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綱領改定討論欄

 この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。

democratさんへ:批判相手の言葉で自説は正当化できるか??

2004/2/11 澄空

 反論は正確に願いたい。
 ……「君主」の概念規定にこだわって不毛な攻撃を続けているのはあなた方のほうであろう。

 この冒頭の言葉は、そっくりそのままあなたにお返ししよう。
 いったいあなたは何について論じているのか? 綱領についてではないのか? 新綱領は、61年綱領の「天皇制」に関する概念規定を放棄した。この事実については、あなたも認めている。
 「事実認識や路線変更の問題ではない」と言うのは自由だが、それは新綱領のどの規定によって裏づけられていると言うのか? あなたはそれを示していない。

 あきれたことに、今回の投稿にいたっては、まさにあなたのような議論を批判している渡辺治氏を自説の援用のために引用するというアクロバットを演じておられる。まさに、“何でもアリ”!

 「戦後においては、天皇は少なくとも憲法制度上はたんなる「象徴」であって、統治制度の主軸を占めていないばかりか、実体的にも天皇が統治の主軸を占めたことはなかった。天皇は明治憲法下の主権者ではなく、主語ではなかった。天皇は戦後保守政治の従属変数であった。対米従属化の日本資本主義とときどきの保守政治の要請によって、天皇の役割や支配構造内での比重は変えられたのである。」(p15)
 「GHQの〔憲法〕草案でとりわけ注目されたのは、この草案での天皇は、通例の立憲君主が有する外見的な政治権能すら制限されていたことであった。・・・草案は行為そのものに何がしかの実質的政治的意味合いのあるものは、外見的にすら君主の権能を認めなかったのである。」(p107)
 「現在保守支配の頂点にある“現代の君主”は、<天皇>でも<国家>でもなく、以前として<企業>なのである。」(p384) 
 このように渡辺治氏はむしろ伝統的君主の概念を前提に議論しており、天皇を「君主」として概念構成する「努力」などどこにもない。イギリス風の外見的立憲君主ですらないという点では、むしろ不破氏の報告に近い立場であろう。
 渡辺氏の著書を検討もしないで議論しているのはあなたの方ではないか?

 これらの引用は、どれひとつとして、あなたの主張を裏付けてはいない。
 最初の2つの引用は天皇の憲法制度上の位置付けを述べたものであって、いわば理論的構成の前提となる誰もが認める事実について述べたものにすぎない。天皇制はイギリスの王制とも異なるものであって「イギリス風の外見的立憲君主ですらない」ことも、われわれにとっては「常識」のはずだ。それが、どうしてあなたの議論の論拠になるのか? 論理飛躍もはなはだしい。3番目の引用にいたっては、そもそも天皇制の「概念構成」とは 関係がなかろう。

 すでに大会前のあなたとの論争で触れた『日本の大国化とネオ・ナショナリズムの形成』の中で、渡辺治氏は「憲法学の課題」を3点あげている(P.341)が、その2点目は、「今日の時点に立って、あらためて君主制がもたらす民主主義や自由への負の刻印、また、共和制の持つ意義が検討される必要がある」というものだ(ここの強調部分は、私ではなく、渡辺氏によるもの)。
 こんな引用をするまでもなく、天皇制を「ブルジョア君主制」の特殊な形態として把握することは、少なくとも“科学的社会主義”に立脚する研究者・理論家ないし活動家にとっては「常識」であって、あなたがどんなに血眼になって彼らの著書をひっくりかえそうが、自説の論拠となるようなものは出てこないのである。

>(1)「ブルジョア君主制」なのだから、ブルジョアジーを倒す革命によって廃止しなければならないこと、また革命に至るまでの闘争においても、(2)支配層によるその政治的・思想的利用に反対してたたかわなければならない、ということです。
 ここに書いてあることは、まさに私が言った「観念左翼」の見本のような議論ではなかろうか。象徴天皇制の現実分析も主権在民の憲法規定との関係についての言及もなく、ただ「ブルジョア君主制」だから「ブルジョアジーを倒す革命によって廃止しなければならない」などというのは言葉遊びである。

 あなたこそ、このような姑息な「言葉遊び」はいいかげんやめたらどうか?
 あなたが「言及もない」と難癖をつけている1点目、「象徴天皇制の現実分析」とは、そもそも日々の闘争の中で行われるものであって、党大会の決議等で行われることはあっても、政党の綱領によって規定すべきものではない。だいたいあなたの投稿のどこを探したって、「象徴天皇制の現実分析」などないではないか。
 難癖の2点目、「主権在民の憲法規定との関係」については、61年綱領にしっかりと書いてある。概念規定そのものではないから先の投稿では触れなかっただけのことである。
 あなたの言い分が通用するなら、天皇制は「君主」じゃないから「君主」扱いしないと言い続けるというあなたの主張こそ「言葉遊び」と呼ぶにふさわしいと言う事もできよう。

 (2)のほうは現行憲法の主権在民と「象徴天皇制」の憲法原則に依拠して闘うべき問題であって、「ブルジョア君主制」と規定しなければ導けない方針ではない。むしろ、私が何度も言ったように、天皇の政治的利用に対し「ブルジョア君主制だから反対」では何ら現実の闘争方針にはならないのである。

 そもそも「概念規定」を否定するあなたであっても、(2)の概念規定は否定できないようだ(わざわざ「方針」と言いかえてくれているが)。繰りかえしになるが、61年綱領の天皇制に関する概念規定(1)と(2)は一体のものであって、一方から他方を「導く」性質のものではないし、まして一方が他方を否定する論拠にはならない。
 むしろ、なぜ支配層が「政治利用」できるのか?と問うてみればよい。日本社会において、天皇制がただ憲法に規定された以外の権威も機能ももたないなら、その「政治利用」などありえないではないか。“火のないところに煙はたたない”のである。その日本社会における権威や機能等をとらえて、61年綱領は、「ブルジョア君主制の一種」と規定したのである。
 それともあなたは、支配層の思惑だけで日本社会はどのようにでもなると考えているのか? そして、その支配層の観念に、「君主でない」という観念で対抗せよというのか? そのような思想は、「観念史観」と呼ばれるものだ。
 いずれにせよ、61年綱領の2つの規定はどちらも、天皇制をめぐる日本社会の現実から導かれたものであって、あなたが(1)だけを否定したいのなら(2)との関連で述べるのではなく、日本社会の現実から述べるべきである。くりかえすが、「君主」という言葉で規定したくないなら、それでもよい。二重三重にややこしい説明をすれば済むことだ。democratさんには、その二重三重にややこしい説明をお願いしているのだか、いつまで口をつぐむおつもりか?

 最後に、あなたは私が天皇制とは何であるかについて何の説明もしていないという。
 私は逆に、憲法が天皇を「象徴」にすぎないとして徹底的に政治的な無力化をはかっているのに、あえて「独自の権威・権能を持っている」などと積極的な概念規定をすべきではないと考える。
 これは、渡辺氏のように現実の象徴天皇の利用について分析し、その政治的利用を批判していくこととは別の問題である。むしろ、渡辺氏の議論は上記のように天皇を「戦後保守政治の従属変数」と述べて固定的な概念規定をせず、リアルにその実態を分析しているのである。

 「別の問題」だって?! あなたが「別の問題」と言えば、「別の問題」になるのか?
 要するに、あなたは天皇制の分析-批判という「面倒な」作業とは、「別の問題」として、「政治的な無力化をはかっている」というわけだ。天皇制そのものが何であるかを把握すること(=概念規定)をせずに、「その政治的利用を批判していく」ことが可能だというなら、それは科学的な態度ではないし、“科学的社会主義”に立脚する党の綱領としてもふさわしくない。

 なお、天皇制は「戦後保守政治の従属変数」だという渡辺氏の規定は、61年綱領の(2)「アメリカ帝国主義と日本独占資本の政治的思想的支配と軍国主義復活の道具」という規定を言い換えたものにすぎない。これはあなたの言い分とはまったく違って「固定的な概念規定」であって、一般的な規定である。つまり、これは天皇制を「リアルにその実態を分析」するための出発点にすぎない。
 この規定が示唆する実践的指針は、天皇制の現状分析には、その前提として支配層の戦略や政策分析が欠かせないということである。あるいは、天皇制廃止の課題は、われわれの闘争の「従属変数」となっているということであって、その課題が前面に出てくるのか背景に追いやられるのかは、われわれの闘争にかかっている、ということもできる。つまり、新綱領が天皇制の課題を後景に追いやったのは、まさしくわれわれの闘争が後退していることを証明するものであり、したがってまた、61年綱領の規定の正しさを証明しているのである

 象徴天皇に「文化的天皇制」だの「憧れの象徴」だのといった積極的な概念規定をしたがるのはむしろ保守勢力である。その意図は、憲法によって政治的権能を一切奪われ、無内容な「象徴」に貶められた天皇に、新たな権威を付与しようとするものにほかならない。

 そのことがどうして61年綱領の「概念規定」を否定する根拠になるのか? 論理が飛躍していることがわからないのか?
 「『文化的天皇制』だの『憧れの象徴』だの」といった保守層による天皇制の新たな役割についての模索は、それ自体が、(2)「アメリカ帝国主義と日本独占資本の政治的思想的支配と軍国主義復活の道具」という61年綱領の規定あるいは、天皇制が「戦後保守政治の従属変数」となっているという規定が正しいことを示している。

 我々はこうした天皇制の再定義、権威付けに対して、憲法の規定を根拠に「天皇はたんなる象徴であって、それ以上でも以下でもない」と言い続けるべきなのである。

 やはり、democratさんは、渡辺治氏が「有効に対処しきれてはいない」(同上、P.340)と断言している「解釈論」で対応せよと言うわけだ。ならば、渡辺治氏の議論を批判する著書を刊行されてはどうか?

 あえてもう一度尋ねるが、今なぜ天皇を「君主」を呼ばなければならないのか? 「ブルジョア君主制の一種」と規定することで、いかなる積極的意義があるのか? 
 党内外の誰にでもわかるように、具体的に説明してもらいたいものだ。

 現代日本の反動化は、支配層が80年代後半から本格的に帝国主義化に踏み出したことによるものである。その過程において、いわゆる「天皇現象」、右翼暴力や“自主規制”による、言論や市民的自由の侵害が広範にみられ、天皇制が日本社会において今なお「独自の権威・権能を持っている」(先の私の投稿より)ばかりでなく、時として支配層の思惑を超えて機能することが証明された。つまり、日本の天皇制は、「ブルジョア君主制の一種」と考えない限り説明のつかない現象が誰の目にも明らな形で発生したのである。
 これらは社会的事実であって、保守層が「概念規定」をしたから起こったのでは断じてない。逆に、あなたがどれだけ「『天皇はたんなる象徴であって、それ以上でも以下でもない』と言い続け」ようが、それらの主張が憲法の条文だけではなく日本社会の現実の中にも根拠をもたない限り、それらの事実はなくなりはしないのである。
 ただ、「言いつづける」だけでそれができるのかと私は問うているのだ。
 61年綱領の規定はあくまで一般的な規定にすぎない。現実的には、この規定に立脚した実践はさまざまな形態でありうる。支配層も天皇制に関して一致しているわけではなく、今後もさまざまな形での政治利用や新種の天皇イデオロギーが現れるだろう。しかし、イラクに出兵し、北朝鮮に戦争の挑発ともいえる圧力をかけようとする帝国主義日本が、その支配に役立つ形で天皇制を利用することだけは間違いない。われわれに求められいてるのは、それぞれについての具体的な対応であって、けっしてそれは、「『天皇はたんなる象徴であって、それ以上でも以下でもない』と言い続け」ることによっては対応しきれないのである。