この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。
7、民族民主統一戦線政府が消失した理由
当面する民主主義革命を憲法が規定する国家体制の枠内での革命ということにすると、民民統一戦線政府の場合、君主制の廃止を放棄するだけですますわけにはいかない。新たに別の問題が発生してくるのである。この別の問題があるからこそ、民民統一戦線政府が生き残れなかったのである。
「君主制を廃止し」に続く文言に注目したい。
「反動的国家機構を根本的に変革して民主共和国をつくり、名実ともに国会を国の最高機関とする人民の民主主義国家体制を確立する。」とある。
現綱領のこの文言については若干の注釈が必要である。ここにいう「人民の民主主義国家体制」とは現行憲法が規定するような国家体制ではないことである。現綱領は第5節冒頭で「日本の当面する革命はアメリカ帝国主義と日本独占資本の支配に反対する新しい民主主義革命、人民の民主主義革命である。」としているが、この革命の性格を示す「人民の民主主義」とは、1961年綱領制定時には次のように説明されていたのである。
「人民民主主義という形態は、労働者、農民を中心とする人民連合独裁およびプロレタリアート独裁に適合する形態」(宮本顕治「日本革命の展望」下、19ページ)である。具体的にはどのような形態・モデルが想定されていたかは措くとしても、現綱領が規定する民民統一戦線政府による民主主義革命は現行憲法の規定する国家体制に収まる代物ではもともとなかったのである。
8、「4・29論文」は何を教えてきたか?
民民統一戦線政府が解体-消失させられた理由をさらに鮮明にするために最初の綱領である1961年綱領の当該部分をみてみよう。
「労働者、農民を中心とする人民の民主連合独裁の性格をもつこの権力は、世界の平和、民主主義、社会主義の勢力と連帯して独立と民主主義の任務をなしとげ、独占資本の政治的経済的支配の復活を阻止し、君主制を廃止し、反動的国家機構を根本的に変革して人民共和国をつくり、名実ともに国会を国の最高機関とする人民の民主主義国家体制を確立する。」(「独裁」は1976年の13回党大会で削除、「人民共和国」を「民主共和国」に変更したのは第20回党大会1994年)
この文章の解釈をかの有名な4・29論文(「極左日和見主義者の中傷と挑発」1967年)に聞いてみよう。この無署名論文は不破氏が執筆に関与した(「赤旗」2000年1月3日「世紀の転換点に立って」参照)ものであり、今回の改定案に対する不破報告でも言及され次のように述べている。「4・29論文とは・・・・国会の多数をえての革命を実現するという路線を理論づけたものでした。」この不破発言をみると今日でも4・29論文は廃棄されておらず有効な党文献であるようである。 この無署名論文は次のようにいう。
「いうまでもなく、『労働者階級は、できあいの国家機構をたんにその手ににぎり、それを自分自身の目的のために使うことはできない』(マルクス)ということ、すなわち、民主主義革命であると社会主義革命であるとを問わず、官僚的、軍事的な国家機構の破壊が、あらゆる人民革命の前提条件であるということは、マルクス・レーニン主義の革命理論の根本命題のひとつである。
それは、今日の資本主義国家の中央集権的国家機構、とくに警察、軍隊、官僚などを中心とする膨大な官僚的・軍事的機構は、本来、人民への抑圧と支配を主要な目的としてつくりあげられた反人民的な機構であり、たんに人民を代表する勢力が議会の多数をしめ、政府を握ったからといって、それだけではこの機構全体を人民の利益のためにそのままつかうことはできないからである。
労働者階級と人民が、ほんとうに自分の手に権力を握り、革命の諸任務を実行し、革命の勝利を確保するためには、官僚的・軍事的機構の粉砕を中心に旧国家機構を根本的に変革し、ほんとうの民主主義的な国家機構-人民の意思にもとづいて運営され、人民の利益のために活動する新しい国家機構をうち立てることが必要になっている。
わが党の綱領は、この点についてマルクス・レーニン主義のこの原則的見地を一貫して堅持して、『君主制を廃止し、反動的国家機構を根本的に変革して人民共和国をつくり、名実ともに国会を国の最高機関とする人民の民主主義的国家体制を確立する』ことが革命がどのような移行形態をとおっておこなわれようと、人民の民主主義権力のもっとも重要な任務のひとつとなることを、明確に規定している。」(「日本共産党重要論文集5、148-149ページ)
1961年綱領やその継承である現綱領の上記文言・「人民の民主主義的国家体制」はもともとはこのように理解され説明されてきたものであり、当面の民主主義革命が現行憲法の枠内の革命であるとは夢想だにされてこなかったのである。
9、「発展的な整理」の基準として現行憲法が浮上した党内事情
そこで、民主主義革命の枠組みを決める基準として現行憲法が浮上してきた党内事情を検討してみよう。1972年末の総選挙における日本共産党の躍進に対して「自由社会を守れ」という自民党の反共産党キャンペーンが始まり、連合政権のあり方をめぐって公明党との憲法論争が起こる。1976年、第13回党大会は「自由と民主主義の宣言」を発表し、民主主義革命の実現した日本でも社会主義日本でも、①普通選挙権にもとづく国会を最高の国家機関とする、②複数政党制、③議院内閣制と政権交代、④三権分立の堅持を公言することとなる。
つまり、「自由と民主主義の宣言」では革命によって実現される国家体制は現行憲法の規定に合致する(現行憲法の枠内におさまる)ものであることを宣言したことになり、現綱領と齟齬をきたす(民主主義革命がめざす国家体制が現行憲法の枠内におさまるのか、突き破るのかというそれ)ことになったのである。爾来、日本共産党は対外的には「自由と民主主義の宣言」にそって党の路線を説明してきたのであるが、齟齬をきたした問題はいずれ解決すべき懸案として残されてきたのである。
この手つかずに残されてきた懸案は二つの解決すべき側面をもっていた。一つは「自由と民主主義の宣言」にあわせて綱領を改定するか否かという側面である。いま一つは現綱領の民民統一戦線政府の国家体制が現行憲法の枠を突き破ることを強制する「マルクス・レーニン主義の革命理論の根本命題」(上記4・29論文)、つまり「官僚的、軍事的国家機構の破壊」という命題(いわゆるプロレタリア独裁論の一命題)と「自由と民主主義の宣言」の上記命題との関係である。双方の命題の整合性というマルクス・レーニン主義理論の問題である。
10、改定案の民主連合政府創設の歴史・理論的根拠
こうした理論と綱領上の二つの問題をかかえているうちに二つの歴史的大事件が発生した。一つはソ連を中心とする社会主義諸国の崩壊(1991年)という世界史的事件であり、もう一つは国内事情、つまり、自・社・さ連立政権の誕生と社会党の崩壊(1996年)およびそれに続く参議院選挙におけるjcpの820万票獲得(1998年)がそれである。
こうした歴史的事情を眼の前にすると、従来からの綱領・理論問題の解決の方向は自ずから定まったというべきである。社会主義諸国の崩壊が示すように、社会主義への逆流は強力であり、日本における社会主義革命の展望はさらに遠のいたと判断するほかないこと、他方では、旧社会党の崩壊により、護憲を旗印とした社会党の票1千数百万票を獲得する目標をほかでもない現実が提起しているということである。
綱領上の問題は現在党内討論が進んでいる改定案の民主連合政府(現行憲法の枠内におさまるそれ)として具体化し、いわば古い伝統的な衣装をまとった民族民主統一戦線政府を解体=削除することによって解決したのである。
後者のマルクス・レーニン主義の革命論の命題は不破氏の個人論文「レーニンと資本論」において、マルクスのいう国家機構の破壊とは「改造」(「経済」1999年11月号、165ページ)のことであると解釈し直すことによって「自由と民主主義の宣言」と和解させたのである。つまり、民主主義革命によって憲法の枠内で国家体制をより民主主義的に「改造」するというわけである。おかげで、マルクスのいう「国家機構の破壊」を真に受けてロシア革命を指導したレーニンは不破氏の批判を浴びることになるという、レーニンにとってはとんだとばっちりまで発生したわけである。
改定案の民主連合政府創設の経緯をこのようにみてくると、時代の経過とともに現行憲法がjcpの「科学的社会主義」を圧倒していく様子がよくわかるのである。
以上が、改定案の民主連合政府が創設された歴史的・理論的根拠であるが、いずれにしても、国民の現実の諸闘争の発展が生み出した産物ではないことは理解できるであろう。