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「北朝鮮問題」討論欄

平和展

2004/3/12 金 国雄

 皆様、こんばんは。

 先週、食あたりにかかりいまだ回復しない日々ですが、ここ のところ毎年名古屋で開催される「平和展」(今年で15回) の準備のため、毎日忙しくしております。

 また今日は、韓国大統領の弾劾訴追案が可決された関係、そ の影響が朝鮮半島(核、拉致、民主主義、人権など)での平和 問題(6カ国協議など)にどのような影響を及ぼすかに、少し 気がかりなところもありますが、平和的解決への確固とした道 筋の構築を強く願うところです。

「平和展」<真宗大谷派(東本願寺)名古屋別院>

 近くにおいでの節には是非、お越しください。

 私が今回扱うテーマは「朝鮮植民地時代の教誨」です。私の 昨年の訪韓の理由のひとつに西大門刑務所歴史館での調査があ りましたが、先日の「しんぶん赤旗」(3月10日付)にも9 面に村田吉次郎氏(前進座俳優)の「処刑場での出会い 韓国 一人旅」という記事の中にも西大門刑務所歴史館の話が出てき ます。その中には付設された処刑場にも触れています。

「西大門刑務所歴史館という、日本の官憲によって作られた、朝鮮民族解放の思想犯を収容した跡を訪ねました。(中略) "処刑場"。「面会だ」と外に連れ出された囚人が、別れ道でいきなり「処刑」を告げられ、多くの人が傍らに立つ一本の大木にすがりついて泣いたそうです。その傍らに処刑された烈士の名が彫られた碑があり、小泉首相も深ぶかと頭を下げたといいます。そして帰国するとすぐ靖国神社参拝へと――」

   *本文から抜粋。

 処刑された囚人はその後、屍躯門(シグムン*)をくぐり刑 務所外に搬出されました。私にはいまのところ、その後の彼、 彼女(ユン・ガンス女史が有名)らの霊がどのように慰霊、供 養されたかには、よく分かりません。

 *西大門刑務所内に付設されていた処刑場から処刑遺体を刑務所の外に搬出する隋道(トンネル)入り口。

 西大門刑務所の歴史は古く1908年10月21日、京城監 獄として造営され植民地化(侵略)に反対する多くの義兵、義 士、また独立を目指す多くの人びとを投獄、処刑したところで す。また日本人僧侶による朝鮮での初めての教誨もここで行わ れたのでは? とも思われています(確証資料が乏しい)。

1908年10月21日 京城監獄として新築
1912年 9月 3日 西大門監獄と名称変更
1923年 5月 5日 西大門刑務所と名称変更
1945年11月21日 ソウル刑務所と名称変更
1998年11月 5日 西大門刑務所歴史館として開館

 日本側の資料としては「『教誨百年 下』 教誨百年編纂委 員会 1974年4月1日」があり、もし興味、関心を持たれ ましたなら一読をお勧めいたします。

 <私のキャプション原稿の一部>

「1906(明治39)年2月21日、第2次日韓協約により朝鮮全土で13ヵ所の理事庁を置く。これに在韓邦人用の監獄を付設。1909(明治42)年7月12日、司法、監獄事務が日本に委託される。同年11月1日、統監府監獄官制が施行。韓国監獄と理事庁監獄が統合、教誨制度を正式に採用。それ以前より大谷派僧侶、今永円純、音羽玄哲によって嘱託教誨が行われていた。これが朝鮮での監獄教誨のはじまり。」
 *字数制限あり

 また、1943(昭和18)年初頭より、日本(軍) は朝鮮全刑務所収監者の多数を国内外各地へ強制労働に 狩り出しています。そのなか中国海南島には、「南方派 遣報国隊」(朝鮮報国隊)として教誨師も同行し、京城 刑務所収監者が海南島各地の軍事施設建設、港湾建設、 鉄道工事、鉱山などに動員され、その後、多くが日本軍 に虐殺されたとも言われており現在、発掘調査が行われ ているようです。

 <参考サイト>

「紀州鉱山の真実を明らかにする会」HP

「京都大学人文科学研究所(領事館警察の研究)」

「ナルゲ」

 次回は、6カ国協議に関連し北朝鮮核問題での各重要年代 での総連資料(『統一評論』)から資料(記事抜粋など)を お届けできればと思っております。

 例えば、1992年の「朝鮮半島の非核化に関する共同宣 言」に関連して。

 ただし、平和展の関係、少し投稿が遅れます。

 *誤字脱字の節は、お許しのほどを。できる限り重要なところは、訂正を心がけております。ご理解のほどをお願いいたします。

 それでは失礼致します。   金 国雄 拝