この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。
5.改定案第5章に対する批判
改定案第5章と不破氏の「提案報告」、「質問・意見に答える」にも、多くの問題点がある。
(1)マルクス『ゴータ綱領批判』をめぐって
第1に、「社会主義」という用語について。
不破氏は、「未来社会の低い段階を『社会主義』、高い段階を『共産主義』というのは、マルクス、エンゲルスのものでも、レーニンのものでもない、もっと後世に属する使い方だ」と言っているが、これは正しくない。レーニンが『国家と革命』の中で、共産主義社会の第一段階を「普通の用語法での『社会主義』」と明確に述べているのである。
第2に、共産主義の2段階について。
不破氏は、マルクスの『ゴータ綱領批判』における共産主義社会の2段階の区分論――低い段階での「労働に応じた分配」、高度な段階での「必要に応じた分配」――を退けているが、それは分配論の視点が中心であってはならず、「生産体制の変革を中心にすえる」必要があるからだ、と述べている。
しかし、これは、『ゴータ綱領批判』の真意を誤解しているのではないか。マルクスは、ここで、共産主義社会の低い段階(普通の用語法での社会主義)においては「古い社会の母斑をまだ身につけて」おり、「商品生産を規制する原則」すなわち「ブルジョア的権利」がなお残っているので、「労働に応じた分配」が行われざるをえない、共産主義の高い段階に進んではじめて「ブルジョア的権利の狭い地平は完全に踏みこえられ」て「必要に応じた分配」が実現されるのだと言っている。ここでの区分は、生産体制の問題を無視して単に狭い意味での「分配」の相違を問題にしているのではなくて、まさに生産体制の基本をなす労働のあり方を区分しているのである。すなわち、「ブルジョア的権利」を身にまとった労働か、その権利を超越した労働(報酬を意図しない労働)か、という違いなのである。
現代の社会でも、報酬を意図しない労働は、例えばボランティア活動などの形で、社会の限られた分野で行われているが、社会のすべての労働が「第一の生活欲求」となり、報酬を意図しない労働になった時、共産主義社会は高い段階に進むと言っているのである。そのためには、生産力の発展と「労働日の短縮」(『資本論』第3巻第48章)が必要であるが、その条件の上で、労働の「経済的・道徳的・精神的」な性格が変化するとマルクスは言っているのだ。不破氏は、この区別を狭い意味での分配問題に矮小化しているのである。
(2)社会主義像をめぐって
第1に、社会主義「革命」概念の放棄について。
不破氏は、「質問・意見に答える」の中で、改定案はなぜ「社会主義的変革」といって「社会主義革命」と言わないのかという質問に対して、次のように答えている。――「民主主義革命」の場合には、「日本の独占資本と対米従属の体制を代表する勢力」から「日本国民の利益を代表する勢力」に「国の権力」が移行するので「革命」と呼んだが、社会主義への前進の場合には、民主連合政府の成長・発展、政権の構成変化・政権の交替などという様々な事態が予想されるので、「国の権力が別の勢力の手に移行することを意味する『革命』という言葉は、使いませんでした」と。
ここで不破氏は、社会主義権力を樹立するまでのプロセス(具体的な政治過程)には様々な可能性があるということを「理由」として、「社会主義革命」の核心をぼかし、「社会主義革命」とはブルジョアジーからプロレタリアートへの権力の移行であるという、階級的視点に立ったマルクス主義(科学的社会主義)の基本命題を放棄していると言わざるをえない。
この改定案では、こうした階級的視点の放棄、あるいはその視点の回避が著しく目につく。それは、多くの箇所で「国民」という言葉が用いられていることに示されている。「国民」とは独占資本(の代表)を含む非階級的概念であるが、当然、労働者階級またはそれを中心とする勤労人民と言われるべきところが、「国民」に置き換えられている。
第2に、中国の「社会主義市場経済」について。
改定案は「人口13億」の地域(すなわち中国)で「市場経済を通じて社会主義へ」という取組みが行われていると述べているが、これは甚だ疑問である。中国共産党の公式見解は別として、中国は「社会主義市場経済」ではなく、外資導入をテコとして資本主義経済への転化の道を歩んでいると見るべきであろう。事実、これまで社会主義経済の基幹部分とされてきた国有企業の工業生産総額に占める比率はすでに半分以下に下がっているだけでなく、国有企業そのものが株式会社化されて資本主義企業に変身しつつあるのである。
第3に、社会主義と市場について。
改定案は、「社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化である」と述べており、「生産手段の社会化」に大きな重点を置いている。ただし、それは「多様な形態をとりうる」と言う。したがって、国有・地方自治体所有・協同組合所有もその範囲に入るであろう。最近、クーポン社会主義論(国が国民に平等にクーポン(引換券)を配布し、国民はそれによって株式市場で企業の株式を購入する、これによって企業の所有は事実上社会化されるとする説――ローマ-『これからの社会主義』参照)が提唱されているが、これも改定案のいう「生産手段の社会化」の「多様な形態」のうちに入るかもしれない。
改定案は、次いで、「市場経済を通じて社会主義に進むことは、日本の条件にかなった社会主義の法則的な発展方向である」と言う。ここでの「日本の」「法則」と言われている意味は明確ではないが、改定案と不破氏は、多様な形態の社会化された企業(ならびに私的な中小企業・農漁業)が市場において相互に競争しあう(まだ資本主義的部門が残っている場合には資本主義部門とも競争しあう)という、いわゆる「市場社会主義」の体制を想定していると思われる。社会主義と市場についてのこの考え方は、不破氏の「党綱領の改定について、市民道徳について」(日本共産党創立81周年記念講演会、『しんぶん赤旗』7月21日)の次の言葉によく表されている。
「市場経済というのは自由に商品が売買され、市場で競争し合う仕組み、体制のことです。これは資本主義に向かう道筋にもなれば、条件によっては社会主義に向かう道筋にもなりうるのです。
日本はいま、資本主義的な市場経済が支配している国であります。そこで私たちが将来社会主義への道に踏み出すとしたら、資本主義的市場経済のただなかに、社会主義の部門が生まれることになるでしょう。もちろん、そこには資本主義の部門が残っていますから、社会主義の部門と資本主義の部門が同じ市場の中で競争し合うことになるでしょう。社会主義の部門が能率が悪くて、製品の出来も悪かったら、そういうだめな社会主義は当然市場で淘汰されます。そういう過程をへながら、経済の面でも一段一段、国民の目と経験で確かめながら、社会主義への段階を進む。」
ここで、市場経済は「条件によっては社会主義に向かう道筋にもなりうる」と言われているが、その「条件」とは、上記の「生産手段の社会化」を意味するものであろう。こうして、私的所有から社会的所有に変革された企業が、資本主義的市場経済と同様の市場経済のもとで競争しあう(資本主義企業との間で、また当然社会主義企業相互間で)という関係が想定されている。ソ連が崩壊した後、その中央集権的計画経済に対する反省から市場社会主義論が一つの有力な議論として台頭してきたが、日本共産党は、今回の改定案でこの潮流に組する立場を表明したものと受け取ることができる。
ここで注目すべきことは、社会主義への移行において生産手段の所有の変革(資本主義的私的所有から社会主義的社会的所有へ)は重視されているが、資本主義の土台となっていた市場経済(商品・貨幣の交換関係)の変革は課題とされず、市場は社会主義のもとでもそのまま機能すると考えられていることである。すなわち、企業の所有は国有、協同組合所有等々の社会的所有となっているが、企業経営はそれぞれ自立的に行われ、それらの企業は市場で商品交換を通じて競争しあい、だめな社会主義企業は淘汰されることもありうる、とされている。市場経済=商品交換関係は、社会主義のもとでも、資本主義と同様に経済の基礎だとされているのである。しかし、これでよろしいか、ということが問題である。
市場経済=商品交換関係が自由に行われれば、価格変動をシグナルとして社会的な需要と供給が調節され、資源の最適配分が達成されるとする説が、近代経済学の有力な学説として主張されているが、これは受け入れ難い。なぜならば、資本主義市場経済のもとで、価格変動は需給をバランスさせるよりも、むしろ社会全体としては需要と供給の不均衡を累積的に拡大させるという傾向が強いからである。そのために、価格が全般的に上昇すると、景気拡大は一層の景気拡大を生み、その果てに繁栄から恐慌に転落し、企業破産や失業を生むという歴史が繰り返されてきたのである。そして、この自由競争の中から独占資本の支配が生まれてきた。こうして、マルクスの言うように、資本主義市場経済は、「資源の最適配分」とはまさに逆の、一方の側での資本の蓄積と他方の側での貧困の蓄積を生むのである。(このことは、現在世界全体で、また先進諸国においても、貧富の格差が拡大しつつあるという現実によって実証されている。)
不破氏は、市場経済は「社会主義に向かう道筋にもなりうる」と言うが、そもそも氏は、市場経済は価格変動をシグナルとして「資源の最適配分」を達成するという近代経済学の主張を受け入れているのであろうか。資本主義市場経済における上記の不均衡累積とそれにともなう市場の暴力を、どのように考えているのであろうか。そうした市場の矛盾は、社会主義の下では自動的に排除されると楽観しているのであろうか。市場での競争は各企業(社会的所有のもとに置かれた企業を含む)にコスト切下げを強い、そのために労働者へのしわ寄せ(賃金切下げ、長時間過密労働など)が起こることはないであろうか。「だめな」社会主義企業は「淘汰」されると言うが、それは労働者の失業を生むことになるのではないか。「社会主義市場経済」といわれる中国では、現にこうした市場の暴力によって労働者が犠牲になるという事態が大規模に展開されている。不破氏は、市場経済を肯定的に評価しながら、こうした疑問に答えようとしていない。
市場経済がもたらすこうした矛盾は、マルクスのいう商品の物神的性格に由来する。すなわち、市場経済では、各生産者は孤立した私的生産者として登場し、生産物を商品として交換することによって初めて相互に社会的な関係を取り結ぶが、その結果、生産者相互の社会的関係は商品という物と物との関係としてたち現われ、人間が物の運動を支配するのではなく、商品という物の自立的運動が孤立した個々の人間を支配するという逆転関係が生まれるのである。こうした市場経済の矛盾は、個々の企業の所有関係が私的所有から社会的所有に転化された後も、それらの個々の企業が孤立して市場で競争し合う限り、克服されない。そこで、こうした市場経済の矛盾の克服も、社会主義への移行に際して不可欠の課題とされなければならない。したがって、資本主義から社会主義への移行に際して、達成されるべき課題は2つである。第1は、資本の賃労働者支配の克服、生産手段の資本主義的私的所有から社会主義的社会的所有への変革、労働者(を中心とする勤労人民)によるその管理運営、という課題である。第2の課題は、商品の物神的性格の止揚であって、市場における商品・貨幣の自立的な運動が人間を支配するという事態を克服して、人間(労働者を始めとする勤労人民)が物の運動を支配する体制を築くということである。換言すれば、商品生産・商品交換関係における労働の私的性格を止揚して、個々人の労働を直接社会的性格の労働へと改変させることである。改定案と不破氏は、社会主義を論じるにあたって、第1の課題を強調しながら、この第2の課題を全く無視しているのである。
とはいえ、資本主義から社会主義に移行した時に、市場=商品交換関係を一挙になくすことはできない。企業間の競争も残るであろう。そこで、資本主義から受け継いだ市場経済のもとで、市場の暴力を克服していくために、労働者を始めとする勤労人民は、市場を社会的にコントロールして、商品生産・商品交換という形式をとった物の運動を人間の意識的管理のもとにおくために、様々な努力と模索――賃金・価格や主要物資の需給などについて事前に基準を設けて企業活動を誘導しつつ、現実の経済実態に即してその修正を図るというフィードバックと、こうした調整を担保する様々な制度・方式(金融制度、重要産業の育成と衰退産業・衰退企業の整理再組織、労働力の再配分と労働者教育と労働移動の際の生活保障、労働意欲向上と技術開発のインセンティブの制度、偽情報の点検、等)の整備――を積み重ねていかなければならない。このような努力を長期にわたって継続することなしには、第2の課題(商品物神性の止揚)は達成されないであろう。
これを進めるための前提は、民主主義の徹底(間接民主主義にとどまらず、直接民主主義の範囲の拡大)であり、労働者を始めとする勤労人民の政治・経済運営への自発的参加にほかならない。すなわち、人民大衆が、全国・地方の政治や、すべての企業・経済団体の運営に、その代表を通じて、また必要に応じて直接に、参加することである。これが、社会主義の第1の課題(生産手段の社会的所有への転化と企業の社会的運営)に際しても、第2の課題(市場の社会的コントロール)に際しても、不可欠な条件である。そして、この人民の広範な民主的参加を保障する鍵は全面的な情報公開(ただし個人情報は除く)であって、国・地方の政府・官庁、すべての企業、すべての政治・経済団体の運営についての情報を公開し、すべての人々が必要な情報にアクセスできる体制を保障することである。この民主主義の拡大と徹底した情報公開こそ、一方でソ連型官僚制的中央集権体制の失敗を避け、他方で無政府的な市場の暴力を克服するための要諦だと言いうる。改定案と不破報告は、第2の課題を無視するとともに、この情報公開の重要性についても全く論及していない点で、欠陥をもっていると言わざるをえない。
将来の社会主義・共産主義への移行を展望するためには、以上の2つの課題を明確に設定し、そのための民主主義の徹底と人民の自発性の高揚、ならびに情報公開原則の重要性を強調した上で、経済運営の具体像についてさらに立ち入った議論を進める必要があると思われる。(人民大衆による市場のコントロールを「市場の社会化」と呼び、そこでの情報公開の重要性を強調している文献として、Diane Elson、 Market Socialism or Socialization of the Market ?、 “New Left Review”、 No.172、 Nov/Dec 1988; do.、 Socializing Markets、 Not Market Socialism、 in Leo Panitch and Colin Leys (ed.)、 “Necessary and Unnecessary Utopias”、 1999. を挙げておく。)