私は絵描きですが絵よりも音楽や歌のほうが好きなのです。あなたが朝鮮の音楽や歌を紹介され味わい深く歌詞を読んだり、聞いたりしているうちにアリランの歌とトラジの歌が頭に浮かびました。
それと同時に敗戦後、焼け跡が大阪の一面に広がるそんな時代の、「大阪復興祭り」を思い出しました。私は鶴橋の省線の東側で子供の時代育ったので敗戦後の鶴橋の闇市こそは私のふるさとなのです。省線を境にして東側は朝鮮人の町で空襲は受けなかったのですが、敗戦とともに炭鉱などに強制連行されたり、朝鮮で生きられなくて日本に渡ってきた人々がこの鶴橋に密集したのでしょうか。
闇市はいったん知らない人が入ればどこから抜け出せるかわからないほどにごった返していました。復員兵が軍靴を手にぶら下げて売っていたり、マツコリやかす汁を売る露天の前に黒山の人がたかったり、どこからこれだけ集められるかと思えるほど魚や、野菜、進駐軍の服や、ラッキースライクやキャメルといったタバコ、ありとあらゆるものが路上で売られていました。それらの光景が今頭の中で喧騒と色彩のオーケストラとなって目くるめくのです。アリランの歌は子供のころからどこで聞・・・(文字化け)・・・。
アリラン、アリランアラリヨー、アリラン、コーゲリョウオー アリランコゲリョーウ ノモカンダ
まったく歌詞の意味もわからないしこのカタカナが正しいかどうかもわからないが、なぜか哀調のあるこの歌のメロディーを生涯忘れることができないのです。そしてトラジの歌。トラジというのは花の名前でしょうか。きっとこの歌に寄せて朝鮮人たちはふるさとをしのんでいたのでしょうか。
忘れもしないのは「大阪復興祭り」でした。それが昭和何年ということはわからないのですが私が小学校3年生ぐらいだったように思うから21年ごろでしょう。敗戦の痛手から立ち上がろうとするために大阪市が催したのです。私は2歳上の兄と省線のガードをくぐり人、人、人でごった返す細い家並を御幸森神社から猪飼野あたりをほっつき歩いていたのですが、路上には朝鮮の女や男が踊ったり歌ったりして道を進めないほどの激しい熱気があったのです。あるおっさんはおなかに人の顔の絵を書いて膨らましたりへこましたりして踊りまくっていたのが妙に頭に焼き付いています。女たちがチョゴリを着て首に色とりどりの布の紐を巻いて天女のように踊るのでした。その歌はトラジの歌かアリランでした。
「大阪復興祭り」こそは35年の朝鮮植民地支配から開放され、日本人にとっての敗戦が、朝鮮人にとっての勝利、光復だったのでしょう。いったいに朝鮮人の喜怒哀楽の表現は激しく、泣くときは慟哭し、喜びは歓喜となって、開けっぴろげだったように思います。「大阪復興祭りこそは朝鮮人の日本人に対する恨(ハン)を晴らす、最大の祭りだったように思います。それは歓喜とともに、踊り歌う朝鮮人たちのすさまじい熱気のあった祭りだったのです。
最近好きだったのは荒井英一の「長河(チョンハー)への道」です。この歌をテープにとって兄弟や友達に何本も贈りました。在日の荒井のルーツを探る旅の歌の叙情性とともに生い立ちの厳しさが私の心を何度聞いても打つのです。今CDで彼の歌を聞きながらこの文章を打っています。
では、静かに最後まで聞きたいので一文を閉じます。
ハルハリラン、スルスリラン、アラリヨー、アリランコゲリョウ
ノモカンダ・・・・・・・
朝鮮人は世界でもっとも歌と踊りの天性の才能を持つ民族です。