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綱領改定討論欄

 この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。

明確な立場を

2004/2/27 こうとくしゅうすい、20代、学生

Michael様
 本投稿は、綱領改定における議論であり 語義論(セマンティクス)ではないことを あらかじめ述べておきます。
 またMichael様の立場を明らかにした上で 議論をされることを個人的には望みます。 さらに本投稿は他者に教授するものでも、 他者から教授されるものでもないことを よくご理解いただき「おねだり的態度」は 自己を卑下するだけであることを忠告申し上げる。

>所有の形態として、分類すれば、旧ソ連の農業集団化であったコルホーズは協同組合化と説明されています。それをあえて、集団化を1つの生産手段の形態とあげる必要があるのでしょうか。

「旧ソ連の農業集団化であったコルホーズ」は正確な 表現ではないです。1928-36年までのテロルによって 実施された集団化は(!)、コルホーズ(集団農業)と ソフホーズ(国営農業)を形成しました。
確かに、コルホーズ(集団農業)は協同組合的な意思決定 と所得分配を行いました。
問題は、旧ソ連の農業に限定するならば、集団化という土地の強制的「共有化」は、コルホーズという「協同組合」を 生み出しました。またコルホーズはやがてソフホーズになる ことが計画されていました。つまり「国有化」を最終形態 とするものでした。
 つまりソ連の農業に限定にしても「生産手段の社会化」は 「集団化(共有化)」「協同組合化」「国有化」の3つの 形態しかとられていないのが事実です。
 また「地方自治体所有化」もあるではないかという議論はまったく意味のない質問です。旧ソ連では、地方ソビエトは 、連邦省と党中央機関を通じて、完全に中央(=国家)に支配されていました。まるで、どこかの国の共産党の県委員会みたいですね(笑) 

>「社会変革への道をとざしているように彼に思われたのは、三つの大きな障害物であった。すなわち、私有財産と宗教と現在の婚姻形態とである。」(空想から科学へ)のように、オーエン自身も生産手段の私的所有に対して批判の目を向けており、こうとくしゅうすいさんの主張は明らかに間違いだと考えます

「空想から科学へ」は、フリードリヒ・エンゲルスの主張と思われますが、なぜ「オーエン自身も生産手段の私的所有に対して批判の目を向けて」いると論述されるのか、理解できません。つまり科学的社会主義者であるフリードリヒ・エンゲルスでさえも、ユートピア的社会主義者のオーエンの生産手段の私的所有に対して批判性を指摘していただけですよね?
 なぜ「私たちは、ユートピア的社会主義者でなく科学的社会主義であるが所以に、「生産手段の社会化」の形態はまさに生産手段を社会の手に移さなければなりません。「管理・運営」を社会の手に移すだけなら、ロバート・オーエンなどのユートピア的社会主義と何ら変わることはないです。」の 批判の根拠に「空想から科学へ」を持ち出すのか、理解に苦しみます。
 私はMichael様の党への盲従的姿勢を批判するつもりはないが、党出版物以外の広い知識をもとに、ご自身の立場を明らかにすることを望む。最終文はMichael様の党への盲従的姿勢を如実に顕すものであるが、そもそも基本的前提の知識が 薄い中で、党の宣言を唱える姿はまるで「宗教」のようである。

>生産手段の社会化を一律に行わず、日本において社会主義への道を踏み出した後も、「中小商工業や農業、中小漁業などの部門では、私的所有と私的経営が広く残され、国民経済におけるその積極的役割が尊重される。これらの部門での社会主義化の主要な形態としては、協同組合化が予想されるが、そのさいにも、けっして共同化をいそがず、当事者がその方が利益になると考えて共同化を求めるときに実行するという、自発性の原則を厳重に守り、無理に押しつけるやり方はとらない。」(自由と民主主義の宣言)との立場を日本共産党はとっています。このことを綱領の中に明確化したものだと私は考えます。

 そもそも序文の「生産手段の社会化」とは、何かを明確に定義してないから、「これらの部門での社会主義化の主要な形態としては、協同組合化が予想される」と言ってみたり「当事者がその方が利益になると考えて共同化を求めるときに実行する」と言ってみたり、なにがなんだかさっぱりである。
 社会主義への道を踏み出すとき、我らは「生産手段の社会化」とは所有形態を「国有化」することに他ならない。そして社会主義・共産主義社会に到達するとき、当然「国家」や「法」が死滅するなかで、「生産手段の所有形態」を規定すること自体意味のないことになるにすぎない。
 なんども繰り返すが、4章で明確な資本主義枠内での改革を提示しながら、5章では「未来論」として曖昧な「生産手段の社会化」を語っている。自由と民主主義の宣言風に皮肉れば、「当事者がその方が利益になると考えて社会化を求めるときに」5章を書いたらいいだけなのである。