この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。
1月25日に掲載されたdemocrat氏の「あまりにも感情的な天皇制論-愚等虫氏へ」でのdemo氏の犬丸義一氏に対する批判への私の疑問の提示(28日付け拙稿)に端を発した一連の「論争」は、一方の論争当事者であるdemo氏が、論争の発端である党員研究者・犬丸義一にdemo氏への反論権が保障されているのか否かといった基礎的論点についてさえも主張を二転三転させるという大変不誠実な態度に終始したまま、議論を当初から私の予想していた「言論の自由の基本」問題へとスライドさせ、demo氏一流の論証なき独断論の開陳とその固執に及んでいる。氏は陥穽への転落さえ全く気が付いていないのである。
この、demo氏流の独断論は、科学的社会主義の「自由」論、「権利」論と全く無縁であるばかりでなく、現存社会において支配的なブルジョア法学の見地(法的等価の厳守)からみてさえも噴飯ものであることについて、一連の論争を丹念に検討された読者諸兄には既に概略ご理解いただけたと思うが、深刻なのは、左翼弁護士を自称する(氏は過去、弁証法やエンゲルスを取り上げ、自らが関わっている?天皇制問題を論点にした裁判闘争なるものの内容を自ら披瀝している)demo氏が、党の「綱領」や民主集中制という優れて現代的かつ重要な、当サイト参加者が関心を共有する問題についても発言を繰り返しているわりに、党およびそれの立脚点であるハズの(現在の党の状況では「ハズの」か?)マルクス、エンゲルス、レーニン等先人達による理論的到達点の批判的検討を全く回避・放棄していることである。
一般に、「法をたんなる意思にもとづくものとする、この法律学の幻想は所有関係がさらに発展していくうちに、誰かがとうの物件を現実的にもつこともなしに、この物件にたいする法的権限をもつことができるという幻想に必然的につうじていく」(ドイツ・イデオロギー「フォイエルバッハ」)ような活動圏に身をおく法曹関係者は、自らの陥り易い法律学的幻想によほど自覚的でなくてはならないのであるが、demo氏にはその意思も姿勢も全くみられない。あるのは、進歩的・革新的人士への一方的なデマや中傷、攻撃を「報道の自由」、「言論の自由」の名の下に欲しいままに繰り返す、ブルジョアマスコミや御用評論家の最も醜悪な部分とウリ二つとなった開き直りと論証なき独断への固執だけである。
問題は簡単、明瞭である。
①党員研究者・犬丸義一氏に、大会終了後の現在、大会決定に反する発言(つまりはdemocrat氏への反論)をする自由や権利、それも「公的(公開の)言論空間」におけるそれの行使が、理論的にも実践的にも保障されているのか否か?
②党の民主集中制への批判を行っていた左翼弁護士が、①の事実についての認識が不能というような事態を想定できようか否か?
③にも拘らず、存命中のその批判対象者へ公開の言論空間で一方的批判(矮小化した中傷含む)を加えることが、A.民主的・革新的陣営の一員を僭称する論者として許されるのか否か?B.一般社会の常識(=社会的承認)としても左翼人として許容されるのか否か?
④「自由」や「権利」を主張する法曹界の「正義の人」?は、法規範として明文化されていない、いわゆるモラルやマナー(階級的なそれらも含む)については、「権利」「自由」制限的なものとしても一顧だにしなくて良いものなのか否か?(ブルジョア法至上主義の採否)
⑤④において現存する明文法以前的社会規範が未来の法規範(明文法)にならないなどと断言できるのか否か?(社会進歩の観点、立場の有無)
⑥法的諸関係をその発生基盤たる生産関係と媒介するものは何かということについて認識しているのか否か?(『資本論』第1部第2章を参照あれ)
⑦犬丸氏や「さざ波」に集う同志達は社会的および党内的にみて強者か?弱者か?
そして最後に、
⑧democrat氏なる覆面批判者は、本当に左翼弁護士なのか否か?
以上である。
上記諸論点への回答、態度表明を一切行わず(二転三転はさせているが)、何とかの一つ覚えのごとく論拠なき「言論の自由」(というゲバ棒)をあたり構わず振り回す人間が、まともな左翼人士や法曹人であろうはずがないことは、もはや明白ではないか。
読者諸兄のご意見をお待ち申し上げております。