この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。
>61年綱領の下で党員の歴史学者は綱領に書かれた歴史叙述と評価に反する見解は発表できなかったのでしょうか? また、経済学者は帝国主義や独占資本主義に関して綱領の記述にいちいち縛られていたわけでしょうか? 憲法学者は「ブルジョア君主制」という評価に反する見解は書けなかったのでしょうか?
直接知り合いの学者党員はいませんし、この種の処分の経過が報告、公開された記憶がないため具体的事例をあげることはわたくしには出来ません。したがって、犬丸義一氏のことも知りませんので、democratさんのように次のようなことも信じがたいのです。
>犬丸氏はそうした実情を知っていてあえて党中央に対する抗議のために「自著の出版を断念せざるを得ない」と言っているのでしょうが
繰り返しになりますが、規約と党運営の実際が犬丸氏にそう判断させていると考える方がわたくしには自然に思えます。その根拠は「党の決定に反する意見を、勝手に発表することはしない」との規定は範囲が広く指導部によって都合よく解釈適用される可能性をもっている一方、問題にされた学者研究者には異議を申し立てても十分民主的な手続きが保証されていないと考えるからです。党内民主主義の現状に対するわたくしの問題意識もあります。
たとえば、先の規約に続けて「ただし、研究者が自らの研究成果を論文や著書として発表する場合にはこの限りでない」などとあればdemoccratさんのように「規約違反として問題にされることはありません」ということになるのかも知れません。
ぎゃくに、頭に思い浮かぶのは石堂清倫、田口・不破論争、中野徹三、高橋彦博、有田芳生、萩原遼等の各氏をめぐる党の問題です。もちろん、問題の性質がすべて同じというわけではないと思いますが、学問研究、異論、出版、討論等と党の決定とをめぐる問題に深く関わっているように思っています。また、問題は学者研究者に限ったことではありません。一般党員も、インターネット、ミニコミ誌、口頭での意見交換など党の決定と異なる見解を発表し論議し検証する場面は、今日のように複雑で多様な社会状況にあって、理論的にも実践的にも日常的なものとなっています。「さざ波通信」はその典型的なものでしょう。
「君主制」のような大きなテーマについては賛否は別としてももっと時間をかけて十分論議をすべきであった、そのような余裕のある配慮した党運営をすべきであるとわたくしは思います。そうでないために「学問研究の本来もつ進歩的・批判的性格を否定し、学問研究を政治に従属させるものとして厳しく批判されるべき」(democratさん)状況がつくられてきたのではないかと思っています。
このことは「学問研究」にかぎられたことではなく日々の理論的実践的問題でもあり、党内はもとよりなによりも社会と党との関わりの問題だと思います。