そう、私は敗戦時、国民学校2年生でした。大阪の人口の多い下町で育ったが
空襲が激しくなり、祖母と泉大津の小さな家に疎開しました。疎開先でも空襲警報が
鳴れば真夜中でも田んぼの壕に祖母に手を引かれて走っていきます。大阪のほうの空
が赤くなり、焼夷弾が花火のように広がって落ちていくのを記憶しています。
昭和19年からは食糧難になっていった。敗戦になって大阪の家に戻ると、3軒の
家を残して回りは焼け野原だった。私の少年時代は焼け跡の中であった。おっしゃる
ように焼け跡派です。戦争を知っているかといえば知っている。戦場は知らない。し
かし記憶に深いのは敗戦以降である。
飢えるということだけは知っている。戦争を知らない子供達は腹を減らしたことの
ない子供達で、彼らが五十歳を越え北朝鮮に食糧支援をするなというとき、飢えるこ
との苦しさも知らないから言えることだと私は言いたかった。
私は餓死者が山のようにガードの下に積まれ、役所の人が死体を二つに折って石炭
箱の詰め込むのを兄と見ていた。
私の友人の手紙がある。私の友人は敗戦後に生まれた。彼の母は子供を生んで数ヶ
月もたたないで死んだ。かれの母は栄養が足りなかったのである。彼は母を知らずに
育った。
別の友人は私と同じ年である。敗戦の頃彼に妹が出来た。しかしお母さんに乳が出
なかったので妹は死んでしまった。彼は一人っ子で育った。今医者をしている。
あの頃飢えた母親が自分の子を食べたという話も聞いた。戦場では日本兵が仲間を
食ったという「レイテ戦記」があるが、内地でもこんな話があったのである。私は同
級生の弁当を盗んで、ふたを開けて食べてしまったことがある。私が人のものを盗ん
だ最初の経験である。闇米を食べるのは違法だからと、絶対闇で買わなかっ裁判官が
いた。彼は飢えて死んでしまった。当時、新聞をにぎわした事件である。こんな話は
きりがない。
日本には米が有り余っている。減反のことを別としてもローソンの賞味期限切れの
飯は砂を混ぜて捨てられ、回るすし屋ではすしのネタが乾くとレーンからそのすしが
はずれてごみのほうに落ちる。そんなご飯だけでも一国の飢えを救えるかも知れな
い。
どうか北朝鮮に米を送るななどといわないで欲しい。