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綱領改定討論欄

 この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。

―拝啓、democratさま―

2004/2/1 愚等虫、40代

 初めまして。
 democratさんのご投稿、拝読させて頂きました。
 ご意見、ご批判を有難うございます。

 この間、ご返事をしたためようか、やめようか、と逡巡しておりましたが、以 下、私の思うところを述べさせて頂きたいと存じます。

 democratさんが仰る、

> 憲法学界で「少数派」であるとはいかなる根拠によるものか、是非 お聞きしたいところである。
 

とのことですが、あなたの引用されておられます、佐藤幸治先生のご見解、

> 天皇が君主としての性格をもつといえるかどうかは、君主というも のの概念規定いかんにかかわる。伝統的な国家形態論によれば、主権が一人に帰する 場合を「君主国」といい、その主権が帰する自然人を「君主」と称する。これによれ ば、日本国憲法下の天皇はいうまでもなく君主ではない。(憲法・1995年)

について、あなたは、 

> 上記の常識的理解と一致するこうした明快な説明で十分と思うが、 …

と述べられておられます。

 私は、なぜ、この説明で、「十分」なのか、まったく解りません。

 いろいろ仰られましても、結局、あなたも、お認めのように、佐藤先生の解釈 では、

>「極めて限定されて(ママ)意味においてである」が「天皇も君主と いえないことはない」

訳なのでしょう?

 佐藤先生は、その前に、

> 必ずしも主権の帰属にとらわれず「君主」というものを理解しよう とする傾向が生じた。
> 伝統的な君主とされるものも、立憲民主主義思想の進展に伴って、その法的権能 が大臣の意向に基づいて行使されるようになった結果、名目化する顕著な傾向が見ら れ、その実態からみれば、特別の身分を背景にその地位が世襲的に継承され、国家的 象徴機能を果たしているのが現在の君主ともいえるところがある。

と、仰っています。
 そして、結論的に、

> あくまでも法的権能そのものにこだわるならば、天皇が君主だとい うことはきわめて限定された意味においてであるということになろう。
 

と言われているのですよね。

 私は、あなたが引用したであろう、佐藤先生の天皇に関する解釈を、 何度も読み返しましたが、佐藤先生は、「君主制ではない」という解釈は採っておら れず、あなたがまさしく、引用されましたように、

> 天皇が君主としての性格をもつといえるかどうかは、君主というも のの概念規定如何にかかわる。

と仰っておられるのであって、

 これで、不破氏の言うが如く、

>「国政に関する権能」をもたないものが「君主」ではありえないこと は、憲法論のうえで明白であります。

と言えますでしょうか?

 また、憲法学界の通説的地位に立つといわれ、近年、お亡くなりになられまし た芦部信喜先生は、その著、「憲法 新版」(1997年)3 天皇の権能(p47) において、以下のように述べておられます。

> *天皇は君主か元首か  君主は、①その地位が世襲で伝統的な権 威をともなうこと、②統治権、少なくとも行政権の一部を有することなどが、主要な 要件とされる。君主制が民主化され君主の権能が名目化されてくるにしたがって、② の要件は不要だという意見が有力となっている。この考え方によれば、天皇を君主と 呼ぶことも可能である。

 芦部先生は、このように、「②の要件は不要だという意見が有力となってい る」とまで、仰っておられるのですよ。
 「天皇は、君主ではない」などと、断定されておられるでしょうか?

 あなたが、過去に引用されました「全訂日本国憲法」は、かの八月革命説で有 名な宮沢俊義先生著・芦部先生補訂(1978年)のことでしょうが、宮沢先生は、

> 君主を有する国家体制が君主制であり、それをもたない国家体制が 共和制である。明治憲法の天皇は君主であったから、当時の日本は君主制であった。 日本国憲法の天皇が君主の性格をもたないという解釈をとれば、その結果として、今 の日本は共和制だといわざるを得ないだろう。

と述べておられ、そういう「解釈をとれば……だろう」とするものであり、不破 氏の如く日本が、「君主制の国に属さず」「天皇が君主だとはいえない」などと決し て「断定」してはおられないのではないのですか?

 しかしながら、続く文章で、あなたは、

> 主権在民の憲法に基づいて原則的に考える憲法学者は、「日本は共 和制」であるとはっきり言い切っている。

と断言し、続いて、

> もちろん、君主の概念をファジーにしてしまえば別の議論も可能だ し、自民党政府は「立憲君主制」というであろう。

と、留保をつけ、さらに、解釈の仕方として、

> しかし、我々が前者の解釈をとるべきなのかは(ママ)明らかでは ないだろうか。(2003/8/8)

と、「共和制」説を採るべきとの見解を述べておられます。

 私は、あなたの解釈を読ませて頂いたとき、驚きを禁じ得ませんでした。日本 が、共和制と断定していいのですか?!と。
 そのような、解釈(共和制説)を採れば、それこそ、「革命は、もう成っているの ではないですか?!」と、繰り返したくなりました。

 流石に、不破氏でさえ、そこまで大胆なことは言えませんでした。
 ところが、あなたの、今回のご投稿では、

> 宮沢俊義のように明快に「共和制」であるといってかまわないと思 うが、そうでなくても「主権在民の民主主義国家」であるといえば十分であろう。 「君主制の一種」などとあえていう必要は全くない。

と、仰っておられます。

 一体、あなたの、ご主張は、何なのでしょうか?
 私には、さっぱり、解りません。

 「明快に「共和制」であるといってかまわないと思う」のなら、明快に言えば いいじゃないですか?
 どうして、言わないのですか?
 どうして、トーンダウンしたのですか?
 不破さんでさえ言えなかったのだから、あなたも「共和制」だとは、言えなくなっ たのでしょうか?
 自信がないんでしょう?

 しかも、あなたは、国家形態における天皇制を問題にしているにも拘わらず、 「「主権在民の民主主義国家」であるといえば十分であろう。」などと、天皇制にも 君主制にも触れないという世にも不思議な「説明」をなされる。
 これでは、不破氏とまったく同様の、単なる政治主義的判断であって、学者の方々 が、何故、わざわざ、憲法論や国家論として、天皇制を解釈、規定しようとされて来 られたのかという意味さえ失わせるようなものではないでしょうか?

 何故、あなたの論は、こんな事になるのか?
 それは、宮沢先生の説に従えば、君主制と共和制の区別しか認めておられず、あな たは、君主制説を取りたくない。とすると、共和制説としか言えなくなるが、天皇を 有しながら共和制とは、どうしても言えないからである。

 あなたは、過去ログにおいて、

> 天皇が「君主」であるという憲法学者はいないでしょう (2003/7/21)

などと、述べておられますが、長谷川正安先生は「国民主権を基礎とした君主制 という国家形態をとっている」(日本の憲法・1978年)と明言されておられます。

 長谷川先生は、共産党の裁判などの弁護もされておられましたから、学者党員 であると断言は致しませんが、党に近い学者であると言えると思います。
 私にも、その他の方で、個人的に知っております、あまり有名でない学者党員も居 ります。
 これらの方々に、その職務として、学問的信条として、どう捉え、今、教えておら れる学生達に、どう対処し、また、これから、どのように教えて行かれるのか、問い かけることが、何か、おかしなことでしょうか?

 私達は、明治天皇の話をしているのではないのです。まさに、日本国憲法下の 天皇の話をしているのでしょう?
 あなたの仰る通り、「戦前と戦後の支配構造の変化」があるからこそ、「君主」と いうものの概念を捉え直そうと、これまで学者の皆さんが努力されてこられたのにも 拘わらず、あなたご自身の考え方のほうが、その変化に応じきれず、相変わらず、 「君主」と聞けば、直ぐに「絶対君主」「伝統的な君主」ということしか考えられな いという「固定観念」に染まっておられるのではないでしょうか?

 だから、佐藤先生が、「現在の君主ともいえる」(95年)と言われ、芦部先 生が、「(統治権・行政権などという)要件は不要だという意見が有力となっている」 (97年)と言われております事にも、まったく、付いて行けていないのではないの でしょうか?

 まさに、あなた自身が仰る、

> 天皇に対して「君主」という言葉を用いるのは、言葉の通常の意味 において強い拒絶感を私は感じる。

ということが、そのことを物語っています。

 ほかの人の事を「観念左翼」などと仰る前に、ご自分の頭の、保守さ加減を、 自己点検し直してみては如何でしょうか?
 あなたの仰る「ソフトなイデオロギー」なるものに染まっておられず、その名に相 応しく、democracyを発展させたいと願っておられるのか、今一度、振り返られたら よろしいのではないでしょうか?

 私が、

> 憲法制定50数年を経て、この間の憲法学は、学者・研究者・法律 家のみならず、市民・労働者達の裁判闘争等を通じて目覚しい発展を遂げてきました。

と述べた意味がお分かりでしょうか?

 いずれに致しましても、あなたが、「最もスタンダード」と言われる佐藤先生 の言葉をお借りすれば、「現在の君主」、私が言うところの「現代的意味の君主」と 解釈するということが、憲法論上、許されない間違いなのでございましょうか?

 マルクス主義の立場からすれば、これを、61年綱領の如く、「天皇制は、ブ ルジョア君主制の一種である」と規定することになるのです。

 私は、先の投稿で触れましたように、この間、「さざ波」通信の詳細な検討や、 皆さんのご投稿、公開討論版の批判等を読みながら、勉強させていただきました。 「さざ波通信・33号」では、その検討の中で、

> 天皇制は君主制ではない、天皇は君主ではない、とする説を採って いる学者もいる(宮沢俊義、横田耕一など)。しかし、このような説は学界では少数 説であり…。

と述べておられます。ただ、私は、上にも述べましたように、宮沢先生も、該当 部分を読ませて頂く限りでは、争いがあることを認められており、「断定」されては おられない、と読むのが素直であると思います。

++++++++++++++

 改めて、61年綱領を、もう一度、引用します。

> 天皇制は絶対主義的な性格を失ったが、ブルジョア君主制の一種と して温存され、アメリカ帝国主義と日本独占資本の政治的思想的支配と軍国主義復活 の道具とされた。

 この部分を分けますと、「天皇制は絶対主義的な性格を失ったが、ブルジョア 君主制の一種として温存された。」そして、「アメリカ帝国主義と日本独占資本の政 治的思想的支配と軍国主義復活の道具とされた。」となります。

 前段部分は、どう読もうと、「天皇制は、君主制の一種である」という規定で すよね。

 私が、党の、講師資格者から貰い受けました資料(00年)によりますと、

> 今日では、君主制の国でも君主が実権を失っている国が少なくあり ません。
 日本の象徴天皇制もその1つです。君主制は、国民の思想的統合の中心として支配 権力に利用されています。

と書かれています。

 当たり前のことですが、党は、ずっと、民青同盟員や、新入党員などに、この ように指導してきたのです。

 それが、突然、7中総の不破報告のように、

> 主権在民の原則を明確にしている日本は、国家制度としては、君主 制の国には属しません。せまい意味での天皇の性格づけとしても、天皇が君主だとは いえない。

と断定しているのです。

 そして、今大会のように、「「君主」ではありえないことは、憲法論のうえで 明白であります。」というように、何の反証もなされず「明白」として報告され、承 認されてしまったのです。
 これが、180度、解釈が変わった、と言わずして、なんと言うのでしょう?

 あなたが仰る、

> 61年綱領の表現が不正確だから訂正する、ただそれだけのことであ ろう。

で、すむ問題とお思いですか?!

 「61年綱領は間違っていたのか」という問いに、「揚げ足取り」と答える。
 私は、本当に、呆れてしまいました。

 私に、資料を渡してくれた講師資格者は、「矛盾している。どう説明してよい のか、困っている。」と、仰っておられます。
 当たり前でしょう。

 これまで語ってきた、党外の知人・友人が、あなたが言うところの「表現が不 正確だった」で、納得されるとお思いですか?
 あなたが、もし、彼等の立場であれば、如何ですか?
 それで、あなたは、納得するのですか?
 あなたは、決して納得されないでしょう?

 私は、あなたの言ってることが、さっぱり解らない。

 このような馬鹿げた事は、本当に、申し上げたくはないことなのですが、あな たの仰る、その「不正確」さの度合いとは、如何ほどと考えられているのですか?  「正確に」お答え下さい。
 答えられないのですか? 答えたくないのですか?
 「君主制である」と「君主制ではない」とは、何度も申しますけれど、180度で しょう?
 世間では、それを、「間違い」「誤り」と申すのです。
 不破氏は「誤解」と言い、あなたは「不正確」と言い、「間違い」「誤り」とは、 決して言わない。
 その思考過程は、私には、瓜二つに思えます。

 個人的な場面ならまだしも、「朝まで生テレビ」などで、私以上に、鋭い突っ 込みがあった時に、そんな詭弁で、皆さんが、納得されるとでも、あなたは、本気で、 お思いなのでしょうか?
 党幹部の「程度」を、全国的に曝すことは間違いないでしょう。

 その昔、中国は戦国時代、
 趙の国に公孫竜と名乗る者がいた。

 白馬を見て、
 馬とは、種々の馬の総名であり、
 白馬とは馬の中の特に白い馬だけを指す。

 故に、白馬は馬に非ず、と強弁した。

 その末路は、詭弁を弄する者
 という汚名だけであった。

 あなたは、「党は…」とか「我々は…」とか仰って居られますが、党員の方な のでしょうか?
 ご自身が党員だ、とは仰っておられませんよね。党員討論欄にも、ご投稿されてお られないようですし、評論版は、お読みのようですが、これは、公開されているもの ですから、どなたでも購入できるものです。

 もちろん、お答えになられなくて、よろしいのですが、このようなことは、他 の問題でしたら、何も訊く必要はないし、私も今まで、尋ねたこともございません。
 しかし、この問題に関しては、党員は、私が語ってまいりました問題を、現実に抱 えているのです。これまで、長年、知人・友人達に、「君主制」と語ってきた者達の 気持ちが、如何ほど、お解りになるものであろうか、と思いましただけの事でござい ます。

 私は、もともと、「統一戦線派」ですから、広く党外の方々と連帯したいと思っ ている者であり、開かれた党に改革したいと思っている者でありますから、党に関心 を持たれ、いろんな意見を出され、支持されますことは、有り難いことだと思ってお ります。

 しかし、党外の方々が、どのように、お考え、解釈をされましょうが、全くご 自由ですが、少なくとも、私にとりましては、「間違い」を「不正確」などと言って、 誤魔化し、「軽く」話せることではないのです。

 もしも、あなたが、党員でしたら、それこそ、大問題です。綱領は、ずっと、 「君主制の一種」と規定しており、それを認める事が、入党の一つの条件なのですか ら。
 また、弁護士さんであられるあなたであるならば、私などよりも、もっと、党内外 において、天皇制の規定について、語られる事が多かたのではないだろうかと思い ます。
 あなたは、これまで、ご自分の過去ログの如く、「日本は共和制」とはっきり言い 切って来られたのですか?
 若い党員や、民青同盟員に、「日本は共和制」と指導してこられたのですか?
 もし、そうだとすれば二重の意味で、「犯罪的」です。61年綱領に反したことを 教え、また、不破氏の「教え」にも叛いているからです。

 また、あなたは、

> マスコミの「天皇制容認」という取り上げ方は全く不正確でために するものでしかない。その点では、今回の大会報道で読売や産経が、逆の立場から、 「言葉だけソフトで本質は変わっていない」と論評している方が正確である。

とも、仰っています。

 また、ここでも、「不正確」ですが、あなたは、「不正確」という言葉がお好 きなようですね。まあ、「不正確」さ、というものには、幅がございましょうから、 あなたにとっては、「便利」な言葉なのでしょう。

 それは、ともかく、私達は、100歩譲って、仮に、「天皇制は、君主制では ない」という不破氏の新解釈が「正しい」のであれば、それはそれとして、「自治的 共生の社会を目指し、天皇制の廃止を展望しています」などというように、発展的な ものと捉えているとして、明確に、記せばよい、と言って参りました。

 しかし、党大会では、そのような「天皇制の廃止」ということは全く触れられ ず、無視され、何の回答もありませんでした。
 党創立以来、80年以上も掲げ続けてきた旗を、斯くも簡単に引き摺り下ろすこと が、「天皇制容認」ではない、などと、何故に言えるのか、私には解りません。

 実際に、もう、マスコミが「不正確」であろうが、そのように報道しているの が、「事実」であり、また、そのように、明確に掲げず、曖昧にしていることが、反 共の側から、「本質は変わっていない」と「批判」され、私の危惧するように、「胡 散臭い政党・謀略政党」と攻撃されつつあるのでは、ありませんか?

 今度の参院選の際に、「綱領には一言も書いていないが、実際は、天皇制廃止 を、たくらんでいるのだ」という「謀略」ビラが出回ることが、私には、目に見える ような気が致します。
 「何故、書かないんだ?」という問いに、一切答えていないのですから、攻撃され ても、私は知りませんからね。

 「君主制(天皇制)の廃止」を綱領に掲げたからと言って、あなたは、「天皇 制を廃止しろ!」などと、デモでもするというような事など、まさか、お考えである 筈はございませんよね。

 実際には、私達が、いろんな場で、いろんな機会に、いろんな人と会話する中 で、「雅子さま」「愛子さま」問題をはじめ、天皇家の人権や人間の平等などについ て、一人一人が、語っていく事、考えていく事こそが、天皇制の廃止、平たく言えば、 「もうやめた方がいいんじゃない」ということに繋がっていくものではないでしょう か、民主主義の発展というものではないでしょうかと、再三、申し上げているのです。

 ここの場でも、私が、投稿しました後に、スバルさんが、

> マスコミは、皇太子の娘が生まれて以後、さかんに『愛子さま』と、 様づけで、報道するが、一市民として、なぜ、自分より年下の人間に、様づけで、呼 ばなければならないのか理解に苦しむところである。

と、仰っておられます。

 私は、お若い方が、そのように考えて居られる事を、心強く思いました。また、 ご友人方は、どのように考えておられるのか等についても、お聞きしたいとも思いま した。
 時間はかかるでしょう。しかし、「未来は若者のもの」であるのならば、彼等に、 「生まれながらにして、特別の人間がいる事は、おかしいんじゃないですか」と疑問 を呈する事から、始まるのではないのですか?
 そのような小さな事の積み重ねが、大事なのではないのですか?

 私は、「さざ波」編集部の方々が、「左派の立場」と仰って居られることに対 して、「私自身は、左派とは思っておりません」と以前、述べました。それは、社会 主義社会の捉え方が、若干違うのではないかという気がしたからです。
 しかし、天皇制問題は、社会主義云々、言う前に、民主主義の問題です。
 従って、この問題に関しては、編集部の皆さんと、かなり近い、考えであると思い ます。

 あなたは、数多く、投稿されておられますし、ここは、事後掲載方式ですので、 編集部の皆さんは、すべて、お読みになっていると思います。
 しかし、大会後の、トピックスを読みましても、あなたが、述べてこられた見解は、 編集部の方々に、何も、影響していないように思います。「ああ、『愚かな虫』は、 私だけではなかったかな」と、思ったものです。

 あなたの論は、編集部の皆さんと、真っ向から違っておりますよね。私などの、 言いたい事もうまく纏められない、「感情的な」者など相手にせずに、編集部の皆さ んを納得させてみては、如何でしょうか?
 さすれば、democratさんの弁護士としての評価は、格段と上がること、請け合いで す。ただ、「democrat」という名で、弁護士登録されておられる訳ではないのでしょ うから、どなたか判らないことが、残念なことなのでしょうが…。

++++++++++++++

 ところで、democratさん。
 あなたとは、初めて、「お目にかかります」よね。私は、皆さんの投稿の中で、声 を掛けられたりしました場合、自分の投稿の中ででも、できるだけ、ご返事するよう にして参りました。
 もちろん、他の投稿を書いていたりして、遅れたり、見落とすこともあるとは思い ますが…。
 しかし、自分の投稿が、特定の方に対するものである場合は、私は、「初めまして」 なり、「こんにちは」なりの挨拶をするのが、礼儀というものではなかろうかと思っ ております。
 それが、たとえ、ネット上の会話であったと致しましても。

 また、私は、あなたのご投稿をこれまで拝読させて頂いて参りましたが、あな たは、「ヒューマニズム」や「人間の尊厳」などというものを、大変、「重要視」さ れ、「尊重」されておられる方であろうと存じます。

 しかしながら、拝読させて頂きました今回のご投稿は、私の投稿に対して、 「デマ」呼ばわりされるものでありました。
 上記のように、佐藤先生、芦部先生、宮沢先生、長谷川先生、党の資料・文献、 「さざ波」通信、そしてあなたの過去ログを含む皆さんのご投稿等を勉強させて頂き ながら、述べさせて頂きましたことが、「デマ」でしょうか?

 上に述べましたように、私の意見は、「さざ波」編集部の考え方と「近い」と は、思いますが、まったく同じであるとは、思っておりません。
 また、あなたの考えとは、捉え方が異なるものであることも、承知しております。
 しかしながら、そのように、ご自分と違う意見を述べますものを「デマ」呼ばわり されますことは、如何でございましょうか。

 私は、以前、SENDさんと長壁さんのやり取りの中で、「党員の資格」云々、 「ゆで蛙症候群」云々、といったことに関しまして、「―連帯の気持ちをこめて―」 と題する投稿をさせて頂きながら、ネット上での意見表明・意見交換につきまして、 私なりの考えを述べさせて頂きました。
 私は、表現の自由は、最大限、護られなけばならない、と思う者です。従って、編 集部の方が、あまり、厳しく、「誹謗・中傷」規定等を濫用されますような事には、 反対である、という考えであります。

 また、一般的な意見表明と特定の相手に対する意見表明は、その質が異なるも のであるとも、思います。
 「日本人は、ゆで蛙症候群を患っているのではないでしょうか。」と問われる事と、 「あなたは、ゆで蛙症候群を患っているのではないでしょうか。」と問われる事は、 大変な違いです。
 前の場合は、「ああ、私も、そうかもしれないな」と、読んでいる者が、自戒する という、よい面もありましょうが、後の場合は、相手の方に対する「非難」とも受け 取られかねないからです。
 従って、「ゆで蛙」という言葉だけを、安易に「言葉刈り」すればよいとは、思い ません。

 長壁さんは、一応、私の投稿を読まれたそうですので、後は、彼女の判断なり、 皆さんの判断に任せようと思いました。
 最近の投稿の中で、やはり、正義味方さんと北熊さんで、見解が分かれたようです が、私の基準は、大体、上のようなものですから、長壁さんも、ご自分で考えて、使 われれば宜しいのではないだろうかと思っております。
 なお、付け加えますと、私の前の投稿は、私自身の立腹の表明です。

 その後、イラク戦争やテロ論議の際に、あなたは、私の上記の投稿をお読みに なられたのかどうかは、存じ上げませんが、「ヒューマニズム」を語られながら、 「党員の資格のない方」云々、また、ecologosさんに対しましては、「人間の尊厳に 関わる言説は絶対的なもの」と仰られながら、「小賢しい思考」「大衆蔑視のニヒリ ズム」などと、述べてこられました。
 私は、どちらが「大衆蔑視」されているのだろうか、と思ったものです。

 私は、一般論として、川上 徹氏の「査問」を引用し、党員が、「党員の資格、 資質がない」と言われたときの事について述べました。
 また、「「ヒューマニズム」は考えれば考えるほど、難しい」とも、「かぎ括弧な しのヒューマニズムを実践することは、さらに、難しいと思っております。」とも、 述べてきました。

 そして、今回の、私への「デマ」発言でございます。
 私は、あなたが、私の、これらの投稿をお読みになられたのかどうかは存じません が、あなたの仰る、「ヒューマニズム」とは何だろう?「人間の尊厳」とは、何なの だろうと考えました。

 私にとりましては、「人間の尊厳」とは、非常に難しく、軽々に使う事のでき ない概念です。
 あなたは、実務法律家のプロでございます故、使い慣れた言葉なのでしょう。
 しかし、私には、あなたが、「ヒューマニズムを揶揄し嘲笑するような人」あるい は、「人間の尊厳に関わる言説は絶対的なもの」などと仰られる事に、ただ単に、相 手を「論破」するための「道具」としか、思っておられないのではないか、と思いま した。

 私は、先に述べましたように、皆さんから、いろいろ勉強させて頂きながら、 また、自分でも調べながら、ない頭をひねくり回して、「ご批判もございましょうが、 ただ、今現在は、私には、これだけの『智慧』しかございません」と、恥を晒してい るようなものかもしれません、と思いながら、書いて参りました。

 ご自分と意見が違うからと言って、簡単に人の投稿を「デマ」呼ばわりされた りするのではなく、かぎ括弧なしのヒューマニズム、人間の尊厳というものを大事に され、実践されますことが、難しい事ではございますが、弁護士という人権を護り、 社会的にも高い地位とされる、お仕事をなさっておられる方々の責務であり、人から も、信頼されることになるのではないでしょうか。

 残念ながら、今回のあなたのご投稿は、大変、不誠実なものとしか、私には受 け取れません。
 私は、かような事は申し上げたくはなかったのですが、不破氏やあなたのような詭 弁を弄し、白を黒と言いくるめるような不誠実な態度には、どうしても我慢できない ものであり、逡巡致しておりましたが、「デマ」という非難を放置しておく訳にも参 らず、一筆したためる事に致しました次第でございます。

 「世界に一つだけの花」という歌がございます。

 昨年の大晦日、日本の多くの家庭で、流れていた歌でしょう。みんないろいろ 違っていてもいいじゃないですか。でも、一人一人を大事にして行こうと、そう思っ て、生きていきませんか?

 至らないところもあった返事かとも存じますが、今一度、皆さんと交わされま した、あなたのこれまでのご投稿を、読み返されまして、お考え下さりますれば、幸 甚に存じ申し上げます。

 ますますのご活躍をお祈り申し上げます。

 敬具。