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綱領改定討論欄

 この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。

訂正のついでに(「不毛な批判」へのコメント)

2003/8/15 澄空

投稿の訂正
 democrat氏のご指摘どおり、先の投稿の国事行為の部分に思い違いがあったので訂正しておく。また、訂正ついでに、あいかわらず「不毛な批判」が多い点、及び「答えてくれなかった」としている点にコメントしておく。

 まず、国事行為として規定されている任免・認証は、実質的には内閣が行なうものであり、憲法に規定されている以上、天皇の認証を受けるのが筋である。先の投稿は、この点で誤っていた。いずれにせよ、「左翼小児病」なるパフォーマンスはdemocrat氏の頭の中にしか存在しないことは確かだ。
 しかし、川上氏がすでにdemocrat氏の投稿前に指摘してくれているのだが、そのことと現在皇居で行なわれている認証をそのままの形で行なうかどうかは別問題である。
 不破氏はすでに98年9月11日の日本記者クラブ講演で、「共産党が入る『民主連合政府』では天皇の認証式はもちろんやる」と語っている。注意してもらいたいのは、これが、「認証式はやめる」「認証式を見直す(あるいは、見直しを提起する)」という発言ではないことはもちろん、「認証を受ける」でも「認証式に出席する」でもなく、能動的に認証式をやると発言していることだ。つまり、共産党主導の政府で、天皇の認証式をこれまでどおりやると言っているのだ。この発言は、天皇を「政治的に無力な存在として扱わねばならない」と力説するdemocrat氏の姿勢と同じだろうか? 党指導部は、国会の開会式に対して党がこれまで堅持してきた批判的立場を、こと認証式に関しては放棄すると言っているのだ。これは、野党なら批判的立場を維持するが、与党になったら放棄すると言っているに等しい(おそらく、不破指導部は、党国会議員団を開会式にも出席させたいのだろうが、これまでの実践の重みゆえに抵抗できないだけなのだろう)。
 つまり、「政治的に無力な存在として扱わねばならない」という批判的実践に相反することを行なっているのが、天皇制を君主制とみなさず、天皇廃止の方針を棚上げし、国事行為を容認する立場にある現指導部だということだ。
 democrat氏が投稿で何度、「天皇を君主と呼ばないこと」=「天皇を政治的に無力な存在として扱うこと」と主張しようが、それを提起した党指導部自身が実践によって否定しているのである。「実践につながる真摯な対話と討論」を言うdemocrat氏が、私が問うているこの「実践的意味」を無視するのはなぜなのか? それが「真摯な対話」なのだろうか?

質問への回答
 ついでなので、以下の部分について、再度答えておく。

 綱領改定案を批判する人たちは、結局私の挙げた2つの問いに答えてくれなかった。
 1.憲法が明文で統治権を否定している現在の象徴天皇制に対して、あえて「君主制」や「君主」という表現を用いる実践的意味は何か?
 2.憲法の主権在民や政教分離原則の厳格適用ではなく、「天皇制廃止」の方針を掲げることで、具体的にいかなる運動や実践を行うのか。
 不毛な批判でなく、実践につながる真摯な対話と討論をしたければ、固定観念を排してよく考えてほしい。

1、すでに答えは出ているが繰り返す。
 democrat氏は、7月21日の投稿において、改定案が「従前の党の方針を変更し、『天皇制を容認』したものなのか」を論点の一つにあげた。そこで、私や川上氏、S・N生氏はこの点を現行綱領と改定案の比較検討によって論証してみせた。それどころか、この方針転換の「実践的意味」として、この間の党指導部の方針転換(皇太后の弔詞問題など)を指摘した。これが「ブルジョア君主制の一種」という規定を削除する「実践的意味」なのだ。逆に言えば、これこそが、当該規定を残せと私が主張する「実践的意味」なのである。

2、この「不毛な批判」とも言うべき質問には、そもそも答えようがない。
 この人は、何度指摘したらわかってくれるのだろうか? 私は「憲法の主権在民や政教分離原則の厳格適用」をせずに「『天皇制廃止の方針』を掲げ」よとは言っていない。言ってもいないことを勝手に想像して批判するほど「不毛な批判」はなかろう。改定案批判者は、現行綱領どおりに、天皇制廃止の立場を堅持しつつ、それ(憲法の主権在民や政教分離原則の厳格適用)を行なうべきだとしているのだ。対立点は、天皇制廃止の立場を堅持するのか否かにある。対立点をそらそうという無駄な努力はやめるべきだ。
 実際、democrat氏の本音は、「天皇制廃止」の立場などどうでもいいのである。「いずれにせよ、『天皇制廃止』を言わなければ左翼でない、あるいは重大な変節であるなどという偏狭な態度は慎むべきである」という苦言がそのことを証明している。

 編集部は、最新の「さざ波通信」で、私が仮に「憲法解釈主義」と呼んでおいたdemocrat氏の立場を、「解釈護憲」の立場として、その矛盾を指摘している。これについても、democrat氏は、丁寧に「憲法の天皇条項というプリズム」という私の言葉を「憲法をプリズムに」と言い換えて、「憲法軽視」だと「不毛な批判」をしてみせる(もっとも、私は憲法を完全なものとはみなしていないので、democrat氏からすれば軽視ということになるのかもしれないが)。お見事な批判である。
 天皇制廃止を展望する我々左翼が皇室・天皇の行事・行為のあり方について問う場合、その法的実践においては、天皇条項を君主として扱わないという意味で解釈し、その厳格な適用を要求することになる。憲法九条問題と同様、法的実践において憲法解釈自体が重要な闘いになるのは当たり前のことである。批判者の誰が、そんな当たり前のことを誤りだと主張したというのか?
 だが天皇条項は、憲法の平和的・民主的条項の主要な柱となっている憲法九条とは違って、その解釈論を運動や政治闘争の論理にまで拡大適用するならば、それは重大な誤りに転化する。「憲法九条を守れ」というスローガンと同じように、皇族が死んだり生まれたり結婚したりするたびに「象徴天皇制を守れ」という天皇制擁護のスローガンを掲げることができるだろうかと問うてみればその誤りは明白であろう。

最後に
 さつき氏の12日の投稿とも重なるが、私はdemocrat氏の天皇制が「ソフトなイデオロギー支配の装置としての役割」をもつとの主張をみて、厳格解釈論以外にも、イデオロギー批判が重要であることをdemocrat氏が認識しているのかと多少は期待したのだが、とんだ思い違いだったようだ。だが、そのことによって、廃止の立場を堅持しないかぎり、まっとうなイデオロギー批判は不可能であることも、また証明されたわけだ。
 繰り返して言う。天皇条項を廃止する立場を堅持してこそ、憲法の天皇条項を厳格に解釈・適用せよという運動を充実させることができるのであって、当面であれ容認する立場は、その当面において、認識論的あるいは実践的(法的実践のことではない)な天皇制の過小評価にならざるをえないのである。今回の論争の焦点は、端的に言って、この間の天皇制に屈服しつつある党指導部の実践を綱領に明記して認めるのか否かにある。この点を問わない論争は「不毛」である。