この討論欄は、第23回党大会に向けた、綱領改定案にかかわる問題を論じるコーナーです。
この2月5日に、衆議院の「憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調
査小委員会」が開催された。ここでは、参考人として横田耕一氏(流通経済大学法学
部教授・九州大学名誉教授)が意見を述べている。横田氏と言えば、さざなみ通信3
3号では、数少ない非君主制論者として紹介されているが、彼が如何なる議論を展開
しているのか興味があって、そこでの内容をインターネット上で調べてみた。幸いに
も、彼自身の執筆になる「天皇の存在意義」(樋口陽一編「講座憲法学2 主権と国
際社会」 日本評論社 1994年)という論文が添付されており大変参考になった。
((http://www.shugiin.go.jp、憲法調査会クリック→会議資料クリック)
以下では、まず、その論文に沿って、横田氏の天皇論を紹介し、次いで、共産党の
山口富男小委員とのやり取りの中で、憲法の全文を守るとする綱領の規定が近代立法
主義の精神に反するとする横田氏の見解が読み取れたので、それを紹介しよう。(全
会議録は、http://www.shugiin.go.jp、会議録クリック→憲法調査会クリック→憲法
調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会クリック)
横田氏は、小委員会では次のように述べている。
「日本国を純粋の君主国と言うのは到底無理でございますが、逆に、世襲の天皇制度を持っておりますので、純粋の共和国と言うわけにもまいりません。無理にどっちであるかという分類をする必要は全くないのですけれども、あえて言うならば、世襲の象徴天皇を持つ共和国と言うのが妥当でありましょうか。」
当然、その立場に立って、論文では、
「日本国憲法の規定する天皇は、大方の憲法学者が指摘するように、「日本国民統合の象徴」「日本国の象徴」で「しかなく」、その機能も形式的・儀礼的性質の「国事行為」に限定されており政治的権能は一切ない。しかし、そうである以上、現在の天皇制度には政治的意義がまったくなく、政治制度的には無用の存在であると考えるならば、それは根本的な所で間違っている。現在の天皇制度には高度の存在理由があり、政治的に果している役割にはきわめて大きいものがあるからである。すなわち、一言でいうと、天皇は「日本国民ないし日本民族を統合する」という重要な機能を果たしている。この点に関する限り、大日本帝国憲法時代と今日と、本質的な相違はない。」
と断じている。つまり、明治期においては、天皇を「臣民を統合する軸」とすることが当時の日本の秩序論理から不可欠であり、天皇が親政を行うかどうかは二次的な問題だったとし、戦後、廃棄されたのは天皇親政の部分のみで、主要な要素たる「臣民
統合」が「象徴」という形で残ったというのである。また、天皇が統治権の総攬者で
なくなったから、「国民統合」作用を期待できないとする議論も退けている。
年号、国旗、国歌の制定、「建国の日」の設置、様々な宗教的行為を挙げて、この
「臣民統合」の努力が現在も続いているし、憲法に制定されている「国事行為」はも
とより、「公的行為」(国体・植樹祭などへの出席、国会開会式への出席と「おこと
ば」の朗読、天皇外交)を通して、天皇の国民統合力が再生産されているという。さ
らには、経済的行為(災害被災者への見舞金の支給、天皇杯・皇后杯の使用許可)及
び私的行為(三権の長、判事・国会議院などが参列する春秋季皇霊祭と新嘗祭などの
皇室祭祀、皇室の結婚式・葬儀、美術展・コンサートや相撲などのスポーツ観覧)な
ども、上の国事行為及び公的行為に加えて、過剰なまでに、象徴としての国民統合力
の強化に利用されているという。
これらの点を総合して、「現在の天皇制度には高度の存在理由があり、政治的に果
している役割にはきわめて大きいものがあるからである。」という結論が導き出され
ているのである。
しからば、憲法の制定するように、天皇の行為を純粋な「国事行為」のみに限定す
れば、事態が変わるのであろうか。横田氏は二つの説を挙げてそれを明確に否定して
いる。
「一つの説は、天皇の権能につき(少なくともその一部については)大臣助言制と同様のものとして把握し、天皇には第六条・第七条などに列挙されたことがら(あるいはその一部) について実質的決定権能を含めた機能がいったんは認められているが、それが内閣の助言と承認によって行われる限りで天皇の国事行為は形式的・儀礼的となるとする。この説をとったとき、名目的にせと天皇には重要な政治的決定権能が承認されることによって、天皇が政治構造において中枢の位置を占めることになり、観念的には天皇を軸として日本の政治が行われることにならざるをえない。こうした天皇像は、政治的意義において、ほとんど立憲的に解釈された大日本国憲法の天皇像と異なるところはなく、したがって、旧憲法時代と同様の統合作用を果すことになろう。
他方、いま一つの説のように、第四条を強調することで、国事行為は始原的に政治的無機能であり、はじめから形式的・儀礼的であると解したとしても、天皇には統合作用が認められる。なぜなら、実質的決定権がすでになされており、その執行においてなんの問題もないところで、なんのために「形式的・儀礼的」行為が介在するのかという問題が残るからである。「形式的・儀礼的」行為をある行為に付加することは、後者に一種の「箔をつける」「恰好をつける」ものとして理解されうるが、そうした「形式的・儀礼的」行為付加者がなんら特別な意味のない人物であるなら、そうした行為の付加にはまったく意味がないであろう。(中略)
その意味で、憲法が天皇を「形式的・儀礼的」行為付加者として設定したことは、その前提として天皇に一定の権威を認めたことである。しかも、それら行為を天皇は「国民のために」行う(第七条)とするならば、まさにそこには国民を統合する天皇像が前提されている。(中略) 以上の簡単な検討からも明らかなように、日本国憲法の天皇条項は、天皇を権威的存在として想定しており、その存在を通じて「国民統合」作用を果す条件を整えている。」
と述べている。ここで、憲法の条文解釈として、第一の説が成立ち得るとされること は注目してよいであろう。では、このような事態はどのような弊害をもたらしている か。主には次の三点を挙げている。
「第一に、「象徴たる天皇の地位を『主権の存する日本国民の総意に基づ』かしめた規定も、国民を統合するように働く可能性が大である。すなわち、本来的にはこの規定は、神勅ではなく、国民の意思のみが天皇の存在根拠であることを明らかにしたものであり、国民の意思によって天皇の地位を変更する(あるいは廃止する)ことができる趣旨のものとして理解すべきであるが、逆にさしあたり「国民の総意」が天皇の背後にあるとする点を強調するなら、象徴天皇制に反対し天皇を否定する者は「国民の総意」から外れた異端者として指弾される危険性がある。」
「第二に、「国民を統合する天皇の権威的存在は、国民の主権意識の希薄化にするように働くはずである。」
「第三に、「人権問題の出発点は、「個人の尊厳」(13条) にあるが、「国民」としての統合作用は、多くの面でこの「個人」の自由と衝突する。そしてそれは、権威ある「国民統合」者=天皇・皇室の存在による、天皇・皇族をめぐる諸問題を取り扱う人びとの権威的・強圧的姿勢とあいまって、人びとの人権に壊滅的な打撃を与えている。また、権威的天皇・皇室の認知は、天皇・皇族の一定の特権化・特殊化を生み出さざるをえず(皇室典範の、特にその第二章参照)、そこから女性・障害者・身分差別などの諸差別意識が出てくることになっている。とくに、世襲による天皇の存在は、「特定の血筋」意識を再生産し、克服すべき身分差別を温存する源になっている。こうしてみると、象徴天皇制度と人権とは基本的に矛盾していると言わざるをえないのであり、両者の妥協をはかることはおそらく不可能であろう」
このような事態は、天皇の行為を純粋な国事行為に限定しても、何ら救われるもの
ではない。横田氏はむしろ、その他の諸行為、とりわけ、「私的行為」の過剰によっ
て、親近感は生まれても、象徴としての天皇の権威が薄れると指摘し、それが天皇制
擁護者にとっては、逆に問題ではないかと言っているのである。この小委員会でも話
題となったが、福田和也氏など若手保守層が提唱した「天皇抜きナショナリズム」は、
そのような権威の薄れた天皇を頂いては、日本のナショナリズムが追行できないとい
う危機感の現れであろうと私は思う。逆説的ではあるが、天皇の行為を国事行為のみ
に限定すると、象徴の場への過剰な露出が減り、反って、天皇の権威を高めることに
もなりかねないのである。
以上みてきたように、天皇条項を厳守させても、天皇の国民統合の象徴としての権
威、それから派生する政治的役割を無にすることができないことが主張されているの
である。国事行為の意味に関しては、二つの説を紹介している。不破氏は改訂綱領の
解説において、「天皇に憲法の天皇条項を厳守させれば、政治的に無力であり、すべ
ての問題はその逸脱に起因する」という趣旨の説を唱えているようであるが、それは、
これらの相対峙する二つの説とは異なるようだ。憲法学会の動向は知るよしもないが、
君主制、非君主制の定義は第一義的問題ではなく、少なくとも国事行為については、
第一の説をとるか、第二の説をとるかが一つの分岐点であると推測される。恐らく、
第一の説は少数派で、第二の説は多数派であると想像できる。不破氏の解説では、こ
の第二の説をとる人たちを非君主制論者と一方的に規定して、彼らが実際にはどのよ
うな論理を展開しているかを示すことなく、あたかも非君主論者の主張のようにして、
自説を潜り込ませているようだ。
横田氏は、最後に、1973年の増田防衛庁長官激励事件、現天皇の環境問題発言、
憲法擁護発言、1992年の訪中時における謝罪の「おことば」などを、天皇が直接
的に政治を動かした例であると指摘して、
「こうした天皇の存在の根拠を与えているのが日本国憲法である。このことは、いかに憲法を天皇を無化する形で解釈しようと、避けられない事態である。」
と結んでいる。以上のような見解は、多くの人に受け入れられることではなかろうか。 天皇条項の厳守だけで、天皇制度のもつ政治的役割を抹殺できるほど事態は簡単では ないことがお分かりいただけると思う。もっとも横田氏は、最後の文の脚注の中で、
「天皇制度の廃止が、少なくとも現在の国民意識からは、近い将来に予想されないことを考えれば、基本的原則が侵害される点との対決を廃止の日まで延期するのは、一見ラジカルだが、政治的には無責任である。その意味で、徹底的に天皇条項を基本原則に引きつけて「無化」し、なおかつその上で残る問題性を指摘し、制度の廃止を展望する解釈が、実践的には妥当であるように思われる。」
としているから、改訂綱領に近い立場を実践的な課題として、ひっそりと提起してい
ることになる。しかし、これは横田氏が深刻な事態を認識した上で、やっとたどりつ
いた道であろう。その道を経ずに、横合いか、この脚注のみをつまみ出して、自説の
合理化に使うことは、横田氏に対して失礼であろう。
さて、その横田氏であるが、共産党の山口富男小委員との間で次のようなやりとりがあった。
山口(富)小委員 きょうのお話で、近代立憲主義の強調と憲法規範という問題が随分強調されましたけれども、憲法で定めた規範上の問題が現実にそういうふうにきちんと運用されていないという指摘がたくさんいろいろな角度からされましたけれども、だったら、そこの溝を埋める努力といいますか、解消する方向、これについてはどういう見解をお持ちですか。
横田参考人 憲法というのは、国民が守る文書ではございません。主権者国民が権限を国家に預け、国家を縛る文書、これが憲法なんですね。ですから、国会議員であれ何であれ、 権限を委託されているものは、憲法に書いてある権限以上のものは持っていない。そして、それが必要な場合には、国民に言って憲法を改正してもらって、その権限をもらう。それが近代立憲主義の筋なんですね。そのあたりがあいまいになっている。(中略)これはしかし、逆に護憲派にも言えます。 護憲派が金科玉条のように文部省が戦後つくりました「あたらしい憲法のはなし」というものを担ぎ回っておりますけれども、あの中にも、みんなで守っていきましょうという形を書いてあるわけですね。
したがいまして、戦後の出発点のところから、これはもう御承知のとおり、日本国憲法を私たち国民がみずからつくったわけではないですね。血を流して、汗を流してつくったわけではございません。残念ながら、その意味で、何となく言葉は入ってきているんですが、その基本的な理念が、学校の教育におきましても、いろいろなところにも落ちているわけです。
憲法とは何かという基本の問題ですね。国民が守るものではないんだ、権限を預かったものを規制する文書であるという基本的な観点、この観点が落ちたまま議論している。これがあらゆるところに影響している。天皇の問題では、それが最も端的に出てきている、そういう問題だと思います。
横田氏によれば、別の委員の質問に答えて、
「基本的な近代立憲主義の考え方からいうと、(憲法は)基本的には国家を縛るものである。そして、その国民が何か義務があるといった場合でも、その権力を預かっている者をがんじがらめに縛った憲法のレベルと、国民が一緒に国家をつくっている者同士として守っていきましょうという部分とは、レベルが違う話である、それを一緒くたにしてやるのはおかしいという、それだけでございます。」
「例えば、憲法ということをみんなで守っていこうということも一種の憲法ナショナリズムという形のナショナリズムでございますから。私は、特にこうしなければいけない、みんながこうしなければいけないという考え方は非常に嫌いでございまして、おのずからそうなっていけばいいという考え方でございますから、余り何とかナショナリズムということを標榜したくはございません。」
とも述べている。よく考えるとこれらは正論ではないだろうか。ただ、我々が憲法第
九条を守ると言った場合には、その九条の背後にある普遍的な価値のある平和を守る
ということであって、憲法を守るということは第二義的なことであろう。ところが、
憲法の全条文を守るということになると当然話は違ってくる。公務員には憲法遵守義
務はあるが、その他の一般国民にはそのような義務を課すのはおかしいことである。
また、厳密には、公務員というのも、政策立案に携わるような政治家、官僚、裁判官
などに限るべきであろう。その意味では、共産党がその綱領で、「憲法の全条項をま
もる」と規定していることは、近代立憲主義の精神に反することになる。共産党員は、
高級公務員でもないのに、綱領の規定によって、憲法の全条文に縛られてしまうから
だ。特に、普遍的価値とは言えない天皇条項にまで縛られるということになると、深
刻な問題が起こるのではないだろうか。明示的ではないが、横田氏はそのことを指摘
したかったのだと私は推測している。
これに対して、山口氏は、「議員として、近代立憲主義の憲法をきちんと守ってい
きたいと思います。」と、議員の立場で、憲法を守るとしか言えなかったのである。