この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。
短い時間で、議論の中でとりあげた著書を読み、レスいただいたことに感謝申し上げる。しかし、浅読みの感はぬぐえない。
確かに、この最後の論文(「戦後憲法学と天皇制」)では澄空氏の言うように渡辺氏は憲法の「一枚岩的把握」の限界を指摘し、憲法の天皇条項が他の部分と整合的でないことを強調しているし、「君主制」という言葉も使用している。
ただ、この論文は1989年10月、すなわち昭和天皇死去の年に行われた報告であり、澄空氏の引用した部分に「今回の天皇現象」として再三強調されている天皇代替わりの異常な天皇ブームを背景としたものであるため、従来の憲法学説に対する批判のトーンが突出しすぎているように私には感じられる。渡辺氏自身、著作の「あとがき」で次のように述べている。
「私が突然後ろから頭を殴られたように感じたのは、1988年秋から始まった、昭和天皇の重体から死去、代替わり儀式と続いた一連の騒動であった。天皇制は生きていたのか? 慌てて検討を余儀なくされた。その結果、結論はそう単純ではなく、やはり政治支配の中での天皇の地位は〔戦前とは〕根本的に変わっていたし、現代の政治においては企業社会と自民党政治こそが主役で、天皇はあくまで利用の対象として変化しているという感触を得た」(p345) 実際に、澄空氏の指摘したこの最後の箇所以外に渡辺氏が現代天皇制を「君主」あるいは「君主制」という概念で述べたところはないし、この著作の中で最新の書き下ろし論文である『ネオナショナリズムの台頭の背景と役割』では、「大国主義的統合への天皇の援用の放棄」という項目で天皇制の役割の低下(「天皇抜きのナショナリズム」!)を指摘しているほどである(p229)。すなわち、澄空氏が新綱領の軽視しているものとして挙げた「〈2〉「国民統合」の象徴として制度を残したこと、〈3〉それによって日本社会において天皇・皇室の権威が今なお存在していること」は、渡辺氏自身によってその希薄化が指摘されているのである。
まったく牽強附会、ご都合主義というほかないだろう。反論するほどのことはない、この著書の構成だけ確認しておけば十分であろう。
この著書は三部編成で、天皇制について論じた部分は、第一部と第三部だ。第一部は導入部分ないし「全体を概観」(著者「はしがき」より)している部分、あなたが引用した部分は「90年代の大国化を扱った」(同上)部分であって、直接天皇制について論じた部分ではない。
そして、私が引用した「天皇制に関する理論史的検討」と題されている第三部が、天皇制について検討した部分である。天皇制について直接論じたのでない部分から引用して議論を組み立てるなら、渡辺氏の思想とはかけ離れた議論を組み立てることも可能だし、実際にあなたの解釈はそういう類のものだ。どうしたって、渡辺氏はあなたの議論の援用にはならないのである。
なお、これに関連して、渡辺氏はこの著作の「はしがき」で、現代日本の大国化は政治主導のものでなく新たな資本の動向を背景としたものだとわかったので「日本帝国主義の復活」とは規定せず「現代帝国主義化」と規定すると述べて、見解の見直しを表明している。
まったくおっしゃる通り。それで?
「なお」、私は渡辺氏が見解を見直す前から、彼の議論が上部構造レベルの議論に留まっていることに不満をもっていた。同様の不満をもっていた渡辺愛読者は多いはずだ。とはいえ、この渡辺氏の限界にも、それなりの理由がある。その一つは、経済学は彼の専門ではないという理由であり、もう一つは、当時の共産党(指導部)などの左翼がもっていた弱点を彼もまた共有していたということだ。 ついでなので言うが、渡辺氏の天皇制論についても、以前の帝国主義復活論と同様に政治的側面に偏重しているという弱点をもっていた。だからこそ「突然後ろから頭を殴られたように感じた」のであり、その経験を通じて真摯な検討を加えた結果が、本書の第三部となっているのだ。
付け加えておくが、「突然後ろから頭を殴られたように感じた」のは彼だけではない。われわれの多くがそうだった。そして渡辺氏は身の危険をかえりみず天皇制の問題を問い続けたし、当時の共産党幹部や『赤旗』もそうであった。それゆえに、私は渡辺氏を心から尊敬しているし、この共産党の歴史を誇りに思っている。
そして今、共産党指導部が、渡辺氏の見直しとは逆の方向へその見解を見直したという事実に、私は心底悲しんでいるのだ。
話がそれたが、いずれにしても、新綱領は「帝国主義の復活」という規定も「現代帝国主義化」という規定も放棄してしまっているのであり、渡辺氏の理論が否定されているという私の論旨には影響がない。
次に、天皇制は「戦後保守政治の従属変数」だとする渡辺氏の規定は、澄空氏によると61年綱領の「アメリカ帝国主義と日本独占資本の政治的思想的支配と軍国主義復活の道具」という規定と「事実上同じもの」だそうだが、これは全く牽強附会な議論であろう。むしろこのような固定的な概念把握を排するところに「従属変数」という規定の意味がある。それは私が前回引用した「従属変数」という言葉を説明した箇所の前後に、「憲法が外形的にも天皇から一切の政治的権能を周到に排除してしまったために、戦後天皇制は・・・日本の支配層の期待する国民統合的役割を果たすことができなくなった」、「戦後天皇制を分析するには、天皇制そのものよりも支配構造の分析の方をまずやらねばならず、そのうえで、ときどきの支配構造内で天皇がいかなる役割を果たすことが求められたかを検討するという手続きをとる必要がある」(p293)と書いていることからも明らかである。
「明らか」? どこが? ここの渡辺理論の解説はすでに私が投稿で述べたことであるし、いったい、ここから、どう読めばあなたのような解釈ができるのか?
「戦後保守政治の従属変数」という渡辺氏の規定と私も言ってるが、これは彼の規定を簡略化して言ってるだけで、渡辺氏自身が“比喩的に言えば”という限定をつけている。その比喩の前後に、「天皇制は戦後の政治構造の一角から完全に脱落し、もっぱら支配層の利用対象となったのである」と言っている。
支配層の「道具」と言うのと支配層の「利用対象」と言うのとが、いったいどれほど違うのか? それも、あなたは「排する」という言葉まで使っている。どうして後者が前者を「排する」ことができるのか、“誰にもわかるように”説明していただきたいものだ。
憲法の「イデオロギー的批判」や天皇条項と他の条項との矛盾をどれだけ強調するかは、それが憲法改正に結びつく主張であるだけにデリケートな情勢判断が必要となる。現在の国会情勢と国民世論の動向をみれば、天皇制廃止を掲げて憲法改正を提起することは、逆に天皇の元首化と国事行為の拡大を招く可能性が高いであろう。志位氏の「国旗・国歌」制定の問題提起が全く誤りであったことを見ても明らかなことである。
それゆえ、横田耕一氏のような最も天皇制批判の実践に積極的に取り組んでいる憲法学者らは、象徴天皇条項の原則的解釈によって天皇の政治利用に対抗しようとしているのである。
「天皇制廃止を掲げて憲法改正を提起する」とは私の言葉ではない。あなたにかかれば「天皇条項と他の条項との矛盾」を「強調する」ことは、「天皇廃止を掲げて憲法改正を提起すること」になるそうだが、ここには大きな論理飛躍がある。どうして両者がイコールで結ばれるのか、“誰にでもわかるように”説明したらどうなのか?
>>政治的かどうかを問わず天皇が「独自の権威・権能」を持っているとしても、なにゆえそれをあえて「ブルジョア君主制の一種」と考えない限り説明ができないのかさっぱりわからない。結局は、統治権を基礎とする伝統的君主概念に立たないのであれば、「ブルジョア君主制の一種」を新たにどう概念規定するかに依拠した議論にすぎないのだから、「私は君主制をこのように概念規定するから、こう説明する」というトートロジーにすぎまい。
>なるほど。モノは言いよう。同じように、天皇は伝統的「君主」ではないから「君主」扱いしない、これまたトートロジーのお手本と言えよう。
人の議論を理解しようとせずに、ああいえばこういう風に反論すればよいというものではなかろう。伝統的君主概念は一般的常識的理解であるがゆえに説明概念として有効なのであり、逆にその概念を再構成して用いることは伝統的概念の負の呪縛力を免れないだろうと批判しているのである。「君主」という言葉を用いることで、憲法が政治的権威権能を明確に否定している天皇をあたかも伝統的君主であるかのように感じさせる、その効果を批判しているのだ。
「ああいえばこういう風に反論」? どこが?
自分の尺度で人を見てはいけない。私はあなたみたいに、「人の議論を理解しようとせずに」卑劣な攻撃を繰り返すことは決してしていない。
(1)天皇は伝統的「君主」ではないから、「君主」扱いしない、というのは文字どおりトートロジーである。この論理は、逆に言えば、天皇が「君主」であれば「君主」扱いすることを正当化する現状屈服の論理と同類である。大日本帝国の天皇であろうが、日本国憲法の天皇であろうが、われわれはそれが民主主義や平等、人権といった価値に反するがゆえに君主扱いしないのである。
(2)戦前の君主制の残り物として日本国憲法に残された天皇制という制度自体が「負の呪縛力」を持っているのであって、「伝統的概念」がそれを持っているのではない。前にも説明したように、そのような考え方は観念論である。憲法の解釈論はあくまで法律の領域にのみ通用するものであって、それをもってブルジョア社会の分析に代えることはできないのである。
澄空氏の挙げた例で、「もっとわかりやすく説明しよう」。
>私のある親類の家のリビングには、“皇室カレンダー”が飾ってあり、その住人は、天皇が伝統的な意味での「君主」だとは思っていないし、伝統的な意味での「君主」扱いしてよいとは考えていないし、その「政治利用」についてもうさんくさく思っているにも関わらず、天皇や皇室の人を特別な存在だとみなし、彼らの名前にはかならず“様”をつける。・・・
さて、澄空氏はこのような人に対してどうやって「天皇の権威そのものをなくしていく」というのだろうか? 憲法の象徴天皇条項そのものがおかしいといって「憲法のイデオロギー的批判」をしたところで、このような人はそうは思わないというだけだろう。まして、伝統的な意味での「君主」とは思っていないならその意味での権威は否定されているのであるから、あえて「ブルジョア君主制」などとまぎらわしい再定義をしてやる必要はさらさらない。
「再定義」? あなたにとって、イデオロギー批判とはまさに、概念「定義」を変更する事にすぎないということがよくわかった。それは確かに、あなたが口酸っぱくおっしゃる「君主」でないから「君主」扱いしないという概念定義だけでは変えられないだろう。そういう例を私は挙げたのだから。
「権威」をなくしていくためには、権威が再生産・強化されるあらゆる要素をねばり強く排除していくほかあるまい。政治的権威権能の否定はその最大のものであるし、憲法の原則的解釈による天皇の活動範囲の縮小、政治的利用や憲法逸脱行為の批判(「君主」的扱いの批判)はそれ自体が社会的権威の再生産を防ぐための方法である。
では、どうすれば変わるのか? それは、私の親類が、天皇の権威よりも大切だと思う価値と、天皇制とが相容れないということを社会生活の中で実感する以外にはありえないだろう。あなたの挙げた例は、権威が政治的に拡大するのを防ぐ意味はあるが、それ以上のものではない。「君主」でないから「君主」扱いしないというトートロジーを声高に叫ぶだけでは不十分である。
「天皇制はいらない」という点で私を含めここで議論している人に異論があるわけではなかろう。問題はそういうだけでは天皇制はなくならないし、天皇制廃止で憲法改正の提起をできる情勢にはないということだ。「天皇制廃止の実践」といっても、当面は憲法に依拠した闘いしかないのである。
天皇の政治利用を批判することは、それこそここで議論をしている人の間で異論はないだろう。それに、天皇の政治利用を批判する際にも、「君主」でないから「君主」扱いしないというトートロジーよりも、それが「民主主義に反するから」、という論理の方が明快であり、訴える力が大きいと私は確信している。その点でも、新綱領よりも61年綱領の方が立場は鮮明なのである。
「憲法に依拠した闘いしかない」ことはないし、闘いを法廷の中だけに留めてはならない。しかも、あなたのいう憲法とは象徴天皇を規定した「天皇条項」のことではないか。
あなたが“天皇制はいらない”と言うのは、ただの好き嫌いのレベルであることは、これまでの議論を通じて明らかであるが、われわれが、“天皇制はいらない”と言うのは、それが憲法の原理でもある民主主義や平等、人権等われわれが守るべき価値に反すると考えるからである。
日本社会における天皇制の権威は、決してどうでもよいとみなせるものではない。天皇制を「君主制」とみなすか否かにかかわらず、社会において何らかの権威を認めること自体が民主主義の否定なのである。その社会的権威が広範なものであればあるほど、その権威を維持強化するためには暴力も辞さない勢力を生む土壌となるし、現実にそうなっている。これは天皇制に限るものではない。マルクス主義の偉人たちは、みなそのような社会的権威を否定したが、スターリンのように独裁者となった者は、逆にその権威(ロシア革命とレーニンの権威)を最大限に利用したのである。
要するに「内なる天皇制」との闘いとは、日本社会内部の民主主義を守り広げる闘いにほかならないのである。共産党が、真に「民主主義革命」をめざすというなら、天皇制の廃止は避けて通れない問題であるし、われわれは、「君主」でないから「君主」扱いしないというだけでなく、どうしたらなくせるのか、もっと知恵をしぼるべきであって「当面は憲法に依拠した闘いしかない」などと自ら手かせ足かせをつける必要はないのだ。