この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。
おこたえに感謝します。でも、私の主張がまげられていることに驚きました。沢山の反論をいただきましたが、あなたと私の大きな違いはただ1点だけなんです。あなたの論旨に沿って混乱をほどいていきましょう。
1)「当面の運動方針や一致点として憲法原則の厳格実施を求める」というあなたの立場は、私の立場と同じです。でも、それは私の立場の一部にすぎません。(7へ続く)
2)「ここにいる人や党の関係者で天皇制を(たとえ「象徴」であっても)不愉快に思わない人、廃止を望まない人はいないはず」と、私も思います。「将来の象徴天皇制の廃止」を望まない共産党員を知りません。ところであなたはなぜ「将来の象徴天皇制の廃止」を望むのですか? 単に不愉快だから? 天皇制を憲法の枠内に封じ込める事で無害化できるのなら将来も廃止しなくても良いのでは?(7へ続く)
3)「問題は、今何をなすべきかなのです」について。
今、何をなすべきかは大切な問題です。ですが、この場は綱領改定案についての意見を述べ合う場です。「党の綱領」というものは、「問題は、今なにをなすべきかである」という観点だけに主眼を置いて書かれるべきものでしょうか。(7へ続く)
4)「また、憲法が規定していることは「腑に落ちるかどうか」の問題ではなく」について。
私は、憲法の規定が腑に落ちないとは書いていません。「君主ではなく、象徴に過ぎない」というあなた(など)の説明が腑に落ちない、と書いたのです。(5へ続く)
5)「象徴」の意味について。
「(人が国を)象徴する」の意味が理解できなければ、「その規範を遵守」しようがありません。あなたは7/25の投稿で「象徴」の意味を次のように説明しています。
「象徴」とは「鳩」が平和の象徴であるとか「星条旗」が米国の象徴であるといった意味であると、どの憲法教科書にも書いてあります。つまり、我々は天皇を鳩や旗のように政治的に無力な存在として扱わねばならないという意味です。
「象徴」という言葉に、(日本国憲法で明文化されるまで)特定の国民・個人が国家を「象徴」する、というような用法は不可だったと思います。国民・個人は国家の構成要素としても存在しているからです(「星条旗を旗の象徴にしましょう」というような滑稽さがあります)。そこで、天皇個人を日本国の象徴とする、と憲法に明文化したとき、天皇個人を日本国の国民から切り離し、もはや「個人」というカテゴリーを超越した存在である事を一般国民に宣言する、そういう効果を発揮しています。ところがやはり天皇は人間であり、皇室一族も日本国の国民です。その矛盾が、天皇を鳩や旗と違って政治的に無力な存在として扱う事を困難にしている一因です。「日の丸」でさへ(教育現場などで)危険な政治的効果を発揮しています。私達は、「共同幻想」が生まれる素地を見極め、制度を越えた巧妙な仕掛けとも闘わねばならないのでしょう?(6へ続く)
6)「憲法解釈はそれ自体が一つの闘いなのです」について。
解釈自体が闘いであるのは、その曖昧さ故、いかようにも解釈されてしまう素地を含んでいるからでしょう。私が自衛隊の問題を持ち出したのは、明快な9条でさへ勝手に解釈されてしまう日本の現状であれば、曖昧さを含んだ天皇条項などなおさら・・・という文脈においてです。「主権者である国民の総意に基づく象徴」は明快と仰るdemocratさんにお聞きします。以下の2点について、法律家の間での理解はどうなっているか、解説していただけないでしょうか?
A.「総意」とはどういう意味でしょうか?この言葉は党の綱領にも使われていますが、私にはよくわかりません。
B.「総意」であることが、いつ、いかなる手続きによって確認されたのですか?
かなり以前に、当時小学校5,6年の子供に訊かれて答えに窮した経験があるので、低レベルですみませんがよろしくお願いします。ちなみにその子は、友達の祖父さんが、(昭和)天皇がテレビに映し出される度に、そこらにある物を投げつけて天皇に向けて罵声を浴びせているのを聞いて知っていたのです。そんな子供にもわかるようにお願いします。
7)「今、天皇制廃止で憲法改正を提起することが百害あって一利なし」について
これまでの議論で、「今、天皇制廃止で憲法改正を提起しなければならない」などと、誰かが主張したでしょうか? 少なくとも私は、それが「百害ある」ことは認識しているつもりです。ただし「一利なし」とは思いません。あなたの「曲解」(論点のすりかえ?)の核心はここにあります。1,2,3)の続きですが、この場は「綱領改定案」をめぐって「党の綱領」はどう書かれるべきかを議論しています。「将来の象徴天皇制の廃止」を強く願っている者の集まりである日本共産党の綱領は、なぜ将来「象徴天皇制」を廃止する必要があるのかを含めて、その思想に基づく廃止の希望と方針を明快に語り、その上で当面の課題と目標を位置付けた書き方にすべきではないかと申し上げているのです。この点で「綱領改定案」が、「天皇制容認」と受け取られても仕方のないほどに本末転倒になっていることへの失望の大きさを理解できませんか?
「情勢が熟したときに国民の総意によって」と、民主国家なら当たり前の事をことさらに書いて、情勢を熟させる方策について書かないのは、綱領の文章としては何ものべていないに等しいと思います。もし、単にその時々の世論の希望に合わせて改良を重ねていくだけの党に生まれ変わるというのなら、党名を変えるのが先でしょう。
8)最後に:
あなたは8/4の投稿で次のように書いています。( )内は引用者注
(天皇制の政治的危険性は)あえて言えば、ソフトなイデオロギー支配の装置としての役割だ。そして、これに対しては憲法と国民多数の意識に依拠して徹底的に天皇制を政治的に無化、中性化していく戦略をとるべきなのである。
私は、「ソフトなイデオロギー支配の装置としての役割」が危険なのは、たとえ憲法の枠内に封じ込める事ができてもなお発現される害悪があるからだと考えています。「象徴天皇制」は、憲法の枠内に封じ込めることができれば問題はないと強調されたら「将来の廃止」も不必要だと考える人が増えるかもしれません。一方、「象徴天皇制」は(将来)廃止すべきと考えているのなら、そのわけを説得的に語れるよう知恵を出し合い、そうした世論を組織し、多数派形成へ向けた努力を重ね、将来に備えねばなりません。たとえその主張があまりに少数派に過ぎる現実があるとしても、その現実を変えていく手続きは同じであるはずです。
私が6)で敢えて子供の質問を持ち出すのは、教育現場は法律の現場とは異なって、日々「ソフトなイデオロギー支配の装置」との闘いを強いられているからです。将来を担う子供達の世界で、「象徴に過ぎない」ものが「憲法の枠内」で、なおふるっている猛威を想像して下さい。先の大戦で、日本国民が精神的にも動員されて行ったのは、絶対天皇制に基づく制度的・物理的な強制があったからではないでしょう。その前科を生んだ本質は「象徴天皇制」にもそのまま受け継がれていると考えます。たとえ憲法の枠内に封じ込めてもです。