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「北朝鮮問題」討論欄

不破伝授異骨高句麗(ふわでんじゅいこつのからくり)経済制裁容認の段

2004/12/30 アンクル・トム 60代以上 無職

 前回の「沈黙解禁の段」では、志位・市田発言について、陰の主役は不破議長で、日朝両国政府に交渉の仕切り直しを伝授するものとの見解を取ったが、志位氏が参議院決議に賛成した理由づけを読んでみると、どうもこの見解は適切ではないようだ。そこで、この見解を撤回して、別の観点から検討するために、前回約束した「解説の段」に進む前にこの段を設けたい。
 志位氏によれば、

また、こうした新たな局面での対応として、今後の交渉の推移と、北朝鮮の態度いかんによっては、交渉による解決を成功させるために、経済制裁を取ることが必要になる場合があり得るという判断を持っています。

 というのが、経済制裁をも視野に入れた参議院決議に賛成した理由だという。しかし、あるテレビ討論で、経済制裁の実態に詳しい民主党の議員が述べていたが、経済制裁を行うと、相手国の弱者が被害を被って悲惨なことになるが、独裁体制は民族意識の高揚に助けられて、ますます、強固になるという。キューバ、かつてのイラクのフセイン政権などの例を挙げていた。そして、むしろ戦争を仕掛けて、相手の軍隊や政府中枢に攻撃を集中した方が、多くの弱者が救われるとまで言っていた。
 戦後の長い時期、日本は二国間の関係で、緊張を強いられる場面にはほとんど遭遇してこなかったので、それを上手く処理する方策が見つけられないでいるようだ。そのテレビの討論で明らかになったが、経済制裁という言葉によって、それが何を意味するかは、一定のコンセンサスなど無いに等しいのだ。そんな中で、経済制裁という言葉のみが、声高に言われている。そんな状況に共産党も、具体的な経済制裁の中味を言わず、その風潮に乗り遅れまいとしているようだ。
 北朝鮮は、経済制裁を我が国に対する宣戦布告とみなすと言っているが、これはある意味では正しい。普通の国では、経済制裁の次には、宣戦布告という手段を取りうるが、憲法上の制約のある我が国では、経済制裁が最高の対抗手段なのである。その最高の対抗手段を行使するのだから、普通の国の基準に焼直してみれば、宣戦布告であるという解釈も成立つ。それだけの覚悟をもって、経済制裁を言うべきであるが、そんな意識は共産党ももってはいなであろう。
 志位氏はさらに続けて、

いますぐ経済制裁を発動すべきだという立場ではありません。いまやるべきは、北朝鮮側の交渉当事者を拉致問題に十分な権限と責任を持った人物に代える、交渉の質を抜本的に強化することを、正面から北朝鮮に提起することです。

と述べている。外交交渉とは言え、相手側の交渉団の人選まで注文ができるのだろうか。私は、一度だけ、ある小労組の役員として、経営者との団体交渉に臨んだことがあった。その組合の委員長はすっかり日和って、交渉の席には出てこない。その事情を察知していた経営者側は、「委員長はどうした、病気ですか」と訊ねてきた。それに対して我々は、支配介入だと反発したものだった。どんな交渉ごとでも、相手の組織の内部に立入るような発言はルール違反ではないだろうか。まして、外交交渉においておやである。
 さらに、市田記者会見になると、特殊機関という名前を出して、その責任者を交渉に出させるように、政府に迫るという。こんな内政干渉とも思われることを北朝鮮が受入れるだろうか。それが拒否あるいは無視されたら、北朝鮮は、我々が提起した道理ある提案を無視した。よって、一層の反省を促すために、経済制裁に賛成せざるを得ないというシナリオかも知れない。相手が到底受入れ難い条件を突きつけて、それが拒否されたら、宣戦布告。よくある戦争シナリオだが、それとかなり類似しているではないか。
 何故こんなことになっているのか分析してみたい。前回でも述べたが、不破議長は、

交渉の目的そのものでは、政府と私たちのあいだに見解の違いはないわけですから、局面的なことについては、意見があっても、発言を控える節度が大切だと思って、私たちは、その節度をずっと守っているんです。

と述べて、「だんまり」の大見得に入ったのである。「政府と私たちのあいだに見解の違いはないわけですから」と断っているように、この大見得は時の権力者である小泉首相への擦寄りに他ならず、観客(国民)の受けを狙ったものではない。それでも人気の高い権力者と一体化していれば大丈夫とういう判断が働いたのであろう。
 ところが情勢は確実に変わってきた。北朝鮮問題も大きな原因となって、ここにきて、小泉首相の人気が急落してきた。それでも、首相自身は、なお、経済制裁の発動には慎重である。しかし、世論の70%もが賛成という現実を見て、共産党は最早、「政府と私たちのあいだに見解の違いはない」ことに不安を覚えたのであろう。だが、前段で、「だんまり」の大見得を切った看板役者が、「沈黙解禁の段」や「経済制裁容認の段」には登場する訳には行かない。そこで、今度は黒子になって、準主役の二人(志位・市田)にセリフを伝授するというシナリオになったようだ。この方が、国語本来の意味(伝授=師が弟子に奥義・秘伝を伝え授けること)に沿って、「不破伝授」という表現がより適切になる。
 以上が、共産座の座長・看板役者であり、かつ座付き作者不破哲三の書くシナリオである。自身で科学的社会主義者と称しているから、弁証法的思考は弁えているはずである。しかし、このシナリオを見る限りにおいては、弁証法などひとかけらもない。情勢に日和見的に迎合して、シナリオを作っているに過ぎない。
 次回の「解説の段」では、「菅原伝授手習鑑」の要点を解説して、私見を述べる。現在の道徳観から見れば到底受け入れられない内容ではあるが、長い年月にわたって、歌舞伎名作の地位を保ってきたのには訳がある。作者(武田出雲他)は、どこかの座付き作者とは違って、弁証法などは弁えてはいないはずだが、そのストリーの展開に弁証法があると私は思っている。