この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。
質問への回答をいただいたが、全く回答になっていないのでコメントしておく。
1.憲法が明文で統治権を否定している現在の象徴天皇制に対して、あえて「君主制」や「君主」という表現を用いる実践的意味は何か?
この質問に対する澄空氏の答えは、党指導部の方針転換とその実践的意味を批判するためだそうである。要するに党内闘争のネタということだ。これには率直に言って呆れた。
私が質問した「実践的意味」というのはもちろんそのような内向きの議論ではなく、国民レベルの問題である。つまり、あえて「君主」や「君主制」と呼ぶのは、君主扱いを助長する反動的効果しかないのではないのか、という意味だ(だから、結果的には保守反動勢力と同じ立場になると指摘している)。
「君主」と呼ばないことの実践的意味は、その逆であって、それが君主扱いに反対する端的な理由となるからである。
2.憲法の主権在民や政教分離原則の厳格適用ではなく、「天皇制廃止」の方針を掲げることで、具体的にいかなる運動や実践を行うのか。
この質問について、澄空氏は、「天皇制廃止の立場を堅持しつつ、それ(憲法の主権在民や政教分離原則の厳格適用)を行なう」と答えている。これも全く答えになっていない。
なぜなら、ここにいう「立場を堅持しつつ」の意味が具体的に全く不明だからである。
憲法改正をただちに発議するというのでなく、憲法の枠内で主権在民等の憲法原則を守れというのであれば、結局は象徴天皇制を原則通り守れというのと同じであろう。基本的立場として「堅持」せよというだけなら、綱領改定案や私の立場と何ら異ならない。
なお、現行綱領下の党の天皇問題での実践で、「天皇制反対」を理由にしたものがあるのかどうか? 国会開会式は「召集」とは異なり、国事行為として規定されているわけではないし、特に天皇の「お言葉」は主権在民に反するとして参加しなかったのであろう。賀詞の問題についても、過去において党は「天皇制反対」を理由に賛成しなかったわけではあるまい。個々の問題で、主権在民や政教分離原則に照らして理由を説明しているはずである。
なお、私はこの間の賀詞決議の問題については反対または棄権すべきだったと考えるが、要は象徴天皇制の憲法原則にふさわしいかどうかである。また、天皇が君主でも打倒すべき階級敵でもない以上、賛成が「階級的裏切り行為」などという非難は当たらない。
ついでにさざ波通信最新号の天皇制論について一言コメントしておくと、論者は12もの理由を挙げて天皇が「君主」的な要素をもっていると論じているが、「君主」あるいは「君主制」と断定することは慎重に避けている。しかし、問題は中立的傍観的な解釈論ではなく、変革の立場に立った解釈論であろう。
ここで注目されるのは、憲法の「解釈努力を徹底すればするほど、かえってますます象徴天皇制と国民主権原則との矛盾の方が後景に退き、両者の矛盾を強調するよりも、象徴天皇制と国民主権との調和性を強調する方向に流れざるをえない」(11(4))という論理である。裏を返せば、象徴天皇制と国民主権との矛盾を際立たせるために、憲法原則に天皇制を封じ込める解釈の努力は放棄せよということになる。その証拠に、論者が「解釈護憲論」として批判する横田耕一教授は、天皇代替わりその他、この間の天皇制問題で最も活発な批判活動を行い、数多くの天皇制に関する違憲訴訟で積極的な役割を果たしている憲法学者である。これに対し、象徴天皇が過去の君主制と連続していることを強調する憲法学者は、象徴天皇制を憲法原則の例外(聖域)として扱い、主権在民や政教分離原則違反の実態を容認する傾向にある。論者の議論は、批判すべき敵を誤ったものというほかあるまい。
論者の議論が象徴天皇制を当面打倒すべき制度と認識し、その廃止を掲げるというなら理解できるが、そうでない以上は、「君主」の要素を強調することは実践的には天皇の君主扱いを助長し、(反対ポーズだけはとりつつ、実際には仕方ないものとして)憲法の例外扱いを容認するものというほかあるまい。
象徴天皇制と国民主権との矛盾を強調する戦略は、憲法規範と象徴天皇の実態にそぐわないゆえに、国民多数の支持を得ることはあるまい。象徴天皇制の廃止は、憲法規範の徹底による天皇の政治的無化の延長上にあるものだと私は思う。つまり、「国民主権に反するから廃止する」ではなくて、「政治的に無意味かつ無駄なものだから廃止する」という戦略である。