この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。
「日本共産党綱領」(一九六一年決定)は、「日本人民の真の自由と幸福は、社会主義の建設をつうじてのみ実現される」と主張しています。
そして、「資本主義制度にもとづくいっさいの搾取からの解放、まずしさからの最後的な解放を保障するものは、労働者階級の権力、すなわちプロレタリアート独裁の確立、生産手段の社会化、生産力のゆたかな発展をもたらす社会主義的な計画経済である」と述べています。
これは、一九九四年に改定された現在の「共産党綱領」も基本的に同じ内容です。
生産設備や工場などの「生産手段」を「社会化」しなければならないというのは、資本主義社会では、この生産手段を資本家階級が私的に所有し、生産手段を持たない労働者階級を搾取していたと考えるからです。
不破哲三氏も「『資本主義的私的所有』のうちに、利潤第一主義をはじめ、資本主義のあらゆる矛盾の根源がありました。ここからまず出てくるのは、この矛盾と害悪を乗り越えた新しい社会は、生産手段の社会化-生産手段を-社会の手に移すという形態で、解決しなければならない、という結論です」(『科学的社会主義を学ぶ』)と述べています。
では、「生産手段の社会化」はどのようになされるのでしょうか。
『共産主義読本』は「社会主義社会では生産手段の私的所有は基本的に廃止され、生産手段は社会全体の所有(社会主義国家の所有)か、勤労者たちの共有(共同組合所有)になります」と説明しています。
その説明によれば、共産政権が、第一にすることは「社会主義的国有化」です。
「労働者階級は、権力を握ったあと、その権力を利用して、古い国有財産をプロレタリア国家の国有財産にするとともに、大資本家から重要な生産手段を奪いとって(これを収奪とよびます)、やはりプロレタリア国家の国有財産にしなければなりません。-大工業、鉱山、銀行、運輸、商業貿易などは、大規模に発達して高度に社会的性質を持っていますから、これはただちに社会全体の所有に移すことができます」(『共産主義読本』)
ところが、最近の不破氏は「科学的社会主義の事業がめざす社会主義の目標とは、国家を経済の主役にすることではありません」(二〇〇二年一月『二十一世紀はどんな時代になるか』)と国有化を否定するかのような発言をしています。
しかし、その不破氏が「社会主義が、高度に発展した生産力を基礎に、国民経済を単一の全体として管理し計画化することを要求する以上、生産手段を国家の手に集中し、経済全体の国家的統制と計画化をおこなうことは、社会主義経済の存立の基礎をなす大原則である。マルクスとエンゲルスは、-『共産党宣言』のなかで、『プロレタリアートは、その政治的支配を利用して、ブルジョアジーから次々にいっさいの生産用具を国家の手に、すなわち支配階級として組織されたプロレタリアートの手に集中する』と述べている。」(一九六三年十一月『前衛』)と、まったく逆のことを主張し、国有化を否定する者を「修正主義者」と非難していたのです。
さらに、「ユーゴ綱領によれば、主要な生産手段が国家の手に集中し、国家が経済生活を管理する上で主要な役割を演じているソ連型の社会主義はニセの社会主義であって、社会主義の前進と発展を保障するどころか、逆に、社会主義国家を特権階級の支配する官僚専制国家にかえ、最後には、社会主義の解体と資本主義の復活をもたらすものだ、ということになる」(同)とユーゴの主張をまとめ上げ、それを「社会主義国家なしの社会主義である。-こうした欺瞞(ぎまん)は、マルクス、レーニン主義の社会主義理論についてまったく無知なものに対してしか通用しないだろう」(同)と批判しています。
その不破氏が、最近は「一九九四年の第二十回大会で、-ソ連での『国有化』『集団化』は、人民の解放の形態ではなく、人民を抑圧する専制主義、官僚主義の体制の経済面での土台となった、とはっきり指摘した」(『二十一世紀はどんな時代になるか』)などと、自分が批判していたことを、臆面(おくめん)もなく主張しているのですから驚きです。鉄面皮な不破氏も不破氏ですが、三十数万人という共産党員は、なぜ誰もその矛盾を指摘しないのでしょうか。
政府を「今のままの対米盲従が続けば、日本は、各国から物笑いの種にされるのがオチではないか」(二○○三年一月三日、『しんぶん赤旗』)などと言っていますが、これはそっくり「今のままの不破盲従が続けば、共産党員は、世間から物笑いの種にされるのがオチではないか」と言えるでしょう。