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綱領改定討論欄

 この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。

澄空氏へ

2004/2/23 democrat、40代、弁護士

 渡辺治氏の『日本の大国化とネオ・ナショナリズムの形成』がなかなか入手できなかったので返事が遅れたが、議論自体は堂々巡りで元に戻ってしまったようだ。

 とはいえ、まず、渡辺氏のこの著作からわざわざ長文の引用をしていただいたことにはお礼を申し上げる。

 確かに、この最後の論文(「戦後憲法学と天皇制」)では澄空氏の言うように渡辺氏は憲法の「一枚岩的把握」の限界を指摘し、憲法の天皇条項が他の部分と整合的でないことを強調しているし、「君主制」という言葉も使用している。
 ただ、この論文は1989年10月、すなわち昭和天皇死去の年に行われた報告であり、澄空氏の引用した部分に「今回の天皇現象」として再三強調されている天皇代替わりの異常な天皇ブームを背景としたものであるため、従来の憲法学説に対する批判のトーンが突出しすぎているように私には感じられる。渡辺氏自身、著作の「あとがき」で次のように述べている。
 「私が突然後ろから頭を殴られたように感じたのは、1988年秋から始まった、昭和天皇の重体から死去、代替わり儀式と続いた一連の騒動であった。天皇制は生きていたのか? 慌てて検討を余儀なくされた。その結果、結論はそう単純ではなく、やはり政治支配の中での天皇の地位は〔戦前とは〕根本的に変わっていたし、現代の政治においては企業社会と自民党政治こそが主役で、天皇はあくまで利用の対象として変化しているという感触を得た」(p345)  実際に、澄空氏の指摘したこの最後の箇所以外に渡辺氏が現代天皇制を「君主」あるいは「君主制」という概念で述べたところはないし、この著作の中で最新の書き下ろし論文である『ネオナショナリズムの台頭の背景と役割』では、「大国主義的統合への天皇の援用の放棄」という項目で天皇制の役割の低下(「天皇抜きのナショナリズム」!)を指摘しているほどである(p229)。すなわち、澄空氏が新綱領の軽視しているものとして挙げた「〈2〉「国民統合」の象徴として制度を残したこと、〈3〉それによって日本社会において天皇・皇室の権威が今なお存在していること」は、渡辺氏自身によってその希薄化が指摘されているのである。
 なお、これに関連して、渡辺氏はこの著作の「はしがき」で、現代日本の大国化は政治主導のものでなく新たな資本の動向を背景としたものだとわかったので「日本帝国主義の復活」とは規定せず「現代帝国主義化」と規定すると述べて、見解の見直しを表明している。

 次に、天皇制は「戦後保守政治の従属変数」だとする渡辺氏の規定は、澄空氏によると61年綱領の「アメリカ帝国主義と日本独占資本の政治的思想的支配と軍国主義復活の道具」という規定と「事実上同じもの」だそうだが、これは全く牽強附会な議論であろう。むしろこのような固定的な概念把握を排するところに「従属変数」という規定の意味がある。それは私が前回引用した「従属変数」という言葉を説明した箇所の前後に、「憲法が外形的にも天皇から一切の政治的権能を周到に排除してしまったために、戦後天皇制は・・・日本の支配層の期待する国民統合的役割を果たすことができなくなった」、「戦後天皇制を分析するには、天皇制そのものよりも支配構造の分析の方をまずやらねばならず、そのうえで、ときどきの支配構造内で天皇がいかなる役割を果たすことが求められたかを検討するという手続きをとる必要がある」(p293)と書いていることからも明らかである。

 憲法の「イデオロギー的批判」や天皇条項と他の条項との矛盾をどれだけ強調するかは、それが憲法改正に結びつく主張であるだけにデリケートな情勢判断が必要となる。現在の国会情勢と国民世論の動向をみれば、天皇制廃止を掲げて憲法改正を提起することは、逆に天皇の元首化と国事行為の拡大を招く可能性が高いであろう。志位氏の「国旗・国歌」制定の問題提起が全く誤りであったことを見ても明らかなことである。
 それゆえ、横田耕一氏のような最も天皇制批判の実践に積極的に取り組んでいる憲法学者らは、象徴天皇条項の原則的解釈によって天皇の政治利用に対抗しようとしているのである。

>>政治的かどうかを問わず天皇が「独自の権威・権能」を持っているとしても、なにゆえそれをあえて「ブルジョア君主制の一種」と考えない限り説明ができないのかさっぱりわからない。結局は、統治権を基礎とする伝統的君主概念に立たないのであれば、「ブルジョア君主制の一種」を新たにどう概念規定するかに依拠した議論にすぎないのだから、「私は君主制をこのように概念規定するから、こう説明する」というトートロジーにすぎまい。
>なるほど。モノは言いよう。同じように、天皇は伝統的「君主」ではないから、「君主」扱いしない、これまたトートロジーのお手本と言えよう。

 人の議論を理解しようとせずに、ああいえばこういう風に反論すればよいというものではなかろう。伝統的君主概念は一般的常識的理解であるがゆえに説明概念として有効なのであり、逆にその概念を再構成して用いることは伝統的概念の負の呪縛力を免れないだろうと批判しているのである。「君主」という言葉を用いることで、憲法が政治的権威権能を明確に否定している天皇をあたかも伝統的君主であるかのように感じさせる、その効果を批判しているのだ。

 澄空氏の挙げた例で、「もっとわかりやすく説明しよう」。

>私のある親類の家のリビングには、“皇室カレンダー”が飾ってあり、その住人は、天皇が伝統的な意味での「君主」だとは思っていないし、伝統的な意味での「君主」扱いしてよいとは考えていないし、その「政治利用」についてもうさんくさく思っているにも関わらず、天皇や皇室の人を特別な存在だとみなし、彼らの名前にはかならず“様”をつける。・・・

 さて、澄空氏はこのような人に対してどうやって「天皇の権威そのものをなくしていく」というのだろうか? 憲法の象徴天皇条項そのものがおかしいといって「憲法のイデオロギー的批判」をしたところで、このような人はそうは思わないというだけだろう。まして、伝統的な意味での「君主」とは思っていないならその意味での権威は否定されているのであるから、あえて「ブルジョア君主制」などとまぎらわしい再定義をしてやる必要はさらさらない。
 「権威」をなくしていくためには、権威が再生産・強化されるあらゆる要素をねばり強く排除していくほかあるまい。政治的権威権能の否定はその最大のものであるし、憲法の原則的解釈による天皇の活動範囲の縮小、政治的利用や憲法逸脱行為の批判(「君主」的扱いの批判)はそれ自体が社会的権威の再生産を防ぐための方法である。
 「天皇制はいらない」という点で私を含めここで議論している人に異論があるわけではなかろう。問題はそういうだけでは天皇制はなくならないし、天皇制廃止で憲法改正の提起をできる情勢にはないということだ。「天皇制廃止の実践」といっても、当面は憲法に依拠した闘いしかないのである。