この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。
>>「戦後においては、天皇は少なくとも憲法制度上はたんなる「象徴」であって、統治制度の主軸を占めていないばかりか、実体的にも天皇が統治の主軸を占めたことはなかった。天皇は明治憲法下の主権者ではなく、主語ではなかった。天皇は戦後保守政治の従属変数であった。対米従属化の日本資本主義とときどきの保守政治の要請によって、天皇の役割や支配構造内での比重は変えられたのである。」(p15)
>>「GHQの〔憲法〕草案でとりわけ注目されたのは、この草案での天皇は、通例の立憲君主が有する外見的な政治権能すら制限されていたことであった。・・・草案は行為そのものに何がしかの実質的政治的意味合いのあるものは、外見的にすら君主の権能を認めなかったのである。」(p107)
>最初の2つの引用は天皇の憲法制度上の位置付けを述べたものであって、いわば理論的構成の前提となる誰もが認める事実について述べたものにすぎない。天皇制はイギリスの王制とも異なるものであって「イギリス風の外見的立憲君主ですらない」ことも、われわれにとっては「常識」のはずだ。
あなたがこのような「常識」を持っていたとはいささか驚いた。ではなぜ今回の綱領改定に反対し、あえて天皇を「君主」と呼ぶのかという疑問がただちに起きるが・・・。
>すでに大会前のあなたとの論争で触れた『日本の大国化とネオ・ナショナリズムの形成』の中で、渡辺治氏は「憲法学の課題」を3点あげている(P.341)が、その2点目は、「今日の時点に立って、あらためて君主制がもたらす民主主義や自由への負の刻印、また、共和制の持つ意義が検討される必要がある」というものだ(ここの強調部分は、私ではなく、渡辺氏によるもの)。
残念ながら、あなたの引用した渡辺氏の著作は私の手元にない。したがって、どういう文脈で渡辺氏が「君主制」という言葉を用いたのか、ただちに正確なコメントをすることはできない。
しかし、私が引用した『戦後政治史の中の天皇制』では、渡辺氏は戦後の天皇を「君主」と呼ぶことは慎重に避けており、「ブルジョア君主制」という規定も一切用いていない。また、1991年の歴史学研究会臨時総会「歴史家は天皇制をどう見るか」における渡辺氏の報告「戦後日本の支配構造と天皇制」においても観点は全く同じであって、「天皇制は戦後の政治構造の一角から完全に脱落し、もっぱら支配層の利用対象となったのである。比喩的に言えば、戦後天皇制は政治の独立変数たりえず常にその《従属変数》(原文傍点)となったのである」という視点を強調している。しかも、この報告では1959年の不破論文にも言及して次のように述べている。
「この点で注目すべきことは、先の不破論文が指摘しており、また多くの憲法学者が指摘していたように、日本国憲法で規定された天皇制は、通常の立憲君主がもっていた外形的権限ならびにそれにもとづく危機における政治への介入・調整権すら持っておらず、その点では象徴天皇制を「立憲君主制」とは規定できない点である。」(歴史学研究1991.7 p20)
だから、渡辺氏をあなたの議論に援用することはできないはずだと思うのだが、いずれ文献を確認してからコメントすることにしよう。
>> あえてもう一度尋ねるが、今なぜ天皇を「君主」を呼ばなければならないのか? 「ブルジョア君主制の一種」と規定することで、いかなる積極的意義があるのか? 党内外の誰にでもわかるように、具体的に説明してもらいたいものだ。
>現代日本の反動化は、支配層が80年代後半から本格的に帝国主義化に踏み出したことによるものである。その過程において、いわゆる「天皇現象」、右翼暴力や“自主規制”による、言論や市民的自由の侵害が広範にみられ、天皇制が日本社会において今なお「独自の権威・権能を持っている」(先の私の投稿より)ばかりでなく、時として支配層の思惑を超えて機能することが証明された。つまり、日本の天皇制は、「ブルジョア君主制の一種」と考えない限り説明のつかない現象が誰の目にも明らな形で発生したのである。
あなたの言う「独自の権威・権能」なるものが、はたして「君主制」と呼ぶにふさわしい《政治的な》権威・権能であるといえるのか、また、戦後直後の時期の昭和天皇を除き、天皇が支配層の思惑を超えて「君主」としての《政治的》機能を果たしたことがあるのかどうか、私には全く疑わしい。少なくとも上記の渡辺氏の「従属変数」という表現は、そのような見方は否定するものであろう。
また、政治的かどうかを問わず天皇が「独自の権威・権能」を持っているとしても、なにゆえそれをあえて「ブルジョア君主制の一種」と考えない限り説明ができないのかさっぱりわからない。結局は、統治権を基礎とする伝統的君主概念に立たないのであれば、「ブルジョア君主制の一種」を新たにどう概念規定するかに依拠した議論にすぎないのだから、「私は君主制をこのように概念規定するから、こう説明する」というトートロジーにすぎまい。
ならば、なぜ「象徴天皇の政治的利用」、「象徴天皇の君主扱い」という端的な説明ではなく、「ブルジョア君主制」などという説明をしなければならないのか? 相変わらずその積極的意義は不明だといわざるをえないのである。
「象徴天皇の政治利用」という端的な表現は、逆に、現在の天皇が憲法上「象徴」にすぎず政治的権能を全く持ってはならない存在であるのに、それを支配層が政治利用しているという事態を、誰の目にもわかりやすく示すであろう。「君主制」という定義はそのわかりやすさをかえって覆い隠し、天皇の政治利用や君主扱いを放任する役割を果たすだけではないのか?