この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。
拙稿「見過ごしにできぬ不破発言」について、あなたはG・ボッファの『ソ連邦史』をよりどころに、「レーニンは正しかった。諸悪の根源はすべてスターリンにある」という「俗説」を展開した上で、「レーニンのように民主集中制の原則を固く(正しくは、堅く)守っていたならばソ連は崩壊しなったのではないか」とのべています。
そこで、まず、指摘しなければならないのは、ボッファの『ソ連邦史』は、ソ連邦崩壊のずっと以前に書かれたもので、「賞味期限切れ」だとだということです。ボッファは、当然のことながら、スターリン批判という限界にとどまっています。しかし、ソ連崩壊以後、ソ連共産党中央委員会の記録文書保管所から、秘密裏に保存されていたレーニン関係の文書が多数明るみに出ました。「レーニン神話」は、すでに過去のものです(ソ連崩壊に際し、数十万のレーニン像が引き倒されたことが、象徴的に物語っています)。
その点で、せめて、ドミートリー・ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密』などを一読されるようおすすめします。
あなたは30代とのことなので、わたしはおそらくあなたがこの世に生を受ける前に共産党員となり、以来約30年間、マルクス・エンゲルスはもとより、『レーニン全集』もほとんど読んできました。ときにはいわゆる「指導する側」の立場で党活動に従事してもきました。したがって、「民主集中制」の「民主」が、実態は、「集中制」を覆いかくす”いちじくの葉”にすぎないこと、現在の多数派=党指導部が半永久的に多数派=指導部にとどまれるよう保証するシステムにすぎないことも、活字の上ではなく、現実の体験をつうじて、いやというほど知っています。
レーニンが『国家と革命』のなかで定式化した「プロレタリアートの独裁」は、結局のところ、「党による代行」(トロツキー)=党独裁に過ぎませんでした。その限りでは、スターリンの「個人独裁」と”万里の長城”でへだてられていたわけではありません。スターリンは、レーニンの「階級独裁」理論の必然的な申し子といえるでしょう。
あなたが「民主集中制の原則」だといっていろいろのべていることは、すべて「民主主義」のイロハです。ことさら「集中」をうたうまでもありません。大事なことは、いま党内にどのような少数意見があるか、たとえば「しんぶん赤旗」に常設の投稿欄をもうけるなどして、つねに「民主的に」全党に明らかにすることです。何年かに1回開かれる党大会のときだけの「ガス抜き」特集で、それも「党をひぼう中傷するものはのせない」(いったいどのような基準で、だれが、「批判」でなく「ひぼう中傷」だと判断するのですか)というようなやり方が、はたして民主主義といえるでしょうか。
こんなことをやっているあいだは、「共産党の常識」は「世間の非常識」となり、共産党離れがますます進むだけでしょう。
ぼっぺんさん、もっと勉強してください!