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綱領改定討論欄

 この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。

天皇制の概念規定など:澄空氏へ

2004/2/9 democrat、40代、弁護士

 反論は正確に願いたい。
 私は再三、今回の天皇に関する綱領改定問題は「君主」・「君主制」の概念規定と表現の問題であり、事実認識や路線変更の問題ではないと言っている。「君主」の概念規定にこだわって不毛な攻撃を続けているのはあなた方のほうであろう。

>>「現存するヨーロッパの王室や象徴天皇制を分析して、伝統的な「主権の帰属にとらわれない」君主概念を再構成することは、国民主権の下で王室や皇室を「君主」として存続させるための解釈技術以外の何ものでもなかろう。その解釈の努力の帰結は、本来明確な対立物であった君主制と共和制あるいは民主制の区別を限りなく曖昧にすることでしかない。あなたはその「努力」にいかなる積極的意義を認めるのだろうか?」
>そこまできっぱりとおっしゃるんだから、当然、犬丸氏や渡辺治氏ら民主的な歴史学者や政治学者たちの著書を読破して批判的に検討したうえのことでしょう。

 私が上記の批判で念頭に置いていたのは憲法学者であるが、犬丸氏や渡辺氏でもよかろう。彼らが私の言う意味で、現在の象徴天皇を「君主」と概念規定し、伝統的君主制の概念を再構成する努力をしてきたというなら、いついかなる文脈でそのような議論がなされたのか具体的に指摘してもらいたい。

 ちなみに、私の手元にある渡辺治氏の『戦後政治の中の天皇制』には次のように記載してある。

 「戦後においては、天皇は少なくとも憲法制度上はたんなる「象徴」であって、統治制度の主軸を占めていないばかりか、実体的にも天皇が統治の主軸を占めたことはなかった。天皇は明治憲法下の主権者ではなく、主語ではなかった。天皇は戦後保守政治の従属変数であった。対米従属化の日本資本主義とときどきの保守政治の要請によって、天皇の役割や支配構造内での比重は変えられたのである。」(p15)
 「GHQの〔憲法〕草案でとりわけ注目されたのは、この草案での天皇は、通例の立憲君主が有する外見的な政治権能すら制限されていたことであった。・・・草案は行為そのものに何がしかの実質的政治的意味合いのあるものは、外見的にすら君主の権能を認めなかったのである。」(p107)
 「現在保守支配の頂点にある“現代の君主”は、<天皇>でも<国家>でもなく、以前として<企業>なのである。」(p384) 

 このように渡辺治氏はむしろ伝統的君主の概念を前提に議論しており、天皇を「君主」として概念構成する「努力」などどこにもない。イギリス風の外見的立憲君主ですらないという点では、むしろ不破氏の報告に近い立場であろう。
 渡辺氏の著書を検討もしないで議論しているのはあなたの方ではないか?

 ところであなたは、2月4日付けの投稿で、61年綱領の「ブルジョア君主制の一種」という「概念規定の核心」として次のように書いた。

>(1)「ブルジョア君主制」なのだから、ブルジョアジーを倒す革命によって廃止しなければならないこと、また革命に至るまでの闘争においても、(2)支配層によるその政治的・思想的利用に反対してたたかわなければならない、ということです。

 ここに書いてあることは、まさに私が言った「観念左翼」の見本のような議論ではなかろうか。象徴天皇制の現実分析も主権在民の憲法規定との関係についての言及もなく、ただ「ブルジョア君主制」だから「ブルジョアジーを倒す革命によって廃止しなければならない」などというのは言葉遊びである。しかも、61年綱領の理解としても全く誤っている。「ブルジョアジーを倒す革命」とは通常社会主義革命のことを意味するが、61年綱領は二つの的を倒す「民主主義革命」であったはずだ。また、天皇制廃止は61年綱領においても革命の課題ではなかった。統治権を失った象徴天皇は革命によって打倒すべき対象ではない。この見地は新旧綱領で全く変化のないものである。
 (2)のほうは現行憲法の主権在民と「象徴天皇制」の憲法原則に依拠して闘うべき問題であって、「ブルジョア君主制」と規定しなければ導けない方針ではない。むしろ、私が何度も言ったように、天皇の政治的利用に対し「ブルジョア君主制だから反対」では何ら現実の闘争方針にはならないのである。

 最後に、あなたは私が天皇制とは何であるかについて何の説明もしていないという。
 私は逆に、憲法が天皇を「象徴」にすぎないとして徹底的に政治的な無力化をはかっているのに、あえて「独自の権威・権能を持っている」などと積極的な概念規定をすべきではないと考える。
 これは、渡辺氏のように現実の象徴天皇の利用について分析し、その政治的利用を批判していくこととは別の問題である。むしろ、渡辺氏の議論は上記のように天皇を「戦後保守政治の従属変数」と述べて固定的な概念規定をせず、リアルにその実態を分析しているのである。
 象徴天皇に「文化的天皇制」だの「憧れの象徴」だのといった積極的な概念規定をしたがるのはむしろ保守勢力である。その意図は、憲法によって政治的権能を一切奪われ、無内容な「象徴」に貶められた天皇に、新たな権威を付与しようとするものにほかならない。
 我々はこうした天皇制の再定義、権威付けに対して、憲法の規定を根拠に「天皇はたんなる象徴であって、それ以上でも以下でもない」と言い続けるべきなのである。

 あえてもう一度尋ねるが、今なぜ天皇を「君主」を呼ばなければならないのか? 「ブルジョア君主制の一種」と規定することで、いかなる積極的意義があるのか?
 党内外の誰にでもわかるように、具体的に説明してもらいたいものだ。