この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。
興味深くあなたの投稿を読みました。イギリスやヨーロッパではdiscationの伝統
があると思うのですが、日本との違いはどのようなところでしょうか。私はこの天皇
制を巡る議論が日本的ではないかと思うのです。日本人は大体無口を尊ぶ伝統があり
「以心伝心」とか「腹芸」とか、「一を言って十を悟らねばならない」のです。
小津安二郎の映画なんかを見ると主役の佐分利信などは「あ」とか「うん」とか言
うだけでセリフがないようなものでした。だから論争などの理詰が苦手でそれをやっ
ているとだんだん不愉快になってくるのです。
その理由は、少しでも自分の論理を相手が非難すると負けたような気になり、逆に
相手の弱点を探してやり込めようとするようです。それが根本的なことなら当然です
が、揚げ足取りになり、重箱の隅をつつくことになっていくのです。公平に考えれば
相手が私の論理の弱点を突いてきてくれれば、おかげでその部分をよくすれば自分の
論理が完成できるのでが、それを避けようとします。これはどこの国も一緒でしょう
か。
ともかく相手を敵(かたき)のように打ち負かそうとしている間に本線から脱線し
はるか彼方の支線で競争しあって、元に戻れなくなる。戻ろうとしても心が満身創痍
(傷だらけのこと)になって病気みたいにみんななってしまうのです。
だから天皇制の論争、discationはみんなぐったりしてここのところは消えたみた
いです。そんなにしんどい思いをしていったいナニをお互いに得たのかといえばある
人はそれがきっかけで勉強もしたでしょうが複数の人が討論しながら、新たな認識を
得るというのではない、そんな気がします。ましてやそうした論議の戦いによってア
ウフヘーベン-昇華して新たなすばらしいものを得るということが下手です。禅宗で
「問答」というものがあってそこから悟りに行く道があるのです。議論というよりも
問答というほうが私たちにふさわしいかもしれません。「天皇制問答」ってどうなの
でしょう。するともっと穏やかになります。
あなたの言うようにたとえば、煙突は工場の象徴、ベレー帽が絵描きの象徴だとし
ても日本国の象徴が天皇としてもなんで憲法に乗せる必要があるかという噴出しそう
な疑問からでも天皇制について論議していくのが本線だったのです。
共産党内で党大会が天皇制を容認したから、たとえ学者といえどもそれに反する論
文を発表してはいけないのか、よいのかは党内民主主義の問題でそれはそれでやはり
討論されねばならないが、主題が天皇制の時にはなるべくそこに集中するのが討論の
ルールではないか。レーニン的組織原則も非常に重要な革命組織にとっての問題だけ
に、こんな扱いではそのほうも不十分になり、結局天皇制についても、党の組織原則
についてても何一つ論議が深まらなかったのです。
読み返してみればそれぞれにすごい深い内容をもって投稿しておられるのに、それ
らをかみ合わせていけば相当の理論ができたであろうと思うが、何でこうなるのだろ
う。
もちろんどんなに討論してもそれぞれに立場や思想があるから決して一つの結論が
出ることはないのですが、相手がいることによって自分のものの考えがさらに豊富に
なれないことはないはずなのに結局それぞれおんなじことしか繰り返していないよう
にみえました。
実は私もそうなのですが、どうしたらよいのでしょう。私も長年生きているからガ
ンとしたものの考えがありますが、間違いがあれば正直に皆さんの前でそれを認めて
います。たとえばあまり北朝鮮非難が激しいとき、私は排外主義として危険を感じ彼
らに反対するのですが、勢いあまって金正日を支持しているように書いてしまいまし
た。そのためにスターリン主義を支持することになり「重大な誤り」とここで表明し
なければならなくなったのです。そうしなければ他の人はその問題ばかり追及するし、
私も防戦と反撃をするので次第に論争は空中戦になり不毛の議論になります。間違い
を正さねば無理に無理を重ね、結局はくたびれてむなしくなるのではないだろうか。
だが自分がそうできたとしても相手がそうできないとすればどうすれば言いか。少
し注意し、それでも脱線するならみんなそんな列車をほっておけばいいと思うのです。
私はこの天皇制論議が一段落してそんなことを考えました。
そしてもう一度線路に列車を乗せて討議ができるのを希望しているのです。
Almaさんの意見を待ちます。