寄らば大樹の陰さん、こんばんわ。
「韓国、北朝鮮(共和国)、そして日本。2004/06/29 寄らば大樹の陰」 を拝読させていただきました。
いつもエネルギッシュな投稿に感心をさせていただいております。た だ、今まで寄らば大樹の陰さんのご意見を伺い(ただし、他の討論欄等も 含めそのすべてはありません)、どうしても気になる点があり、前向で真 摯な意見として投稿をさせていただきます。
できればもう少し意見を深められたならという思いをいつも感じます。 例えば歴史的な点の考察に関して言えるのではないでしょうか。(勿論、 多くの方にとってなじみの薄い朝鮮の歴史であり大変と思います)
ただし、私が他者の意見にあまり意見を述べることで、その方や多くの 方が意見を述べることに対してちゅうちょ、萎縮されてもとも考え、できれば他者の意見に対して意見を控えたいと最近は考え続けてきました。
私の本意を前向きなものとして参考にしていただければ幸いです。
私はけして研究者でも無い関係、系統的に調査、学ぶことができません が、関心を持っていることなど許される資料から推測することもありま す。これはあまり客観的ではないかもしれませんが、私に許される条件等もあります。
例えば、解放ということに関しても現在、北朝鮮(朝鮮)が建国の正当 性を主張する国史とは別とし、当時、北朝鮮ではどのような歴史として記述されていたのかという点にも関心を持ってきました。
「朝鮮画報」というものをご存知な方も多いと思いますが、その前身誌 に「朝鮮」というものがあります。(今でも北朝鮮では同タイトルの画報 があるかもしれませんが、この日本では私は聞きません。現在の後継誌として、「イオ」)
『朝鮮』25号 1958年 画報朝鮮編集委員会編集
外国文出版社 朝鮮平壌
こんにちの清津市
《ソビエト軍が上陸した》という噂はまたたくまに全市に知れわたつた。
製鐵所の埠頭から水南配水路付近に上陸したソビエト軍の一部隊は、■ 城川の右手に陣どつていた日帝侵略軍を一撃のもとに撃破して、清津港の 埠頭に上陸した他の部隊とともに、敗走する敵を急追していた。市街戦の おわつた埠頭や街には硝烟がただよい、砲声はしだいにとおくなつた。
1945年年8月13日-こうして、清津市は日帝のキズナからいちばん最初に 解放され、全市街が感激と悦びのルツボと化した。解放の恩人-偉大なソ ビエト軍を歓迎し、祖国の自由と独立を謳歌する10余万市民の歓呼の声 は、天地にこだました。
そのときから13年の歳月がながれた。 民族的祭日-8・15をむかえるご とに、全朝鮮人民の胸には、とく清津市民の胸にはあの日の感激がなまな ましくよみがえるのである。清津市民はその日の感激をいだき、真心こも つた花束をかかえて、ラクダ峯の山頂にそびえたつ解放塔やソビエト軍の 追慕塔をたずねるのである。
英雄的ソビエト軍によつて最初に解放された都市としてのほまれをもつ 清津市は、こんにち咸鏡北道の道所在地として、とくにわが国の社会主義 建設の重要な工業基地の一つとして目覚しい発展をとげている。
*旧漢字を新漢字に
*■は該当漢字を見つけられず
*写真、キャプションあり
一例:「あたらしいアパートの立ちならぶスターリン通りの一部」
*誤字脱字の節はご容赦を
これ以外にも『朝鮮画報』70年代初頭にもソ連の解放との記事があっ たように記憶しますが、この点に関しては記憶があいまいです。(記憶違 いか?)
また、粛清の歴史に関しても一考の必要があるのではないかと私は感じます。
それでは失礼致します。
金 国雄 拝