はじめまして、さつきといいます。愛宕山という名の付いた山は、日本中にほん とうに沢山ありますね。京都府にも、舞鶴に一つと京都市の北西に一つ知っていま す。京都から愛宕山を越えると北桑田郡京北(けいほく)町です。京北町内の舞鶴へ 至る国道162号脇に「丹波マンガン記念館」というのがあります。マンガン鉱山跡を 保存して坑道内を見学できるようにした私設博物館です。私は、ここを3回訪れたこ とがあります。十数年ほど前、開館直後でまだ整備途上の頃に訪れた時は、欧米人や 中国人が沢山見学に来ていて驚きました(たまたま何かのツアーがあったようで す)。その時の案内チラシを今見ると、「鉱山(やま)のロマンを実体験」とか、 「2億年の地底のロマンと躍動の男達の夢が今よみがえる。」とあります。
しかし、この鉱山こそ、強制連行された朝鮮人達の強制労働の現場だったのです。 坑 内での「たぬき堀り」の現場やトロッコを押す作業、掘り出した鉱石を、背負子で一 人100Kg以上も背負わされ、山を越えて運搬する様子などがマネキンで再現してあり ました。この鉱山は、戦後、どういう経緯か忘れましたが、ここで強制労働をさせら れていた在日朝鮮人の方に経営が引き継がれ、昭和50年代に閉山になりました。その 後社長さんは、当時の様子を後世に伝えるために鉱山の一部を博物館として残すこと を決意され、地質や鉱物に詳しい京都の大学の先生の協力を得ながら、こつこつと整 備を進められ、開館にこぎ着けられたものです。しばらく訪ねていませんが、その社 長さん(初代館長さん)も亡くなられ、今では息子さんがあとを継いでおられるそう です。
私達の世代は、強制連行、強制労働の本当の実態を知らず、そのことを観念的にし か 議論できません。しかし、上の世代で、当時の朝鮮人達の悲惨な生活を身近に見知っ ている方々は、自民党員である野中広務氏でさへも、この場に登場される方々より、 もっと朝鮮人の身に寄り添い、時として過激な発言をされることもあります。野中氏 の出身地園部町は京北町から日吉町を隔てた西隣で、ここにもかっては沢山のマンガ ン鉱山がありました。
私は、この「丹波マンガン記念館」を訪れたことで、それまで書物で得ていたこと に 知識レベルで上乗せするものはほとんどありませんでしたが、大変大きな衝撃を受け ました。以来、そうした類の本を逆に読まなくなりました。この場に登場される方々 は、北朝鮮問題について豊富な知識をお持ちで、ただただ勉強させていただくばかり で、敷居が高く、なかなか発言できなかったのですが、一つだけ教えて下さい。
私は、愛宕山さんが「要するに、過去の日本帝国主義による植民地支配、強制連行、 慰安婦、その他の蛮行の事実と、現在の北朝鮮による拉致問題とは別問題だという認 識が必要なのではないでしょうか。」と書かれることがどうしても理解できないので す。何か、非常にあっさりと割り切った考えに、どうしても違和感を覚えてしまいま す。
北朝鮮という国が現在のようなひどくゆがんだ国になった経緯には、まぎれもなく、 日本の過去の侵略と、その後の米国と一体化した敵対政策が強く影響したと思いま す。そのゆがみは、本来敵対関係にない筈の第三国にも害悪を及ぼすほどに達してい ます(ラングーン事件やレバノン人の拉致など)。日本人の拉致事件はそうした「ゆ がみ」の結果としておこったのではないでしょうか。
横田めぐみさんの悲しみは、誰にでも理解できるはずで、ゆっくりとしてはいられ ま せん。また、強制連行され、慰安婦となった方々も、次々と寿命を迎えられていま す。そうした方々の悲しみも、誰にも理解できるはずですし、ゆっくりとしてはいら れません。両者が全く無関係でない以上、私はやはり、拉致事件解決は「過去」に対 する謝罪と償いとともに事にあたらなければならないと考えます。そして、その謝罪 と償いは、金正日政権に対してではなく、北朝鮮人民に対するものでなければなりま せん。誤解のなきように付け加えますが、決して謝罪と償いが先行すべきと主張した いのではありません。私は過去一度も、どちらかを優先すべきだと言ったことはない し、そう考えたこともありません。私の考えはどこか間違っているでしょうか。
ご存知かも知れませんが、この問題については「組織論と運動論」討論欄にて樹々 の 緑さんとやりとりを続けているところですが、私として、少し煮詰まってしまい、こ こらで他の方のご意見も頂戴したいと思ったのです。「愛宕山」から、たまたま「丹 波マンガン記念館」を思い出してしまい、愛宕山さんの投稿に食いつきましたが他意 はありません。同じ「組織論と運動論」への愛宕山さんの投稿文(8/6)も読ませて いただき、共感を覚え、愛宕山さんなら樹々の緑さんとともに、誠実な答が期待でき るかなと思ったのです。