日本敗戦後、つまり昭和20年8月15日以後の朝鮮半島の状況ですが
参考までに 下記のWEBサイトをご覧になってはいかがでしょう。
帝国電網省
(一部転載)
昭和20年8月15日、日本の終戦に伴い、当時の朝鮮総督、阿部信行・陸軍大将と、朝 鮮軍司令官、上月良夫・陸軍中将の二人が、朝鮮総督府から日章旗(日の丸)を下ろ し、太極旗(現・韓国国旗)を掲揚させると共に、朝鮮建国準備委員会を結成させ、 朝鮮に自治権を付与しました。(中略)
その自治権も、同年9月8日、米軍が南朝鮮(後の韓国)に進駐してくると、解消され てしまいます。進駐してきた米軍は、ソウルの空にはためいていた太極旗を引きずり 下ろし、再び日章旗を掲揚させたのです。つまり、アメリカは、朝鮮をあくまでも 「日本の一部」として扱った訳で、(以下略)
では 8月15日から9月8日までの期間の状況については
「内地人は引き上げなければならない。という雰囲気はありましたが、慰安維持にあ たりました。逮捕しても留置することはできません。いろいろ苦労しました。そのう ち、アメリカ軍が進出し、こちらは全くパッシブ(受動的)です。こちらが判断すると いうより、アメリカ軍が判断する。」(雑誌正論03.03:坪井幸性氏談)
では 敗戦後、日本人と朝鮮人の関係は 激変悪化したのでしょうか。
僕はソ連軍政下の北とアメリカ軍政下の南の間を何回か往復しました。終戦当時、私 は単身で今のソウルにいました。家内は出産が近かったものですから、今の平壌近く にある私の実家に帰っていました。家内と生まれて間もない子供は二十年十一月末、 親切な朝鮮人夫婦ら三人が京城まで連れてきてくれました。
まず、家内と子供を連れて日本に引き揚げ、昭和二十一年一月末から二月にかけて、 私の両親と祖母、家内の両親の五人を連れて帰りました。私の祖母は九十歳ぐらいで した。三八度線より北のソ連軍政下では、まだ自由に引き揚げができない。日本人と 分かるといじめられるから、こっそり帰るわけです。私たちは朝鮮服を着て分からな いようにしていたんですが、途中で日本人だと知られ、「あいつらは日本人だ」と言 われました。私はその時、マスクをはめて防寒帽を深くかぶっていましたから、マス クを外して帽子を脱ぎ、「あそこを歩いて.いるのは祖母で九十になる。今ここで止 められたら困るので、見逃してください」と朝鮮語で頼みました。そうしたら、相手 は「日本人なのに、どうしてそんな朝鮮語がうまいんですか」と驚いた。それで雰囲 気ががらりと変わり、「孝子だな。感心した」とほめられ、「おばあさんを大事に日 本へ送り届けてください」と見逃してくれた。
三八度線より南を占領したアメリカ軍は日本人をどんどん引き揚げさせました。しか し、三八度線より北を占領したソ連は引き揚げさせなかった。なぜか、いまだに分か りません。死亡原因の多くは栄養失調と発疹チフスだったと思います。(同紙 大師 堂経慰氏談)