主ではない」という定義を持ち出したに過ぎません。さらに、討論の成り行きの中で国語辞典を引き合いに出して不破氏を応援する投稿もあったために澄空さんや私がこれに対応をしたのです。
 澄空さんや私がよりどころとしたのは、日本共産党の正統な理解でした。具体的には「共産党HPから消えた、『日本の象徴天皇制は、君主制か』(大利根)03/8/2」の立場です。ちなみに、この投稿が掲載されたその夜に、大利根さんが掲載してくれたところアクセスしてこれを確かめました。ところが、その翌日にはサーバーからも削除されていました。
 この理解が日本共産党の正統な理解であって、澄空さんや私たち日本共産党員にとってごく自然な理解だったことはdemocratさんにおいてもおわかりいただけると思います。従来の見解を何の説明もなくみずからに都合よく変更するという、不破氏らのこのようなやり方は昨今しばしば見られます。
 現代における君主の概念はすでにかなり複雑になっています。古典的な定義だけで現代の君主制、共和制を定義することができない時代であることを確認しておきます。内容的には、私は「日本の象徴天皇制は、君主制か」において語られていることが妥当だと今でも思っていますが、もう、定義論争はおたがいに論点が出つくした観がしますからこの辺にしておきましょう。ただ、澄空さんや私の見解に対して「天皇を君主にしたいのか」などという批判はあまりにも的はずれであるし、私たちの見解が、当面の実践として、憲法の天皇条項をよりどころとして「天皇元首化の策動」や「天皇に実質的な国政関与の権限」を付与するような企てと闘うことを否定するものでもないことは確認していただきたい。まして、当面する政治情勢の中で「天皇制廃止のための憲法改正を言い出すべきだ」などとする政治音痴でもありません。

※ democratさんへ
 さつきさんからの「マヌーバー」云々はまったく意味が違います。さつきさんの投稿は「さざ波通信に批判的な投稿者との論争を大切にしたい」というものであって、「マヌーバー」という言葉は、「さつきさんがそのように批判された」というだけで使われたのです。私はお二人の投稿をあらためて読み直しましたが、democratさんの投稿にそのようなものを見いだしたというわけではありません。お二人の討論は以下の通りです。
防衛上の問題と討論が苦手な左翼の体質について(さつき)
ものごとの優先順位に注意を>さつきさんへ(吉野傍)
 私は、democratさんが「天皇制を不愉快に思い、廃止を望まない人はいない」という点に共感し、討論もあげ足を取るようなことのないように心がけたつもりです。不用意な発言があったとすれば、それは本意ではありませんからお許しいただきたい。とりあえず天皇(制)問題については、私は私なりのまとめをしました。お相手をしていただきましてありがとうございました。時間をつくってまた投稿するつもりでいます。機会があればまた御意見を聞かせてください。
 余談ですが、戦前から民衆の弁護士として活躍された人(故人)を知っています。共産党の候補者として選挙に出たこともありました。清貧な方でした。引き続き民衆の弁護士として活躍されますように。