この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。
ぽっぺんさんのご投稿を読ませてもらって、感じたことを意見させていただきます。基本的にぽっぺんさんへのレスですが、関連してdemocratさんの投稿にも触れています。
ぽっぺんさんのおっしゃる通り、天皇制問題や自衛隊問題については、新綱領は「国民の合意」だの「国民の総意」だのによって解決するという風に、その「プロセス」を明らかにしています。
このように「プロセス」を明記することが本当に大切なことなら、綱領にかかげるすべての政策について「国民の合意」をうたう必要があろうと思うんですが、どうしたことか、たったの3つの政策にしか、その「プロセス」は明記されていません。
ちなみに、残る1つの政策は「社会主義的変革」です。いずれの政策も、「左派」的で国民の“ウケ”が悪いと指導部が考えているんでしょう。私にはそれ以外の基準は思いつきません。なお、この中に安保廃棄政策が入らなかったことは一抹の救いであったと思っています。
よく不破議長は「誤解をまねく」という言葉を使います。彼がこの言葉を使う時に念頭においているのは、思うに、「共産党は国民の意思に関係なく天皇制をなくしたり自衛隊をなくしたり社会主義にしたりする」という「反共攻撃」でしょう。
現在の不破議長は、それらの攻撃に対して、堂々と「天皇制は国民主権や人権、民主主義に反するがゆえに共産党は反対しています」等と反撃することはやめてしまったようです。“国民の意思に関係なくやるなんてめっそうもない、そんなことはしません、安心してください”という気持ちが、「誤解をまねく」という言葉にあらわれています。念には念を入れて、「国民の合意」で決めますよ、「国民の総意」ですすめますよというわけです。こうした“念には念を”式の「プロセス」明記が、それほどすばらしい方針提起なのでしょうか?
もちろん、念には念を入れて「国民の合意」を強調したいだけのことなら、そうそう厳しい指導部批判は出なかったでしょう。しかし、不破指導部は、それに留まらず61年綱領で示されてきた天皇制等についてのマルクス主義的概念規定を放棄する新綱領を提示しました。
天皇制に関する61年綱領の概念規定は、(1)「ブルジョア君主制の一種」、(2)「アメリカ帝国主義と日本独占資本の政治的思想的支配と軍国主義復活の道具」によって成り立っています。綱領という文書の性格から、ごく一般的な規定にとどめられているわけですが、それでも実践的な方向性はおのずと明らかになります。
(1)「ブルジョア君主制」なのだから、ブルジョアジーを倒す革命によって廃止しなければならないこと、また革命に至るまでの闘争においても、(2)支配層によるその政治的・思想的利用に反対してたたかわなければならない、ということです。
この61年綱領の概念規定において「君主」という用語を用いたことが、あたかも天皇を伝統的な意味での「君主」扱いしているかのように言う不破議長やdemocratさんの議論は、まさしく白を黒と言いくるめる議論であり、二重三重四重に卑劣な議論です。なぜなら、61年綱領の概念規定を問題にしながら、<1>その概念規定の核心には触れず、<2>「君主」という用語だけを批判の対象とし、<3>敵に対する非難のごとく「実践的には、こういう復古主義者たちを喜ばせる性質のものとなる」(※このように大会での不破報告はdemocratさんの論拠を採用しました)などと難癖をつけ、<4>それでいて61年綱領の概念規定に替わる新たな概念規定をまったく提出していないからです。
もちろん新綱領が現在の天皇制について何も規定していないわけではありません。「一人の個人が世襲で『国民統合』の象徴となるという現制度」と規定しています。たったこれだけです! ずいぶんスッキリしました。democratさんも「国民主権のもとで統治権を全く失った天皇は『君主』と呼べないとしたことで、説明も理解もすっきりするはずです」と太鼓判をおされています。
これは確かに「常識的」な規定には違いないでしょうが、この規定は天皇制とは何であるかについて何の説明もしていません。つまり、概念規定とは言えません。天皇制の概念規定は、その生い立ち、制度とその実態、国家や国政において果たしている役割、社会において果たしている役割やイデオロギー的影響等から導かれるものです。戦後の天皇制研究は、それこそさまざまな方面から行われてきました。それら一切合財を無視して、天皇制の規定を憲法の条文からのみ規定し、それを研究者や活動家に押しつけていいのでしょうか?
この新規定は、実践的側面からみても、61年綱領からの大幅な後退につながります。
新綱領の「一人の個人が世襲で『国民統合』の象徴となるという現制度」という規定に基づく実践とは、これまでのdemocratさんの議論によれば「君主」扱いしないことにつきるようです。それだけでいいのでしょうか? 61年綱領の(1)と(2)の規定は、一体の関係にあります。(1)の規定は、天皇制がけっして支配層のただの操り人形ではなく独自の権威・機能をもっていることを暗示していますし、(2)の規定は支配層がそれを利用する場合、必ずしも「君主」扱いの範疇に留まるものではないということをも暗示しています。
「すっきり」しない見方かもしれませんが、それだけ天皇制の危険な側面についてしっかり捉えていたのです。それを新綱領が否定したことは日本の社会変革の運動にとって重大な後退だと私は考えています。
「君主」という言葉を使いたくないならそれでもいいでしょう。そのかわり、天皇制について「君主」という言葉を用いずに、少なくとも61年綱領のレベルで概念規定をすべきです。「ブルジョア君主制の一種」という替わりに、二重三重にややこしい説明をすればきっとよりよい規定ができるはずです。