人文学徒様の力作「日本共産党の惨状の本質に関わって」を読ませて頂きました。
以下、私の感想です。
1.不破書記長は、あの武装闘争時代から党員であった、将に叩上げ、党の歴史的変遷を良いも悪いも見て来た方だと思います。
彼の様な「革命」が血となり肉となった様な人間、しかも、50年以上革命党で生活して来た方には、「民主集中制」は革命党の組織原則として、空気の様に、水の様に、自然な物であり、これを変更するなど夢想だに出来なかったでしょう。
彼には彼の限界があり、それを認識したから辞めたのだと思います。彼自身は、今でも、「民主集中制は正しい」と確信しているはずです。しかし、一方で、そんな自分を、「俺は古いのでは無いか?」と第三者的に観る不破がいたのではないだろうか?その時、彼は、「引退」を決意した。
これは、組織人として、指導者として、類まれなる資質を彼が持っていることを示しています。彼の理論研究が保障された「めぐまれた」環境も、党のトップであれば、当然でしょう。
これにとやかく言っていると、妬の様にも聞こえてしまいます。
2. 「民主集中制」は、党規約にも書いてあり、これを認めた人だけが党員になるのでしょう? 不破さん個人と、「民主集中制」と言う組織制度を混同し、「民主集中制」が気に食わない=不破が悪い、と言うの如何な物でしょう? 「民主集中制」が諸悪の根源であれば、これを醸成して来た党の歴史、これを容認して来た党員、一人、一人の問題だと考えます。
仏教徒である私は、辞めた方に「石持て追う」様なことがどうしても出来ません。やはり、「不破さん、お疲れ様。
民主集中制を含め、後の党改革は僕らがやります。」と、言って上げたい。
3. 以上、辞めた不破さんへの攻撃には同調しかねますが、民主集中制と言う制度そのものへの批判は、ご高説の通りだと思います。
党の文献などでは、「民主集中制」が、①自由な党内議論、②対外的な団結と行動での一致、を確保した理想的な制度として説明されておりますが、この説明の盲点は、共産党の様な組織では、現実には、②が優位になり、①は蔑ろにされがちだと言うことだと思います。従って、結局、代議員も中央委員も、党の方針に従順な党員が選ばれ、「意見」のある個々の党員には、「議論が封殺」された様なフラストレーションが残ることになる。
4.この民主集中制は、この言葉を使用するかどうかは別として、「革命」を標榜する他の「左翼」(例えば、中核や革マル)でも同様の組織制度を取っています。党支部(細胞)は、上部機関とだけに接触が許されており、細胞間の横の連絡は厳禁されているのも、この制度の特徴であり、将に、革命を目指し、権力の弾圧と闘う為の組織制度と言えましょう。戦前の非合法時代からの党員であった宮本顕治氏や武装闘争時代を経験した不破氏が、この制度を当たり前の物と考えるのも頷ける気がします。
5. 結論を言うと、この問題は、共産党が「革命党」なのかどうかに集約されて来ると思います。共産党が、「革命党」であり続けるなら、やはり、この制度を厳密に運用するしか無いでしょう。しかし、私は、共産党は、、もう少し柔軟な国民戦線党であれば良いと考えており、その立場では、「民主集中制」と言う言葉はともかく、「集中」より「民主」にもう少し力点を置いた組織にすべきと考えています。”行動での一致の確保”は、自民党でも当たり前の原則ですので、この点では、対外的な分派活動は引き続き厳禁すべきでしょう。一方、議長の全党選挙、中央委員の承認・否認を全党投票で行う、などより「民主」に配慮した制度を検討してはどうでしょうか。